最後の晩餐

文字数 13,406文字

「おめでとーう、新藤さん! 

、ついでにシェフからのお祝いだよ」
 その日は新藤が誕生日だと事前に話題に上がっていたので、ささやかに誕生会が開かれていた。いつもは出さないような手の込んだ、おしゃれなオードブルが狭いカウンターへ並べられている。そこに小さなサイズのホールケーキが凛子によって運ばれてくる。
「こりゃまた豪勢だな、今日は」
「おお、ホールケーキなんて何年ぶりだろう……。しかもこれ、板チョコに名前が書いてある」
「でもこれ、名字だけだなあ」
「ちょっとこれじゃ、寂しいわよね。普通、下の名前で」
「いいんですよ、別にっ」
 新藤の誕生日会というだけあり、集まった常連も多かった。主役の新藤の他、小杉、亜沙、それに商社勤めだという40台半ばの村尾という男。そして誕生日会に来てはいるのに、常連から離れたところへ座るレイカもいた。
 レイカは22歳と若く、いわゆるホステスとして銀座で夜の女として働いている。仕事中の彼女は将来的に新しく開く店のママをやらないかと誘われるほどの人気を持つのだが、プライベートではふらりとこの店へ訪れてくたびれた顔で、安酒を飲んではニヒルな言葉を吐く人物として知られている。

「お酒、おかわりいる?」
 ハッピーバースデーが唱和されている中で、辰也がレイカに尋ねる。彼女は頷いただけで応えた。冷蔵庫から辰也が瓶ビールを出し、王冠を外して彼女の前へ置く。それから空っぽになったビール瓶を回収する。
「お祝いしてあげなくていいの、シェフ?」
「俺は料理作るのが仕事だから。何か食べる?」
「……今はいい」
「いつもより疲れてない?」
「そうね……。はあ、本当、疲れちゃったわよ」
 髪の毛をかき分けてレイカはそうボヤきつつ、頬杖をつきながら盛り上がる常連達を眺めた。すでにオードブルも出ていて、追加で作る料理もなさそうな雰囲気なので辰也はレイカの横へ腰かける。
「何が疲れるの?」
「愛想笑いと、お話のネタ探しと……おさわりの我慢」
 そう言ってレイカがそっと辰也の尻へ手を回すと、少年がビクっと距離を取るように身じろぎする。
「何すんの?」
「こういうことされちゃうから、やんわり、お子様に言うみたいにだーめって言うので疲れちゃうの。分かる?」
「分かった……。でもやめて」
「やらない、やらない。年上が好みだから」
 それはそれで何となく面白くもなかったが、辰也は色々と大変なんだろうと悟ってレイカと同じように頬杖をつく。レイカが手酌でグラスにビールを注ぎ入れて飲む。お祝いはと言えば、新藤が5本だけ立てた蝋燭の火を吹き消して拍手喝采で盛り上がっている。
「切り分けてあげないの?」
「切った時ちょっとよれちゃう方がいいんじゃない? ほら、新藤さん、家庭的なのがいいとか言いそうだし」
「ふふっ、ちゃんと把握してるじゃない。年下は好みじゃないけど、ちゃんと気遣いできる男性って好きよ」
「……ふうん」
「そう言えばシェフって好きな人とかいないの?」
「いないし……興味ない」
「ああ、そういう年頃? でもエッチはしたいとかあるんじゃないの?」
「どうでもいいじゃん」
 うぶな反応をくすくすとレイカは笑い、グラスの中のビールを飲み干した。また瓶ビールを手に取ろうとした彼女は、さっと辰也に横から取られて相手の顔を見る。と、辰也は片手で彼女のグラスに注ぎ入れた。
「ありがと、シェフ」
「何か食べる?」
「んん……どうしようかなあ」
「だと思った」
 カウンターに手をつきながら辰也は椅子を立って厨房に戻っていく。やいのやいのと賑やかにやっている誕生日会を眺めつつ、レイカは両手でグラスを持ってビールをちびりと飲む。そうしてからため息を漏らした。

