お袋の味、親父の味、兄貴の味

文字数 21,270文字

「ここのもつ煮はさあ、どうして味噌じゃなくて塩なんだろうなあ?」
「さあ……? 何でだろうね。レシピは辰也ががんばって復元したけど、理由まではちょっと分からないかも」
 客足の少なくなる火曜の夜であっても小杉は店へやってくる。
 大学生ほどの若い三人組の客と小杉くらいしか店にはいなかった。
「あ、すみません。いいですか?」
「はいはーい、何でしょう?」
「何でも作ってくれるってさっき言ったじゃないですか。だから、何だか挑戦したくなっちゃったというか。スパイスから作るカレーとか、できるのかなって」
「カレールゥじゃなくって? うーん、できるのかな……。ちょっと聞いてみるから待っててね。ねえねえ、辰也ー?」
 厨房に戻った凛子が見たのは、吊戸棚を開けているシェフの姿だった。瓶をいくつか取り出していて、とりあえず凛子は受け取って作業台に置いていく。
「カレーって言われたんだけど……」
「聞いてた。マッサマンカレーでいいでしょ?」
「マッサマンって誰?」
「知らない」
 それからすぐ、カレーの香りが漂い始めて三人組は顔を見合わせた。出てきたカレーは甘いものだったが、その味に雷に打たれたように絶句して三人ともおかわりをし満足して帰っていくのだった。
「シェフ、これで何連勝?」
「数えてないから」
 片づけに出てきた辰也に何故か小杉が得意そうに尋ねる。この手の挑戦者は度々、出現をしている。そして辰也は店にない食材を使うものだったり、どうにもできない無理難題でない限りは受けて立っている。
「ちゃんとスパイス揃えてるんなら、カレーってオーダーされた時、カレールゥ使わなきゃいいのに」
「だってカレールゥの方が手軽だし、普通においしさもクリアしてるじゃん。スパイスから作れって注文ないと、なかなか……。臭いもすごいし」
「いやあでも、カレーってどうしてああも食欲をそそる匂いするんだろうなあ……」
「そもそも香りと味覚の結びつきが強いからじゃない?」
「へえ、さすがシェフ、物知りだね」
「……うん、まあね」
 少し雑に返事をして辰也は厨房へ戻って洗い物をする。と、店の電話が鳴り出した。
「凛子、電話。……凛子?」
「凛子ちゃんなら、買い物って出てったよ」
「絶対にサボりだ……」
 手を拭いてから辰也は店の電話に出る。
「はい、居酒屋り——」
『俺だ』
「オレオレ詐欺ならお断りなんで」
 ガチャンと受話器を置いてから、辰也は電話越しに聞いた声を思い出して眉根を寄せる。
「どうしたの、シェフ?」
「いきなり、俺だって言われたから切った」
「オレオレ詐欺? まぁだ引っかかるのがいるんだなあ——って、また鳴ったよ」
「……はい、居酒屋りん——」
『辰也だな? そうだろう? お前、俺の声忘れたのか?』
「……誰ですか? 営業妨害ですか?」
『お前の兄貴だ。正樹って言えば思い出すか? 相変わらず生意気でムカつく態度を……』
「で、何?」
『明日、そっちに帰ることになった。しばらくいるつもりだから、そのつもりでな。そんだけだ。じゃあな』
 今度は逆に一方的に切られ、辰也は受話器を置く。小杉が何やら神妙な顔でまだ受話器に手だけ乗せている辰也へ声をかける。
「知ってる人だった?」
「……忘れたことにする」
「へ?」
「何か食べる?」
「え、いやあ……うーん」
「浅漬けは?」
「じゃあ、もらおうかな」
「はーい」
 厨房に辰也が消え、小杉は受話器の置かれた電話を見る。それから、小杉なりに頭をひねって考えてみた。
「……うーん、さっぱり分からん」

