文字数 5,178文字

 桂馬は村雨に連絡し、そこからトギリ不動産の折尾を呼び寄せるよう指示した。二人が百瀬家に到着したのは、それから一時間後のことで、辺りはすっかり湿っぽい夕方である。折尾の就業時間に合わせたこともあり、一同が介したのは午後十八時。
 百瀬家の書斎、桂馬は陣地でもある四畳半の中心に座っていた。その周りにソファと椅子を置き、歩、村雨、折尾がそれぞれ座る。
「私、場違いじゃないですかね……」
 ここへ来るまでに村雨がかいつまんだ説明をしていたが、折尾はどうして自分がここへ連れてこられたのかいまいち解せないでいるようだ。挙動不審に書斎の本棚を眺める彼に構わず、スウェットの男と性別不詳のロリータワンピースが出迎えるのだから、心地が悪いのは明白である。
「昼間はどうも、大変失礼いたしました」
 先に挨拶をしたのは歩だった。白い肌とワンピース姿で華奢な少女のような振る舞いをする歩を、折尾は訝しげに見る。「はぁ」と気の抜けた声を上げた。
 これに、歩は頭につけていた淡い水色のヘッドドレスを外し、さらに金色のウィッグを取った。これだけでも目を瞠るものがある。歩はハンドバッグから取り出した野暮ったい大きな丸メガネと、影のある表情を見せるだけであの幸薄そうな男へと変貌した。そのままの姿で話を聞くらしく、格好の異様さに折尾だけでなく村雨も気まずそうだ。
「村雨、これはなんの冗談?」
 折尾は唖然とし、村雨を見、困惑の笑みを浮かべた。昼間に現れたあの珍妙な客が歩だったとは思いもしないはずで、折尾は騙されたと言わんばかりに村雨を責めた。
「まぁまぁ、それよりもだ」
 村雨は旧友の非難を軽くあしらい、桂馬に目配せした。桂馬は無精髭を触り、鼻息を飛ばして静かに口を開く。
「それじゃあ、怪談の謎を読み解いていこうか」
 桂馬の眉間が険しくなり、一同固唾をのんで見守る。
「まず初めに……俺はそもそも、怪談の謎を解くのは野暮だと思っている。こういうのは、肝を冷やす不条理な世界を体感し、想像するのを楽しむものだ。同時に、俺は心霊的な何かというのは信じていない。自分の目で見えないものは信じようがないからだ。そういうわけで、これは心霊現象ではないことを前提に話をする」
 そう前置きし、桂馬の目が村雨をジロリと睨んだ。村雨は苦笑を浮かべて、手だけで「まぁまぁ」となだめる。桂馬は不機嫌に咳払いした。そして、視線の矛先を変える。
「折尾さん、」
「はい」
 急に呼ばれた折尾はかしこまったように返事した。対し、桂馬は少しだけ口調を和らげるだけで態度はそのままだ。
「不動産屋って、その物件が曰くつきだった場合は入居希望する人間に告知義務があるよな?」
「えぇ、そうですね。会社の方針にも寄りますが、基本的には前の入居者がその部屋で亡くなられた場合は、入居希望の方にあらかじめ告知をします。まぁ、大体のお客様は嫌がるので、事故物件に住みたがる人はごく(まれ)です」
「そうだろうな。当然、昼間にこの歩が『メゾン4を借りたい』と言ってきたあんたはその義務に則り、話をしてくれた。ま、そもそも貸す気がなくとも、大家の意向で物件紹介の掲示をすることがあったり、その後に別の物件を紹介したり、客を呼び込むためだけの〝釣り〟的な商売もやることがあるんだろう?」
 桂馬の態度に圧倒された折尾は、心配そうに村雨を見た。それに構わず、桂馬は話を淡々と進めていく。
「さて、この〝怪談〟は土地に根付く話だ。村雨さんも折尾さんも言っていたように、メゾン4は崖の上にある病院の窓から自殺する人間が行き着く場所、身捨場だった。それは間違いない。そうして根付いた話から周辺住民の心に怪異を生んだ。きっかけは、昭和四十二年の『しのみや荘』時代に男子学生が死んでからだろう」
「最初の死亡事件から? 当時からすでに怪談があったわけじゃないんですか?」
 歩が訊く。桂馬は頷いた。そして、壁に掛けたダーツの的をひっくり返す。それはブラックボードの役割を担い、桂馬は白いインキペンでざっくりと被害者を箇条書きにしていく。