 ▽

「たーつや、起きて、起きて」
「んぅ……もう、時間……?」
 店の2階の狭いワンルームで姉弟は暮らしている。遮光カーテンを開けて凛子が呼びかけると、その眩しさを避けるように辰也は寝返りを打った。そのまま寝入ろうとするのを阻止すべく凛子は弟がくるまっている毛布をはぎ取って、さらには手を引っ張って体を無理やりに起こさせる。
「桜がいい季節だから」
「……はあ?」
「だからお花見、行こ?」
「寝る……。花より寝てる……」
「ダメ! 季節感なくしたらおしまいだから!」
 謎の理屈で凛子は二度寝を許さず、寝間着にされている辰也のTシャツを無理やりに脱がし、洗濯してあるものを投げつける。それを抱いて辰也はまた布団へぱたんと倒れ込んだが、今度は布団をめくられて観念した。

 ▽

 着替えさせられ、歯を磨かせるなりすぐに凛子は辰也を連れ出して外に出た。少しだけ風が冷たいものの、春らしい穏やかな日差しがささぐ昼下がりだった。
「今、何時……?」
「2時くらいかな」
「……ろくに寝てない……」
「たまにはいいの」
 基本的にぐうたらなくせして早起きだけは得意な凛子が

、辰也は恨めしくなる。寝つきと寝起きだけは異常に良く、すぐに眠ってはすぐ起きるのが凛子である。一方、辰也は眠くても眠れない時はままあるし、起きるのは苦手で目覚まし時計を複数使っている始末でもあった。それでも起きられないことがあるから凛子に起こしてもらっているという自覚も込みで無性に悔しい。
 玄関を出て表の階段を降りながら辰也は晴れやかな青空を仰ぐ。春らしい心地良さは確かにあった。それからふと、菜の花で何か作れないかとぼんやり考える。定番なものではなく、何かちょっとだけ目新しいものがいい、とも考えた。
「たーつや」
「ん?」
「よそ見してると足、踏み外しちゃうよ」
「平気だし」
 ちゃんと地面に足を降ろした辰也は凛子を見る。一体どこへ連れ出すのか、と。
「で?」
「お花見」
「どこに?」
「公園」
「……あっそ」

 折しも世間の学生は春休みで、昼間でも辰也と同年代の子どもの姿はそれなりにあった。公園でも何人かのグループで遊ぶ小学生もいた。
 大人しく連れてこられたのは近所の何の変哲もない児童公園だ。マンションとマンションの間で開発に取り残されたような空間だが、これが住民のかすかな憩いの場でもあった。凛子はベンチへ腰かけ、辰也も横に座る。
 公園には桜の木が1本だけ植えられていて、それが満開だった。花びらが穏やかな風にさらわれるようにひらひらと舞い落ちている。
「春ですねえ」
「……そうだね」
 何か年寄りくさいなと思いつつ、辰也は返事をしておいた。
 まだ少し眠くて、ただ座っているだけで何だか瞼が重く感じてしまう。しかしこんなところで眠れるはずもなく、顔をぶるぶるっと左右に振った。
「何で花見なの?」
「桜が綺麗だなーって昨日、思ったから」
「そんなら昨日の内に言えよ……」
「そしたら絶対にヤダ、眠るーって起きなかったでしょ?」
「……だって寝たいもん。それか休みの日にするとか」
「休みの日こそ寝ちゃうじゃない」
「そうだけど……」
「だからだよ」
 互いに相手のことをよく理解している会話で、辰也には納得できる理由ではあった。かと言って花見に連れ出されたことに手放しで喜ぶはずもないが。

