変わらぬ味のもつ煮込み

文字数 9,950文字

「シェフ、今日はおすすめあるの?」
 尋ねた男は通い始めて半年ほどで、まだ新しい店でもすでに常連と呼べるようなサラリーマンの男性である。独り身でフレックス制とは名ばかりで昼前出勤、深夜に仕事が終わり、26時ごろになって店へ現れるという寂しい生活を送っている。名前を新藤という。
「おすすめは……特にない」
「ないんだ……」
「あ、でも」
「でもっ?」
「……新藤さん、パスタ食べる?」
「パスタ。……食べる」
「じゃあ待ってて」
 新藤に声をかけられ、帰った客の片づけをしていたのは飲み屋では少し若すぎるような少年だった。まだ中学生ほどにしか見えない。
 しかしこの店で唯一の調理担当であり、厨房を司る料理人である。この少年を常連はいつからか、冗談半分、しかし絶品ばかりを作る腕への称賛も込めてシェフと呼んで可愛がっている。

 店の名は「居酒屋りんことたつや」。
 かつて潰れた「居酒屋りんこ」を踏襲し、そこを切り盛りしていた夫婦の娘と息子が2人で経営している居酒屋である。メニューはドリンクのものしかなく、食べものは言われたものを提供するという一風変わった店である。

 店内は狭く、コの字型カウンターに椅子が9つ並べられているだけ。
 椅子を持ち込めばもう少し入れるが、それでも肩を寄せ合って食べることになるという店だった。18時に営業が始まり、翌6時まで店は開いている。客が早く帰ればそれだけ閉店が早まることもある。

「シェフがパスタ作ってくれるんですって。僕、喫茶店とか入るとナポリタンが無性に食べたくなっちゃうんですよね」
「あのねえ、シェフが頼まれもせずにナポリタン出すと思ってるの? パスタって言ったんだから、もっと本格的なのに決まってるじゃない。発想が貧困なんだから、ったく」
 新藤が嬉しそうに隣へ座っていた常連客の女性へ声をかけると、そんな痛烈な台詞を吐かれてしまう。年頃はアラウンド・フォーティ。独身のOLである彼女はそう言うなり、飲んでいた日本酒を猪口に注ぎ入れようとし、水滴が少し落ちただけなのを見て徳利を覗き込む。
「凛子ちゃん、おかわりちょうだい」
「はいはーい。でも亜沙ちゃん、これで6本目だよ?」
「だぁって世の中、いい男が少なすぎるんだもの……。やんなっちゃう。こっちは別に高望みなんてしてないのよ? それなのにどうしてこう……」
 OLの彼女の名は亜沙という。ふらりと金曜の夜に訪れることが多く、婚期を逃してもう諦めモードに入っているくせに、愚痴をこぼさずにはいられないという複雑な胸中の女性である。顔はどことなく怒っているフグに似ていなくもない。不細工というほどではないにしろ、美人でもないというような顔立ちである。世の中、多くの同程度の顔面偏差値の女性が結婚をしている。
「凛子ちゃん、おかわりまだ?」
「はいはーい、今すぐー。新藤さん、慰めてあげてね」
「ええ? 無茶言わないでくださいよ……」
「無茶って何で!?」
「いやそれは言葉のあやと言いますかね、その……」
 絡まれて新藤があくせく言い訳を始めると、がらりと戸が開いて常連の小杉が入ってきた。前の屋号のころからの常連であり、彼は亜沙の新藤とは反対隣へ腰を下ろす。
「ビールね、凛子ちゃん」
「はいはーい。辰也、小杉さんきたからお通しお願いねー」
「いいところに、小杉さん! タッチ!」
「え、何がよ?」
「揃いも揃って気ままな独り身ばかりがこうも……。あ、でもこの店にいい男なんてそうそうこない、か。なーんだ、田んぼで鯛を釣ろうなんてうまくいきっこないわよねえ! あははは!」
「何かけっこう今日はきまっちゃってるねえ、亜沙ちゃん」
「そうなんですよ……」
 笑い出した彼女の後ろでひそやかに小杉と新藤が言葉を交わすと、凛子が2人に酒を持ってきた。亜沙には冷酒、小杉には瓶ビールとコップ。コップを手にした小杉に凛子が王冠を取った瓶を傾けて注ぎ入れる。酌してもらうと嬉しくてたまらない小杉は、にやにやした笑みで、おっととと、なんて言いながら注いでもらってから口に運んだ。

