第12話 秋の合戦

文字数 9,713文字

 秋田城からずっと雄物川の北岸を進んできた出羽国府の軍は、夜の寒さにたまりかね、日が昇るのも待たずに出立した。
 山本郡の大領の館を立つ前に、佐伯美濃麻呂は軍の大毅(軍団長)に兵らの様子も尋ねてみた。
「皆はどうしておる、士気は落ちておらぬか?」
「御案じなさいますな、皆元気で闘志に溢れております。兵らの鎧には中に綿が入っており、充分に温こうごさいますし」
 大毅の返答に、美濃麻呂は安堵して頷いた。
 しかし多くの兵らは唇を紫色にして震え、その手足は皹でひび割れていた。
 出立して程なく越した玉川の水は刺すように冷たく、凍え過ぎた足の指先は痛みすら感じなくなり、硬い地べたを歩いているのに何かひどく厚い皮でも踏んでいるように感じた。だが川を馬で足を濡らすこともなく越えた美濃麻呂は、そのことにも気付かなかった。
 玉川を越えた辺りで雄物川は向きを変え、東からの流れを南に転ずる。国府の軍はさらに雄物川に沿って南の比羅保許山を指して進み、未の刻(午後二時)を過ぎた頃には遠くに雄勝城を眺める辺りに着いた。
 しかし雄勝城に入るには、雄物川をどこかで渡らねばならぬ。
 山本郡の南から雄勝城の手前にかけては、東西を山々に挟まれた広い盆地が続いていて、雄物川もその辺りでは緩やかに蛇行しながら比較的ゆったりと流れていた。しかし川幅は広く対岸も遠く、川底は緑の水の下に隠れて見えぬところも多かった。
「進めッ。雄勝城に着いたらたっぷり休ませてやるぞ!」
 美濃麻呂は大声で皆を励まし、この土地を知る兵に浅瀬を探させ、自ら先頭に立って雄物川の流れに馬を乗り入れた。
 川の水はやはり冷たかったが、流されたり溺れたりする者は一人も出さずに渡り終えた。そして雄勝城を目指し十町(約一キロ強)ほど進んだ時だった。地鳴りに似た凄まじい音が轟き、西の山の麓から騎乗した蝦夷の一団が飛び出して来た。
 蝦夷どもは獣じみた喚声を上げながら、森の中から後から後から湧くように出て来る。蝦夷どもが乗る馬も美濃麻呂らの馬より二回りは大きく、恐ろしいほどの速さで土煙を上げて突進して来た。
 無数の馬の蹄に蹴りたてられ、足元の大地が揺れているのを国府の軍の兵らは自らの足の裏で直に感じた。
「迎え撃てッ、奴らを殲滅する好機ぞ!」
 美濃麻呂は大刀を抜き放って声を張り上げるが、雄物川の渡河点から二列縦隊でぞろぞろ行軍していた兵らは戦列を整える間すらない。美濃麻呂の命で打ち鳴らした進めの太鼓も、轟く蝦夷の馬蹄の音にかき消されがちだ。
 蝦夷どもは国府の軍の周囲を駆け回り、馬上から盛んに矢を射かけてきた。
「怯むなッ。何をしておる、射返すのだ!」
 美濃麻呂は叱咤するが、弓の腕ならば蝦夷の方が遥かに上だ。国府の兵は矢を受けてばたばたと倒れる一方、国府の兵が放つ矢は馬で駆け回る蝦夷には殆ど当たらない。
 蝦夷どもの先頭に立つ武者は上等な大和の甲冑をまとい、大和の長い黒作大刀を抜き放って指揮を執っている。美濃麻呂はその裏切り者の和人を憎々しげに睨み、大刀の先で示して叫んだ。
「謀叛人の王はあれぞッ。逃すな、恩賞は思いのままぞ!」
 しかしその声につられて飛び出す兵らは、片端から射殺されてゆく。
 鎧は刀による斬撃にはよく耐えるが、矢には意外なほど弱い。薄い革や鉄を綴じ合わせた小札は、鏃を容易に通してしまう。
「気を強く持てッ、傷は浅い!」
 傷ついた兵を励ます声があちこちで聞こえた。しかし蝦夷の矢を受けた兵は、かする程度の傷を手や足に受けただけで唇を青くし、息を詰まらせて次々に息絶えてゆく。
「毒だ、奴らは毒矢を使うぞ!」
 誰かのその叫び声に、国府の兵らの間に恐怖が波のように広がっていった。

