第17話 苦渋

文字数 10,691文字

 リシクマの勝利を祝う宴は、胆沢に帰るアテルイの送別の宴も兼ねていた。
 アテルイは昨夜ポロセタに同行して山本郡の大領の館の夜襲に加わったが、その時の興奮が未だ醒めやらぬ様子であった。周囲のリシクマの若い者や伊治のカパチリクルらと酒を酌み交わしながら、熱に浮かされたように大声で喋り続けた。
「いや、リシクマの里に来て良かった、この上ない勉強をさせて戴いた」
「何もそう帰りを急がずとも。此処で学ぶことはまだあるかも知れぬではないか」
 若いが妙に老成したところのあるカパチリクルは、まだ二十歳にもならぬアテルイを自然と諭すような口調になる。
 しかしアテルイの心は既に故郷の胆沢に飛んでいて、カパチリクルの言葉など殆ど耳に入らないようだ。
「馬を肥やし弓の腕をさらに磨けば、大和の軍など恐るに足らぬ。それを早う里の皆に伝えたくて、もう一日もじっとしておれぬのです」
 年寄りどもはいくら言うてもわからぬやも知れぬ、なれど我が父の跡を継いだら、胆沢を根底から変えてやる。少なくとも若い奴らは我と同じ思いだ、だから若い奴らにリシクマの戦いぶりを教え、弓馬の術も厳しく鍛え上げるつもりだ。それにはまず馬の数を今の倍、いやもっと増やさねばならぬし、その準備もせねばならぬ。
 そのような事を一気にまくし立てた後で、ふと気付いたように幾つか年上の伊治の蝦夷の老翁の息子の顔を見た。
「それでカパチリクルどのは、いつまでこの里に居られるおつもりなのです?」
「ようわからぬ」
 アテルイの坏に酒を注ぎながら、カパチリクルは柔らかに笑った。
「リシクマが今後どうなるか、我はもう少しここに留まって眺めているつもりだ」
 和人の支配する地で暮らし、多賀城に出仕もしているカパチリクルもまた、疾雄とは違う形で大和の強さと大きさをよく知っていた。ゆえに疾雄とリシクマの戦いぶりに感銘を受けつつも、勝ったその後のことの方がより気掛かりだった。
 疾雄と共に出羽と陸奥を結ぶ峠道を抑えに行ったカパチリクルは、鎮守府の軍が退きはしたものの壊滅したわけではないこともよく知っていた。
 和人は決して諦めぬ、奴らは必ずまた攻め寄せて来る。カパチリクルはそう見ていたし、大和が次はどのような手で来るかが、ひどく気掛かりだった。

 敗報を聞いた時、女帝は両方の手を胸の前で強く握り締め、その拳を小刻みに震わせながら言葉にならぬ奇声を上げて喚き続けた。女官や廷臣らがおろおろと見守るうち、女帝はやがて白目を剥いたかと思うと道鏡の腕の中に倒れ込んだ。
 道鏡は女帝を抱きかかえ、女官らも下がらせて寝所に二人きりで籠もった。
「お可哀想に。陛下はか弱き女子であられるのに、この国の禍を一身に負われて、さぞお辛いことでしょう」
 甘やかな低い声でそう囁きながら、道鏡は床に臥せる女帝の背を撫ぜ続けた。
 嗚呼、朕の心をわかってくれるのは、やはりこの禅師しかおらぬ。幼子が親に駄々をこねるように、女帝は胸の中の怒りや不満を道鏡に洗いざらいぶちまけた。
 まず春日王を口汚く罵り、そしてその父と仲麻呂を呪い、たかが数百の蛮人が籠もる山一つ落とせぬ出羽と陸奥の無能な将どもを罵倒した。女帝の怒りの矛先は、さらにこの戦の意義を理解せぬ都の貴顕らにも向かう。
 何を言おうが道鏡は意見がましいことは何一つ口にせず、ただ女帝の言うことに耳を傾けて同情し、共感の言葉のみを繰り返した。
 あの件はこうなさりませ。先例によりますれば、この件はかようになさらねばなりませぬ。十六年前に女帝が帝位に就いて以来、賢しらにいろいろ言って来る者は大勢いた。しかし女帝は学問なら皇太子の頃に吉備真備に厭と言うほど叩き込まれていたし、小難しい理屈など聞きたくもなかった。
 おべっかを使って近づいて来ようとする者も、無論少なからずいた。追従を言われれば嫌な気持ちにこそならないが、同時にその者に対して軽侮の念も抱いた。
 女帝が求めているのは小利口な理屈でもお追従でもなく、心からの同情と共感だった。しかし真備すらそれをよくは理解せずに、ややもすれば理詰めで人を言いくるめようとする。亡き母上の大のお気に入りだったから長いこと我慢していたが、学才をひけらかしては説教を始める仲麻呂めは初めから心底虫が好かなかった。
 だが道鏡は違う。この禅師にあるのはただ赤心(まごころ)のみで、意見や説教など決してせぬ。
「出羽と陸奥の兵だけでは陥とせぬなら、坂東八カ国すべてから兵を集めよう。そうじゃ、各国それぞれ五千人ずつ出させ、次は四万の兵で攻め掛かるのじゃ!」
 胸に浮かんだ策を思いつくままに語ると、やはり禅師は力強く頷いて励ますような笑顔で応えてくれた。
「それは良いお考えでございますな、北辺の山の蝦夷など一溜まりもありますまい」

