おじいさん猫3

文字数 2,659文字

「そうじゃ。それが問題でのう。じゃが、ともあれわしは水の匂いのする方角へと歩く事にした。ついでに人間がキャットフードの狩りをする場所も見つかれば良いと思うて」
「だけど、キャットフードは人間が自動車を使って狩りをするのでしょう? とても猫一匹の力じゃ…」
「いや、キャットフードはまだしもじゃ。とにかく水じゃ。それで、わしは水の匂いを頼りに、長い距離を歩いたのじゃ。ところが、しばらく歩いたら方角が分らんようになってしもうてのう」
「おじいさんは目がお悪いから…」
「そうじゃ。わしは目がよう見えん。それでこうなったらもう仕方がないと、わしはさらに歩き続けた。そしたら、何とか水の匂いのする場所を見付けることが出来た」
「それは良かったです」
「そこは広い場所じゃった。わしは目がよう見えんがそういう事は気配で分かる。そしてそこではザーザーという音がしておった」
「ザーザー? それってもしかして、川じゃないですか?」



 ぼくの育った場所の近くにも川があったので、ぼくは知っていた。
 川は水が飲めるし、運の良い時には魚を捕まえられる。
 だけどぼくたち猫は、水に落ちるのなんかまっぴらだから、なるべく川には近づかないようにしていたんだ。

「そうか。川というのか。しかしわしは飼い猫じゃったもんで、そんな場所のあることなど、ぜんぜん知らんかったわい」
「川は落ちたら大変ですよ」
「ところが…、落ちたのじゃ」
「え!」
「いきなりどぼんと浸かってのう。その時はなんとまあ大きな水の入れ物があると、わしはのんきにそう思うたわい。普通、水の入れ物はキャットフードの入れ物の、一回り大きい程度じゃ」
「川は水の入れ物とは、くらべものになりませんよ。それで、落ちてから、どうしたのですか?」
「その川とやらに落ちて、水というぷよぷよした変なものに飲み込まれて、わしは体が浮いて、しかも息が出来んようになった。それで、これはえらいことじゃと気づき、とにかくわしは、必死に後ずさりして、後ずさりして…わしら猫はこういうとき、とっさに後ずさりするものじゃ」
「そうですね。で、後ずさりして?」
「後ずさりして、後ずさりして…、何とか助かった」
「それは良かった。流されたら大変です」
「流されるとは?」
「川では水が動いているのです。その水に連れて行かれるのです」
「あのぷよぷよとしたへんなものに、どこかへ連れて行かれるのか? で、どこへ?」
「ぼくにもよくわかりません。だけどそこはたぶん、ものすごくたくさんの水がある世界じゃないでしょうか」
「わしはそんな世界に連れていかれるところだったのか? それじゃわしは、流されんで幸運じゃったという事かな?」
「そうですね」
「落ちている間においしい水も飲めたし」
「それも良かったですね」
「じゃが、ずぶぬれになった」
「それはお気の毒に…」
「じゃからわしは、地面にもどると、それから体をなめて何とか乾かそうとした。しかしそうこうしているうちに夜になった」
「夜になったと、どうして分かるのですか」
「わしは目が悪くても全く見えんわけではない。夜と昼くらいは分かる。それに夜は辺りの気配が変わる」
「気配…、確かにそうですね」
「それで夜になり、近くに草むらがあったので、わしはそこに入って夜を明かすことにしたのじゃ。とにかく物凄く寒かったが、草むらの中は少しはましじゃった。ところでこういうのを野宿と言うのじゃろう?」
「ぼくなんか、いつも野宿ですよ」
「おまえさんは野良さんじゃろうからタフで良いが、わしはずっと飼い猫じゃったから、野宿は大変じゃった」
「ぼくだって大変なのに。ましてずっと飼い猫じゃ…」
「そうじゃ。それで、そうこうしているうちに次の朝が来て、わしは腹が減っておったから、まずキャットフードの狩りをする場所を探す事にした。あのキャットフードの袋が、どこに潜んでおるのか、探してみたのじゃ」
「それで、見つかりましたか?」
「いや、結局は見つからんかった。それに今思えば、たとえ見つかったとしても、人間が自動車を使って狩りをするくらいじゃから、キャットフードというものは、とてもどう猛なのじゃろう。反対にわしが殺されておったやも知れん」
「うーん。そうかも知れませんね…」
「そういうわけで、とにかくわしは食い物もなく何日かを過ごした。腹は減るし、雨が降って体が濡れて寒くなるし、それに家に帰る方角も分らんし。まあ帰ったところで家にはもう飼い主もおらんじゃろうが。とにかくそういうわけで、わしはどうしようもなくなったのじゃ」
「それは大変でしたね。で、それからどうしたのですか?」
「じゃからわしは、じっとうずくまっておるしかなかったわい。じゃが不幸中の幸、その川とやらに近づけば、水だけは飲めた。もちろんそれからは、落ちんように用心しながら飲んだのじゃが」
「そうだったのですか」
「とにかくそれからは、じっとうずくまっておるか、よたよたと水を飲みにいくかじゃ。わしにはそれ以外にどうする事も出来んかった。それでわしが水を飲み終えて、よたよたと歩いておったら、自動車の音が聞こえたのじゃ。そしてそれはどんどんわしに近づいて来た」
「それは危ない。すぐに逃げないと!」



「いや、うかつに動いてもかえって危ない。それに、もしかしたらわしの飼い主の自動車ではないかとも思い、少しは期待もして、草むらにうずくまって様子を見たのじゃ。じゃがすぐにそれは、わしの飼い主の自動車の音ではないと分かった。わしは目が悪いおかげで、耳はたいそう良いのじゃ」
「そうですか。ぼくなんか自動車の音はみんな耳障りで、とても憎たらしい音とばかり思っていました」
「おまえさんにとってはそうじゃろうな。まあそれはよいが、とにかく、その自動車はゆっくりと歩いてわしに近づいて来おった。それでわしは自動車に踏まれんように草むらに後ずさりし、注意しておった。そしたら、その自動車は、わしの目の前で立ち止まったのじゃ。そして中から人間が出て来て、それからその人間は、下手くそな猫語で『こんにちは』と言うてきた」
「もしかして、あの人間ですか?」
「そうじゃ。お前さんに『こんにちは』と言うておる、あの人間じゃ…

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み