好きと嫌いと悔しいのオムレツ

文字数 12,722文字

 近所の銭湯が営業を始める午後3時前に辰也は起き出す。目覚ましを3個つけているにも関わらず、止めるだけ止めて起きないので凛子が布団を剥ぐようにして起こしている。欠伸を噛み殺しながら辰也は銭湯に出かける。
 入浴後、その足で近所の商店街に寄って買い出しをするのが日課である。どの店とも顔見知りで、中には辰也と同じ年齢の子供がいるような店もある。肉屋の一人娘の(すみれ)は辰也が不登校になるまでは同じクラスだった少女だ。店頭に彼女がいるのを見つつ辰也が歩いていくと声をかけられる。
「いらっしゃい」
「店番?」
「うん」
「おばさんに昨日、頼んでたやつ分かる?」
「分かるよ。ちょっと待ってて」
 店頭のショーケースに並べられた綺麗な色の肉を眺めながら辰也が待つとすぐに菫が戻ってくる。
「焼き鳥用のお肉ともつとすじで良かったんだよね?」
「そう。焼き鳥の肉はもも、皮、軟骨、はつ、ぼんじり」
「あと他はいるの?」
「んー、安いからこの豚こま、800グラムちょうだい」
「多め? 少なめ? ぴったり?」
「少なめでいいよ」
 菫がトングを使って辰也の選んだ豚こま肉を秤に乗せる。798.4グラムを包んだところで会計をする。辰也が財布をしまっているところで菫はショーケースの上へ腕を置くようにしながら身を乗り出した。
「辰也さあ」
「ん?」
「学校来ないの?」
「別に行かなくても卒業できるし、学校で教わらなくてもちゃんとやれてるから」
「ふうん……。でもそれさ、寂しくないの? 修学旅行の思い出とかもないわけでしょ?」
「思い出でお腹が膨れるなら考えてみる。じゃ」
「まいどー」
 斜向かいの魚屋へ歩いていった辰也の背中を眺めつつ、菫はため息を漏らす。家も近所ということがあるし、辰也の親の代から商売をしているので幼馴染に近いような彼女は昔から辰也のことを知っている。
 容姿はともかくとして——大人びているのは昔からだったが、不登校になって店を切り盛りするようになってからの辰也はそれへさらに拍車がかかったように彼女には見えた。しかし何だか、今の辰也はそういう成長が良くはないのではないかと漠然とした不安を抱かせられるのだった。

 ▽

「北ぁのぉぉ~♪ 酒場通りにはぁ~♪ 長い~♪ 髪の女が似あぁう~♪」
 酔っ払いの下手くそな調子の合唱を厨房で聞きつつ、辰也は調理場の掃除をしている。食事も酒も一段落してしまって常連達がどういう経緯でか、伴奏さえもないのに合唱を始めてしまっているので、そうそう注文も来ないだろうと思って掃除を始めていた。
 ゴミ箱から取り出した袋の口を縛り、勝手口から外へ出す。下手くそな合唱が店の外まで響いているのを聞き、今日は盛り上がりすぎだと思いながら何となく店の表へ回った。と、そこに近所に住み着いている野良猫が丸まっているのを発見し、勝手口から厨房に戻って刺身の端っこを持って野良猫の方へ向かう。
「おい、野良」
 声をかけても無反応だったが、つまんだ刺身を出すと顔を動かして臭いを嗅ぐように鼻を近づけてからむしゃりと食べた。野良猫の横へしゃがんで背中を撫でながら酔っ払いの多い横丁をぼんやり辰也は眺めた。
 昔は——前の屋号の時は、喫煙者だった父は店に凪が訪れると表へ椅子を持ち出して煙草をぷかぷかさせていた。そんなことをぼんやり思い出しながら野良猫を撫でていたら横丁には似つかわしくない姿を見て腰を上げる。
「あ、いた」
 肉屋の長女の菫である。辰也の方へ小走りで寄ってくると野良猫はさっとどこかへ行ってしまう。物陰へ消えてしまった猫の方から視線を戻して辰也は面倒臭そうな顔を隠さずに一応で尋ねてみる。
「何してんの、菫?」
「深夜徘徊」
「帰れよ」
「うっそー、勉強してたんだけどお腹減っちゃって。夜食、作ってよ」