 ▽

 午後三時前、辰也はいつものように凛子に布団をひっぺがされて叩き起こされた。めくれていたシャツの下へ手を潜らせてぽりぽりとかいてから、欠伸をしながら布団を出ると銭湯に出かけていった。
 いつものように開店したての銭湯へ入り、番台に釣り銭が出ないように金を置いて入浴する。
「はああ……」
 若い体でも厨房に毎日12時間以上も立っていれば疲労が溜まる。それが湯に溶け出すように感じられ、至福のひと時を味わう。
 この時間はいつも貸し切りのようなものだった。肩どころか、顎まで浸かりながら浴槽の中でだらけきる。手足を伸ばし、体を支えるのは浴槽の縁へ乗せた首だけである。
 と、普段はこない客が浴場へと姿を見せた。辰也は気づかずにただ天井を仰いで目を閉じている。浴場であるため、もちろん裸のその男はまっすぐ辰也の浸かる浴槽まで近づいていった。
「おい、辰也」
「んぁ……?」
「ガキのくせにオヤジみてえにしてんじゃねえ、みっともない」
「…………」
 黒い髪を短く刈り込んだ、その若い男の顔を見てから辰也は畳んで頭の上に置いていたタオルを、目の上に乗せてまた同じ姿勢で天井を向いた。
「無視してんじゃねえよ!」
 銭湯にその声は大きく響いた。

 ▽

「あれ、まーくん! どうしたの、いきなり?」
 店に帰ってきた辰也とともに現れた男を見て、凛子が目を大きくして尋ねる。まーくん——こと、辰也と凛子の兄である正樹は眉間にしわを寄せて舌打ちする。
「まーくん呼ばわりするな」
「でもまーくんはまーくんでしょ」
「帰れよ、正樹」
「お前は兄貴を呼び捨てるな」
 正樹が辰也を振り向くが少年はすでに厨房へ入ってしまっていた。その生意気極まる態度にまた正樹はカチンとくるが、凛子に腕を引っ張られてそれが一旦収まる。
「まーくん、本当に何しにきたの?」
「職場を辞めたんだよ。ヘッドハンティングがあって。けど手違いだか何だか知らねえけどいきなりその話がおじゃんだ。だからしばらく、ここで寝泊まりしてやるって言ってんだよ」
「はあ? 何その自分勝手? ありえない。ちょ、ちょっと表行こ。高橋さんとこ行こ」
「高橋? 誰?」
「喫茶店の高橋さん」
「ああ、あの店——ちょ、引っ張るなこら!」
 凛子は強引に正樹を商店街の喫茶店へと連れ込んだ。向かい合わせに座り、注文するなり凛子は肘をついて正樹を睨む。
「あのさ」
「何だよ」
「いきなり来られてもまーくんが寝る場所なんてないから」
「はあ? 別に布団やベッドを寄越せなんて言いやしねえよ」
「物理的に床面積が足りないの」
「何じゃそら? 豚小屋にでも住んでるのか?」
「豚小屋で悪かったね」
「はあっ? 本気か?」
「嘘に決まってるでしょ、まーくんってほんとバカ。店の上に2人で暮らしてるの。辰也と2人だけで寝床も精一杯、まーくんが転がり込む余地はなし」
 アルバイトの店員がコーヒーを持ってくると凛子は追加でモンブランを注文してから砂糖もミルクも入れずにすする。
「だからホテル暮らしでもすれば?」
「……そんな余計な金あるか」
「じゃあ諦めてホームレスしてください。ホームレスシェフって語感だけはいいんじゃない? 良かったねえ、まーくんがだーい好きな肩書きだよ?」
「俺をおちょくってるのか?」
「だってそうなんでしょ?」
 冷たく突き放すような凛子の言葉に正樹は舌打ちを鳴らし、頭をかいてからコーヒーをすする。
「俺の考えは変わらねえ」
「だろうね、まーくんは頑固だから。で、お金がない理由は?」
「一流ホテルの料理長って話だった。だから散財したら、その話がなくなったんだよ」
「何に使ったの?」
「昔、世話になった店が火事で焼けちまったからその見舞金で貯金のほとんど包んだ」
「ほんっと、バカ……」
「バカ、バカって言うんじゃねえ。じゃあお前は賢いのか?」
「少なくともまーくんよりは常識ありますぅー。何だっけ、修行してたお店にきたVIPと喧嘩して殴ったんだっけ?」
「あれはっ! 味も分からねえ癖に能書き垂れて、挙句に――」
「だからって手を出していいの? ねえ、いいの? 世の中、気に入らないことは暴力で解決ですか? それでいいなら、今からまーくんのこと締め落としてサンドバッグにして東京湾に捨てちゃうよ?」
「っ……あのな」
「とにかく、ムリなもんはムリ。1人でも友達がいるんなら、頼ってみれば? あ、まーくんって友達いなかったっけ?」
「いる!」
「じゃあそっち行けばいいでしょ!」
「海外だ!」
「だったら海外行けばいいじゃん、昔みたいに! まーくんは、うちのお店が大嫌いなんでしょ? 今さら、顔を出さないでよ!」
 テーブルを叩いて凛子が言うと店内の視線が集まった。またまた舌打ちをして正樹は黙って席を立つと荷物を引っ掴む。
「まーくん」
「何だよ?」
「ここの支払いよろしく」
 伝票を指で挟んで凛子が出すと、正樹は何か言いたげに口元を歪めたが黙って受け取って千円札とともにレジへ叩きつける。
「釣りはそこの募金箱入れといてくれ。ごっそさん」
「あの、足りませんけど……」
「えっ? じゃ、じゃあそこの募金箱から出しとけ!」
「ああもうっ、そういうのほんと、常識知らず! まーくん、ほんっと、バカ!」
 たまりかねて凛子が小銭をレジへいきり立つまま叩くように出した。そして正樹は足音荒く出ていき、凛子は席に戻ってコーヒーを飲む。
「ほんっと、変わらないんだから……。バカまーくんめ」