 しのみや荘 102号室
  ①昭和42年5月、男子学生
  ②昭和42年12月、男女カップル
  ③昭和43年8月、母子

 メゾン4 102号室
  ④平成7年4月、看護師女性

「明治時代の自殺者の件は、あとあと掘ったら出てきたものなんだろう。問題は男子学生の死亡事件を死霊のせいにした周囲の脆弱な心理だ。その心理に漬け込み、利用した人間がいる。この場所は呪われているのだと、そんな怪談を創作した」
 桂馬の鋭く厳しい言葉に、歩と村雨の目が折尾を見る。
「折尾、お前……」
 村雨が言う。その声は薄情で、すぐに折尾は椅子から立ち上がった。
「私じゃない! そんな不謹慎なこと、できるわけがない!」
「村雨さん、あんたも人のこと言えた義理じゃねーだろ」
 すかさず桂馬の声が割り込んだ。涼やかな声に、折尾は口を引き結んで静かに座る。村雨は肩をすくめて首筋を掻いた。
「折尾さんは業務の方針に従っているだけだ。事故物件の告知は義務だ。それをどう使うかは本人次第だが。そもそも、しのみや荘時代の管理会社は今のトギリ不動産とは違うんだろ。メゾン4に立て替えた時期に管理会社が変わっていてもおかしくない」
 桂馬の言葉に歩がすぐに反応する。人差し指をピンと立て、密やかに訊いた。
「ということは、しのみや荘時代の大家ないし管理会社が怪談をつくったということでしょうか?」
「そういうことになる」
「なんのために?」
 今度は村雨が前のめりに訊く。
「そこが、この件の深い闇だ」
 言いながら桂馬はブラックボードに書いた文字を、スポンジでサッと消した。そして、彼は簡単にしのみや荘の間取りを描く。
「当時の間取りはこうだ。建物は長屋風で、建物を三等分したような造り。左から101、102、103。上も左から201、202、203と並ぶ。しかし、101と102の間には共同トイレがある。また、102の外には給湯用の水性ガスが設置されている。この造りが死者を招いたんだ」
 羊羹(ようかん)を三等分したような簡単な図の外側に水性ガスのボンベのような楕円を描いた。それは102号室の窓を塞ぐような位置だった。
「この物件が当時から安かったのは、トイレ横が原因じゃない。それなら101も同等に安く貸し出すべきだ。でも、102だけが激安だった。その理由はこの水性ガスなんだろう」
「水性ガス……都市ガスか」
 なにやら閃いたように村雨が言い、桂馬はこくりと頷いた。
「水素と一酸化炭素を合成したのが水性ガス。一九七〇年代まではこの水性ガスが一般的だった。さて、102号室は左右にトイレと部屋、窓の外にはガスが置いてある。日当たりも悪いことからガスの裏はすぐ崖だ。いわゆる密閉空間。なんらかの不備があり、ガスが溜まりやすく酸素濃度が低下する状況が出来上がった――ここから推測するに、彼らの死因は一酸化炭素中毒死じゃないか?」
「だとしてもです。桂馬くんは死者だけを数えてますが、亡くなっていない方もいるんでしょう? どうして全員が亡くならないんですか?」
 歩が静かに訊ねると、桂馬は意地悪そうに唇をめくって笑った。
「まるで全員死ぬべきだとでも言いたげだな。でもその通りだ。死んだ人間は全部で六人だが、死を免れた人間もいる。しかし、これはメゾン4に立て替えられたあとの話。新102号室は管理人室として造られた。管理人はそこに住むわけじゃない。一酸化炭素中毒を引き起こすのは個人差もあるし、中毒を起こしていても気づかない場合がある。長期にわたって一酸化炭素を体内に取り込むと慢性中毒症状、例えばめまい、頭痛、嘔気、精神機能の低下などが起こる。喫煙するだけでもそうした状況になるようだ。想像してほしい。心身に異常をきたした状態で、タバコの煙が揺らめく密室……なんだろう、俺にはこれだけでも死霊の正体に思えてくるんだが」
「じゃあ、死霊の正体は中毒症状を起こした全員の錯覚だとでもいうんですか?」
 今度は折尾が訊いた。彼はそれまで黙って聞いていたが、さすがに我慢ならないのだろう。怪談は彼にとって商売道具でもあったのだろう。それを見透かすように、桂馬は薄目で折尾を見た。
「言ったろ。俺はこの件を心霊現象としては見ていない。その前提で推測している。実際、死霊を見たのは被害者だけなんだ」
「じゃあ、遺体が損傷していたのは?」
 なおも折尾が食い気味で訊く。すると、その隣で村雨が腕を組んで唸った。そして、彼はゆっくりと顔を上げて桂馬を見た。その目はわずかに狼狽の色がある。
「まさか、そんなことが……」
「さすが村雨さん、察しがいい」
「どういうこと?」
 混乱で顔を青ざめた折尾が村雨を見る。そして、同じく困惑する歩を見、桂馬を見やる。
 桂馬はトレーナーの下から手を入れ、ヘソの辺りを退屈そうに掻いた。そして、一息ついてその場に座り込む。ゆっくりと無感情に言った。
「俺は、遺体が偽装されたと考える」
「偽装……」
 折尾は絶句した。村雨は天井を仰ぎ、歩は身じろぎひとつしない。その場の全員が凍りついた。それを溶かすわけでもなく、桂馬の話は続く。
「新聞記事を見てみたが、母子の遺体に関しては損傷の記録がない。看護師もそうだ。つまり、昭和四十二年の事件のみ遺体は崖から転落したように不自然な状態で見つかった。ここで話は戻るが、怪談の創作をした人物がいる。そいつは102号室を事故部屋ではなく死霊部屋にしなければいけなくなった。怪談を本物にするために、わざわざ遺体を偽装したんだ。当時の大家または管理会社が」
 大家または管理会社が遺体の偽装をした。
 それはつまり、最初の死亡事件が起きたことから、建物自体の欠陥を疑われる。もちろん、警察に調べられ疑われたことだろう。しかし、捜査の撹乱をするために土地の特性を利用して遺体を崖から落とした。そこに隣人や大家などにどんな思惑があったかまでは知りようがないものの、この場にいる全員がその背景を十分に想像できた。
「俺は、大家や住人が口裏を合わせていたんだと思う。立ち退きや引っ越しにも金がいるし、大家はとくに路頭に迷っていただろう。そうして怪談が生まれ、一人歩きするようになった。母子の遺体に損傷の記載がないだけだから断定はできないが、その一年で大家か管理会社が変わった可能性があるだろうな。怪談物件にすることで管理会社は客引きに使えるし、住人は立ち退かなくていい。そうして怪談が守られ、この部屋で起きる死亡事故や現象はすべて死霊のせいになる。まんまと真実が闇に葬られたわけだ」
 桂馬はポンと膝を叩いた。それにより、凍った全員が同時に息を吐く。それでも空気は鬱々としており、誰も口を開かなかった。