「ぷはあ……」
「あああああ……酒が染みる……」
「……僕も、日本酒ください。冷たいの」
「はーい」
 誰かが飲んでいたり、食べていたりし、それがおいしそうだと乗っかるという行為が横行する。それがこの店である。

 凛子が新藤にも日本酒を出すと、入れ違いに厨房からシェフ——こと辰也が出てきた。
 Tシャツに帽子と、酒蔵の前掛けがトレードマークの少年である。年齢の割にやや低身長なことがコンプレックスでもある。その低さと言えば大人とは言え、凛子より低いのだから周りからも小さく——ひいては不相応に幼く見られる。
「小杉さん、お通し終わっちゃったからこれ、代わり。お通しと同じ値段にしとくから」
「お、もつ煮」
 出された小鉢を見て小杉が嬉しそうに口角を上げて、ビールを飲んでから割箸を手にした。
 しっかり煮込まれたもつ煮は上に小葱を散らされて湯気を立てている。透き通ったつゆが特徴的で、一般的にはもつ煮と言えば味噌を使うが、この店は塩味だった。ほんのりニンニクが香り、それがまた食欲をそそる。具材はもつは無論のこと、箸で持ち上げるだけで崩れそうになる柔らかな大根、それに牛蒡(ごぼう)人参(にんじん)(ねぎ)、こんにゃく、油揚げ。
 もつと野菜をあっさりと、しかし後引くうまみで混然一体に煮込みあげている逸品である。
「んん、これこれ……。先代のころと同じ味。いやあ、店が焼けちまった日は寒い夜だったなあ。まぁたこれを食べられるんだから、長生きするもんだ」
 しみじみと小杉がもつ煮を味わい、新藤と亜沙がじっくり見てしまう。
「シェフ、僕にも」
「あ、じゃあ新藤くん、ちょっと分けてよ。30円くらいは出すから」
「ええ? まあいいですけど……」
「じゃあもつ煮は新藤さんにつけとくから」
 伝票に書き入れてから辰也は厨房とカウンターの内側を区切る縄暖簾をくぐって消えた。

「そう言えば小杉さんって、ここのお店、古くから知ってるんだっけ?」
「おお、そうだよ? 先代は凛子ちゃんとシェフの両親でさ。2人して、まあ腕の立つ料理人だったのに、こんな場末の横丁に、ボロっちい店構えちゃって。もう四半世紀前になるのか、先代がここへ店を開いたのって。ねえ、凛子ちゃん?」
「そうだねえ。あたしの生まれた年にお店出したらしいし」
「そうそう。前の店は、名前がりんこってだけだったんだよな」
 思い出話を小杉が披露し、新藤と亜沙はそれを感心するように聞いた。すぐにもう1人前のもつ煮が出されて、2人も箸を伸ばす。
 食べ馴れぬものではない。この店の常連なら一度は口にしているであろう鉄板メニューでもあり、注文に悩む客に勧められるものでもあるのだ。改めて舌鼓を打って新藤は唸り、亜沙もうんうんと頷く。
「やっぱりこのもつ煮は価値あるわよね」
「先代のころから変わってないんだよ、この味。そうだよね、凛子ちゃん?」
「うーん、それはどうだろうなあ……。変わってないと思いたいけどね」
「それどういうこと?」
 店の人間があやふやなことが引っかかって亜沙が尋ねると、凛子はカウンターの内側に出されている丸椅子に座る。

