第14話 冬から春へ

文字数 13,598文字

 出羽からの敗報を伝えた弁官を、女帝は目を吊り上げて睨んだ。
 奥歯をぎりぎりと鳴らし、その歯の隙間からようやくに声を絞り出して問う。
「して、美濃麻呂はいかがした?」
「は、蝦夷どもの追撃を辛くも振り切り、秋田城にて陛下のご沙汰を待っております」
「おめおめ生き延びたか、預けた兵と諸共に死ねばまだ可愛げがあったものを!」
 己が咎められたわけでもないのに、女帝の険相に弁官は恐懼して声もない。
 吉備真備は僅かに眉を顰めたが、諌めはしなかった。どれほど筋の通ったことを申し上げようと、この女帝は諌めれば怒り出してより頑なになることを、真備はよく知っていた。
「お怒りは尤も至極でございます、美濃麻呂は許し難い愚か者にございます」
 女帝が何を言い出しても真備はまず共感を示し、その後で本当に言いたいことを柔らかに申し上げる。
「なれどかの者は仮にも従五位上出羽員外守にございます。もし討たれておれば、蝦夷どもはさらに勝ち誇り、我が国にはより大きな恥辱となったかと思いまする」
「ならば美濃麻呂めをいかがする、壱岐か隠岐、それとも多禰嶋の守にでもしてくれようか」
「ごもっとも、信賞必罰は国を治める根幹でもあります。なれど今一度、かの者に機会を与えておやりになるのは如何でしょう。さすれば美濃麻呂も陛下の恩情に狂喜し、次こそ死に物狂いで働くことでありましょう」
 次こそという言葉に、女帝の頬がぴくりと震えた。
「よし、蝦夷どもの山を今一度攻めよと、出羽の国府と美濃麻呂に即刻命じるのじゃ!」
皇威(みいつ)に楯突く荒蝦夷どもは、無論放置しておけませぬ。なれどその前に、まず壊滅した出羽国軍を再建せねばなりませぬ」
「返す返すも腹が立つ。美濃麻呂の愚か者めが、朕の大事な兵を丸々一個軍団も失いおって!」
「それに出羽国では、程なく雪が降り始めることでしょう」
「ええい焦れったい、出羽の賊徒どもの山、いつまた攻められるのじゃ!」
「は、どう考えても来年の春を待たねばならぬかと」
 女帝が唇の端を曲げるのを見て、癇癪を起こされる前に真備は急いで言った。
「雪が解けましたら即刻攻め掛からせますゆえ、今しばしご辛抱のほどを……」
「わかったわかった、辛抱しよう。なれど、次もまた美濃麻呂に任せて大事ないであろうか?」
「我もそれを、些か心許なく思うておりました。来る戦に備え、例えば坂上刈田麻呂などを陸奥に遣わし、出羽の戦を裏から支えさせたら如何でしょう」
「刈田麻呂か、それは手放せぬ。あの仲麻呂めの残党が、淡路廃帝を担いで何をしでかすかわからぬではないか!」
 女帝は仲麻呂を信任していた淳仁天皇を帝の位から引きずり下ろして淡路に幽閉し、重祚して天皇の地位に復していた。しかし女帝は皆の信を得ているとはとても言えず、元の帝に心を寄せる少なからぬ貴族らが密かに淡路を訪れていた。
 その動きを、女帝はひどく恐れていた。
「都の守りを手薄にしてまで刈田麻呂を行かせる必要などなかろう、陸奥守(田中多太麻呂)も中衛少将や節度副使を経た手練の武人ではないか」
 真備は黙って頭を下げた。心の中では田中多太麻呂と刈田麻呂では武人としての格がまるで違うと思っていたが、次の戦を来春まで待つことを受け入れた女帝に、己の意志をさらに押し通すのはまずかろうと判断した。
 女帝もまた次の戦の概略が決まってとりあえず満足し、怒りの矛先を別のものに移した。
「美濃麻呂の不甲斐なさにも腹が立つが、それにしても憎いのはあのクナタブレ(黄文王)の子の小冠者めよ。引っ捕らえたら、必ずや時をかけじわりと殺してくれよう。奴が泣きわめき許しを乞いながら死んで行くのをこの目で見ねば、どうにも気が済まぬわ」
 ああ、汝は何故我のところに逃げて来なんだ……。何も言わずに再び頭を下げながら、真備は疾雄に怒りに似た気持ちを抱いた。