 ***

 後日、村雨から雑誌が届いた。彼が担当するページは登霧市の怪談のようで、見出しには「怪奇!篠宮にはびこる死霊物件」とある。
 内容は桂馬が推測した通りのものだけがつらつらと並べられていた。
「ありのままですね」
 歩が嘆息気味に言い、雑誌をテーブルに放った。今日は黒髪のショートボブに、和服風のワンピースを着用している。化粧も施しており、一見すると精巧な人形のようだ。黒く縁取った目で、桂馬の陣地を見やる。彼は畳の上で、トランプタワーを作っていた。高度な集中力を必要とするが、構わず歩は話しかける。
「桂馬くん。ちなみにどうして、死霊の仕業ではないと断言したのですか?」
「俺は怖がりだが、ホラーはそこそこ(たしな)むほうだ」
 息を吐いただけでトランプタワーが崩壊する。桂馬は残念そうに眉を下げながら、もう一度振り出しに戻った。
「あら、意外ですね。桂馬くん、ぼくとゾンビ映画は観てくれないのに」
「ああいうのは一人で観たいんだよ。それに、俺が好きなのは外画よりも日本の陰気でじっとりした怪奇小説が好きだ。だから、余計にメゾン4の件は死霊じゃない。リアリティがなさすぎる。どうにも人の手が入ったように思えてな」
 タワーの一段目は滞りなく再建された。そこで桂馬は静かに離れて、天井に向けて息を吐き出す。どうやら一旦休憩を挟むらしい。
 一方、歩は首をかしげて桂馬の様子を窺っていた。その視線に気づいて、桂馬がニヒルに笑う。
「死霊は物理的に人間を攻撃しない。霊ならその人間の体を乗っ取って、自殺に導くはずだから。それが怪談だ」
 桂馬の言葉はいつにもまして力強いが、そこには明らかに彼の主観がたっぷり含まれていた。

【死霊の手 完】
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