 出羽と陸奥の軍の敗報を聞いて、坂上熟田麻呂はいよいよ己の出番が来たと思った。
「この前の約束を、兄上はよもやお忘れではありませぬな?」
 弟に念を押されて、刈田麻呂は僅かに顔を顰めた。忘れてはいなかったが、こうして尋ねられなければ失念したふりをして無かったことにするつもりでいた。
「無論だ。なれど体は大事ないか?」
「大丈夫です、出羽どころか津軽や渡嶋(北海道)まで行っても構わぬくらいですよ」
「まことであろうな、この兄に偽りは申すなよ?」
「嘘など申しませぬ。兄上がこれほどの心配症と知ったら、中衛府の兵らはさぞ驚くでしょう」
 兄から目を逸らさぬまま熟田麻呂は柔らかに笑った。
「わかった、汝を信じよう。なれどくれぐれも無理はするでないぞ。汝にもしもの事があれば、田村麻呂が泣く」
「わかっておりますとも」
 まだ六つにしかならぬ甥の田村麻呂を、熟田麻呂は自分の智と兄の勇を合わせた希代の名将になるであろうと見込んでいる。自身の出世や栄誉には何の関心も無いが、田村麻呂の成長ぶりを一日でも長く見ていたいとは思っている。
 しかし兄の刈田麻呂の部屋を出た後、堪えていた乾いた咳が喉の奥から繰り返し込み上げてきた。

 刈田麻呂の許に太政官から使い者が来たのは、それから数日も経たないうちのことであった。
 太政官内の真備の執務の間を訪れると、部屋の主はひどく疲れた様子で脇息にもたれかかっていた。
「困ったものじゃ、度重なる寺社の造営で国庫がどのような状態にあるか、陛下は顧みようともせぬ。たかが賊徒の籠もる山一つに、坂東より四万の兵を動員せよとの仰せじゃ」
「四万ですと! それはまことでございますか?」
 驚きを隠せない刈田麻呂に、真備は一時に十も老け込んだような顔で頷いた。
「それほどの大軍を指揮できる者と言えば、この国にはまず汝しかおらぬのだが……。汝さえ良ければ、かような戦は無益だと陛下に申し上げてはくれぬか? 信任厚い汝の言葉なら、陛下もきっとお耳を傾けて下さるであろう」
「畏まりました、陛下は戦というものを御存じないのでしょう」
 刈田麻呂は一旦頷いた後で少し躊躇い、しかし熟田麻呂の願いを叶える機会は今しかないと腹を決めた。
「なれどその前に、我が弟と一度お会い願えませぬでしょうか」
「弟な……はて」
 真備は首を傾げた。
「汝に弟がおるとは初めて聞くが、どのような者じゃ?」
「病身ではありますが我などより遥かに賢く、恐れながら知謀では真備さまにも劣らぬかと」
「ほう、我にも劣らぬか」
 汝ほどの者でも身贔屓するかと言いたげな顔で微苦笑したが、真備は興味も持った様子であった。
「よかろう。汝の弟がどれほどの者か、会うてこの目で確かめてみよう」
 刈田麻呂はすぐに己が屋敷に立ち帰ると、熟田麻呂を伴いその日のうちに再び真備のもとを訪れた。
 いかにも頼りなげな熟田麻呂の外見に、真備は初めのうち肩透かしを食ったような、憮然とした顔をしていた。が、熟田麻呂が披露する策を聞くうち、その表情は次第に引き締まっていった。
「これは驚いた。これほどの知恵者が、人に知られぬまま世におったとはの……。宜しい、陛下に拝謁が叶うよう、すぐに取り計ろう」