「いいけど今、店、うっさいよ」
「賑やかだね……」
「ていうか、今、何時だと思ってんの?」
「金曜日だからいいの。明日休みだし」
「あっそ。いいよ、夜食ね。どんな?」
「麺類」
「分かった」
 店の戸を開けて菫を中に入れると常連達が珍客に驚いて視線を向け、下手くそな合唱もやんでしまう。
「あれ、随分と若いんじゃないの? 条例とか平気?」
「あ、いらっしゃい、菫ちゃん。辰也と同級生なんだよ」
「クラス別ですけどね」
「あれ、そうだったの?」
「夜食だってさ。一杯くらいジュースとかお茶とか飲んでけよ? そこ、座っていいから」
 常連から離れたところの椅子を引いて辰也は厨房へ戻り、入念に手を洗い始める。凛子が菫の伝票を持って厨房に入ってきて、吊戸棚にそれをぶら下げる。
「菫ちゃんって来たの、初めてだっけ?」
「んー、何かよく覚えてないけど、子供会か何かで大昔に来なかったっけ?」
「あったような、なかったような……」
「何で?」
「ん、何となく。菫ちゃんの分、いくら?」
「400円」
「はいはい、400円っと……。何作ってあげるの?」
「麺類で夜食だし……一応は女だし、春雨かな。でも食い応えないかも……。糸こんにゃくがあったから、これで……」
「糸こんにゃくで?」
「なんちゃってラーメン」
「出た。なんちゃって。得意だよねー」
「居酒屋なんてそんなもんだろ。出てけよ。邪魔だから」
「ぶぅー、辰也のいけずぅー」
 口を膨らませつつも凛子は素直にホールへ出ていく。
 手を洗い終えてから辰也は調理に取り掛かる。糸こんにゃくを麺にし、鳥ガラスープと合わせるだけのラーメンを構想していた。湯がいてから絞ったほうれん草があるし、海苔と味つけ玉子は常備している。トッピングを決めてから糸こんにゃくの下ごしらえを始め、あっという間に作り上げる。
「……見栄えが、いまいち」
 作り上げた糸こんにゃくのなんちゃってラーメンを見て辰也は腕組みする。それから冷蔵庫を開け、白髪ねぎと小口切りにした万能ねぎを振りかけた。
「これでいいや」
 凛子の書いていた伝票に訂正を加え、値段を20円釣りあげる。それから器を持ってホールに出ていった。

「うわ、ラーメン?」
「本格的じゃないけど」
「でも太るじゃん」
「成長期なら大丈夫だって。辰也を見てよ、菫ちゃん。作るばっかりで自分は味見程度でちゃんと食べないからこの貧相な体——」
「凛子、真鯛買ってきて。今から豊洲に」
「そういう意地悪言わないの。まだやってないでしょ、そもそも……」
「冷めない内に食べた方がおいしいよ」
「うん。じゃ、いただきまーす」
 箸を割って菫が糸こんにゃくの麺を具材の下から引きずり出した。息を吹きかけてからすすり入れる。熱そうにはふはふと口の中へ空気を取り込みながら咀嚼してから飲み込み、レンゲで今度はスープをすする。
 透き通った黄金色のスープをズズズと小さめの音を立ててすすり、はふうと一息をついてから彼女はまた麺に戻る。
 そんな食べっぷりを見ていた新藤が、控えめに挙手する。
「シェフ」
「同じの?」
「同じの!」
「新藤さんって意外と食べるよね。待ってて」
「やった! 何かこう、夜にラーメンって罪悪感ですよね。でもその背徳感がたまらないというか? だけど糸こんにゃくだなんて、罪悪感なくなっていくらでも食べられそうな気がしてきちゃって!」
 まだ出てきてもいないラーメンに新藤が勝手に胸を躍らせ、常連達はやいのやいのと言い始めるのだった。

「ご馳走さま」
「家まで送る……」
「いいの?」
「一応は夜中だし、変な酔っぱらいも出るから、この辺」
 店を出た菫を辰也は送りに出て、横丁を歩き出した。もう深夜を回っているにも関わらず横丁はひそやかな賑わいを見せている。狭苦しく並び合った店の中から時折大声や笑い声が漏れるし、電柱に手をついてゲエゲエと吐いているオヤジの姿も珍しくない。