「最近はどうですか、色々と」
「どうって?」
「仕事が大変とか、そろそろ不登校やめたくなってきたとか、まーくんがどうしてるか気になるとか、ただでさえ美人のお姉ちゃんが一段と素敵になったとか」
「全部ない。ありえない」
「さいですか。あたしはねえ、最近ちょっと太り気味かなあって。だから何か運動とかした方がいいかもって思うんだけど、何がいいと思う?」
「また空手したら?」
「お店、辰也だけになっちゃうかもよ?」
「じゃあダメ」
「ちぇ。ねえねえ、一緒に水泳とかどう?」
「俺は別に太ってないし」
「でも貧弱だよ、体?」
「貧弱じゃない」
「運動すると背とか伸びるよ?」
「……時間ないし」
「ちっちっち、時間はあるかないかって問題じゃあない。作るものなのだよ、辰也」
「凛子はスポーツなら何でも得意じゃん、適当にやれば?」
「あー、投げやりすぎ。でも1人じゃあつまらないじゃない? だから辰也も一緒にさあ。あ、ウォーキングなんてどう? お揃いのウェアで」
「やだ」
「じゃあサイクリング」
「やだってば」
「はあ、じゃあ何ならいいの?」
「やらないって言ってんの」
 つれない態度に凛子は分かりやすくむくれ、頬を膨らませる。見て見ぬふりをして辰也はそっぽを向いた。するとフェンスで区切られた公園と道路の、その向こうに何やら見覚えのある横顔を見つけて目が自然と追いかける。
「辰也?」
「あれって、レイカさん?」
「ん? あ、ほんとだ。そうだ、お花見に誘っちゃう?」
「は? ちょ、凛子!」
 止める前に凛子は走り出していた。公園を出てレイカを見つけ、呼びかけずに追いついてから声をかける。驚きながら彼女は振り返り、それから凛子に促されるように公園の辰也を見た。そうしながら何か、ちょっとだけ言葉を交わすとそのまま2人で戻ってくる。
 本当に連れてくるのかと、そしてレイカはレイカでのこのこついてきちゃうのかと、辰也は変な気分になった。
 しかし——ふと見つけた時に見た、レイカの横顔は何だか頭に染みたように残った。店では疲れ切ってはいるものの緩い表情をしているのに、見つけた時は何だか張り詰めたものを感じさせられる顔にも見えたのだ。

「お花見なんて仲がいいね」
「でしょう? 何もないんだけどね。ほら、辰也が何か作っちゃうと花より団子になっちゃうから」
「作らないし、そもそも」
「またまた、そんなこと言って。お花見用にオードブル作ってほしいー、とか誰かが言ったらけっこう腕によりをかけちゃうタイプなんだよ、実は」
「ふふ、シェフってそういうとこ素直じゃないからね」
「そう、素直じゃないの」
 何故か間に挟まれていて辰也は両脇で交わされる会話に辟易とする。そして会話に加わる気になれず、結局、散っていく桜の花びらと空の青さをぼんやり眺めることになった。
「そう言えばレイカさんってお昼も仕事してたんじゃなかったっけ? 平日の真昼間なのに、今日はお仕事お休み?」
「まあね……。やめちゃった、全部」
「全部?」
「昼のお仕事も……夜のお仕事もね。フリーっていうやつかなあ。だから、朝からずぅーっとお酒飲めるところ、はしごしてるんだ」
「そうなの? 全然見えない……」
 すんすんと凛子は鼻を鳴らす。まるで犬みたいな仕草でバカにしてやろうかとも辰也は思ったが、それより本当にはしご酒の最中なのかと自分も気になって悟られぬように嗅ごうとした。臭わなかった。どころか、ほのかに甘い香りさえする。女性らしい良い匂いだ。
「そうだ、シェフ」
「うん?」
「今日、いつもの時間にお店行くから……何か作ってくれない?」
「何がいいの? 時間かけて煮込むようなのは今からだと難しいと思うけど、そうじゃないなら大体、何でも作れるように仕込んどくけど」
「んー、何でもいいけど、とにかくおいしくて……これさえ食べておけば、もう思い残すことはないって感じの」
 お日様の下で改めて見るレイカは綺麗な女性で、顔を合わせるだけで何となく照れかけて辰也は桜にまた目を戻す。
「何かすごい無茶ぶりされてるよ、辰也。作れる?」
「春っぽい方がいいのかな……?」
「どうなの、その辺?」
「んー、何でも。最後の晩餐にするならこれ、って感じ」
「最後の晩餐……?」
 パッと思い浮かぶものなどなく、辰也は首をひねる。凛子は凛子で、難問だ、なんて呟いて同じように考え込む。
「それじゃ、楽しみにしてるから、シェフ。凛子ちゃんも、またね」
「はいはーい、またねー」
「最後の晩餐かあ……」
 レイカが立ち去っても辰也は悩んでいた。