 筋骨隆々として背も高い刈田麻呂と並ぶと、熟田麻呂の繊弱さはより際立って見えた。
 華奢な体つきで声も優しげな熟田麻呂を接見して、女帝は怒りも落胆もしなかったが、代わりにけたたましい声で笑い出した。
「これはおかしや、兄は熊のようであるのに、弟は子鹿のように可愛らしいとは」
 主が笑うから、周囲の女官らも声を合わせて笑う。
「ほんにまあ、女子(おみなご)(なり)をさせたらさぞ似合うことでしょう」
 しかし熟田麻呂は気を悪くした様子も見せず、絶えず笑みを浮かべながら、柔らかな声で己の考えを述べ続けた。
 ませた子供の大人ぶったお喋りを聞く時のような女帝のにやにや笑いは、その中身を聞くうちに畏れに近い驚愕の顔に変わった。
「何と! 汝に任せれば出羽国府の軍のみで、名を口にするのも穢らわしいあの凶暴で悪逆な賊徒どもを討ち破れると?」
「はい。他に畿内及び近隣の十カ国より、兵を四十人ずつお借りできれば……と」
「四百でも四千でものうて、まことに各国四十ずつの増援で良いのじゃな?」
「はい、それで充分です」
 確信に満ちた目で真っすぐに見返し、熟田麻呂はにっこりと笑って頷いた。

 それまで無位無官であった熟田麻呂は従五位下出羽員外介に任じられ、準備が整い次第、畿内十国から集められた四百の兵と共に出羽に向かうよう勅命が下された。代わりに山部王は任を解かれ、春の戦について詳細な報告をする為に都に召還された。
 一方、佐伯美濃麻呂は員外守のまま慎みを命じられ、政務にも軍事にも一切係わるなと釘を刺された上で、秋田城の一室に軟禁に近い状態で留め置かれた。美濃麻呂は翌年さらに員外介に左降された上で能登国に送られるが、以来どの史書にもその名は一切登場しなくなる。
 女帝の使者が何度も様子を見に来ているにも拘わらず、熟田麻呂は征討の準備を急がなかった。そして兄の刈田麻呂だけでなく、女帝や真備の気を揉ませぬいた揚げ句、夏の暑い盛りにようやく腰を上げた。
 畿内各国からの増援の兵を率いる熟田麻呂は、暑いからと甲冑を身につけようともせず、戦袍に頭巾のみの姿で軍の中程にいて、馬をゆるゆると進めて行く。手綱を片手で軽く握り、馬の揺れに合わせるように体を前後にゆらゆらさせるものだから、従う兵らは熟田麻呂がいつ馬から落ちるかと気が気でなかった。
 指揮官がそのような有り様だから、兵らの足取りも自然とだらだらしたものになり、都を出て琵琶湖の東岸を北に向かう彼らは、まるで野遊びにでも出掛けているように見えた。ただものを注意深く見る者だけは、彼らがその人数に比べて多すぎる荷を、馬だけでなく牛にも乗せて運んでいることに気付いた。
 熟田麻呂と兵らは越前の国府に着くとその多過ぎる荷を船に乗せ替え、海路で出羽に向かった。そして新任の員外介と畿内の兵が秋田城に入った頃には、夏は既に終わりかけていた。
 熟田麻呂が引き連れて来た増援の兵の中には、故郷に居るべき場所をなくした秦吉足の顔も見えた。

 出羽の国府に増援の兵が到着したという知らせは、リシクマの里にも程なく届いた。
「その数僅か四百ほどで、率いて来た員外介も女子のようにふにゃふにゃした奴だと言うではないか」
 ポロセタは話にもならぬと嗤ったが、疾雄は眉を寄せて首を傾げた。
「逆にだから妙だとは思わぬか? 何か裏がありそうで厭な気がする」
「考え過ぎだ。負け戦が続き、大和もいよいよ兵が足りなくなってきたのであろうよ」
「いや、それはなかろう。汝は大和の大きさを知らぬのだ」
「だとしてもだ、攻めて来るならまた討ち破ってやれば良いだけのことではないか」
 疾雄の懸念をポロセタは歯牙にもかけなかったが、出羽の国府とその増援の部隊の動きは、それ以来リシクマの里にはぴたりと入って来なくなった。