 他の者にはそのような素振りを決して見せはしなかったが、自分を陸奥へ差し向ける案を女帝が拒んだと聞いて、坂上刈田麻呂は安堵していた。
 仲麻呂の兵乱の後に与えられたばかりの屋敷に帰ると、弟の熟田麻呂(にぎたまろ)が庭の池の畔で、刈田麻呂の息子で六つになったばかりの田村麻呂と遊んでいた。その池は屋敷の母屋や対屋の間を曲がりくねるように掘られ、小石を敷き詰めた浜や岬を模した半島まで作られている。
 その浜辺に見立てた所で、弟と息子が草の葉で作った舟を水に浮かべて笑い合っている。二人の楽しげな姿を見るにつけ、刈田麻呂はようやく掴みかけたこの幸運を失ってなるものかと思った。
「あ、父上、お帰りなさい」
 刈田麻呂はまず嬉しげに駆けて来る息子の頭を撫ぜ、それを見守り穏やかに微笑んでいる弟に案じるような目を向けた。
「体の具合はどうだ、無理をしてはいかんぞ」
「大事ありませぬ。この通り良く晴れ日差しも暖かいゆえ、今日はとても気分がようございます」
 しかしその顔が僅かに赤いところを見ると、微熱は相変わらず続いているようだ。
「かも知れぬが悪いことは言わぬ、もう中で休め」
「厭だ、叔父ちゃんともっと遊ぶの!」
 駄々をこねる息子を宥めすかし、後は婢女に任せ弟の肩を抱くようにして刈田麻呂は屋敷に入った。
「懐いているのは良いが、あれは汝には我が儘ばかり言うて困る」
「可愛いものではありませぬか。それに我に出来ることと言えば、これくらいしかありませぬ」
 言いながら軽く咳をする弟を、刈田麻呂は憐憫を込めた目で見た。代々武人を出しているこの家では、虚弱でそろそろ三十にもなるというのに何の官職にも就かず妻も持たずにいる熟田麻呂は、ともすれば厄介者のように扱われがちだ。しかし刈田麻呂は、家の資人(とねり)や婢女どもにすら軽く見られがちなこの弟が、実は恐ろしいほど鋭い頭脳を持っていることを知っている。
 だから刈田麻呂はこの少し年の離れた弟に何でも話し、何か重大な決断を迫られた時には、必ずその判断を聞いた。仲麻呂と女帝の争いが激化した折、太師さまは真備どのにまず勝てぬでしょうとあっさり言い切ったのも、この熟田麻呂である。
 来春にまた出羽の蝦夷を攻めることと、その将として名を挙げられたものの戦に加わらずに済んだことを話すと、熟田麻呂は微笑んで頷いた。
「この日の本の国に兄上ほど強い者はおりませぬ、なれど山野の賊徒どもとの戦に兄上を差し向けるのは、言わば斧をもって葦を刈ろうとするようなものでありましょう」
「斧で葦、か」
 刈田麻呂は苦笑いしつつ、いつもながら痛い所を突いて来るわと驚いてもいた。刈田麻呂自身、武人同士の真っ向勝負なら誰にも負けぬ自信はあるが、熟田麻呂が言うような敵と戦うのはどうも好きになれなかった。
「なれど春日王とか申す者の戦いぶり、実に興味深いものがあります」
「ほう、面白いか?」
 からかうような目を向けた刈田麻呂に、熟田麻呂は大真面目に頷いた。
「ええ、それはもう」
 生まれつき体の弱い熟田麻呂は、書物を読むことを無上の楽しみとしていて、礼記や漢書から孫子の戦国策に至るまで読破していた。
「春日王がいかにして出羽国府の軍を破り雄勝城を落としたか、我にもできるだけ詳しく教えて下さいませぬか。是非お願いします」

 同じ頃、白壁王とその長子の山部王はひどく難しい顔で向かい合っていた。
「止めておけ。この度の出羽での騒乱は、陛下の私怨による無理押しの戦に近い。このような下らぬ戦に、父として我が子を行かせとうないわ」
「そのことはもう、幾度も話し合うたではありませぬか」
「うむ、それはそうだが……」
 先の政変で、白壁王はぎりぎりのところで女帝の側についた。それで白壁王は位階を一つ上げられて正三位となり、山部王も従五位下を授けられた。
 しかし二十七になる今の今まで、山部王はずっと無位無官のままであった。他の公卿や王族の子弟らが二十歳を過ぎれば従五位下を授けられているのに比べ、山部王の叙位は明らかに遅い。
「我らは陛下に好かれておりませぬ」
 今の皇統は天武天皇の子孫だが、白壁王は天智天皇の孫にあたる。血の尊さで言えばむしろ天武系を上回るだけに、女帝ら天武系の皇族から敵視されがちだった。
「しかも陛下は、ひどく疑い深く酷薄なお方です」
「言うな、わかっておる」
「いえ言わせて下さい。仲麻呂が勝っていた方がまだましであったと、父上もお思いになりませぬか?」
「あの者も虫の好かぬ、嫌な男であった。心が冷たく、才覚を鼻にかけて人を見下しての。なれど少なくとも、仲麻呂は理に合わぬことや筋の通らぬことはせなんだ」
「仲麻呂が居なくなるやいなや、たちまちあの道鏡めが大臣禅師ですからな。そのうち我らはみな、道鏡めを帝として仕えることになるやも知れませぬ」
「まさかそれは無いと思うが……今さら何を言うてもどうにもなるまい。陛下の側につく以外、生き残る道は無かったのだからの」
「なればこそ!」
 語気を強め声を励まして、山部王は父親のすぐ前まで膝を寄せた。
「今以上に忠義を尽くす意志を示さねば、どこかの誰ぞのように謀叛の罪を着せられかねませぬ」
 その恐ろしさは白壁王もよく知っていた。天下の権を握った者に睨まれると、何故か必ず謀叛や呪詛を密告する者が現れる。そして一度疑われたが最後、その密告はまず間違いなく事実とされてしまう。
 何しろ密告する者と裁く方が初めから裏で通じているのだから、濡れ衣を晴らすことなど出来る筈もないのだ。
「父上のご苦心はようわかっております。好まぬ酒をお飲みになり、わざと愚かなふりをなさって……。なれど陛下は、それだけでは騙せませぬ」
「あの陛下の為に、汝は命まで賭けようと言うのかッ」
「いえ違います、我ら自身の為です。それにもし我に万一のことがあっても、弟がいるではありませぬか。父上とこの家さえ守れれば、我はどうなろうと本望です」
 そして山部王は参内して、来春の蝦夷との戦に是非とも加わりたいと女帝に申し出た。