 ▽

 銭湯の一番風呂を早々に上がって辰也は商店街をいつも以上に吟味して回った。
 最後の晩餐には何がいいんだろうとまず自分のことで置き換えてみたが、これがいいというものは浮かばなかった。
 そもそも理不尽で唐突に、いきなり今日が最後の日になりました、なんて状況がうまく呑み込めない。
 その上、最後に何を食べようなんて、輪をかけて意味不明だった。
 だから発想を変え、どういうものだったら死ぬほどのよぼよぼになってでも食べたくなるのかと考える。硬いものは老人では食べられないかも知れない。脂っこいものも一定の年齢以上の人間は嫌がり始める。しかしそんなことを押しのけてでも、最後くらいは思うように食べたいのではないか。だったら正反対に、どっしりしたステーキやらが良いのか。だがレイカは女性だからそういうものは好まないかも知れない——。
 そんな色々を考えているときりがなくて、結局、特別なものは買わずに店へと戻った。いつもの仕込みをしながら、それでも一応は考える。
 最後の晩餐がいい、なんて一体どういうつもりでリクエストをしてきたのだろうと迷走も始まった。それから見つけた時の表情を思い出して、何か辛いことでもあったのかも知れないとも考えた。
「たーつやくん、今日のご飯はなーにかな?」
「ねえ凛子……」
「ん?」
「レイカさんって甘いの好きだっけ?」
「んー、あんまりだったと思うけど? この前の新藤さんの誕生日でもね、ケーキ甘そうだからパスって言ってたし」
「そっか……。ご飯は今やるから」
「頭の中がレイカさんでいっぱいみたいだねえ?」
「だって難問だし……」
 ため息交じりに答えて辰也は本日のお通しである、筍の土佐煮を小鉢に盛りつける。それから漬物を出して切り、みそ汁を温め直し、メインのおかずに仕込むだけ仕込んで冷凍しておいたお手製メンチカツを揚げ油に投入する。千切りにしておいたキャベツを皿に盛りつけて、オニオンスライスもひとつまみ乗せておく。
「はい、ご飯」
「メンチだ! メンチカツだ! うまいやつ、いいねえ」
 2人分を手早く作ってから持っていくと凛子はいつものように軽い調子で喜んで見せた。
 メンチカツにたっぷりめにソースをかけ、凛子は大きく口を開けて前歯でかじる。熱い衣と肉汁が口の中へ溢れて雪崩れ込み、口を開けながら空気を送り込み、はふはふと彼女は咀嚼する。サクサクとした衣に、ジューシーな肉。ややスパイシーなソースがそれを引き立てる。
「んん、今日もおいしいね。で、最後の晩餐って何にしたの?」
「すっげえよく分からない……。そもそも最後でもないのに最後の晩餐を食べたい意味って何?」
「んー、贅沢をしてみたいとか?」
「だったらはしご酒しないで、高級なお店行けばいいじゃん」
「まあね? んー、じゃあお祝いしたいとか? お仕事辞めたとか言ってたから、ほら、結婚するとかかもよ?」
「にしては元気なさそうだったけど」
「そうだよねえ。……お店にくる時よりもずぅーっと疲れてたっていうか。軽くヤケクソ気味だったのかもね」
「ヤケクソかあ……」
「西京焼きとかいいんじゃない?」
「発想が不潔」
「やだ、辰也に不潔って言われちゃった……」
「でも西京焼きかあ……。西京味噌買ってきて」
「じゃあお店の準備——」
「空いてる時間に! 10分で買ってこいよな」
「ちぇ~、辰也のいけず」
 食事を終え、2人は開店の準備に取り掛かった。
 平日も中間の水曜日となると客はいつもより少しまばらになるが、20時過ぎのピークタイムはそれなりに忙しい時間だった。それが終わると早めに起きたせいか、厨房での仕事が片付くと眠気に襲われ始めた。