 そして辰也の姿はまだ、本来は中学2年生ほどの年齢にも関わらずこの横丁に同化しきっていた。少し褪せてよれたTシャツと前掛けに、キャップを被っている少年だというのにも関わらず、である。たまに手狭なスナックの客引きの嬢が辰也へ小さく手を振ってさえいた。顔だけ見知っている間柄ではあるが、一応で辰也はそっと手を振り返す。同じ横丁の店の人間同士である。
 そんな辰也を横目に見つつ、菫は口を開く。
「今度、宿泊学習あるんだよ」
「どこ行くんだっけ?」
「会津若松」
「……喜多方ラーメン、ざくざく、それから天ぷらまんじゅう」
「天ぷらまんじゅう? 何それ?」
「会津の郷土料理。あと鯉の煮つけもあった気がする……」
「鯉? あの、鯉?」
「そう」
「へえ……。何で詳しいの?」
「前に興味あって調べたから」
 感心したような呆れたような顔で菫はまた、へえ、と呟いて横丁出口の角を曲がる。商店街はもう、すぐ目と鼻の先となる。
「行かないの、やっぱり」
「お店閉められないし。お店閉めたら餓死する常連もいるし」
「いるの?」
「いる。小杉さんとか。……あの、声が大きかった小太りのおじさん。歌もね、下手くそ……」
「へえ……。お店休みの日はどうするの? 年中無休じゃないでしょ?」
「1日くらいは大丈夫みたいだけど、前に3日閉めた時はやつれてた」
「そう、なんだ……」
「ていうか菫こそ、何でそんなに俺が行かないくらいのこと気にするの? 関係ないでしょ、ぶっちゃけ」
 シャッターの閉まった商店街を歩きながら辰也がそんなことを言って手を頭の後ろで組むと、彼女は足元の小石を蹴り飛ばす。
「……辰也にだけ言うけど、うちの親とか凛子さんとか、絶対に内緒だよ?」
「何?」
「何か最近、ハブられてて……」
「……いじめ?」
「ハブだってば」
 違いが分からないと小首を傾げながら辰也は菫の顔色をうかがう。少なくともいじめに遭うような鈍臭いタイプではない。むしろ菫は活発な方だし、辰也の記憶が確かならば小学生のころは男子に交じってドッジボールなんかで活躍するタイプだった。それがいじめというのは、辰也にはあまりよく分からなかった。
「だから……仲良かった友達とか、誰も宿泊学習の班を一緒になってくれなくて、何か、変な余りものの寄せ集めみたいな班で、絶対につまんないし……」
「じゃあ行かなきゃいいじゃん」
「そんなわけ行かないよ。親に知られたくないし……。みっともないし……」
「ふうん……」
「あたしって、うざい……かな?」
「さあ? でも……嫌なことあればまた店来いよ。作れるもんなら何でも作ってやるから」
「……太りそう」
「いいじゃん、若いんだから。おっさんって本当に、すぐ脂っこいとか言いだすから、今にいっぱい食っといた方が得だよ。折角、奮発して菫のとこの店で高い和牛が安かったから仕入れても、脂っこいからとか言ってオーダー出なかったし。間違いないから、これは」
「ふふ、変なの。分かった。……ありがと。おやすみ、辰也」
「おやすみ。寝坊すんなよ」
 いつの間にやら菫の家の前へ着いていて、そこで辰也は踵を返した。

 ▽

 ひょっこりと菫が顔を出したのは、それからしばらくしてからのことだ。
 以前と同じ週末の真夜中に彼女は恐る恐るといった様子で戸を開けて顔を覗かせる。先日と違い、今夜の店は静かだった。
「あ、いらっしゃい。菫ちゃん」
「こんばんは……。辰也、いますか?」
「いるよ? ほら、入った入った」
 促されて菫は店内に入る。小杉は今日は早々に帰っており、新藤と村尾が何やら熱心にスマートフォンで動画を見ていて店内は落ち着いている。たまにおじさん二人組が、同じタイミングで「おお」とか、「うわあ」とか呟いている。