「小杉さんは知ってると思うけど火事で前のお店焼けちゃってるんだよね」
「ありゃあなかなかの火事だったよなあ。今となっちゃ、ここみたいにちょっと新しい店も建ってきたが、空襲を逃れて焼け残った古い貴重な横丁が半分は燃えてなくなっちまった」
「でね、お店焼けちゃった時にお父さんとお母さんのレシピがばっちり、完璧に載ってたノートも全部焼けちゃったんだよね。でも居酒屋ならもつ煮はないとダメだし、名物だったでしょ?」
「うん、この店のもつ煮は世界一うまい」
「だから辰也が試行錯誤しながら同じ味を再現した……つもりなんだけどね、何かがちょっとだけ足りてないような気がするって辰也は言うんだよね。再現できてると思うんだけど」
 うーんと悩むように凛子は箸を割り、新藤のもつ煮へ伸ばした。ぱくっと食べてから、じっくり吟味するように味わう。
「あの、それ僕の……」
「30円くらい負けとくからいいでしょ?」
「ええ……?」
「お客のものをつまみ食いするな」
 強くダメとも言えずに困惑した新藤だったが、凛子の頭が叩かれて辰也のごくごく常識的なツッコミが入る。それから四角い平皿を新藤の前に出す。
「はい、パスタ」
 緑色をした鮮やかなジェノベーゼソースで和えられた料理に新藤が喜色満面になった。
「おおっ、すごい、本格的! さっすがはシェフ、これって何てやつだい?」
「んー、和風ジェノベーゼ……とか? ジェノベーゼソースに(せり)とか紫蘇(しそ)とか入れてるの。手作りの生パスタだからおいしいよ」
「では早速、お箸で失礼して……んっ、んんっ! んまい! シェフ、これおいしい!」
「ろくに味わってないのに……」
 やれやれとばかりに辰也はそんなことを言って厨房へ戻っていくが、口元はニヤけていた。素直でない少年である。
「新藤くん、一口」
「俺も何か食べたくなっちゃったなあ。シェフ、シェフ、ナポリタンってできねえの?」
「ちょっと小杉さん、ナポリタンなんてシャレオツな喫茶店みたいなもの……」
「できるよ」
「じゃあちょうだいよ、シェフ」
「何か釈然としない……あっ、亜沙さん、僕のジェノベーゼ!」
 料理1つで盛り上がる店はいつも通りに営業を続け、そして時間になって暖簾を下げた。

 ▽

 常連にシェフと呼び可愛がられる辰也は店を開く3時間前に起きる。暮らしているのは店の2階であり、手狭なワンルームでしかない。トイレはあれど風呂がない。そのため、寝起きで銭湯に行くのが日課だった。帰りに商店街で買い物をし、それから仕込みに取りかかる。
「たーつやー、今日のお通しってなーに?」
 厨房に立って帽子を被り、前掛けをした少年に姉がひょいと顔を出して尋ねる。彼女も辰也と同じ時間に銭湯へ行くが、長風呂だし化粧も欠かせないので買い出しはせずにさっさと家へ帰って支度をするのである。
 そして彼女の大きな大きな関心ごとは店の経営でも、弟の健康でも、自分の恋愛でもなく、毎日の食事だった。
「鰹がいいのあったからお刺身」
「いいね。てことはお通しの度にちゃんと辰也が切って盛りつけまでするってことだもんね。じゃ、今日のご飯は?」
「鰹の刺身ともつ煮と野菜が……」
「あ、ぬか漬けは? そろそろいい具合じゃない?」
「それ野菜じゃなくて付け合わせだろ……。サラダ適当に作る」
「あとお味噌汁の具は?」
「小松菜と豆腐……」
「おお、いいねいいね。うん、完璧。じゃあちょっと出かけてくるから、火の元は気をつけてねー」
 颯爽と凛子は勝手口から出ていき、辰也は嘆息する。
 世間の姉というものを分かりはしないが、辰也は彼女を姉だと思ったことがほとんどない。
 名前で呼び捨てるし、辰也自身が面倒を見てやっているような心地でもある。ぐうたらで、良いところと言えば愛想程度のもの。あとは幼少期から通っていた空手がめちゃくちゃ強くて、たまに現れる酔った暴漢をものともせずに退散させられることくらいのものである。
 料理など本当に食べるのが専門で、大根の皮さえまともに剥けない。それが辰也からの姉・凛子への評価と言えた。