 出羽の蝦夷の勝報は、国境の高い山々を越えて陸奥の蝦夷の間にもたちまち広まった。
「何とッ。大和の軍がリシクマに破れ、雄勝城も焼き払われたと!」
 文字通り小躍りせんばかりに喜んだのは、胆沢(岩手県南西部)の蝦夷の老翁の息子アテルイであった。アテルイはリシクマのポロセタに負けぬほど背が高いが余計な肉は一片もなく、鋼を縒り合わせたような筋肉で全身が出来ている。
 和人どもは胆沢にも迫り、父祖からの地も何もかも奪い取りろうとしている。にもかかわらず和人の無法に怒る気力も無い里の腰抜けの老いぼれどもは、強大な大和には逆らえぬ、ここは譲り合って共存の道を探るべきだなどとぬかす。
 譲り合いと言えば聞こえは良いが、譲るのはいつも蝦夷の方だ。共存と言うのも名ばかりで、文字も知らぬ卑しい蛮族よと和人に蔑まれながら獣のように追い使われるだけだ。
「立て、胆沢の蝦夷には誇りは無いのかッ。暴虐なる和人に我らの怒りの鉄槌を下し、父祖からの土地と女子供を守ろうぞ!」
 アテルイは繰り返し皆を奮い立たせようとするのだが、それに呼応するのは若い者ばかりだ。アテルイの父親や叔父らなどの、胆沢の蝦夷を牛耳る年寄り達は何を言うても首を振るばかりだ。
「戦うと言うのは容易いが、和人どもは何千何万とおるのだぞ。しかも上等な甲冑をまとい上等な武器を持ち、蝗の群れのように後から次々攻め寄せて来よる。それにどうやって勝つと言うのだ?」
「アテルイよ。もしも負けたらどうなるか、汝は考えたことが一度でもあるか。和人どもの振る舞いには腹の立つことが多い、なれどもし戦に破れてみよ、その後は想像もできぬくらい酷いことになるのだぞ?」
「そうなれば我らは土地も何もかも奪われ、それこそ汝の言う和人の(やっこ)に身を落とすしかなくなるのだぞ。だからの、必ず勝てると皆を納得させられるまでは、戦など始めてはならぬのだ」
 悔しいが、勇気と意志の力なら有り余るほどあっても知識と経験の足りぬアテルイには、彼らを説得できる言葉が何一つなかった。いつも里の老人らに言い負かされる形で、アテルイは煮え繰り返る思いを堪えて黙らざるを得なかった。
 そこに届いたのが、出羽の蝦夷の勝報だった。
 今すぐにでも比羅保許山に飛んで行きたい。陸奥と出羽を遮る山々の峰を睨みながら、アテルイは心の底からそう願った。彼らが出羽国軍を壊滅させた地をこの目で見、その名を伝え聞くポロセタやウェンスマリらとも直に会い、和人どもをどう討ち破ったか教えを乞いたいと思った。
 しかし目の前の山々の頂は、既に白く染まり始めている。それでも無理に行けば行けぬこともなかろうが、そのまま春まで帰って来られなくなる可能性が高い。
 それで陸奥の胆沢のアテルイは、身を切られるような思いで来春の雪解けを待とうと決めた。