「ジュースがね、今、オレンジジュースかコーラしかないんだけど、あとウーロン茶? 何飲む?」
「じゃあ……コーラ」
「はいはーい。辰也、辰也ー、菫ちゃん来たよ」
 凛子が声をかけると縄暖簾から辰也が顔だけ見せ、すぐに引っ込んでからカウンターの内側へ出てきた。手にはお通しの里芋の塩茹でを持っている。皿の縁には味噌が添えられていて、それを菫に出してからテーブルに手をつく。
「何食べる? これ、お通し。皮は食べても剥いてもいいから。味噌つけて」
「んーとね……」
 お通しの皿を手元に近寄せてから、菫は隠しきれないとばかりに、へらっと破顔する。
「何?」
「んーん、えっと……この前のなんちゃってラーメン、また作って?」
「いいけど、気に入ったの?」
「だってカロリーとか気になるもん」
「はいはい、待ってて」
 辰也が厨房へ戻っていくとジュースを凛子が出しながら、彼女の横の椅子に座ってニヤニヤした顔をする。
「何、どうかしたの? 嬉しそうな顔してるよね?」
「ええ~? 分かっちゃう?」
「分かるってば。何、何?」
「実はね、その……」
「うんうん」
「彼氏できた」
「おおっ、すごい。同じ年の子?」
「うん、同じクラスの男子。サッカー部なんだけど、イケメン。ジュノン系だよ。見る?」
 携帯を出して菫が写真を見せると、凛子がおおー、と感想を漏らす。今時の、しかし爽やかなスポーツ少年といった風貌の日焼けした子である。
「良かったね、菫ちゃん」
「うん。サッカー部で、もうレギュラーで総体出るの」
「で? なれそめは?」
「ええー? 言わなきゃダメ?」
「だって気になるじゃない? それとも秘密なの?」
「じゃあ……教えてあげる。実はね――」
 凛子が引き出すままに菫は惚気話を披露し、その間に糸こんにゃくラーメンができあがった。辰也が持っていくころには完璧ににやけきった顔をしており、渋い顔で首を傾げながらラーメンを出す。
「どうかしたの?」
「菫ちゃん、彼氏できたんだって」
「へえ。誰? 俺、知ってる?」
「知ってると思うよ。渡辺くん」
「……渡辺って、カズ?」
「そう、和俊!」
「ああー……」
「どういう子なの?」
「ん、別に、普通じゃん?」
 何か思い当たるように口元を軽く引きつらせる辰也を凛子は見落とさなかったが、お惚気の真っただ中の菫は気づかない。
「宿泊学習もう行ったの?」
「ううん、来週。お土産、買ってきてあげよっか? 何がいい?」
「食べもの。お菓子とかじゃなくて、何かほら……物産展で売ってるみたいなの。炊き込みご飯の元とか、会津だから喜多方ラーメンとか、そういうの」
「変なの……」
「あ、菫ちゃん、わたしもいい? ご当地キーホルダー、地味に集めてるんだけど。ちょっとお小遣いあげるからさ」
「え? いや、いいですよ、本当に」
「いいの、いいの。お釣り出たら辰也の分のお土産に回してもらっていいから」
 そんなことを言いながら凛子はポケットマネーから400円を菫へ押しつける。昨今の中学生からすればケチった金額で、菫は、あ、はい、と二つ返事で受け取った。――釣りなど出ても数十円だろうというのを見越しながら。
「冷めちゃうから、お喋りもいいけど熱い内に食べちゃってよ」
「うん、ありがと」
「新藤さんと村尾さん、お酒のおかわりとかは?」
「あ、シェフ、シェフ、これ見てよ。すごくない?」
 菫に背を向け辰也は常連に合流する。凛子は割箸を菫に手渡しながら、そっと彼女に耳打ちする。
「ぶっちゃけ、辰也のはほんとに何でもいいからね。つっまらないペナントとかでも大丈夫だから」
「ぺなんと……?」
「あ、知らない? ま、何でもいいからね」
「うん」

 今夜も菫を家まで送り、辰也が戻ってくると新藤も村尾も帰っていた。凛子が片づけをしていて、辰也も何も言わずにそれを手伝い始める。