 合戦の喚声や進めの太鼓の音に、丘の上の雄勝城の鎮兵もすぐに気づいた。
「見よ、国府の軍が押されておるぞ!」
「奴らめ、どこから沸いて出やがった!」
 しかし野蛮人の愚かしさ故か、蝦夷どもはこの城に背を向けて国府の軍に攻め掛かっている。
「急げ、総掛かりで奴らの背後を衝くのだ!」
 国府の軍と挟み撃ちにして、一人残らず叩き潰してくれる。城の鎮兵は甲冑をつける間さえもどかしく、意気に燃えて慌ただしく出撃した。
 雄勝城を預かる城司は殆どの兵を引き連れて出撃したが、無論その中には秦吉足もいた。
 必ず凄い手柄を立てて河内に帰るのだ、その為ならこの心ノ臓が張り裂けても構わぬ。城司の馬のすぐ後ろを、吉足は死に物狂いで駆けた。もしも吾が謀叛人の王を捕らえたらどれほどの恩賞を戴けるだろう、仲麻呂を斬った石村石盾のように従五位下も夢ではないやも──。
 しかし丘から下の平原に駆け降りてさほども走らぬうちに、目の前の草叢が不意に動いた。傾きかけた日を受けて輝く薄を押し分け、弓を構えた百を越える蝦夷が姿を現す。
「待ち伏せだッ」
「うろたえるな、矢をつがえよ!」
 しかし吉足らが射る前に蝦夷の矢が雨と降り、多くの者が倒れた。蝦夷はまず騎乗の兵に矢を集め、吉足が従っていた城司も緒戦で命を落とした。
 指揮を執る者を殆ど失いながら、吉足らは踏み止まって戦った。が、矢軍(やいくさ)は元々蝦夷に分がある上、リシクマの矢には熊をも殺す鳥兜の毒が塗ってある。
 旧知の友がばたばた倒れて行く中、吉足は手柄のことも忘れただ死にたくないと思った。
「城に戻ろう、それしかない!」
 吉足の叫び声に周囲の鎮兵らも頷き、体を低くして応射しながら少しずつ退き始めた。
 その時、蝦夷の伏兵の間から狼煙が上がった。