 同じ陸奥の蝦夷の老翁の息子でも、伊治(宮城県栗原郡)に住み暮らすカパチリクルの反応は少し違った。
 まだ辛うじて独立を保っている胆沢とは異なり、伊治の地は既に大和に屈していた。カパチリクルの父も伊治郡の大領として大和の支配組織に組み込まれ、寧楽の都から送り込まれて来る多賀城の和人どもの下役として働いている。
 次の伊治の大領となるカパチリクルは、伊治公呰麻呂(これはりのきみあざまろ)という名を多賀城の和人から授けられてもいた。
 ポロセタやアテルイら他の蝦夷と違い、カパチリクルは字の読み書きができた。だからカパチリクルは、呰麻呂という名に込められた真の意味にもやがて気づいた。
 鷹を意味する蝦夷の言葉の通り、カパチリクルは眼光鋭く引き締まった顔立ちで、決して醜くは無かった。しかし痘瘡を患ったために、その顔に幾つもの小さな痣が残った。ゆえに和人に呰麻呂という名を与えられた時も、誇りが傷つけられはしたものの仕方のないことと思った。
 この(つら)に目立つ痣があるのは紛れもないことだし、色が黒いゆえに黒麻呂、双子の兄弟が兄麻呂に弟麻呂と名付けられるようなものであろう。カパチリクルはそう考えて堪えた。
 しかしカパチリクルは大和の文字を学ぶうち、呰の字はアザではなくむしろシと読むべきで、しくじりあるいは非難すべきものという意味が強く含まれていることを知った。
 ではそう名付けた和人どもは、何故その呰という字をあえて使ったのか。カパチリクルはそこに、自分に対する和人の軽侮の念を読み取った。
 和人と接し和人のことを知れば知るほど、カパチリクルは大和と和人を憎むようになった。その憎悪の深さは、胆沢のアテルイにも劣らぬかも知れぬ。
 が、その思いをカパチリクルは痘痕のある顔の下に押し隠した。
 胆沢とは違い、この伊治の情勢は蝦夷か和人かで敵味方を区別できるほど単純ではない。多賀城が築かれ陸奥の国府と鎮守府が置かれて既に四十年になるが、その間に多くの和人が移り住んで来るうち、蝦夷の中にも和人に尾を振る者らが現れた。
 この伊治郡や牡鹿郡に住む蝦夷にも、和人から丸子や牡鹿や道嶋などの姓を賜り、自ら進んで和人の為に働こうとする者らが多くいた。都に上り和人の走狗となり女帝の為に大いに働き、今では従四位下の授刀少将にまで成り上がっている牡鹿嶋足などは、その最たる例であろう。
 それら和人に媚びる蝦夷は、同じ蝦夷を和人以上に侮った。国府の官人の端に連なり、まるで己は蝦夷ではないと言わんばかりの態度で、和人の官人より更に居丈高に振る舞った。
 ゆえに和人を憎む伊治の蝦夷が立ち上がろうにも、その前にまず同じ土地の蝦夷が立ち塞がった。カパチリクルの一番の敵は、今や和人ではなく同じ蝦夷なのである。
 しかしどれほど情けなく嘆かわしいことであろうと、これが伊治を含む陸奥国の蝦夷の現実だった。
 こうあらねばならぬとか、こうであるべきだとか、或いはこう思いたいとか。そうした理想や願望を現実と混同してとらえることを、カパチリクルは心して避けてきた。
 事実に基づき現実から始めねば、物事は決して望む方向には動かぬ。だからカパチリクルは煮え繰り返る思いを押し隠し、伊治公呰麻呂として作り笑顔で国府の和人どもに仕えた。
 ゆえに出羽のリシクマの勝報を聞いても、カパチリクルは胆沢のアテルイほど素直に喜べなかった。
 この知らせはまことであろうか、それに事実であったとしても、たまたま一時勝っただけでは意味がない。蝦夷の手に取り戻したという雄勝と平鹿を、リシクマの者らは今後も守り通せるのだろうか。
 このリシクマの蜂起と勝利をどう評価するか判断を下す前に、カパチリクルには知りたい事が山ほどあった。
 とにかく一度比羅保許山に行き、リシクマの今を己の目で確かめてみたい。この勝利にどのような意味があり、伊治や他の蝦夷にどのような影響をもたらすのか、判断するのはそれからだとカパチリクルは思った。

 北の出羽でも平地ではまだ雪が降り出さぬうちに、秋田城の上毛野馬長の許に出羽介を解き常陸守に任ずるとの官宣旨が届いた。
「馬長どのもいよいよ国守ですな、冬を越す前に暖かい国に行けるとは羨ましい」
「さあ、それはどうでありましょう」
 長いこと出羽国府から転出できずにいる国守の百済王三忠の世辞に、馬長はやや疲れた苦い笑いで応えた。
「我が常陸に行くのも、まず出羽が失った兵を補充する為ですから」
 北の未開の地を開拓し、またその農地を蝦夷どもから守る為に、坂東諸国から何万何千もの民が出羽と陸奥に送り込まれている。
「それだけではありませぬ、甲冑も急ぎ造らせよとの命も受けております」
「国府の軍の再建には我も頭を痛めておるのだが、出羽は貧しく民の数も少ない。馬長どのの助けを借りねばどうにもならぬ」
「それはようわかっております、なれど……。息子を兵に差し出せ、甲冑も造れと、着任早々皆の尻を叩かねばならぬのです。あちらの民に、我はさぞ恨まれるでしょうな」
「まあ一杯飲まれよ」
 湯で割った酒を満たした坏を、三忠は別れを惜しむ気持ちも込めて差し出した。
 しばらくの間、二人は黙って温かい酒を啜る。
 あの(うつ)けの大しくじりのせいで我らが尻拭いに苦労せねばぬのだと、どちらもよくわかっていた。が、三忠も馬長もこの場におらぬ員外守どののことは口にしなかった。
 蝦夷に大敗して単騎逃げ帰って来て以来、謹慎の意志を示すつもりか、佐伯美濃麻呂は秋田城の奥の私室に籠もって殆ど出て来ずにいる。
「お上はどうやら、比羅保許山の討伐を諦めぬおつもりのようですな」
 去り行く介が先に坏を乾してぽつりと漏らした言葉に、残る守は長い吐息で応えた。
「あのような山の蝦夷の小さな群れ一つなど、ただ雄勝の鎮兵に見張らせ捨て置けば良かったのだ」