「そう言えばだけどさあ、辰也」
「ん?」
「菫ちゃんの彼氏くん? 名前出た時、変な顔してなかった?」
「んー、まあ……別に普通でしょ。ちょっと、やんちゃ系?」
「やんちゃ系なの?」
「昔はね。今は知らないし、どうでもいいし……」
「どういうやんちゃ系?」
「どういうって……あんまり俺が好きじゃない感じの? 何か、調子乗るタイプだし、外面良くって裏でせっこいことしてるとか……」
「へえ……。じゃ、あんまりいい子じゃないんだ」
「でも昔はって話だし、今は知らない」
 テーブルを拭きながら辰也が話を打ち切るように言うと客が1人入ってきた。まだ暖簾を下げるには早い深夜の時間のことだった。

 ▽

「そう言えばさあ、辰也」
「ん?」
「今日からじゃない? 宿泊学習。行かなくって本当に良かったの? 今ごろ、宿で皆でご飯かもよ?」
 開店前の食事をしながら振ってきた凛子の話に、辰也は呆れたような、触れたくないというような顔をして蕪の浅漬けをぽりぽりと齧る。
「くどい」
「一生の思い出なのに……」
「じゃあ凛子はどういう思い出あるんだよ?」
「……雨降られたこと以外……忘れたかも」
「ほら。やっすい一生の思い出ならなくても変わらないだろ」
「うっわ、可愛げの欠片もない……」
「ご馳走さま」
 平らげた食事をお盆ごと持って辰也は厨房へ入り、凛子は食事を続けた。そして時間になり、暖簾を出す。店は平常運転で、そのまま深夜の営業に入った。
 平日であっても常連は平気で深夜にやってくる。
「新藤さんさあ、彼女とかいないの? 毎晩、毎晩、毎晩……友達、ここ以外にいない?」
「凛子ちゃん、あんまり……深く、掘り下げないで、もらえますか?」
 いつものようにやってきた新藤はいきなり凛子に言われてしまい、肩を落としながらビールを手酌する。
「だってさあ、新藤さんは若い方でしょ? ここの常連でも。今さら小杉さんに、結婚しないのとか無意味極まりないけど、新藤さんは違うでしょ?」
「り、凛子ちゃん? 何か、すごい諦め発言しなかった?」
 さりげに引き合いに出された小杉が声を上げたが、凛子は構わず新藤にビールを勧めてさらに続ける。
「新藤さんも、恋した方がいいよ」
「それを言うなら凛子ちゃんはどうなんですか? 凛子ちゃんこそ、いい年頃でしょう?」
「だって辰也のお世話しなきゃいけないしー、新藤さんは夜中しか来ないけど夕方から開けて、朝方までやってるんだよ? 時間なんてない、ない」
「それを言うなら僕こそ時間なんて、なしなしですよ。ここへ来て飲んで、寝たらすぐ出勤して、仕事、仕事、仕事でまたここへ来て、寝に帰って、仕事、仕事の無限ループ……。そうしてどんどんどんどん、取り残されていくような気がして、僕だってもう、正直焦ってはいるんですってば。でもね、一体、誰が僕の相手をしてくれるんです? ねえ? 一日24時間分、ほぼ毎日ルーティンで動いてるのに! 機械にでもなった気分ですよ、もう!」
「あちゃあ、爆発させちゃった……。村尾さん、話聞いてあげて」
「え? いやあ、わたしは今、小杉さんとね」
「村尾さんはいいですよね、自由気ままな単身赴任! でもって、お家に帰れば妻子がいて!」
「荒れましたねえ……。分かった、分かった、新藤さん、分かったから、飲みましょう」
 村尾が席を詰めて新藤の隣へ移り、肩を叩きながら慰めるように酒を飲ませる。村尾を取られてむっとした小杉が、縄暖簾の向こうの厨房の様子をうかがう。
「シェフ、シェフやい」
「はーい、何、小杉さん?」
「ぬか漬けくれる?」
「お酒は?」
「じゃあ、もう一本かな」
「はーい。凛子、小杉さんに冷や一本」
 抜け床から小杉の好きなきゅうりを出し、盛りつけてから出す。と、やはりまだ新藤は荒れており、村尾がそれにつきあい、小杉は1人で待っていた。