 ▽

「んで、おねむかい?」
「そんなこと言うなら眠気覚ましに何か作らせてよ、小杉さん」
「ええ? じゃあ……何かちょっとピリ辛なもんでも」
「……すぐ終わっちゃう」
「いいじゃあねえの」
 日付が変わり、来客したのは小杉だった。お通しと、注文された焼き鳥を出してから辰也はカウンターの中に椅子を出して座っている。
「んで、何作ってくれるの?」
「冷ややっこ」
「やっこ?」
「ま、いっか……。3分くらい待ってて」
 丸椅子から立って辰也は厨房に入る。豆腐を出して崩さぬように皿へ盛りつけ、冷蔵庫から自家製の食べるラー油を取り出す。それを冷ややっこの上に乗せてから、葱と茗荷と胡麻、刻み海苔を盛りつければ完成である。
「はい、ピリ辛やっこ」
「お、いいねえ」
 小杉に出してから辰也はまた丸椅子に座り、欠伸をする。
「ん、うまいねえ。これもまた」
「小杉さんさあ」
「何?」
「最後の晩餐って何食べたい?」
「そうだなあ……」
 まだレイカに出すためのメニューは決まっていなかった。
 凛子にはすでに西京味噌を買いに行かせたが、西京焼きではないだろうとも考えている。
 小杉はピリ辛やっこを突きながら考え込み、それから思いついたように顔を上げた。
「分かった」
「分かった? 本当?」
「お袋の豚汁と握り飯。まあとっくに亡くなってるから食えやしねえんだが、食べられるもんならそれがいいな。お袋の味ってえのは、やっぱり万国共通じゃあねえのかなあ?」
 そう言って小杉は自分の答えに満足したようにうんうんと頷いた。
「お袋の味かあ……。昼にレイカさんに会ってさあ、今日来るから、最後の晩餐を何か作ってって言われちゃって……。何がいいかなってずっと考えてたんだけど」
「へえ、そうなの。んで、何作ってあげんの?」
「レイカさんってどこの出身か知ってる?」
「確か……北国だったかな」
「東北?」
「だろうけど、何県ってえのはよく分からんねえ。秋田美人なんて言葉もあるし、秋田じゃねえか? じゃあきりたんぽか」
「違ってたら最悪じゃん……」
 やっぱりこのおっさんは適当だなと思い込んで丸椅子を立った。もうしばらくすればレイカがいつも来る頃合いである。何か用意をしなければと思い、とりあえず厨房に入って腕を組んだ。

「お袋の味……。最後の晩餐、かあ……」
 そう呟いて辰也が思い出したのは両親が亡くなる前の、最後の食卓だった。
 メニューはしっかりと覚えている。冬の始まり、長男はもういなかったが家族4人で囲んだ鍋ものだった。あれがいいとか、これがいいとか、具材について4人して言い争った。
 父は水炊きこそが至高であると断言。
 母は寒いのだからチゲにするべきだと宣言。
 凛子はすき焼きがいいと駄々をこねるように主張。
 そして辰也は石狩鍋なる存在を知ったばかりでそれがいいと頼んだ。
 紆余曲折の末、誰の意見にも傾かないものにしようということになって、できあがった鍋はごった煮だった。
 あれは酷かったと、今でも思い出せる。
 鶏肉、牛肉、豚肉、鮭、鱈——。それから野菜、茸類。
 とにかく色々と突っ込まれた鍋は味がまとまろうはずもなく、だが寒い冬だったから暖まるという一点においては成功した。裏を返せばそれ以外、あまり成功とは言えなかった。
 だが、だからこそよく覚えているし、雑多でまとまりがなく主張の強い味ではあったがまずかったわけではなかった。
 少し遅いが、鍋にしてしまおうと辰也は決めて冷蔵庫を開けた。
 一人前の土鍋を取り出し、しかしそれを見てこれでいいだろうかと手を止める。
「たっだいまー。あといらっしゃい、レイカさん!」
「あ、もう来た……」
 がらりと店の戸が開く音と凛子の声がし、辰也は手にしていた土鍋をしまって大きな土鍋を出す。それをガス台に置いてから食材を用意し始めた。

 ▽

「ええ? 仕事、辞めちゃったの?」
「辞めちゃった……」
「それで? これから、一体どうするわけ?」
 小杉は興味本位の質問を、誰に気兼ねすることもなく無遠慮にぶつける。凛子でさえ躊躇していたことを尋ねてしまい、彼女は大丈夫かなとレイカのためのビールを用意しながら思う。しかしレイカは片肘をついたまま小杉に視線をやりながらあっけらかんと答える。
「何にも決まってないけど、遠くに行こうかなあ……なんて」
「へえ、どこまで?」
「だから決めてないの」
「ロックだね、レイカさん。はい、ビールどうぞ」
 お酒を出して凛子はちらと縄暖簾の向こう——厨房に目を向けた。それから、ハッと思い出して買い物用バッグを手に厨房へ入る。
「辰也、最強の調味料! 西京味噌を調達してきたよ!」
「冷蔵庫入れといて」
「でもすぐ使うんでしょ?」
「使わない」
「ええええ? 使わないの? じゃあ何で買ってきたの?」
「止める間もなく行っちゃったからじゃん」
 辰也はガス台の前で腕を組んで、火にかけている土鍋をじっと見守っている。
「お通しちょーだい、レイカさんの分」
「冷蔵庫にラップしてあるから自分でやれよ」
「もう、ケチ。……それで? 何にしたの、最後の晩餐?」
「これ」
「これって……鍋?」
「鍋」
「おっきくない?」
「あえて。レイカさんには言うなよ」
「はいはーい」
 凛子が冷蔵庫を開けてわかめの酢の物を取り出し、ラップを剥がして持っていく。土鍋をじっと辰也は見つめ、頃合いを待つ。まだ鍋の蓋から出る蒸気はたゆたうようにしか出てきていない。