 雄勝城の鎮兵が辿った非運と蝦夷の非道ぶりを、深手を負いながら命懸けで国府に伝えた。その功により、秦吉足は傷がほぼ癒えた後許されて故郷の河内国茨田郡幡多郷に帰ることになった。
 出羽からの道程は長く、しかも北国では既に雪が降り始めていた。しかし吉足は疲れを疲れとも思わず、何かに引かれるように前へ前へと道を急いだ。そして歩いている間は、蝦夷に捕らわれていた時の記憶も背の傷の痛みも殆ど忘れていた。
 晴れた時は無論のこと、雨が降ろうが雪が舞おうが、吹雪にさえならなければ日に七十里(約四十五キロ)は歩き、吉足はほぼ一月で愛しい久須女の家に帰り着いた。
 七年ぶりに見る淀川の流れも故郷の風景も、雄勝で繰り返し思い描いた姿のまま殆ど何も変わっていなかった。ただ南側に庇と濡れ縁のある板葺きの切り妻屋根の家の脇の井戸で洗い物をしている久須女だけは、かなり日に焼けて肌も荒れ、顎の下の線も少し弛んだように思えた。
 記憶に残る姿より少し老けていたが、それは自分がおらぬ間に久須女にかけた苦労の証しでもあり、吉足は胸に込み上げて来るいとおしさに暫くものも言えなかった。
「あ」
 気づいて声を上げた久須女に、吉足は微笑んだ。
「吾だ、戻って来たぞ」
 しかし久須女は死霊でも見たかのような怯えた顔で、洗いかけていた大根を桶の中に取り落とした。
「吉足じゃ、ちゃんと生きておるしこの通り足もある」
 言いながら両腕を広げて近づくと、久須女は胸の中に飛び込んで来ようとするどころか後ずさりする。
 近くの柴垣の陰から六つか七つくらいの男の子が駆けて来て久須女の袖を掴み、久須女と吉足の顔を不思議そうに見比べる。
「この小父ちゃん、誰?」
 あの時汝の腹の中にいたのは、この子か?
 自分に似た面影を目で探しながら吉足がそう尋ねる前に、久須女は男の子を庇うように背の後ろに隠した。
「母ちゃんはこの小父さんと大事なお話があるの、真広は中でおとなしく待っておいで」
 久須女は男の子の背を押し、なぜと問うことすら許さぬ強い目で家の中に追いやる。
「良い名だ、真広というのだな」
 久須女は一瞬しまったというような顔を見せ、目を逸らし殆ど聞き取れぬくらい口早に喋った。
「あの人はあの子を自分の子と思って育ててくれているし、あの子もあの人を本当の父親だと信じているの」
 久須女に言われたことを飲み込むには、少し時間が必要だった。
「……誰なのだ」
「え?」
「だから汝の男は誰なのだ、言え!」
 久須女は暫く俯いて黙り込んでいたが、やがて唇を強く結んで目をぐいと上げた。
「岸田大広よ」
「稽古嫌いのあの大広か、弓はどうしようもなく下手だし馬に乗れば落ちてばかりのあいつめか」
「そんな言い方って……。すごく優しいし、畑作りだってうまいのよ」
 久須女は吉足を睨み、口調にも明らかに怒りが込められていた。
「汝は何もわかってない、汝が居なくなった後、吾と真広がどうやって生きてきたと思うの?」
「吾が、好きで汝を捨てたと思うか?」
「わかってる! 汝は何も悪くない、でもッ」
「いや汝こそわかっておらぬ、出羽の奥の鬼しか住まぬような地で、吾がどのような思いをして──」
「聞きたくないッ」
 久須女は悲鳴に近い鋭い声で遮った。
「だって話を聞いたら、このまま帰って二度と来ないでなんて言えなくなってしまう」
「二度と来るな、だと? おい、まさか本気で、嘘だろう? 何でそんな……」
「すごく辛い思いをしてきたのは、聞かなくても汝の顔を見ればわかるわ。でも吾も辛いのよ、わかって!」
 出羽での様々なことが、吉足の脳裏に鮮やかに蘇る。軒より遥かに高く積もる雪の下で凍えながら春を待ち、蝦夷に囚われた後の地獄にも劣らぬ苦しみにも耐え、そして斬られて血を流しながら駆け続けたのも、すべて久須女とまだ見ぬ我が子のもとに帰る為ではなかったか。
「吾のことなんかどうでもいいの、ただもし汝が真広のことを考えてくれるなら、もう何も言わないで黙って帰って下さい。お願いだから!」
 頭の芯が燃えるようにかっと熱くなった。目の前が白く霞む中で久須女がひどく怯えた顔をしたのを見て初めて、吉足は己が大刀の柄に手をかけていることに気付いた。
 深く長い息を胸の底からひとつ吐き、吉足は久須女の家に背を向けて大股で引き返した。
 行くあてもなくただ歩きながら、吉足は胸の中で久須女を罵り続けた。この尻軽の、さかりのついた雌犬め……と。とって返して斬ってやろうかと思い直しかけたことも、一度や二度ではない。
 しかし久須女の家から離れて無茶苦茶に歩き続けるうち、吉足の怒りは次第に胸を締めつけるような深い悲しみに変わった。
 久須女は悪くない、いつ帰るとも知れぬ男を、幼子を抱えて何年も待ち続けろと誰が言えよう。あいつが言うように、仕方がなかったのだ。それに岸田大広も男としては頼りなくはあるが、少なくとも悪いやつではない。
 だとすれば悪いのは誰だ、吾なのか?
 懐かしい筈の故郷の山も川も風も今は妙によそよそしく感じられ、吉足は誰もいない世界にただ一人でいるようなひどい孤独感に身を震わせた。
 いつの間にか淀川の河原に出ていて、出羽の重苦しい雪空とはまるで違う乾いた青空を、吉足は埴輪の兵士さながらに、暗い穴に似た目でただぼんやりと見上げた。