「ねえ、シェフ」
「ん?」
「シェフはさ、彼女が欲しいとかないの?」
「はあ?」
「だって、最近の子は早いって言うよ?」
「興味ないから」
「ええ? だって、シェフくらいの年だったら」
「小杉さん、ぬか漬けだけで長話してあげないけど、何欲しい?」
「ああ、商売上手だ……。こりゃ、嫁さんもらったら安泰だろうなあ」
「安泰なんてないから。消費税上がるし、凛子は勝手に店で出してる分の酒ガバガバ飲むし、酒税も払わなきゃいけないし、凛子は店でばっかぐうたらだし、毎月、服ばっか買って、半年前に買った服は古着屋に売ったとか言うし。売るんなら買わなきゃいいのに」
「あれ、今度はシェフが荒れ始めちゃった?」
 ぶつくさと愚痴をこぼし始めた辰也に小杉が面食らっていたら、店の戸が開いた。
「いらっしゃ……菫? 宿泊学習は?」
 入ってきた少女を見て辰也が眉をひそめる。天気が悪かったわけもなく、確かに今日だとは分かっている。それなのにやってきた彼女は、黙って常連から少し離れた席に座る。凛子はいつの間にか姿を消して久しい。
「どうしたの?」
「黙っていつもの作って」
「……飲み物は?」
「コーラ」
「分かった」

 仏頂面で菫は不貞腐れたように注文を待った。何やら自分よりも内心が荒れていそうな少女の出現で新藤は落ち着きを取り戻し、それとともに常連達も神妙な顔で彼女を見守っていた。
 相変わらず、凛子はふらりとどこかへ消えたきりである。珍しいことではないが、こういう時にこそいてくれればいいのにとも常連は思う。
 と、気不味く重い空気が満ちている中で辰也が糸こんにゃくのなんちゃってラーメンを持ってきた。
「はい、こんにゃく」
「言い方」
「じゃ、カロリー殺し」
「言い方、だからっ」
 空気を察することをあまりしない辰也でも、同年代の、顔見知りの相手ならば多少は読もうとしたらしくわざとボケている。
「いただきます」
「……新藤さん、お酒は?」
「あ、じゃあ焼酎と梅干もらえる?」
「新藤さんってば、そうじゃなくて……。今はシェフに仕事任せちゃダメだから」
「じゃ、じゃあなしで」
「いいから、そういうの。飲んでて。つけとくから」
 瓶ビールを3本出して、それぞれに出して王冠を外し、辰也は丸椅子をカウンターの中へ持ってきて菫の前で座る。
「んで? 何でいるの、こっち」
「……ちょっと最悪なことあって」
「何?」
「……遊ばれてた。罰ゲームで」
 辰也が首をひねり、常連達も同じように顔を見合わせる。と、村尾が理解したらしくて菫を指差して答え合わせでもするように口を開く。
「つまりあれですね、男子が罰ゲームであの女子に告れ、っていうような」
「ああ、ありますねえ!」
「ええ? そんな趣味の悪いことするの? 今の子って!」
「うるさいから、ビール飲んでて。蟹とか出す? 黙って食えるでしょ? 高いけど。出す? 冷凍してるやつだけど? 多分あんまおいしくないけど」
「はい、黙ります……」
 辰也に怒られて常連3人が揃ってビールを飲む。
 奇妙な間に菫も口が重くなる。すでになくなっていた菫のグラスに辰也がコーラをまた注ぎ入れる。
「これはうるさいおじさん達につけとくから、気にせず飲んで」
「でも飲み屋で静かにしろってのも、ねえ?」
「小杉さん、しぃーっ。シェフに逆らうのはまずいですって」
 辰也もグラスを出し、自分の分を注ぎ入れて座り直す。
 そうしてから手持無沙汰に組んだ両手の親指をくるくると回しながら菫を見る。
「罰ゲームだったって分かって……サボったの?」
「まあ、そういうこと」
「別にサボることなかったんじゃない?」
「だってそんな気分になれないし、はしゃいで……渡辺くんと自由行動するつもりで、他の子と約束しなかったし……。だから……もうとにかく嫌なの。自分がバカらしいし」
