第25話:日本のバブルと常本家の房総旅行

文字数 1,755文字

 それは、うれしいなと、富士川先生も池辺さんも言ってくれた。やがて松本駅に到着して池辺さんと富士川先生と握手を交わして、お礼を言って別れた。その後、14時半の中央線特急で八王子経由で新横浜の家に着いたのが1987年12月26日19時頃だった。やがて、1988年となった。

 常本肇は、家族4人を連れて家の近くの神社に初詣にでかけ家内安全と商売繁盛を祈願した。この頃、アップルが、マッキントッシュⅡを発売し、米国での基本モデルのRAM・1メガバイトと1メガバイト・フロッピーディスク1台付き、5インチの40メガバイトのハードディスクでマッキントッシュで、世界で初めてのカラー表示できる商品だった。

 ちなみに、当時の小売価格は、約4千米ドル、当時の日本円で約60万円。これでも以前に比べ安くなった。一方、この時期、日本経済は、バブルまっただ中であり、地価高騰が、始まった。医者の中には、大手銀行から数億円の融資を受けて、東京23区に土地を買う人まで、現れた。

 バブル景気は、好景気の通称で景気動向指数上は、1986年12月から1991年2月までの51ケ月間。日本で起こった資産価格の上昇と好景気と、それに付随して起こった社会現象の事を指す。ただし、多くの人が好景気の雰囲気を感じ始めたのは1987年10月19日のブラックマンデーをすぎた1988年頃からであった。

 日本政府見解では、日経平均株価が38957円の史上最高値を記録した1989年12月29日をはさみ、バブル崩壊後の、1992年2月まで、この好景気の雰囲気は維持されていたと言われていた。この頃、常本肇の家では、双子の常本優一と常本優也が小学校に入り半年がたち近所に友達ができて公園で泥だらけになりて遊んでいた。

 常本肇は、父から譲り受けた車が、もう古くなり、1988年7月、新しい中古のカローラを12回払いの月賦で購入した。その車で、夏休み、家族連れで、富士高原へ行き、富士急ハイランドの乗り物に乗って、大喜びしていた。その後、山中湖の近くのペンションに宿泊して、翌日、山中湖畔を散歩して、車で富士五湖を見て回った。

 その晩、御殿場のホテルに泊まって、翌日、横浜の自宅に帰った。冬休みには、橫浜から車で横須賀・久里浜港へ行き、東京湾フェリーに乗って、南房総、館山フラワーラインを巡って、きれいな花を見ながらドライブして、千倉の花畑で花いっぱいの畑を歩いて回り多くの写真を撮った。

 その後、鴨川で一泊して、翌日、鴨川シーワールドを見学した。帰りは、房総半島を横断して、浜金谷から再びカーフェーリで16時半に久里浜港に到着し、17時過ぎに自宅に帰った。そして1989年を迎えた。この年の4月7日、久しぶりに木下先輩から電話が入り仕事は相変わらず忙しいが、日本株が順調で、しっかり稼いでいると話した。

 ところで、常本の買ったソニー株も上昇していると話していた、久しぶりに会いたいと言われて、4月18日、菊名の居酒屋で20時に会うことにした。そして、久々の再会を祝して乾杯して木下先輩が話を始めた。現在もサービスエンジニア第一課の課長をしているが、仕事がきつくて、痩せてしまったと言った。

 一番困るのは、青雲の志を持って大学の電子工学科を卒業した優秀な連中が、激務に耐えられず辞めてしまうと言った。若手の尻拭いで、謝り行ったり、年に数回、大型コンピュータがダウンすると、その度に寿命が縮まる気がすると弱音を吐いた。それを聞き木下先輩らしくないですと言うと俺自身、嫌になっちゃうとこぼした。

 ところで、先輩は、株の方で、どの位も受けたのかと聞くと、3千万円、越えたと言った。すごいと言うと、実は、ここだけの話だが、俺、独り者だし、1億円を超えたら、会社を辞めようと思ってると言った。もちろん、誰にも話してないし、言うなよと言うので、わかってますよと答えた。

 食事しながら酒を飲んで、そろそろ、酔いが回ってきたようで、お前にも稼がせるから一緒に何か商売でもしないかと言った。今のところ、そんな気は全くないけど、儲かった金額にもよるから、なんとも言えないと答えた。するとソニー株が、近いうちに天井をつけて下がった所をもう一度、今度は大量に買いたいと、木下先輩が言った。
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