 ▽

 今から10年も昔のことである。
 まだ店の屋号は「居酒屋りんこ」となっており、兄妹の両親が店を切り盛りしていた。
 兄弟の父は、料亭で修行した料理人であった。若いころにホテルの総料理長を務めた経験もあり、独立の折にはどれほど立派な店が建つのかと美食家や料理人仲間は期待をしたこともある。
 兄弟の母は、海外での料理修行という経歴があった。パリでフレンチを、ローマでイタリアンを学び、その腕を磨いていった。彼女が帰国することを現地の料理人仲間達は酷く惜しんだという。
 しかしそんな経歴を持った夫婦が収まった店と言えば、築半世紀にもなろうかという小さな小さな、横丁の飲み屋であった。しかし腕は良く、注文すれば材料があれば何でも作るという店を好んで足繁く客は通った。
 だがそれを真っ向から気に食わないと表明した人間がいた。——長男の正樹である。物心ついたころには店を手伝わされたり、仕入れに連れて行かれたりしていたこともあり、少年のころから彼は将来は料理人になるのだろうと思い描いていた。
 いつのころからか、その夢を具体的に設計し始めた正樹は、ふとおかしなことに気がついた。両親とも超一流の腕を持つ料理人である。だが小汚い横丁に店を構えている。他の似たような経歴を持つシェフは、いずれも立派な自分の城とも呼べそうな店を構えていた。
 どうして小汚くて、狭い店で、べろべろに酔っぱらってろくに食事の味も分からない酔いどれに料理を食わせてやる必要があるのか。その疑問を父にぶつけてもはぐらかされ、母に投げてみても曖昧な答えだった。教えてくれないことに業を煮やし、そして、タチの悪い酔客が店に来たタイミングで、正樹はとうとう、それまでの疑問を怒りに変えてぶちまけた。
『何でこんな味わいもしねえ連中に、料理を出さなきゃいけねえんだよ!』
 その時、正樹は18歳だった。進学はしないと決めていたが、かと言って進路は何も決まっていなかった。専門学校へ行く必要はないと本人は幼少期からの経験で決めていた。だからよその店で修行をするとだけ考えていた。
 そんな折のことであった。
 食器は割れ、多少のトラブルはあったが気を取り直して和やかに飲み直そうとしていた直後であった。昔からやや短気なところのあった正樹は、キレることも珍しくはなかった。だがその日の、その言葉を吐きつけた直後に彼は黙って厨房から出てきた父親にその場で殴り倒された。
 無言で殴り倒した息子を見下ろし、父は出ていけとばかりに顎をしゃくって厨房へと戻っていった。そして正樹は悪態をついて出ていった。
 翌朝には荷物をまとめて、家出をした。高校3年の夏である。そして9月に入ったころ、パスポートを勝手に取得して、勝手に海外へと出ていくのだった。高校はあと数ヶ月で卒業だったはずなのに中退だ。
 それきり正樹は両親と顔を合わせることがなく、店は火事で焼けた。両親の葬式とて海外にいた上、連絡先も教えていなかったので出席することはなかった。