 佐伯美濃麻呂はまず方陣を組み、蝦夷の攻撃を跳ね返そうとした。しかし蝦夷どもの喚声と馬蹄の響きは右からも左からも後ろからも聞こえ、周囲のどこを見ても恐ろしく大きい蝦夷の馬が駆け回っていた。
「囲まれたぞ、引き返せ!」
 各所から上がるその叫び声に、国府の軍の守りは前列から崩れ始めた。
「何をしておるッ。押せ、押し返すのだ!」
 美濃麻呂は大刀を振りかざして怒鳴り立てるが、兵らは馬上から降り注ぐ矢から逃れることしか頭になかった。周囲を駆け回る蝦夷の騎兵らは繰り返し間近まで突っ込んで来て矢を放ち、その度に国府の兵の間から悲鳴が上がった。
「もう駄目だ、逃げろ!」
 ついに兵の一部が敵に背を向け、隊列も捨てて雄物川を目指して走り始めた。
 その機を逃さず、蝦夷どもは刀を抜いて突っ込んできた。馬の蹄にかけられ、あるいは馬上から振り下ろされる刀に斬られて、国府の軍は各所でずたずたに引き裂かれた。隊列など無いも同然になり、多くの兵が持ち場を捨てて雄物川に向かって走った。
「馬鹿者ッ、退くな、押し返せ!」
 美濃麻呂や軍団の騎乗の士らは声を限りに叱咤するが、恐怖に駆られた兵らは耳も貸さぬ。国府の兵の殆どは官人や郡司らに駆り集められたただの農民で、家に帰れば妻も子もいる。
 こんな所で死んでなるものかッ。それが多くの兵らの思いだった。
「敵に背を向けるなッ、逃げる者は斬る!」
 大刀を振り回して喚く美濃麻呂を目がけて、一団の蝦夷が真っすぐに斬り込んできた。国府の軍を紙でも裂くように真二つに切り分けて突進して来るその蝦夷らの先頭には、大和の甲冑をまとう武者がいた。
「春日王はあれぞ、誰ぞ討ち取れ!」
 しかし美濃麻呂の声に応える者もなく、謀叛人の王と蝦夷どもはすぐ間近にまで迫って来た。その勢いに美濃麻呂の顔から血の気が失せて蒼白になる。軍の指揮を執ったことはあっても直に敵と刃を交えたことなどまだなく、自ら春日王と渡り合う気になどとてもなれなかった。
「佐伯さま、ここは一先ず雄物川の北に退くべきかと!」
 軍の大毅が馬を寄せてきてそう叫んでくれたのは、まさに渡りに船だった。
「よし、川の向こうで態勢を整えるぞ!」
 美濃麻呂が退けの角笛を吹かせると、国府の軍は総崩れとなった。それまで踏み止まっていた兵も向きを変え、雄物川を目指して逃げ始める。
 美濃麻呂もまた、大毅以下の騎乗の兵らに囲まれて退いて行く。
 その美濃麻呂を春日王と一団の蝦夷が追うが、軍の少毅(副軍団長)が間に割って入る。しかしその少毅も春日王の大刀を胸に受け、悲鳴を上げながら馬から転げ落ちた。
 雪崩を打って敗走する国府の軍は、雄物川を目指してひたすら駆けた。しかし蝦夷の馬から逃げられる筈もなく、背後から斬られ、あるいは矢に射られてさらに多くの兵が倒れた。
 渡って来たばかりの渡河点も既に蝦夷が先回りして抑えていて、国府の兵らはやむなく川底も見えぬ深みを押し渡った。
 川の深い所を渡る兵らの綿襖甲は、中の綿が水を吸ってひどく重くなった。しかし背後からは蝦夷の矢と刀が追いかけて来ている。その焦りから、多くの者が見えぬ川底の石に足を滑らせて転んだ。そして川で転んだ兵の殆どは、水を含んだ綿襖甲の重みに二度と浮かび上がれなかった。
 美濃麻呂は一握りの騎乗の士と共に、泳ぐ馬の首にしがみつくようにして雄物川を越えた。しかし蝦夷どもはなおも執念深く追いかけてくる。付き従う者らはさらにその数を減らし、出羽国軍の大毅の姿もいつの間にか無くなっていた。
 背後から襲う矢と刀に怯えながら、美濃麻呂はただひたすらに馬を駆けさせた。
 雄物川の向こうで上がった狼煙にも、追っ手がいつの間にか引き返したことにも、逃げ続ける美濃麻呂はまるで気づかずにいた。