 もっとも——それでも、子どもである辰也は1人で店を再建して営業するなどできることではなかった。凛子が大学の学費を全て店の資金に充てて、あくせくアルバイトをしながら働き、営業のために必要な手続きをして、ようやくオープンしたという苦労を背負い込ませた。
 厨房の一切こそ辰也は好きなようにさせてもらっているが、食品衛生責任者は凛子の名前であるし、書類上の店の主もまた彼女である。まだ法的に働けない辰也が店の厨房に立てるのも凛子が店の主人であり、家族経営であるが故に労働基準法の適用されぬ家業の手伝いという名目で辰也はやらせてもらえているに過ぎない。
 だからあまり店で熱心に働かずとも文句はそこそこに、辰也が精力的に働く。そういう分担には何も異論はなかった。
 が。
 それにしても。
 それにしたって。
 あんまり飄々としすぎている。
 必要な分まで肩の力が抜けていくタイミングがたまにある。それが凛子なのだろうと生まれたころから姉弟をやっているから分かっているものの、それでも能天気がすぎる性格で辰也は嘆息せずにいられなかった。

 いつものように仕込みの作業をし、辰也はもつ煮にも取りかかる。
 火事から持ち出せなかったレシピに半年は塞ぎ込んだが、凛子が自分で再現すれば良いと無責任なことを言いだして2年がかりであと一歩——気持ち的にはあと半歩というところまで同じ味に迫ったつもりだった。しかしそこからどうやっても半歩分の味の違和感を見つけられないまま今に至っている。
「何かが、違う……。凛子は同じとか言うけど、絶対に違う気がする……」
 今日も仕上げたもつ煮の味見をし、辰也は首をひねる。
 材料も、各工程にかける時間も、きっとこれがベストであると確信にはある。食材の1つずつの仕込み方に関しても、産地についても同様。だが何かが違って感じる。それが何なのか分からず、辰也は寸胴鍋の前で首をひねったが、これといって思い当たることもなくもう一度だけ味見をしてから次の仕込みに移った。

 そうこうしていると開店の30分前になって凛子が戻ってくる。
「はあ、お腹減ったあ……。ご飯にしよ、辰也」
「店の掃除とかしろよ……。俺こっちで手一杯なんだから」
「はいはい。でもご飯の準備はしてね」
 前掛けだけをつけて凛子がホールの掃除へ向かった。カウンターを丁寧に拭いて、醤油さしの醤油を補充して並べ、酒屋が持ってきてくれた酒類を分別して冷やしておくものを冷蔵庫に入れていく。
 あらかたの準備を済ませると辰也が定食のように食事を乗せた盆を運んで厨房から出てくる。
「はい、鰹の刺身定食」
「おおっ、待ってました。ほらほら、辰也も座った座った」
「はいはい……」
 姉弟が並んでカウンターに座り、手を合わせる。
「いただきます」
「いっただきまーす! さてさて鰹ちゃんから……んん、初鰹はいいね。うん、戻り鰹もおいしいけど初鰹もまた、さっぱりしてて乙な味わい……。たたきじゃなくて刺身っていうのがいいよね。何でたたきにしなかったの?」
「新鮮だったから」
「それいいね、グッド判定。あたし、刺身にする時、一緒に生姜添えるお魚の刺身って好き」
「はいはい……」
 調子の良いことを並べ立てる凛子を適当にあしらい、辰也は黙々と食事を続ける。凛子は縄暖簾の上にある戸棚へ置かれたテレビをリモコンで点けて、それを眺めながら食べる。
「ご馳走さま」
「早食いは体に悪いよ?」
「凛子と違って健康だから」
「あたしだって健康ですぅ。でもね、昔から言うんだよ。いつまでも、あると思うな、姉と健康」
「言わない」
 自分の食器を持って辰也はあっさり厨房に戻っていく。釣れない弟にちぇ、と凛子はつまらなそうに舌を鳴らした。

 その日はいつもより、客が多かった。
 この数日は春らしい暖かさだったのにいきなり気温が下がり、その寒さが酒好きを居酒屋へ呼び寄せるという現象らしかった。辰也が用意しておいたお通しの刺身はピークタイムを終えると終わってしまい、またもやもつ煮がお通しにされることとなった。