 ゆえに、正樹に対して辰也も凛子も快く思ってはいなかった。
 正樹もまた、居酒屋ごときにこだわる弟と妹は理解の範疇になかった。

 ▽

「あれっ? 正樹?」
「小杉さん、久しぶり! うわ、老けた?」
「いやいやいや、正樹こそ、立派なあんちゃんになっちゃって……。何、海外で修行してたとか聞いてたけどこの店に戻ってきたの?」
「まさか。ちょっと次の店が決まるまで休みだけなんですよ。で、管を巻いてるだけ」
 小杉がいつもの時間にやってくる。開店時間から何故かずっと居座っていた正樹は親しげに小杉を迎えて隣に座らせる。
「凛子ちゃん、ビールちょうだい」
「はーい」
「凛子、俺の酒もうねえぞ。持ってこい」
「は? ちゃんと注文を通してくれる?」
「聞けってんだよ、コップが空ですがって。んなこともしねえのか?」
「まーくん

ね~。はい、小杉さん、ビール。で、酒しか口にしてないお兄さんはまた酒? ビール?」
「ビール」
「中瓶ですか? ジョッキですか? グラスビールですかあ?」
「中瓶で持ってこい。ずっと中瓶で飲んでんだろうが」
「だって間違えたら失礼じゃない? 一見さんのお客さんで良く知らないし。はい、ビールね」
 つんけんした態度の凛子に小杉が苦笑していると、正樹は小杉にビールを注ぎ入れる。
「すみませんね、愛想のないやつで」
「え? ああいや、いつもはね、愛想がいいから……」
「小杉さん、これお通しね。いつものやつ」
「はいはい、もつ煮ちゃん。何だかんだでね、これがいいんだよ」
 今日も小杉が来るころには準備していたお通しは終わっていてもつ煮に変わっている。透き通った汁のそれを正樹は一瞥してから、自分のビールを注いで煽る。形式として出されていた正樹のお通しは、名前も知らない客に譲ってしまって口にさえしていなかった。
「お元気でやってますか、小杉さん?」
「そりゃあこの通りだよ。正樹はどうなの? 彼女とかできた?」
「いやあ、まだまだ俺は修行中ですから。女なんて放っとけばいつでも手に入りますし、それよりも旬のうまい魚を仕入れる方がよっぽど難しいですよ。その日の漁で一番の魚でも、それが欲しいかどうかはまた別になりますから」
「へえ、食材からすごいこだわりだねえ」
「最上の食材に、最高の腕、そして至上の空間で美食はできてるんです。どれが欠けたって本当にうまい料理にはなりゃしません」
「何だか、あれだね、料理人っていうよりも職人って感じに思えちゃうね」
「近いかも知れませんね。安酒ですがどうぞ飲みながら話しましょうよ。ささ、どうぞどうぞ」
「いやいや、こぼれちゃうから……」
 気安く、しかし感じよく勧められるままに小杉は酒を飲んでは正樹と語り合った。