 凛子がテレビを点けると深夜のバラエティー番組がやっていて、小杉はそれを食い入るように眺め始めた。レイカはお通しをつまみ、ビールを飲みながら欠伸をする。
「眠そうだね、レイカさん」
「さすがにねえ……」
「何軒目?」
「んーと……6、7」
「そんなに?」
「でも凛子ちゃんもザルって聞いたことあるよ?」
「いやいや、わたしなんて食べて飲むだけが専門だしね」
「そうだ。じゃあ、奢っちゃうから。凛子ちゃんも飲んでよ、好きなの。あとシェフにも出てきたらジュース奢っちゃう」
「いいの? じゃあね、うーん……ビール1本入れちゃおうかな。いい?」
「いいよ」
「いただきまーす。ありがと、レイカさん」
 乗せられるように凛子は自分のために瓶ビールを取り出し、王冠を外してからコップに注ぎ入れた。それをそっと2人で乾杯すると凛子は嬉しそうに笑みを浮かべてグイっと一口を煽る。
「くぅぅ、仕事中の一杯がまた……。そう言えばレイカさんってさ、最後の晩餐を食べたら明日から何するの? ずぅっと飲み歩くわけじゃないんでしょ?」
「うん……今日、考えてて、決めた」
「何するの?」
「んふふ、内緒。最後の晩餐、楽しみだなあ……」
 心なしか、いつもよりもふわふわした雰囲気でレイカは酔っていた。客商売をしていても呑気で人間観察なんて毛ほどの興味がない凛子であっても彼女がほろ酔いになっているのは見て取れた。
 だがそれが、何か奇妙にも感ぜられる。
 昼間の深刻そうだった表情が不意に蘇ってしまう。その何らかの迷いを吹っ切ったからこそのほろ酔いならば杞憂でしかない。しかし——。
 思い切って凛子が問いただそうかとした時、後ろから声がして彼女の思考は吹き飛ばされた。
「凛子、邪魔。どいて。あと鍋敷き」
「えっ? 鍋敷き? えーっと、えっと、鍋敷き……どこやっちゃったっけ?」
「重いんだから早くっ」
 両手で大きな土鍋を持った辰也が体の前に鍋を持ちながら厨房から出てきていた。慌てて凛子はカウンター内部の狭い棚やらを探したが鍋敷きは見つからず、テレビから気の逸れた小杉が自分の鞄をごそごそやって畳まれた新聞紙を取り出す。
「ほら、ほら、これ、凛子ちゃん」
「あ、ありがと、小杉さん! はいはい、鍋敷きを……はい、オーケー、辰也、オーケー」
「どけっての!」
 言われて狭いカウンターの中で2人は場所を変え、ようやく辰也は折り畳まれた新聞紙の上へ土鍋を置いた。それから取り皿と取り分けるための小さめのお玉をレイカの前に出す。鍋を持ち出されてきたレイカは、ただ目を大きくして無言で驚いていた。
「はい、最後の晩餐」
「……お鍋?」
「春野菜の鍋、です」
 鍋掴みをしたままの右手で辰也が鍋の蓋を取った。
 むわりと湯気が沸き上がり、同時にまだぐつぐつと鍋肌から煮え立っている鍋の中身があらわになる。春キャベツ、新玉ねぎ、クレソンといった春野菜とともにあさり、豚肉といった具が入っている。緑の目立つ彩りに鮮やかな桜えびがちらちらとアクセントをつけていた。
「じゃあ凛子よろしく」
「はいはーい」
 取り分けるための器を4つほど重ねて出し、レンゲも添えてから辰也は厨房とカウンターの内側のスペースとを遮る縄暖簾の手前まで下がった。凛子が具が均等になるように取り分けてレイカの前へ置く。