 余りにも少ない増援と余りにも頼りなく見える新しい員外介を、百済王三忠は不安げな眼差しで眺めた。
「陛下のご意志は承ったが……まことにこの小勢で蝦夷の山を攻めるおつもりか」
 国内の郡司らを叱咤し、租税と徭役を今後数年に亙り減免することも約束してようやく人を駆り集めたものの、新たに編成した出羽国軍は定員にまだ二百人も足りていない。にもかかわらず、新しい員外介どのは勅旨を盾にまた比羅保許山を攻めると言う。
「ご案じめされるな、今度は兵を殆ど損ずることなく勝って見せまするゆえ」
 国司の三忠にだけでなく、熟田麻呂は国府のどんな身分の低い官人にも笑みを絶やさず柔らかに接した。
 熟田麻呂は秋田城に着くとすぐ、ペツアウイとヤウングルの老翁を呼びに行かせた。どちらも表向きはまだ国府の和人に従っていて、だから今度も敵の内情を探る肚で、何食わぬ顔で連れ立って秋田城にやって来た。
 そのペツアウイのテケレクルとヤウングルのドマシヌペに、熟田麻呂は柔らかな笑みを浮かべたまま冷や水を浴びせた。
「リシクマと今すぐ手を切らぬと、ペツアウイもヤウングルもリシクマと共に滅びることになりますぞ」
「これは異なことを。我らは出羽の国府の方々に、変わらず忠誠を尽くしておりまする」
「しらばくれるなら津軽や渡嶋に使いを遣り、何処の誰が捕らわれた和人や和人の持ち物を売り払ったか調べさせても良いが?」
 テケレクルは血の気の引いた顔で俯き、ドマシヌペは頬を紅潮させて横を向いた。先の戦で捕らえた和人や分捕り品を、どちらの里の者も津軽や渡嶋の蝦夷に売り払っている。
「国府の軍の動きをリシクマの者どもに逐一知らせていたのも、汝らであろう?」
「いや、我らは決してそのような──」
「まあ良い、過ぎた事を責めてもどうにもならぬ。なれど今後、これ以上我が軍の動きが漏れることがあれば、理非を問わずペツアウイとヤウングルの裏切りと見なすが、よろしいな?」
「そんな無体な!」
 しかし熟田麻呂は構わず、見せたいものがあると言ってペツアウイとヤウングルの老翁を城内の倉に連れて行った。そしてその中に山積みにされている、都から運ばせてきた箱の一つを、番をしている兵に開けさせた。
 釣られるように中を覗き込んだドマシヌペの顔からも一瞬で血が引き、既に青ざめていたテケレクルの顔色は土気色に変わった。
「まさか、ここにある箱はみな……」
 旧い友に対するように、熟田麻呂は親しげににっこりと笑った。
「そのまさかだとも。疑うなら構わぬ、汝ら自身で開けて確かめてみるがよい」
 言葉も無い二人の蝦夷の老翁に、熟田麻呂は笑みを浮かべたまま柔らかな声で語りかけた。
「万が一これでも勝てぬとしても、その時には坂東より四万の軍を動員して攻め掛かることになっている。その折には、汝らの里は真っ先に戦火に見舞われることになると思うが……そこをよう考えた上で去就を決められよ」
 テケレクルとドマシヌペをそれぞれの里に帰した後、熟田麻呂は秋田城の周辺に住み暮らしている俘囚の長も集めて、同じような話を繰り返した。