「……悔しかったってこと?」
「別に掘り下げなくて良くない?」
「だって何か話聞けって空気——」
「出してないし」
「出てたから……。大人なら酒飲ませて帰すけどそうもいかないだろうし……。何か食べてく?」
「うん、何か食べる」
「カロリー気にしないでいいっしょ? 若いんだし」
「……まあ、いいけど」
「何がいい?」
「……お任せ」
「お任せはいいけど、何か、何でもいいじゃ何も作れないから」
「じゃあ……嫌じゃなくなるやつ」
「またそんな、しちめんどくさい……」
「ダメなの?」
「いいよ」
「いいんだっ?」
 逆に菫が驚くように声を裏返らせる。同じように常連達もあんまりにアバウトな注文を通せるのかと驚いて顔を見合わせる。ぽりぽりと被っているキャップの上から後頭部をかきながら辰也は立ち上がり、コーラを飲み干してから厨房に入っていった。
 了承してしまったものの——辰也は嫌じゃなくなる料理というお題の答えを見つけられなかった。自暴自棄になって酒を飲む面倒臭い酔客にはしじみ汁なりを出すが、未成年の素面の女の子を慰める料理なんて作ったことがない。難問を突きつけられている。
 冷蔵庫の中身を見て、冷蔵保管していなくてもいい食材置き場のストッカーも見て、最後に冷凍庫の中身を改める。しかしピンとくるものはない。
 厨房内を見渡すとカレンダーが目についた。いつの間にやら、凛子が修学旅行の日を書き入れていた。どうにかして辰也を学校へ通わせようというささやかな工作であることはとっくに辰也は気がついていた。辰也からすれば下手くそな字で「修学旅行・会津!!」と無駄に主張の強い大きな文字が書き込まれている。
「会津、かあ……」
 会津と言えばまっさきに辰也は喜多方ラーメンが思い浮かぶ。しかしすでにカロリー殺しを出しているのに、また麺料理というのもつまらないという遊び心が働く。それに喜多方ラーメンで嫌じゃなくなるのかという疑問がある。
「そうだ……」
 ふと思いつき、辰也はホールに顔を出す。
「ねえ、嫌いなものある? アレルギーとじゃなくて」
「嫌いなの? うーん……グリンピース」
「分かった。待ってて」
 厨房に戻ると冷凍されているグリンピースを取り出して作業台に置いた。それから生卵を取り出しておく。
「よし、嫌じゃなくなる料理、できそう」
 わざわざ嫌いなものを聞いて、それをメインに据えた料理を辰也は作った。鮮やかな緑のグリンピースがたっぷり、ぎっしりと閉じ込められたオムレツだった。緑と黄色のオムレツに赤いトマトソースがかけられている。
「はい。光の三原色オムレツ」
「光の……え、何?」
「知らないの?」
「いや、知ってるけど……美術か何かで聞いた気がするし」
「その三色使ってるから光の三原色オムレツ」
「ネーミングがなあ……」
「カロリー殺しはハマったと思った」
「いやだから、それは」
「冷める前にどうぞ」
 取り合わないようにして辰也が皿を菫の前へ差し出す。
「この豆、さあ……。グリンピースだよね?」
「嫌いなんでしょ?」
「だから出さないでってさっき」
「出さないとか言ってないし。嫌いなのを聞いただけ。食べろよ、好きになるから」
「ヤダ。嫌いだもん」
「嫌いじゃなくなる料理ってリクエストだろ、食べろよ」
「いーやーだ」
「食べろったら、食ーべーろっ! ほら、一口から!」
 スプーンでオムレツをひとすくいして辰也が菫の顔の前へ持っていく。
「食え、俺の店で出されたもんは残すな!」
「何その横暴!」
「いいから、食べろ、ほら、早くっ!」
 無理に食べさせようとする辰也を常連は少し懐かしい目で見る。たまに注文しておいて、思っていたのと違うと難癖つけて食べようとしない酔払いが現れると辰也がこうして啖呵を切るように食べさせるのである。ちゃんと食べる酔客もいれば、逆上するようにして退店する者もいる。