 どうして最後の晩餐に鍋なんだろうと思いつつ、レイカは箸を取ってつゆをまずすすった。味つけはごくごく薄く、シンプルに控えられている。しかし野菜や海鮮の出汁がよく出ていてあっさりと、しかし熱々なのでほわっと体に染み込んでいくかのようだ。
 熱い豚肉とキャベツを一緒に口へ入れ、空気を取り入れながら咀嚼すると火傷しないようにと食べることに集中せざるをえなかった。そうして取り分けられた分はぺろりと、途中に飲み物で喉を潤すこともなく平らげてしまう。
「……おいしい」
 ぼそりと、こぼれ落ちたような感想を聞き届けると辰也は満足そうに縄暖簾の向こうの厨房へ入ってしまう。
 そして、そんな様子を途中から魅入っていた小杉が席を1つずれてレイカの方へ寄って声をかける。
「な、なあ、ちょっとだけでいいから分けてくれない? ほら、折角の鍋物だろ?」
「こんなに食べきれないし、どうぞ」
「おお、嬉しいね。凛子ちゃん、取ってよ」
「はいはーい。じゃあ小杉さんには、お野菜たっぷりね」
「ええ?」
「旬のお野菜は体にいいんだよ?」
「それよりあさり、あさり入れてよ」
「あさりぃ? もう、じゃあこれくらい?」
「もう1つ、いや2つ」
「なくなっちゃうでしょ」
「いいよ、凛子ちゃん。まだまだたくさんあるし。……そうだ、シェフ、シェーフ」
 呼びながらレイカは立ち上がってホールの隅にある冷蔵庫へ自分で向かった。そこから瓶入りのオレンジジュースを取り出すと、縄暖簾から顔を出した辰也を手招きする。
「はいこれ、奢り。飲んで?」
「……でも仕事中だし」
「いいの。ほら。凛子ちゃんだって、ね?」
 促しながらレイカが凛子の瓶ビールへ視線を向けると、目で追いかけた辰也がじろっと凛子を見た。
「いいじゃん、折角奢ってくれるって言うんだから……。はい、小杉さんどうぞ」
「おお、やった。ちょっと季節は遅いが、まあ、鍋はうまいもんなあ……。どれどれ」
 はふはふと鍋を食べ始めた小杉を見ていた辰也だったが、レイカに瓶を突き出されるように渡されて栓抜きを前掛けのポケットから取り出して開けた。
「じゃあかんぱーい」
「乾杯!」
「ご馳走さまです」
 コップと瓶とを辰也、凛子、レイカの3人で軽くぶつける。それぞれ一口飲んでから、凛子がうまそうにぷはあっと息を漏らす。
「そう言えばいつもこのくらいの時間に、2人とも裏でご飯食べてるよね。一緒に鍋、食べる?」
「いいの? やった、おいしそうだなあって思ってたんだよね。いただきまぁ——ってやったら辰也が……」
 レイカの提案に飛びつこうとした凛子だったが、途中でちらと辰也をうかがう。こういうところで口うるさいのがこの店のシェフである。——客に出したものをもらうなんて、というお小言が幻聴できる。
「別にいいよ。鍋なんだし。それ見越して多めに作ってるんだから」
「えっ」
 意外な、そしてあっさりしすぎた答えに束の間、凛子は呆気に取られる。
「いいの?」
「いいって言ってるじゃん」
「ふむふむ……? ははーん? あーはん」
 何か分かった風な、しかし胡散臭いリアクションをしてから凛子は2人分をさらに取り分けた。