 婦女子のような新しい員外介の指揮のもと、和人どもがまたも比羅保許山を攻める準備を進めていることだけは、リシクマの里にも伝わって来た。しかしそれ以来、新しい知らせは全くというほど伝わって来なくなった。
「おかしい、どうも気になる。ペツアウイとヤウングルは何をしているのだ」
 疾雄はラムアンペに頼んで両隣の蝦夷の部族に使いを送らせたが、その者らは殆ど追い返されるように戻って来た。
「リシクマとのかかわりを和人に感づかれた、それゆえこれ以上手を貸すことは出来ないし、使いももう送ってくれるな。ペツアウイのテケレクルさまは左様に申されました」
「ヤウングルのドマシヌペさまも、同様のご返事にございます」
 知らせを聞いて、ポロセタは唾を地面に吐いた。
「和人ごときに脅しつけられたくらいで怖じ気づくとは。蝦夷の風上にも置けぬ、恥ずかしい奴らめ」
「それも仕方のない事やも知れぬ。ペツアウイもヤウングルも、和人と混ざり合うて暮らしておるからの。我がテケレクルであったとしても、きっと同じようにしたであろうよ」
 小声でぼそぼそと呟くように言うラムアンペは、明らかに肩を落としていた。
「その新しい員外介とやらは、かなり厄介な切れる奴に違いない。これまでのように力押しで攻めて来られる方が、まだましなのだが」
 ひどく難しい顔で考え込む疾雄の背を、ポロセタは大きな掌で強く叩いた。
「汝はウェンスマリであろう、何を気の弱いことを言う。我は汝ほど頭の切れる奴は見たことが無いぞ」
 そして周りの皆にも聞こえるくらい大きな声で、ポロセタはさらに言った。
「ペツアウイやヤウングルの助けなど要らぬわ。昨秋の戦を思い出してみよ、我らは殆ど我らのみで和人どもを撃ち破ったではないか!」

 熟田麻呂の率いる軍が、秋田城からゆっくりと動き出した。畿内からの援兵と、定員にも満たぬ出羽の国府の軍とで、その総勢は千二百。
 相も変わらずその殆どは徒歩の兵士で、しかも重い荷を負わせた牛馬の列も加わっているから、進む速度は軍で定められた規定よりさらに遅くなる。
 熟田麻呂は初日の夜はまだ和人の支配下にある秋田郡内で宿営し、次の日の昼を過ぎる頃にようやく、焼け落ちたままになっている山本郡の大領の館の跡の付近を通過した。
 その間も、リシクマの物見の者らしい蝦夷が度々様子を窺いに来ては、馬を飛ばして比羅保許山のある南の方に引き返して行った。
「片付けなくてもよろしいので?」
 雄勝城の鎮兵の唯一の生き残りで辺りの地理にも詳しい秦吉足は、道案内兼伝令として常に熟田麻呂の側近くに控えていたが、あのリシクマの獣どもを早く殺したくて仕方が無かった。
「捨ておけ、追うたところでどうせ追いつけまい」
 やんわりと笑う熟田麻呂に、吉足は隊列の後ろの方の例の重い荷に目を向けた。
「なれど、あれを使えば──」
「いや、戦が始まるまでは、あれがある事は知られとうない。それに我が軍の動きも、奴らにも少しは教えてやらねばな?」
 このなよなよとした女のような員外介さまの言うことの意味が、吉足には半分も理解できなかった。しかし熟田麻呂が笑うと、吉足は妙に怖いような気がした。

「どうにもわからぬ、何故打って出てはならぬのだ? ひたすら攻めて戦の主導権を取れと、汝は常に言うておったではないかッ」
 殆ど怒鳴りつけるように声を張り上げるポロセタに、疾雄は気持ちをうまく説明する言葉が見つからずに困惑を隠せなかった。
「妙に厭な気がしてならぬのだ。敵が思ったより小勢なのが、まず不審でならぬ。それでいてさあ掛かって来いと、いかにも誘いをかけてきているようなのも気に食わぬ」
「何だぁ? 厭な気がするだの、気に食わぬだの、わけのわからん事ばかり言うなッ」
「済まぬ、我にもわけがわからぬのだ。これまで我らは、我らの選んだ場所で、我らの思う通りに戦ってきた。なれど今度は、奴らの望む場所で、奴らの思うように戦わされるような気がしてならぬ」
「また気がしてならぬか」
 ポロセタは苛立ちも露に唸った。思ったよりも小勢で動きも鈍い敵を、疾雄が何故これほど恐れるのか、ポロセタにはどうにもわからなかった。
「ならば夜討ちはどうだ?」
「それも難しかろう。同じ手は二度使えぬ、敵も充分に警戒して備えているに違いあるまい」
「では汝は、いつ、何処で戦うつもりなのだッ」
「わからぬ、まだ確とは言えぬ。ただ今しばらく、敵の出方を見極めたいのだ」