 雪が積もり始めるまでの時間は、瞬く間に過ぎていった。リシクマの里の者は、男も女も野や山に出て冬を越すための備えに励んだ。男達は熊や鹿や猪だけでなく、野兎や栗鼠などの小さな動物も獲った。薯蕷を掘るのもまた、男の仕事だ。そして女達は栗や栃など秋から冬にかけて森に生る実を穫った。
 雄物川にも鮭川にも無数の鮭が遡上してきて、それを男女総出で獲った。
 鮭は好きだがそれまでは食べるばかりで、生きて泳ぐ姿はまだ見たことの無かった疾雄は、上流の浅瀬まで群れをなして遡上する鮭と、里の者らがそれを獲るのを飽きずに眺めた。
「鮭が卵を産むまで、皆はわざわざ獲るのを待っているのだね?」
 気づいた疾雄に、美華媛は微笑んで頷いた。
「鮭は、獲ったら臓物を抜いて干すのだけれど。卵を産み終わった鮭は脂が落ちているから、長くとっておいても腐らないの」
「そうか、腐るのは脂のせいなのか」
「それに卵を産むまで待てば、鮭はまた川を上って来てくれる」
「そんな事は考えもしなかった。もしこの川が和人のものだったら、卵など関係なく大きな網でまとめて獲ってしまうだろうね。そして気がつけば、いつの間にか川に鮭が来なくなっている……」
「この里の皆は、山の神さまからいろんなものを少しずつ分けて貰って、獣たちや魚や木や、森のみんなと一緒に生きて行こうとしているの。大和より貧しくて不便だし何もないけど、それがリシクマの者達の生き方なの」
 そして疾雄の袍の袖を掴んで、黒々とした瞳でじっと見上げる。
「ね、和人はなぜ何でも独り占めにしたがるの?」
「さあ……根っから欲が深いのだろうな。だから蝦夷も隼人も、みな滅ぼさねば気が済まない。次は海を押し渡り、新羅や大唐国まで攻め取ろうとするかも知れぬな」
 自嘲気味な笑みを浮かべる疾雄の肩に額を押し当て、美華媛は疾雄を両腕でぎゅっと抱き締めた。
「ごめんなさい、汝は何も悪くないのに」
「媛が謝ることはない、大和がしている事を考えればリシクマの皆に恨まれて当然だ」
「恨むなんて……そんなことない。里の者は皆、汝を大事な仲間と思っているよ。ね、ウェンスマリ?」
 かつての春日王ならば、素直にそれに頷くことが出来たかも知れない。しかしその頭でっかちで世間知らずの小僧っ子は、木津川の河原で既に死んだ。そして新たに生まれた藤原疾雄は、人を恨み、人の目を避け、人の心の裏ばかり読んで生きてきた。
 あえて口には出さなかった。しかしリシクマの多くの者にとって自分はただ祖国を捨てて逃げてきた敵国人に過ぎず、さらに女帝や出羽国府の和人から見れば憎むべき謀叛人の裏切り者でしかないことも、その疾雄としての部分でよくわかっていた。
 疾雄の肩に顔を埋めたまま、美華媛は潤みかける目を隠して呟いた。
「我は汝を幸せに出来ていないよね。この里では、汝は幸せになれないのかな」
 疾雄も媛を強く抱き返し、艶やかな黒髪の間から僅かに見える形の良い小さな耳に口を寄せて囁く。
「どこに居ようと吾は、媛と共に居られれば幸せだ」

 囁き合う言葉の中身までは聞こえなかったが、川から少し離れた木陰で抱き合う二人の姿は、鮭を獲りに出ていた多くの里の者が見ていた。
「仲が良いのは結構なことだが、昼日中からああ大っぴらにいちゃつかれると冷やかしてやる気にもなれぬわ」
 大袈裟に顔を顰めて首を振るポロセタに、取り巻く仲間達は声を揃えて笑った。
「全くだ、独り者や通う相手のおらぬ者は特に目の毒で辛かろう」
「おい、何故そこで吾の顔を見る、汝こそ相手など誰もおらぬくせに」
 仲間と一緒に、ポロセタも声を合わせて笑った。笑いながら、吾は今ちゃんと笑えているだろうか、作り笑いだと誰かに気づかれやしないだろうかと、ひどく気になっていた。
 美華媛が幸せなら、それで良いのだ。ポロセタは自分にそう言い聞かせ、媛のことは男らしく思い切るつもりだった。
 しかしこうして美華媛と疾雄の姿を目の当たりにしていると、何故か鳩尾の辺りが刺すように痛んでならぬ。
「ああもう見ちゃいられねえ。ここで指を咥えていても当てられるばかりだ、どこか他所に行こうぜ」
 声をあげて笑いながら、ポロセタは皆を促してその場を離れた。
 笑って明るく振る舞ってはいたが、抱き合い囁き合う二人の姿を見続けるのに、もうこれ以上耐えられそうになかった。