 ▽

「暇そうですねえ、辰也くん」
「店閉めたい……。掃除してもう寝ていい?」
「厨房を空にしたらまーくんが乗り込んで、好き勝手使うかもよ?」
「追い返してよ」
「バカにつける薬はない、って言うようにね、まーくんを動かす梃子(てこ)はないんだよ」
 諦めきった凛子の言葉に辰也は苦虫を噛んだような顔をして、厨房内にしまってある丸椅子に座る。
「おい凛子、酒!」
「酒だってさ……」
「辰也が行ってよ、たまには」
「凛子の仕事だろ」
「あーあ、客商売の嫌なとこだね……」
 催促する正樹の声に凛子がだるそうに厨房を出ていく。正樹が次々と常連を捕まえては話しまくり、酒はよく出ているが食事の注文がほとんどなかった。そのせいで辰也はずっと暇を持て余し、その時間に比例して不機嫌になっている。
 ちらと時計を見て、食事休憩にはいい頃合いだろうと思って自分と凛子の分の食事を作り始める。いつもは賞味期限の近い食材を使って適当に作るが、注文がさっぱり入らないのを良いことに手の込んだものを作ろうと決める。
 そう思い立って取り出したのは小麦粉だった。そこに薄力粉と塩、熱湯を加えて一気にかき混ぜてから生地を練り上げる。それをボウルに移してラップを張ってから、中に詰める餡としてひき肉や香味野菜を混ぜ合わせる。生地の具合を目で確認してから、スープ作りを始めた。鶏ガラスープの素をベースに味をつけ、水溶き片栗粉を加えてから溶いた玉子を少しずつ投入する。玉子スープを作ったところでまた生地を確認し、もういいだろうと判断して小さく千切っては円形に広げた。そこに餡を詰めてひだをつけるようにして口を閉めて包み込むと、沸かしておいたお湯にそれを投入した。茹でている間にタレをサッと作り上げる。
 スープを器に移し、水餃子を盛りつけてからタレも小鉢に移す。スープには三つ葉を、水餃子には唐辛子を少しふりかけた。
 茶碗にご飯をよそい、漬物ともつ煮も用意すれば夜食の完成だった。
「凛子、飯」
「はいはーい!」
 縄暖簾の向こうに辰也が声をかけるとすぐに凛子は帰ってくる。厨房内で立ったまま姉弟は夜食を食べる。
「水餃子なんて珍しいの作ったよね。何で焼かないの?」
「餃子は皮が命なんだよ。焼き餃子より水餃子の方が皮のおいしさが楽しめるから」
「なるほど。もちっとして、ぷるんっとして、ちょっとだけの唐辛子が色どり的にもベリグーですな。さほど辛くないけど、ちょびーっとピリっとするのまた憎いお仕事」
「黙って食えよ……」
「居酒屋でそれ言う?」
「厨房だし。客席ならともかく」
「それもそうか……」
 いつものように舌鼓を打ちながら凛子は作業台を見る。まだ茹でられていない水餃子がバットの上に並べられている。
「今日は新藤さん来てないよ」
「……知ってる」
「村尾さんは来てるよ」
「知ってるから。……注文入ったら呼んで。上にいるから。あとあいつが厨房入ってきてもすぐ教えて。入れないで」
 食べるだけ食べると、いつもなら食器を洗うまでが食事のはずの辰也は前掛けと帽子を壁のフックにかけて裏口から出た。そうして外についている階段を上がって二階の自宅に向かい、万年床に寝転がって漫画を読み始めた。しかしすぐに飽きてしまい、仰向けになって天井を眺める。
 正樹が出ていった時、辰也はまだ小さかった。しかし印象として嫌っていたことだけは覚えている。幼児のころの記憶では、嫌いというよりも怖がってさえいた。それほど昔から正樹の気性は荒かった。むしろ今の方が大人しくなっている。何より辰也の記憶ではいつも正樹は両親と喧嘩ばかりをしていたのだ。辰也は両親とも好きだったから、それに敵対するように見えた正樹を自然と嫌っていった。
 その態度は正樹にも伝わっていただろうと思っている。いわゆる兄と弟みたいなことをしたような覚えもない。遊び相手はやたらに構いたがった凛子ばかりだった。
 そして正樹は反発して出ていった。葬式にも顔を見せず、音沙汰がないままいきなり電話を寄越してふらりと現れた。そんな男をとても兄だなどとは思えない。思ってさえいなかった。
 凛子は口では正樹をバカ呼ばわりをして邪見にするが、こっそり連絡を取っているような素振りがうかがえる。凛子と正樹の方が年も近いし、一緒に過ごした時間も長いから当然かもしれなかったが、何となく辰也はそんなことさえ気に入っていなかった。