 国府の軍を率いていた偉そうな奴に、殆どあと一息で追いつくところだった。が、狼煙を認めた後は、疾雄は迷わなかった。
 馬首を転じて再び雄物川に戻り、そこで残る敵を掃討していた者らもまとめて雄勝城に向けて駆けた。そしてポロセタが率いる伏兵と戦っていた城の鎮兵の間を、刀を振るいながら駆け抜けた。
 この場で死ぬか武器を捨てるしかないと鎮兵が悟るまで、疾雄と二百騎の蝦夷は引き戻しては駆け、引き戻しては駆けた。疾雄らが通り過ぎる度にその両側に鎮兵の死骸が転がり、和人の兵らは城に戻る望みも無くして弓と大刀を捨て手を上げた。
 降伏した鎮兵をポロセタに任せて、疾雄はさらに雄勝城に向かって駆けた。
 殆どの鎮兵を出撃させた雄勝城には、十人足らずの留守の兵と主帳などの文官しか残っていなかった。しかし門を固く閉ざし、太い杉の角材を並べた柵越しに矢を射かけて来ようとする。
 が、都の田村第に負けぬほど広い城を、十人そこそこで守り切れる筈もない。疾雄は率いる二百騎を幾つにも分け、数カ所から一斉に柵を越えさせて城内になだれ込んだ。
 雄勝城を落とした後、疾雄は門と柵を打ち壊し、城の各所に火を放ってすべてを焼き払った。
 後から追いついてきたポロセタは、燃え上がる城の建物を見て少し惜しそうな顔をした。
「ここを我ら蝦夷の城にしようと、汝は思わないのか?」
「いや、比羅保許山に勝るリシクマの城など無かろう?」
 城に籠もれば居所が敵にも明らかになってしまうし、大軍に包囲されたらそれで終わりだ。広い野や山を自在に駆け回る方が攻めるにも守るにも遥かに有利だと、疾雄はよく理解していた。
「う……む、確かに汝の言う通りかも知れぬ」
「この火は我らの狼煙だ。雄勝城が焼け落ちたと知れば、出羽の他の蝦夷も我らに勝ち目があると思うのではないか?」