 しかしサウレクルはその場を離れずに、目の裏に焼き付けるように二人の姿を凝視していた。
 あれは美華媛ではない、外見はどうあれ中身はすっかり変わってしまった。国府の和人に都に連れて行かれる前の媛とはまるで別人に入れ替わってしまったとしか、サウレクルには思えない。
 かつて自分が想いを寄せた美華媛は、既に死んだのだ。今の媛を見れば見るほど、サウレクルのその確信は深まってゆく。顔貌は昔のままだが、まず目の光が違う。以前の柔らかな優しい眼差しはどこかに消え去り、瞳は常に陰鬱な黒い帳で覆われ、時折その奥に刺し貫くような強く鋭い光が冥く煌いた。
 かつて媛の全身から放たれていた暖かく清々しい神気は今やまるでなく、禍々しい邪気のとぐろが体に巻き付いているのが見えるようにすら感じる。
 この度のリシクマと出羽の国府との戦乱も、サウレクルには美華媛が呼び込んだように思えた。媛があの謀叛人の和人の王をリシクマの里に連れて戻って来たことからこの戦が始まり、その為に数え切れないほど多くの人が死んだ。
 避けられぬ戦では無かったと、サウレクルは今もそう思う。
 かつての美華媛であれば、それでもし戦が防げるなら我が身を犠牲にすることも厭わなかった筈だ。事実、この春に出羽の国府に恭順の証として差し出された時も、媛はその覚悟で寧楽の都に向かった筈ではなかったか。
 そうだ媛は和人の都で、闇の魔に魂を売り渡したのだ。そうとでも思わなければ、美華媛のこの変わりようが理解できない。
 我にはもう神様が見えない。ごく親しい身近な里の女たちに、美華媛はそう漏らしたと聞く。さらに神から授かった筈の力を私怨の為に使って、人を幾人も呪い殺したとの噂もある。
 あの二人さえ居なければ、リシクマの者も和人も皆が平和に穏やかに暮らせていたのに……。
 木陰で寄り添い合う美華媛と疾雄を睨むサウレクルの目には、ただの憎しみや嫌悪を越えた殺意に近いものが浮かんでいた。

 程なく、出羽も比羅保許山のリシクマの里も雪に閉ざされた白一色の世界になった。空には灰色の雲が厚く垂れ込め、僅かな日の光も見ることすら出来ぬ日が幾日も続いた。家の中で息を顰めて天気の回復をただ待つしかない吹雪の日には、今が昼なのか夜なのかもよくわからなくなる。
 しかしそんな雪の檻の中で過ごすような日々が、疾雄は思いの外気に入っていた。
 竈の火は常に絶やさずにいるが、熊や鹿の厚い毛皮を被っていないと体がたちまち芯まで凍えてしまう。戸口の隙間から吹き込んで来る風に竈の火が揺らぎ、その仄暗い赤い光の中に美華媛の案ずるような顔が浮かび上がった。
「寒くない? 吾は慣れているけれど、疾雄さまは辛いでしょう」
「大丈夫、こうしていれば……」
 言いながら、疾雄は媛を優しく、しかし強く抱き締めた。
 見かけは小柄で華奢だが、媛の体はどんな絹綿よりも柔らかで熱いくらいに温かい。ただ抱き締めてその胸に顔を埋めているだけで、疾雄の心は満ち足り脳が蕩けて何も考えられなくなる。
 その冬の間、疾雄と美華媛は雪の下の暗く狭い家に籠もったまま、ずっと抱き合って過ごした。和人も蝦夷も出羽国府もリシクマもなく、そこに在るのはただ疾雄と美華媛だけだった。
 二人の家は初めて出会ったあの田村第の納屋よりさらに狭く、竈と僅かな食器の他は殆ど何もなかった。しかしそこから殆ど出ずに過ごしたその冬、疾雄も美華媛もとても幸せだった。
 これ以上欲しいものは他に何もない、我は望むものすべてを手に入れた。抱き締めている美華媛の体の温もりを肌で感じながら、疾雄は心からそう思った。父の無念も女帝への恨みも忘れたわけではないが、遠い昔の出来事のように思えてくる。
 しかしゆっくりとではあっても、時は絶えず流れ続けた。何もない同じような日々が続いているかに見えても、今日は昨日とは少しずつ違っている。
 雪の中から福寿草の芽が顔を出すようになれば、春はそう遠くない。そして雪が解ければ森の草木が芽吹き獣たちも活動を始めるだけでなく、人も動き始めた。
 リシクマの里の者も含め北の人々はみな遅い春を待ち焦がれたが、疾雄は冬が終わるのを恐れた。
「いろいろ考えると、我は怖くなる時がある」
 積もることも無く地面で解けてゆく名残の雪が降る晩、疾雄は美華媛を掻き抱きながら珍しく弱音を吐いた。
「出羽の国府が和議に応じて、戦などもうせずに済めば良いのだが。この先のことが、媛には何か見えぬか?」
「……ごめんなさい、吾は何の役にも立たないね」
 心から済まなそうに呟いて、媛は疾雄の肩に顔を押し付けたまま首を振る。
「吾こそ悪かった。心配要らない、出羽の軍が何度攻め寄せて来ようがまた勝ってみせる。うむ、リシクマは絶対勝つ」
 美華媛の背を撫でながら、疾雄は半ば己に言い聞かせるように我らは勝つと繰り返した。
 しかし美華媛は嘘を言っていた。
 ある同じ夢を、媛は夜明け前の浅い眠り中で繰り返し見ていた。
 天を焦がすように燃え上がる炎と、そして訪れる常闇と永遠の静寂……。
 その光景は余りにも断片的で脈絡もなく、媛には見た心象を言葉にしてうまく伝えることが出来なかった。けれどその夢を見て目覚めた時にはいつもひどい不安に襲われ、胸の鼓動も息苦しさを覚えるほど激しくなっていた。
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登場人物紹介