「あったまるし、まあ、いいってもんじゃないか。食べ飽きないしな、シェフのもつ煮って」
「これ何入ってるの、シェフ?」
「見ての通りのもの……。ていうか凛子のやつ、どこまで買い物行ってんだか……」
 日付が変わったころに現れる常連客が、もつ煮をつついている。ウーロン茶を切らした凛子が買い物へ出てしまったので、辰也がホールの仕事もしている。帰った客のテーブルを片付けているところへ声をかけられたのでぶつくさと呟く。
 するとそこへ、客が入ってくる。焦げ茶色のジャケットを羽織った老人で、店内を見渡した。
「いらっしゃいませ。空いてるところどうぞ」
 言いながらカウンター裏の下にある保温庫からおしぼりを出して客に差し出す。
「大きくなったねえ……」
「え? ……知ってるんです、か?」
「あ、ええ? もしかして前に、商店街で古物商やってた前園さん?」
「おや……ああ、小杉さん? いやあ、お懐かしい」
「久しぶりだねえ。ああ、ほら、こっちの方に座って座って」
「どなた?」
「亜沙ちゃん、この人ね、先代のころの常連さんで前園さんって言って、まだシェフがちっちゃかったころに引っ越しちゃったんだよ」

 ▽

 小杉をして「いい顔しい」と称したのは常連の誰であったか、ともかく小杉は昔馴染みの懐かしい老人の来店に嬉しくなったようで前園老人についてあれこれと語り始めた。
 曰く、この横丁近くにある商店街に昔、骨董屋を営んでいたのが前園老人である。が、おおよそ10年前に持病が悪化して半世紀近く連れ添った妻にも迷惑をかけたくはないと、宮崎に暮らす息子夫婦のところに世話になることにして店を畳んで町から去ったのだとか。
 そして引っ越してしまう前まではこの店の前身とも言える「居酒屋りんこ」の常連であり、小杉とも肩を並べて酒を飲んでいた間柄であったらしい。
 そんな昔話をどこか得意そうに小杉は語り、何度も嬉しいなあと繰り返した。辰也は前園老人のために熱燗を出した。それから小杉の話が一段落ついたころにお通しにもつ煮を出した。
「はい、お通しのもつ煮込みです」
「おお、この透き通った汁の……。いやあ懐かしいし、大きくなったねえ」
「よく言われます……」
 大きくなった、なんてちょっとした常連がすぐ口にする言葉である。あまり辰也としては嬉しい言葉ではない。前園老人は箸を割るとそっともつ煮の器を取り、よくよく眺めてから一口ぱくりと口に運んだ。そうしてから目を閉じて、じっくりと味わう。
「……ああ、この味。そう、こういう味だった」
「へへ、そうだよなあ。このもつ煮が食いたいって通ってたような常連もあの時は多かったもんだしなあ」
「変わらないお味だ。……大将は奥に引っ込んでるのかい?」
「え? いや……死んじゃったから」
「そうでしたか。……すると、これは女将さんが」
「俺が」
「きみが?」
「そうだよ、前園のじいちゃん。倅がちゃあんと味を受け継いでるなんてすごい話だよなあ」
 これまた何故か、小杉が得意に言う。
 辰也としては、やっぱり一味何かが違うような気がしてしまう。だからもしかしたら前園がそれに気がつくんじゃないかと神妙な顔で老人を見つめた。
 しかし、前園老人はそうですかと惜しむように小さく呟いてから、ふっくらしたしわくちゃの笑みを浮かべて辰也を見た。
「寸分違わず、ようくできています。同じ味だ……。ああ、これが食べたくってねえ」
「ほ、本当ですか……? もっとおいしかったような……」
「いいえ、これです」
 本当にそうなんだろうかと辰也は納得できず、考え込む。と、前園老人がそんな辰也を見てからまた笑みを浮かべた。
「きっと思い出がもっと、もっとおいしく感じさせたんでしょう。実は連れ合いが先日、亡くなりましてね……。それでわたしも、まだ足が元気な内にやり残したことはなかっただろうかと思って、また、ここの料理を食べたくなって出てきたんですよ」
 前園老人がそんな告白を始め、小杉が身を乗り出した。
「女房はどうせ客なんて来ないのにといつも言っていましたが、夜の11時まで店を開けていました。店先に並べていた品物をしまって、シャッターを下ろして、後片付けをして、そうすると12時近くになっていて……。それからこちらのお店へ足を運んで、小杉さんや、他にも気心知れた方がいて、一晩で忘れてしまう話をして。そうしてから家へ帰って眠るのが日課でした。決まってわたしはもつ煮を出していただいて、それがこの店に通うきっかけにもなったものでした。ああ、塩味のもつ煮なんてあったのか、なんておいしいんだろうと……。そのわたしが言うんです。あなたのもつ煮は、あのお店の味と同じ、とってもおいしいものですよ」
 ぽかんと辰也は前園老人の話を聞き受け、しばらくそのまま立っていた。やがて視線が辰也に集まって、それから逃れるようにくるりと客が並んで座っているのと反対側を向く。それから、腰に手を当てて、またくるっと振り返る。
「もつ煮以外も、作りたいものあったら何でも作るよ。何か注文しますか?」
「あ、シェフがご機嫌だ」
「そうだなあ、口元の緩みを隠せてない」
「えっ」
 思わず亜沙の指摘と小杉の同意に辰也は口元を手で覆ったが、その仕草に2人が引っ掛けたぜとばかりににやりと笑う。そこで辰也はかまをかけられたことに気がついて恥ずかしくなる。
「亜沙さんがカロリーたっぷりの炒飯で、小杉さんが豚の角煮で良かった?」
「ちょっ、そんなの夜中に食べられないから!」
「重いから、重いからシェフ、角煮はまた今度で……!」
 確認をしておきながら聞く耳を持たずに辰也は厨房へ行ってしまい、前園が楽しそうに笑った。