「奴らは出て来ず、夜討ちも無しか」
 出陣して三日目の朝、熟田麻呂は遥か南の比羅保許山を眺めながら微苦笑を浮かべた。
 無論、リシクマの騎馬の襲撃や夜討ちに対する準備は周到に整えてあった。その罠に敵が嵌まらなかったのは残念でもあったが、熟田麻呂はそれ以上に楽しくもあった。
 さすがは春日王、こうでなければ知恵比べは面白くない。
「それにしても、暑いな」
 夜のうちは確かに過ごしやすかったが、雄物川に沿う広い盆地は日が昇るとたちまち寧楽の都と変わらぬくらい蒸し暑くなる。
 その盆地を見回して、軽い乾いた咳をしながら熟田麻呂は誰にともなく呟いた。
「出て来ぬのなら、出て来ざるを得ないようにするまでよ」
 熟田麻呂は山本郡と平鹿郡の境近くまで軍を進めて陣を張り、そこにテケレクルを呼びつけた。そしてペツアウイの男をすべて駆り出して、付近の森から杉の大木を切り出して来るよう命じた。

「何ッ、和人どもめがペツアウイの地に城を築いていると!」
 物見に出していた者からの知らせに、ポロセタはいきり立った。
「もう我慢できぬ、我は出陣するぞ!」
「放っておけば良い。奴らが城を造ろうとしているのは、元の雄勝城より三十里(約二十キロ)も北だ。リシクマにとっては、どうということもあるまい」
 今度もまた出ようとしない疾雄に、ポロセタは唾の飛沫を浴びせながら吠えた。
「違う違う、城が出来てしまっては取り返しのつかぬことになる。このまま見過ごしておれば和人の兵だけでなく、ペツアウイの者どもも我らを弱しと侮るに違いない、そうなってからでは遅いのだッ」
「わかる、それはわかるが、我はどうも厭な気がしてならぬのだ」
「ウェンスマリよ、汝は呪い師にでもなったのか? ならば腰の大刀など捨てて御幣でも持てば良い」
 そして軍議は終わりだと言うように、ポロセタはすっくと立ち上がった。
「決めた、我は出陣するぞ!」
「考え直せ、止めた方が良い」
 疾雄はポロセタの袴を掴んで引き留めようとしたが、ポロセタはその手を振り払った。
「リシクマの魁帥は我だ、その我が出陣すると決めたのだ!」
 新しい員外介が現れて以来、別人のように腰抜けになってしまった疾雄を、ポロセタは蔑みの目で見下ろした。
「和人の王よ、汝は来ぬでも良い」

 城が出来上がる前に、何としても和人どもを討ち破らねばならぬ。ポロセタはその一念で、リシクマの殆ど全軍を引き連れて比羅保許山を駆け下りた。
 比羅保許山は深く険しい山だが、その急坂を下りきってしまえば、後は雄物川に沿って平坦な野が遥か北にまで広がっていた。昨秋に出羽国府の軍を撃ち破った所で雄物川を渡り、さらに小半時も北に進むと、視野を遮るもののない広い野の真ん中で陣を張る大和の軍が見えてきた。
 無論、建物らしきものはまだ無いが、城の柵の一部が既に造られ始めているのも見える。
 ポロセタは蝦夷の反りのある太い刀を抜き放ち、大声でリシクマの兵らに命を下した。
「行くぞ、我に続けッ」
 馬蹄の音を響かせ、柵が出来かけている正面を避けて回り込むようにしてリシクマの男達は突っ込んで行った。昨秋の戦いでそうしたように、大和の軍の周囲を駆け回りながら、馬上から矢を射かけるつもりであった。
 しかし正面の柵を迂回して隊列が延びたところで、リシクマの者らが毒矢を射かけるより先に、恐ろしいほどの数の矢が飛んで来た。
 ポロセタは我が目を疑った。仲間の勇敢な者らが、届く筈も無い遠方から飛来する矢に射抜かれて次々に馬から転げ落ちて行く。
 大和の軍の矢は、弧を描かずに文字通り真っすぐ飛んで来た。その矢の飛ぶ速さも凄まじく、ポロセタの耳元をかすめた矢も風を切る鋭い音を残して遥か遠くに飛んで行った。
 敵陣の周囲には、異形の大弓を構えた兵がずらりと立ち並び、騎馬で駆け回るリシクマの男達に狙いをつけている。
(おおゆみ)だ!」
 リシクマの中でそれを知る者から悲痛な声が上がった。二人掛かりで弓弦を引き、発条(バネ)仕掛けで射出する弩の矢は、蝦夷の放つ矢の倍も遠くまで飛ぶ。そしてその威力も凄まじく、矢は鎧をまとった胴を貫き背から鏃が飛び出した。
 矢軍(やいくさ)は非情なまでに一方的だった。自軍の矢はまるで届かぬ距離から、リシクマの男達はばたばたと射殺されて行く。
 ポロセタは悲壮な面持ちで弓を投げ捨て、馬の鬣に身を伏せて矢の雨の中を大和の軍に突っ込んで行った。
「我に続けッ、リシクマの意地を見せるのだ!」