 ▽

 手島玲子にはたった2人しか家族がいなかった。彼女が16歳のころに女手一つで育ててくれた母が亡くなってしまってからは、唯一の肉親は3歳下の弟との2人だけの家族となった。父は名前さえ知らない。
 3歳下の弟は、幼いころから頭は良かった。母が苦労しながら育ててくれていたのを知っていたため、少しでも良い大学へ入って、給料のいい大手企業に就職して楽をさせてやりたいと猛勉強に打ち込んでいたためである。
 だからせめて、弟の努力は報われるべきだと彼女は母を失くしてからアルバイトに励み、進学を取りやめて高校卒業後には働き始めた。弟の学費と、2人で暮らすための生活費を双肩に背負って働き続けていった。
 弟の進学を機に東京へ2人で出てきたが、私大に入った弟の入学金や学費、引っ越しの費用、地方と比べると高い物価などの問題で彼女は夜の仕事を始めて懸命に働いた。大学を卒業すれば、弟も働き始める。それから自分のことはゆっくり考えていこうと彼女は決めていた。

「——ただいまぁ……」
 2Kのアパートの一室に彼女は帰ってくる。しかし朝帰りに顔をしかめるような可愛い弟などはいない。ほとんど1日、飲み歩いたレイカはさすがにもう意識も朦朧としてしまっている。最後の店ではお酒も料理もたっぷりと堪能してしまった。
 自分の部屋に入り、服を全て脱ぎ捨てるとそのままシャワーも浴びずベッドへ倒れ込む。まだお腹にはいっぱい食べてしまった鍋が存在感濃く残っている。
「あーあ、最後の晩餐のはずだったのになあ……」
 テーブルには一枚の便箋を残してあった。
 腕を伸ばしてベッドからそれを手にする。

 


 



 ただそれだけの言葉を記した手紙を見つめ、おもむろに畳んでから破って部屋に撒き捨てる。——リクエストした最後の晩餐は、文字通りの意味だった。

 弟の異変の兆候は薄々と気がついていたが、見て見ぬふりでことなきを得ようとしていた。だがその結果、自慢だった弟は折角、進学した大学で単位不足の留年をし、女遊びの果てに子どもができて退学を選び、2人で暮らしてきた家を出ていった。
 後先を考えていないと指摘しただけで出ていってしまった。
 結局、報われたいと思っていたのは自分だけで、何もかもを否定された気がして自暴自棄になったのだ。
 どれだけ自分が苦労して。
 どれだけ自分を殺して。
 必死な思いで働いてきたかも分かろうとしなかった弟に腹を立てて、台無しになってしまった苛立ちが爆発したのだった。
「にしてもちょっと……しょうもない、か」
 どうしてああも深刻な気になっていたのかと不思議なほど、今は気分が良かった。疲れてはいるのだがそこに心地良さがあった。
 ふと彼女は考える。
 仕事で忙しかった母は冬になると、よく鍋を作った。それを家族で3人、箸を伸ばして突つき合う食卓は暖かくて、暮らしが貧しくてもそれだけで十分だった。
「……最後の晩餐としては最悪の部類かも」
 そんな感想を漏らし、彼女は小さく笑って目を閉じた。
 そのまま眠りに落ちる。今ごろ、あの小さな凄腕シェフも眠っているのだろうか、なんてことを考えながら。

 ▽

「いやー、朝からのんびり桜なんて贅沢だよね。見て見て、辰也。サラリーマンが駅までダッシュしてる。ああいうの見ながら、こうやって桜なんて眺めちゃってさあ。いい身分だと思わない?」
「昼夜逆転の方が目もあてられないと思う……」
 仕事を全て片付けた朝にも関わらず、辰也はまた凛子に公園まで連れ出されてしまって不機嫌そうに言い返す。あとは眠るだけなのに、どうして花見なのか。そしてどうして仕事の後に花見なんてしなくちゃいけないのか。そんなことを考えつつ、朝ご飯としてリクエストされて自分でこしらえたサンドイッチをかじる。
「あ、そうだ。どうしてレイカさんの最後の晩餐、鍋にしたの? おいしかったけど、最後の晩餐ってさあ、こう……豪華っていうか。そういうイメージじゃない?」
「最後の晩餐なのに1人で食べるなんて、さみしいじゃん」
「ああ、言われてみればそうかも?」
「ていうかさ……2日連続で花見する、普通?」
「だって見ごろだよ? 見ておかないと損、損。ぼんやりしてたら桜が終わっちゃうよ?」
「終わらないって。どうせ来年も咲くんだから」
「今年の桜は、今年だけだよーん。んんー、サンドイッチもおいしい。でもこう、もうちょっと特別なのが良かったかも。……ねえねえ辰也、最後のお花見だったらどんなサンドイッチ作る?」
「もうその手のお題ヤダから。最後とかあんま考えたくないだろ、バーカ」
「お姉ちゃんに向かってバカとは」
「凛子だって正樹にバカって言うだろ」
「それを言っちゃあおしまいよーっと」
 シェフのお手製玉子サンドを頬張って凛子はベンチに座ったまま足をパタパタと振る。ひらひらと舞ってきた花びらを眺め上げて辰也は大きな欠伸をした。
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