 ▽

 凛子が買い物から戻ってきて前園老人を見ると、うるさいくらいの声で会話を楽しんでいた。仕事そっちのけすぎたが、懐かしい常連が来たのだしと思って辰也は叱りはしなかった。
 しかし朝は変わらず訪れるように、常連客も帰っていく。
 店じまいをすると姉弟は本来、晩ご飯に当たる朝の食事をする。
「前園さん、辰也のもつ煮が変わらない味ですごいおいしかったってさ」
「違う気がするけど……」
「思い出補正だよ。それにさ、これ作りあげた時、最初はこれだってすっごい喜んでたじゃない」
「最初だけ。……何か、違う気がする。似てるだけの別物っていうか」
 その食事にももつ煮は出ている。勝手に凛子がストックしてあるもつ煮をよそって暖めて追加していたのである。
「同じ、同じ。まあ、もしもちょびっとの違いがあるんだとしたらさ」
「え? 分かるの?」
「それは愛情だね」
「はあ? ……料理は愛情ってそれ、どれだけ手間暇かけられるかっていう話だけど? 俺、手抜きなんてしないし」
「ちっちっち、そんな論理的なものじゃないんだよ。お父さんがじっくり煮込んでさ、お母さんが盛りつけて、はいどうぞ、って。湯気がたっぷり出てるそれを熱いのにはふはふ食べて、そういう空気感も込みで、すごくおいしかったって。そういうことなんだと思うよ」
「納得できない……」
「まあまあ。それでもあたしは辰也のもつ煮が日本一、いや世界一だって言ってあげるからさ。それで良くない?」
「良くない」
「かわいくないなあ……」
 むすっとする辰也に凛子は苦言を漏らし、ぱくりともつ煮を食べる。
「んん、おいし」
「まあでも……」
「うん?」
「お客さんが喜んでくれたから、いいや」
「……ふと思ったんだけど」
「何?」
「あたしが喜ぶっていうのは?」
「どうでもいい」
「酷いっ、もう~、こんなに美人で弟思いのお姉ちゃんに向かってどうでもいいってないんじゃない?」
「はいはい、弟思いならもっと働け」
「働いてますぅー」
「じゃあウーロン茶買うのに何で90分もかけたんだよ?」
「だあってコンビニで偶然、友達に会って話し込んじゃったんだもん。ねえ、驚いちゃってさ。聞いてよ。あたしの中学のころの友達でさ、優美って子がいたんだけどね、その子と再会したらさ、今度、結婚するとか言ってて。しかも相手が12歳上だってさ。大手企業に勤めててね? 出会いが合コンだって。優美って合コンとか絶対に行かなさそうな雰囲気の子だったのに、すっごい幸せそうに惚気られちゃってさあ?」
 聞いてないのに凛子はぺらぺらと喋り始め、食べながら辰也は聞き流した。
 もつ煮の味は違うと思うが、周りの評判によれば変わらぬ味らしい。だったらもっとおいしくしてやろうと静かに辰也は心に決めた。もうこれ以上、何をどうしたらおいしくなるのかなど分からない完成度であるにも関わらず、そんなことに挑みたくなった。
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