 熟田麻呂はこの戦場でも戦袍に頭巾だけの姿で、こちらを目がけて突進して来る蝦夷の一団を口元に笑みを浮かべて眺めていた。
「ほう……なかなか勇ましいの。このくらい歯応えがなければ、戦う甲斐が無い」
 これまでの戦でリシクマの者らの強さと怖さを知る国府の兵らは、とても笑うどころではなかった。しかし自分達の指揮官が甲冑すら身につけずに微笑んでいるのを見て、呆れると同時に怖さを忘れた。
「出羽の兵たちよ、前へ!」
 熟田麻呂が手を大きく振ると、熟田麻呂と共に畿内から来た四百人の弩師(どし)は後ろに下がり、異様に長い鉾を手にした出羽の兵と入れ替わった。
 出羽の兵らは畿内の弩師の前で横隊を組み、長い鉾で馬の足を払い、馬上の蝦夷を突き上げた。その鉾の列に阻まれて陣内に斬り込めずにいる蝦夷を、後ろの弩師が一人また一人と射落としてゆく。
 大量の弩と柄の長い鉾、これが熟田麻呂が携えてきたあの重い幾つもの荷の中身だった。

「進めッ、突っ込め!」
 突き上げて来る幾つもの鉾を切り払いながら、ポロセタは大和の軍の只中に斬り込もうとした。しかし鉾に横腹を貫かれた馬がどうと倒れ、ポロセタも大地に投げ出された。
 素早く片膝をつき、体を起こしながら刀を振り回したが、そこに大和の兵どもが折り重なるように飛びかかってくる。
「殺せッ、我は生きて捕らわれたりせぬぞ!」
 大勢に組み伏せられ刀ももぎ取られながらポロセタが喚いたその時、不意に体が軽くなり手足が自由になった。
 見覚えのある大和の黒い甲冑をまとった武者が出羽の兵らを蹴散らし、馬上から手を差し伸べた。
「乗れッ」
「ウェンスマリ、来てくれたか!」
 二人の視線が絡み合い、ポロセタは片頬に苦い笑みを浮かべて首を振った。
「我は帰れぬ、ここで死なねば、死んだ者にも里の者にも顔向けが出来ぬ」
「死ぬなッ。生きておらねば復讐も出来ぬ!」
 一瞬躊躇った後、ポロセタは差し出された手を掴んで疾雄の馬の後ろに飛び乗った。

 蝦夷の生き残りは疾雄と共に引き上げ、それを追撃したがる配下の兵を熟田麻呂は口元に薄い笑みを浮かべて引き留めた。
「無駄だ、どうせ追いつけまい」
 仮に追いつけたとしても、大和の軍の騎乗の士は隊正以上の三十そこそこしかおらぬ。それだけで深追いすれば逆に痛い目に遭うだけだと、熟田麻呂には考えるまでもなくわかっていた。
 熟田麻呂はそれより、かの春日王が最後の最後に戦場に姿を現した意味を考えていた。
「リシクマもどうやら、中は一枚岩ではないと見える」
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登場人物紹介