 疾雄とポロセタらがリシクマの里に戻ったのは、夜もかなり更けてからだった。
 百を越す和人の降人を引っ立てて帰って来た里の若者を迎えて、リシクマの皆が喜びに沸いた。国府の兵が身につけていた甲冑や大刀に加えて雄勝城の倉の中の武器や食料など、リシクマの者らが持ち帰った戦利品も目を剥くほどに多い。
「雄勝の城が燃える火は比羅保許山の高い所からも見えていたが、これほどの勝ち戦になるとはのう」
 ラムアンペも目を細めリシクマの戦士らを眺めて何度も頷いたが、サウレクルのみは喜び合う人々の輪の外にいた。
「里の若い者二十四人の命に引き合う勝利などあるものか」
 そのサウレクルを、ポロセタが嘲りを込めた目で睨んだ。
「汝の言う二十四人はな、少なくともリシクマの為に体を張って戦って死んだのだ。汝にそれを言う資格はあるか」
「思うことを言うのに資格など要らぬ、誰も死なせることなく和人と話をつける道があった筈と、我は繰り返し言うておるのだ」
「この期に及んで、汝はまだそれを言うかッ」
 睨み合う二人の間に、ラムアンペが文字通り体ごと割って入る。
「サウレクル、汝の言うこともわからぬでもない。なれどこれで出羽の蝦夷も一つにまとまるであろうし、和人どもも我らへの態度を改める気になるだろうて。そうなれば二十四人の命も決して無駄にはならぬし、その魂も浮かばれよう」
 そしてラムアンペは、サウレクルとポロセタ両方の肩に腕を回して引き寄せた。
「さ、まずは祝宴じゃ」
「それに弔いもな?」
 ぼそりと呟くサウレクルにポロセタがまた何か言い返す前に、ラムアンペは二人の背をぐいと押し、リシクマの神の社の前の、里の女達の心づくしの料理や酒を並べた広場に連れて行った。
「死んだ者らを偲ぶ為にも、今宵はまあ飲め」
 ポロセタとサウレクルはそれ以上口争いはしなかった。しかし大きな焚き火を囲んでの祝いの席で、二人はほぼ反対側の位置に座を占めて目を合わせようともしなかった。
 ポロセタは疾雄を自分の隣に座らせて、終始上機嫌だった。
「今日は実に痛快だった。それにしてもあのような戦い方を、汝はどうやって覚えたのだ?」
「盗賊の討伐だ」
「それはいい、国府の奴らは盗賊も同じようなものだからの!」
 ポロセタは膝を叩いて大笑いするが、疾雄は構わずに話を続けた。
「考えてもみよ、盗賊が出たと知らせを受けてから出張ったのでは絶対に間に合わぬ。重い甲冑をまといよたよた走って行く間に、盗賊どもはまず間違いなく逃げてしまっている」
「だから馬か?」
「そうだ、馬で追えば一人も取り逃すことはない」
「なるほど、の……」
 酒をぐいぐい飲みつつも、ポロセタはいつの間にか真顔に戻っていた。
「馬に乗る兵に襲われて、踏み止まって戦える者などまずおらぬ」
「確かにの。馬に蹴られるのは我だって御免だ」
「だから馬で襲えば敵はまず逃げる」
「それで敵の数を聞いても勝てると言うたのか」
 頷いた後で、疾雄は声を低くし殆ど囁くように付け加えた。
「それにもし負け戦になっても、ただ馬首を転じて引き上げれば良いだけのこと」
「何とッ、汝は負けるかも知れぬと思っておったのか!」
「いやいや、勝てると思っていたさ」
 笑いながら掌を顔の前で振った後で、疾雄は表情を引き締めた。
「だが歩きの兵が騎馬の武者に負けるとどれだけ惨めな事になるか、ポロセタ、汝も今日見たであろう?」
「うむ、それはようわかった」
 国府の兵も雄勝城の鎮兵も、どちらも死ぬか武器を捨てて降人となるしか道はなかった。
「騎馬の兵だけで国府の兵どもを襲ったわけが、今しかとわかった」
 何度も頷くポロセタに、疾雄は済まなそうな顔を向けた。
「本当は汝らもみな馬に乗せて戦わせたかったのだが」
「それは仕方なかろう。それだけの数の馬は、このリシクマにも流石に揃えられぬわ」
「なれど次は、リシクマの男すべてを馬に乗せられると思う」
「どのようにして手に入れるのだ? それにはまず二百頭、少なくとも百頭は馬が要るぞ」
「買えば良い、今や我らはそれだけの物を持っている」
 数え切れぬほどの大和の軍の武器や甲冑の他、雄勝城の倉の中のものもリシクマの手中に収められていた。
「その為にも、出羽の他の蝦夷らにも早いうちに話を通しておかねばならぬと思う」
 言いながら、疾雄はラムアンペを目で探した。
「驚いたな。祝いの酒を飲んでいるというに、汝はまだあれこれ考えるのを止めぬのか」
 呆れ顔のポロセタも引きずるようにして、疾雄はラムアンペのところに行った。
「お、疾雄どのとポロセタか。リシクマに大勝利を齎してくれた勇敢なる若者たちに、まずは一杯……」
 ラムアンペは既にかなり赤い顔をしていて、上機嫌で酒を満たした坏を疾雄の手に押しつけた。疾雄は少し迷惑そうな顔でその坏に形だけ口をつけ、残りはポロセタに任せる。
「この辺りの他の蝦夷の主立つ者を、早いうちにリシクマの里に招いていただけませぬか。出来るなら、明日か明後日にでも」
「聞いたか老翁、この男、今から先の事をあれこれ考えて気に病んでいるようだ」
 ポロセタは干した坏をまた満たしながら笑うが、ラムアンペの目は疾雄にだけ向いていた。
「ペツアウイやヤウングルとは腹を割って話をしておかねばならぬと我も考えておったが……明日にでもとは、これはまた急だの」
「雪が降れば、我らは動きがとれなくなります。だからその前に、やれる事は出来る限り急いで片付けておかねばなりませぬ」
「うむ、その通りかも知れぬ」
 頷き合う疾雄とラムアンペだけでなくポロセタも、サウレクルが祝いの場からいつの間にか姿を消していることに気づかなかった。