藤原疾雄……ふじわらのはやお。元の名は春日王で、黄文王の庶子。橘奈良麻呂の変に連座して、残虐な女帝に惨殺されかけるが、藤原仲麻呂により密かに助命され匿われる。そして仲麻呂と共に残虐な女帝を倒す為に働くが、女帝の謀臣吉備真備に先手を打たれ、蝦夷から人質として差し出されていた美華媛と共に、美華媛の故郷、出羽国のリシクマの里に逃げる。そして女帝の命を受けて追って来た大和の軍を、知謀の限りを尽くして討ち破る。その戦いぶりから、蝦夷たちにウェンスマリ(悪い狐)とも呼ばれる。

美華媛……出羽国の蝦夷、リシクマの巫女で媛(ひめ)。恐ろしく美しく、不思議な力を持つ。リシクマから大和の国に人質に差し出されるが、その美しさの為に酷い暴行を受け、心に深い傷を負う。その心の傷が癒えかけた頃、仲麻呂は女帝との権力争いに敗れる。そしてまたも殺されかけた疾雄を伴い、出羽のリシクマの里へと逃れる。

女帝……聖武天皇の唯一の子だが、残虐、かつ淫蕩で放埒。その性を恐れられ、天皇を退位させられ太上天皇に祭り上げられて、政務の実権を母と藤原仲麻呂、そして新帝淳仁天皇に奪われる。だが母である光明皇后の没後、抑える者が無くなり怪僧道鏡を寵愛し、仲麻呂や新帝と激しく対立する。

藤原仲麻呂……光明皇后の甥で、学があり極めて怜悧。光明皇后の信任を得て政治の実権を握っていたが、後ろ盾になっていた光明皇后の没後、女帝と抜き差しならぬ対立に陥る。ある考えがあり、春日王を密かに助命し子飼いとする。

吉備真備……大唐国に留学した大学者で、軍学にも通じている知者。春日王、そして女帝両方の学問の師であり、藤原仲麻呂とは長年の政敵でもある。

ラムアンペ……出羽の蝦夷リシクマの長で、美華媛の叔父。ただ賢いだけでなく、思考は現実的でもある。

ポロセタ……リシクマの勇者。剛勇だが、思慮には少しばかり欠けるところがある。かつては、美華媛に想いを寄せ嫁に欲しいと思ってもいた。

サウレクル……ラムアンペの息子で、ポロセタには無い思慮を補う。蝦夷には少ない平和主義者で、その為、血気盛んな部族の若い者に腰抜けと思われることもある。彼もまた、かつては美しい美華媛に想いを寄せていた。

テケレクル……リシクマの北隣の蝦夷、ペツアウイの長。リシクマのラムアンペとは旧い友でもある。しかし部族が住む地は大和の者の勢力下にあり、リシクマとと大和の間に立ち、部族の長としての行動に苦慮する。

ドマシヌペ……リシクマの西隣の蝦夷、ヤウングルの長。こちらもテケレクル同様、大和の勢力との折衝に苦慮しているが、テケレクルやラムアンペより利に敏く、油断のならぬ面もある。

アテルイ……陸奥国胆沢(岩手県南西部)の蝦夷の長の息子。大和の覇権から蝦夷を独立させることを夢見て、リシクマの里にやって来る。そして疾雄の戦いぶりに、強く影響を受け、後に坂上田村麻呂の率いる大和の大軍と激戦を繰り広げる。

カパチリクル……伊治(宮城県栗原郡)の蝦夷の長の息子。アテルイ同様に蝦夷の独立を望んでリシクマの里に来るが、己の里が大和の勢力に胆沢より食い込まれている故に、アテルイより慎重で懐疑的。そしてアテルイより長くリシクマの戦いを見届けた後、和人から伊治公呰麻呂の名と階位も貰って官人として和人に仕える。しかしアテルイより先に乱を起こし、伊治城と多賀城を陥として焼き払い、按察使兼参議の従四位下紀広純らを殺害した上で、追討軍が来る前に生きるべき新たな土地を求めて北に去る。

坂上熟田麻呂……高名な武人、坂上刈田麻呂の弟で、坂上田村麻呂の叔父。病身で出仕していない為に殆ど知られていないが、博識で恐ろしく切れる頭の持ち主。

秦吉足……橘奈良麻呂に仕えていたばかりに、主人の陰謀には加わっていなかったにもかかわらず連座させられ、罰として女帝に出羽の辺境の雄勝城の一兵士として流される。そこでまた戦で蝦夷に酷い目に遭わされ、蝦夷に対する復讐の念に燃える。

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