藤原疾雄……ふじわらのはやお。元の名は春日王で、黄文王の庶子。橘奈良麻呂の変に連座して、残虐な女帝に惨殺されかけるが、藤原仲麻呂により密かに助命され匿われる。そして仲麻呂と共に残虐な女帝を倒す為に働くが、女帝の謀臣吉備真備に先手を打たれ、蝦夷から人質として差し出されていた美華媛と共に、美華媛の故郷、出羽国のリシクマの里に逃げる。そして女帝の命を受けて追って来た大和の軍を、知謀の限りを尽くして討ち破る。その戦いぶりから、蝦夷たちにウェンスマリ(悪い狐)とも呼ばれる。

美華媛……出羽国の蝦夷、リシクマの巫女で媛(ひめ)。恐ろしく美しく、不思議な力を持つ。リシクマから大和の国に人質に差し出されるが、その美しさの為に酷い暴行を受け、心に深い傷を負う。その心の傷が癒えかけた頃、仲麻呂は女帝との権力争いに敗れる。そしてまたも殺されかけた疾雄を伴い、出羽のリシクマの里へと逃れる。

女帝……聖武天皇の唯一の子だが、残虐、かつ淫蕩で放埒。その性を恐れられ、天皇を退位させられ太上天皇に祭り上げられて、政務の実権を母と藤原仲麻呂、そして新帝淳仁天皇に奪われる。だが母である光明皇后の没後、抑える者が無くなり怪僧道鏡を寵愛し、仲麻呂や新帝と激しく対立する。

藤原仲麻呂……光明皇后の甥で、学があり極めて怜悧。光明皇后の信任を得て政治の実権を握っていたが、後ろ盾になっていた光明皇后の没後、女帝と抜き差しならぬ対立に陥る。ある考えがあり、春日王を密かに助命し子飼いとする。

吉備真備……大唐国に留学した大学者で、軍学にも通じている知者。春日王、そして女帝両方の学問の師であり、藤原仲麻呂とは長年の政敵でもある。

ラムアンペ……出羽の蝦夷リシクマの長で、美華媛の叔父。ただ賢いだけでなく、思考は現実的でもある。

ポロセタ……リシクマの勇者。剛勇だが、思慮には少しばかり欠けるところがある。かつては、美華媛に想いを寄せ嫁に欲しいと思ってもいた。

サウレクル……ラムアンペの息子で、ポロセタには無い思慮を補う。蝦夷には少ない平和主義者で、その為、血気盛んな部族の若い者に腰抜けと思われることもある。彼もまた、かつては美しい美華媛に想いを寄せていた。

テケレクル……リシクマの北隣の蝦夷、ペツアウイの長。リシクマのラムアンペとは旧い友でもある。しかし部族が住む地は大和の者の勢力下にあり、リシクマとと大和の間に立ち、部族の長としての行動に苦慮する。

ドマシヌペ……リシクマの西隣の蝦夷、ヤウングルの長。こちらもテケレクル同様、大和の勢力との折衝に苦慮しているが、テケレクルやラムアンペより利に敏く、油断のならぬ面もある。

アテルイ……陸奥国胆沢(岩手県南西部)の蝦夷の長の息子。大和の覇権から蝦夷を独立させることを夢見て、リシクマの里にやって来る。そして疾雄の戦いぶりに、強く影響を受け、後に坂上田村麻呂の率いる大和の大軍と激戦を繰り広げる。

カパチリクル……伊治(宮城県栗原郡)の蝦夷の長の息子。アテルイ同様に蝦夷の独立を望んでリシクマの里に来るが、己の里が大和の勢力に胆沢より食い込まれている故に、アテルイより慎重で懐疑的。そしてアテルイより長くリシクマの戦いを見届けた後、和人から伊治公呰麻呂の名と階位も貰って官人として和人に仕える。しかしアテルイより先に乱を起こし、伊治城と多賀城を陥として焼き払い、按察使兼参議の従四位下紀広純らを殺害した上で、追討軍が来る前に生きるべき新たな土地を求めて北に去る。

坂上熟田麻呂……高名な武人、坂上刈田麻呂の弟で、坂上田村麻呂の叔父。病身で出仕していない為に殆ど知られていないが、博識で恐ろしく切れる頭の持ち主。

秦吉足……橘奈良麻呂に仕えていたばかりに、主人の陰謀には加わっていなかったにもかかわらず連座させられ、罰として女帝に出羽の辺境の雄勝城の一兵士として流される。そこでまた戦で蝦夷に酷い目に遭わされ、蝦夷に対する復讐の念に燃える。

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