 勝ち戦で高揚した気分の余韻はまだ残っていたが、戦に出た者は皆ひどく疲れていた。まださほど飲まぬうちに酔い潰れてその場で寝入ってしまい、家族らに抱きかかえられて家に戻る者が相次いだ。
 疾雄はそうなる前に自分の足で家に帰ったが、戸口から中に入るなり美華媛に体ごともたれ掛かった。
 疾雄の体の重みを支え切れずに、媛は疾雄とそのまま床に倒れ込む。
「どうしたの、どこか痛むなら言って?」
 一緒に倒れたまま不安げに顔を覗き込む媛を、疾雄はぐいと強く抱き寄せた。
「大丈夫だ、怪我はない」
 真っ先駆けて国府の軍の只中に突っ込んだが、疾雄は幾つかのかすり傷しか負わなかった。そしてそれは上等な甲冑の為だけではないように、疾雄には思えた。
「媛が護ってくれたおかげだな」
 美華媛の想いが込められた領巾は、今も肌から離さずに持っている。
 起き上がるのも厭なほど疲れていたが、疾雄は媛に手伝われながら甲冑と靴を脱ぎ捨てて夜具の下に潜り込んだ。
 美華媛がそっと隣に横たわると、疾雄は媛の体を抱き締めその胸に顔を押し当てた。そしてそのまま、死んだように動かなくなる。
 闇の中で目を開けたまま、美華媛はじっと考え込んでいた。
 神社の前の広場で祝いの酒を飲み続けていた最後の一人が酔い潰れて、リシクマの里は静寂に包まれている。
 媛は疾雄の耳元に唇を寄せ、殆ど聞こえないくらい小さな声で囁いた。
「眠れないの?」
 美華媛の胸に頭を凭せ掛けたまま、疾雄は僅かに頷いた。
 体も心もひどく疲れているのに神経だけ高ぶったままどうにも収まらず、目を閉じてもずっと眠れずにいた。
「もしかしたら我は、戦が好きなのかも知れない。大刀を抜いて突っ込んで行く時も、怖いとも何とも思わぬ。何と言えばよいのかな、軍鼓が響き兵の喚声が彼方此方から聞こえて来ると体が芯の方から熱くなってきて、とにかくもう目の前の敵を叩き潰してやりたくて堪らなくなってくる」
 呟くように、疾雄はただ淡々と喋り続けた。
「なれど戦が終わると、斬った相手一人一人の顔や討たれた味方の死に様ばかり思い出されて、この頭からどうしても離れてくれぬ」
 媛は疾雄を責めも慰めもしなかった。代わりに疾雄の背に掌を当てて、子供をあやすようにそっと撫でた。
「このまま目を閉じて横になっていて。眠れなくても、目を閉じているだけで体も心も休まるから」
 背を撫でる美華媛の掌から、あの痺れるような温かな波動がじんわりと伝わってくる。
 言われるまま目を閉じ、抱き締めている媛の体の温もりを全身で感じながらその胸の鼓動を聞く。すると脳裏にこびりついていた厭なものが、不思議に一つずつ剥がれ落ちてゆくように感じた。
 美華媛を抱き締めそして抱き返されながら、いつしか疾雄は深い眠りに落ちていた。
 しかし媛は、その後もかなり長いこと周囲の闇の奥を見ていた。死んだ者達の魂も疾雄やポロセタらと共に戻って来ていて、そして今もこの里の彼方此方をふわふわと漂っていることを、媛は肌で確かに感じていた。
 辛い……悲しい……寂しい……名残惜しい……。言葉にならない彼らの様々な感情が、美華媛の心に直に伝わってくる。
 皆は怒っているの? 我と疾雄さまのことを、どうか許して……。媛もまた心で闇に語りかけ、声は出さずに唇だけ動かして、死者の魂を慰める祈りの言葉を明け方近くまで繰り返し唱え続けた。