 そして菫の場合は、抗議しようと開いた口にスプーンを突っ込まれた。
 とろりととろけるような半熟の玉子の中でグリンピースが弾ける。玉子そのものは薄味で物足りないが、グリンピースは少し芯を残す程度の硬さながらもコンソメで下味がつけられていて玉子と合わさることで味が炸裂をする。
「っ……おい、しい……?」
「ほらな。自分で食べろよ、次は」
 スプーンを押しつけて辰也が勝ち誇ったように腕を組む。
 悔しいながら菫は赤いトマトソースのかかったところを口に運ぶ。
「んんっ!?」
 また違う味わいが口の中に広がって少女は思わずオムレツを二度見する。トマトの酸味がよく効いたトマトソースにはニンニクも香っている。酸味と塩味、そしてトマトの甘味の中で、グリンピースが炸裂する度に旨味が爆ぜる。
「嫌いじゃなくなった?」
「嫌い……でも悔しいけど、これは好き……かも……」
「俺の勝ち。好きなだけ食べて帰れ。小杉さん、何か食べる?」
「え? いや、俺はいい……」
「あ、じゃあシェフ、僕は——」
「新藤さんは食べたがると思ったから、すぐ作れるように多めに仕込んだ」
「本当っ? やった、やった!」
「村尾さんは?」
「ああ、俺はねえ、酒盗ちょうだい」
「はーい」
「渋いねえ、酒盗なんて。俺にもちょっとちょうだいよ」
「いやいや、自分で頼んでくださいよ、小杉さん」
 店はいつもの賑やかさをようやく取り戻した。そのささやかな喧噪に耳を傾けながら菫はオムレツを食べ進める。嫌いだったグリンピースがこんなにおいしくなってしまうのは悔しくてたまらなかった。

 ▽

 週が明け、菫は仕方なしに登校した。教室では修学旅行の話で持ち切りになっている。疎外感を抱きつつ菫は自分の席へと座った。そうして待っていると朝練を終えた渡辺が教室に入ってくる。
 同じサッカー部の友人と笑い話をしながら入ってきた渡辺を見るなり、菫は意を決して席を立つ。そうしてつかつかと歩み寄っていく。
「渡辺くん」
「ん? あ……え? 何?」
 軽く笑いながら渡辺が声をかけてきた菫に返す。
「あ、土産いる? 来なかったっしょ?」
「いらない、欲しくもない。嫌いだから、あんたのこと」
「マジで? あんなにベタぼれしてたのに——」
 バシッと乾いた音とともに渡辺の顔は横を向いていた。
 キレのある平手打ちが炸裂していたのだ。その暴行事件に教室中の目が集まって沈黙が訪れる。
「チャラ男とかマジでムリだから」
 吐き捨てて菫は自分の席へと戻る。
 その日、少女は職員室に呼び出されたが反省する様子を見せなかった。しかし帰ってきた彼女は言いつけられもせず自分から店番をする。
 するとすぐ、小さなシェフが銭湯帰りにふらりと立ち寄る。
「いつもの、用意してるよ」
「うん、ありがと。今日、何かいいの入ってる?」
「……豚のレバー」
「レバー?」
「これも正直、嫌いなんだけど……シェフなら、嫌じゃなくしてくれる?」
「レバー、かあ……。多分、できるけど?」
「じゃあサービスしてあげる。今夜、行くからよろしくね」
「ええ? また? 酒飲める年になってから来いよ」
「いいじゃない、別に。はい、これね。こっちが豚レバーだから」
 食材を押しつけて辰也を帰し、菫はその背中を眺める。
 クラスのイケメンサッカー部員と比べてしまえば背も低いし、足もそう長くない。釣銭を渡した手には火傷の痕もあって、容姿も言ってしまえばどことなく子どもっぽい。
 それでも離れていく背中が見えなくなるまで見送ってしまった。次はどんな料理を作ってくれるだろうと期待を込める気持ちを自覚していながら、それが恋心なのか食欲なのか、若い彼女には分からなかった。
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