 サウレクルもまた、その夜はかなり遅くまで眠らずにいた。
 勝利を祝う宴を早々に引き上げたサウレクルは、戦で死んだ者達の家を訪ねた。リシクマの里は喜びに沸いていたが、兄弟や息子がもの言わぬ姿で帰って来た家だけは違った。
 横たわる死者のすぐ脇に座りその顔を覗き込みながら、サウレクルは静かな声で故人の在りし日の姿を鮮やかに描き出した。
「我はよく覚えている。トイタクルはよく働く親孝行な男だった。春は早くから田を耕し稗や粟を植え、鮎を獲るのも巧かった。とても優しい男だったが熊を狩る時には人が変わったように勇敢になって、わけを聞いたらこの熊の胆で祖母(ばあ)さまの病を治すのだと笑ったあの顔が、我は今も忘れられぬ」
 嗚咽を漏らす家族と故人の遺体に深々と頭を下げ、サウレクルもまた目に薄く涙を浮かべる。
 そのサウレクルの膝にこの家の父親が手を置き、強い力でぐいと握った。
「息子のことを忘れずにこうして訪ねて来てくれたのは、サウレクル、汝だけだ。勝って有頂天になるのもわかるが、それにしてもみんな冷てえじゃねえか」
 サウレクルはただ頷いて、死んだリシクマの若い戦士の家族らと共に涙を流した。
 疾雄やポロセタらに対する非難めいたことは、サウレクルは一言も口にしなかった。しかしどれほどの勝利を収めようと、この戦は間違っているという思いは強まるばかりだった。
 春日王と美華媛二人の身柄とこの二十四人の里の者の命では、どう考えても引き合わぬ。その簡単な事が他の皆には何故わからないのか、サウレクルにはまるで理解できなかった。

 この戦で比羅保許山の蝦夷に捕らわれた和人は、国府の軍の兵と雄勝城の鎮兵を合わせると百人を優に越えた。しかしそれだけの数の敵を閉じ込めておける家などリシクマの里にはなく、和人の兵らは里から少し離れた崖の中腹の洞窟に押し込められた。
 その囚われた兵の中に、秦吉足もいた。伏兵に遭いさらに蝦夷の騎馬に蹴散らされ、その場で死ぬか武器を捨てるかしか無くなった時、吉足は他の鎮兵らと同様に降人になる道を選んだ。
 生きてさえいれば、いつか妻や子に会える。手柄を立てて都へ戻ることなどとうに諦めてはいたが、吉足は希望を無くしてはいなかった。
 しかし捕らわれてすぐに、吉足は己の決断を激しく悔いた。
 弓と大刀を捨てると、蝦夷どもは吉足の綿襖甲を手荒に剥ぎ取り、飯袋や水筒などの持ち物も何もかも奪った。和人の兵はさらに鞋も奪われ、後ろ手に縛られたまま裸足で比羅保許山の険しく急な山道を登らされた。
 押し込められた洞窟は滝の側で、中はじめじめしていて身震いするほど寒く、小袖と袴しか身につけていない吉足らは、夜が更けてもとても眠るどころではなかった。
 比羅保許山の蝦夷は、吉足ら捕らえた大和の人間に初めから激しい敵意を見せた。リシクマの里まで来る途中も、列からほんの少し遅れるだけで激しく罵られ、脇を流れる沢の水を飲もうとしただけで鞭や拳で容赦なく殴られた。
 飲み水や食料は、洞窟に押し込められた後も一切与えられなかった。そして見張りを命じられた蝦夷は祝いの宴に加われずにひどく不機嫌になり、目についた大和の降人に難癖をつけて殴ってはその鬱憤を晴らした。
 蝦夷の矢を受けた仲間の兵は、その瞬間は苦しくはあったろうが、少なくともすぐに死んだ。氷室のような洞窟の奥で唇を震わせながら飢えと寒さに絶え間なく責め苛まれている今の苦しみは、戦って死んだ者のそれより遥かに長く耐え難いものに違いないと吉足は心から思った。
 我は間違っていた、最後まで戦い、一人でも多くの蝦夷を道連れにして死ぬべきだったのだ。武器を捨てることを選んだあの時の己を、吉足は繰り返し呪った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

藤原疾雄……ふじわらのはやお。元の名は春日王で、黄文王の庶子。橘奈良麻呂の変に連座して、残虐な女帝に惨殺されかけるが、藤原仲麻呂により密かに助命され匿われる。そして仲麻呂と共に残虐な女帝を倒す為に働くが、女帝の謀臣吉備真備に先手を打たれ、蝦夷から人質として差し出されていた美華媛と共に、美華媛の故郷、出羽国のリシクマの里に逃げる。そして女帝の命を受けて追って来た大和の軍を、知謀の限りを尽くして討ち破る。その戦いぶりから、蝦夷たちにウェンスマリ(悪い狐)とも呼ばれる。

美華媛……出羽国の蝦夷、リシクマの巫女で媛(ひめ)。恐ろしく美しく、不思議な力を持つ。リシクマから大和の国に人質に差し出されるが、その美しさの為に酷い暴行を受け、心に深い傷を負う。その心の傷が癒えかけた頃、仲麻呂は女帝との権力争いに敗れる。そしてまたも殺されかけた疾雄を伴い、出羽のリシクマの里へと逃れる。

女帝……聖武天皇の唯一の子だが、残虐、かつ淫蕩で放埒。その性を恐れられ、天皇を退位させられ太上天皇に祭り上げられて、政務の実権を母と藤原仲麻呂、そして新帝淳仁天皇に奪われる。だが母である光明皇后の没後、抑える者が無くなり怪僧道鏡を寵愛し、仲麻呂や新帝と激しく対立する。

藤原仲麻呂……光明皇后の甥で、学があり極めて怜悧。光明皇后の信任を得て政治の実権を握っていたが、後ろ盾になっていた光明皇后の没後、女帝と抜き差しならぬ対立に陥る。ある考えがあり、春日王を密かに助命し子飼いとする。

吉備真備……大唐国に留学した大学者で、軍学にも通じている知者。春日王、そして女帝両方の学問の師であり、藤原仲麻呂とは長年の政敵でもある。

ラムアンペ……出羽の蝦夷リシクマの長で、美華媛の叔父。ただ賢いだけでなく、思考は現実的でもある。

ポロセタ……リシクマの勇者。剛勇だが、思慮には少しばかり欠けるところがある。かつては、美華媛に想いを寄せ嫁に欲しいと思ってもいた。

サウレクル……ラムアンペの息子で、ポロセタには無い思慮を補う。蝦夷には少ない平和主義者で、その為、血気盛んな部族の若い者に腰抜けと思われることもある。彼もまた、かつては美しい美華媛に想いを寄せていた。

テケレクル……リシクマの北隣の蝦夷、ペツアウイの長。リシクマのラムアンペとは旧い友でもある。しかし部族が住む地は大和の者の勢力下にあり、リシクマとと大和の間に立ち、部族の長としての行動に苦慮する。

ドマシヌペ……リシクマの西隣の蝦夷、ヤウングルの長。こちらもテケレクル同様、大和の勢力との折衝に苦慮しているが、テケレクルやラムアンペより利に敏く、油断のならぬ面もある。

アテルイ……陸奥国胆沢(岩手県南西部)の蝦夷の長の息子。大和の覇権から蝦夷を独立させることを夢見て、リシクマの里にやって来る。そして疾雄の戦いぶりに、強く影響を受け、後に坂上田村麻呂の率いる大和の大軍と激戦を繰り広げる。

カパチリクル……伊治(宮城県栗原郡)の蝦夷の長の息子。アテルイ同様に蝦夷の独立を望んでリシクマの里に来るが、己の里が大和の勢力に胆沢より食い込まれている故に、アテルイより慎重で懐疑的。そしてアテルイより長くリシクマの戦いを見届けた後、和人から伊治公呰麻呂の名と階位も貰って官人として和人に仕える。しかしアテルイより先に乱を起こし、伊治城と多賀城を陥として焼き払い、按察使兼参議の従四位下紀広純らを殺害した上で、追討軍が来る前に生きるべき新たな土地を求めて北に去る。

坂上熟田麻呂……高名な武人、坂上刈田麻呂の弟で、坂上田村麻呂の叔父。病身で出仕していない為に殆ど知られていないが、博識で恐ろしく切れる頭の持ち主。

秦吉足……橘奈良麻呂に仕えていたばかりに、主人の陰謀には加わっていなかったにもかかわらず連座させられ、罰として女帝に出羽の辺境の雄勝城の一兵士として流される。そこでまた戦で蝦夷に酷い目に遭わされ、蝦夷に対する復讐の念に燃える。

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み