 ▽

「あれっ?」
 飛び起きて、窓を見ればすでに外が明るくなっていた。慌てて辰也は下に降りていく。勝手口のドアを開ける。客席の方から、凛子と正樹の声が聞こえてきた。何で起こさなかったのかと詰め寄ろうとしたが、その内容が聞こえて足が止まる。
「――あいつ、この店また構えるのに俺が金出したってまだ知らねえんだろ?」
「だってまーくん、嫌われすぎだからね、辰也に。当然なんだけどさ」
 今の今まで、継続中で酒を飲み続けているのかと辰也は厨房内の時計を見て目を疑う。すでに午前八時だ。店に来る常連の酒豪と言われる客よりも、よほど凛子は酒に強く酩酊しているところを辰也は見たことがない。だから話し声にも酔いは感じられなかったが、正樹の方は随分と声から威勢がなくなっていた。開店時間から居座り、一晩中、飲み続けているのであればとうに半日以上が過ぎている。
「何で当然なんだってえの……。昔っからあいつ、俺にだけは懐きやしねえ……」
「だってまーくんを人として好き、なんてよほどの物好き程度だよ?」
「あんだとぉ?」
「すぐにそうやって威嚇してさ?」
「っ……」
「そもそもさ? 前から謎だったんだけど、何でいきなり、お店のお金に使えとかってお金寄越してきたの? あれ、けっこうな大金だったでしょ?」
 何も知らない話に眉根を寄せつつ、辰也は息を殺すように耳をそばだてる。焼け落ちた以前の古い店に替わり、新しく建てるとなった時に凛子は自分の学費のために積み立てられていた金を全て費やして、さらには割のいい夜のバイトで短期間で稼ぎに稼いだ。そして資金はすぐ貯まった——と思っていただけに、正樹の援助があったという話がにわかに信じられなかった。
 あの、正樹が金を出した。
 居酒屋という形態の店を嫌って出ていったはずなのに。
「何で?」
「何でもクソもあるか……。海外で修行して、日本に帰国して修行して……。腕を上げたって自覚するほど親父の背中がデカく感じられた……。俺が知ってた技術も、知らなかったテクニックも、こんなちっぽけな店で盛大に使われてて、疑問がずっと増え続けてくばっかだった。何でこんな店をやってたのか、って。そしたら店が焼けただの、親父もくたばっただの……。答えがねえままじゃ、気分が悪いだろ。だから……ガワだけだろうが、金出すだけで済むんなら残しとくかって思っただけだ」
「その割にさ、まーくん。辰也の料理、何も食べてないよね」
 凛子の指摘に正樹は鼻を鳴らす。
「新しく建てた癖して狭いわ、汚えわで、俺はやっぱり間違ってねえって思い直した。ただ、べらべらと酔っぱらって話する程度の場としては認めてやる」
「またまた、そんなこと言っといてさ、まーくんって実は――」
「出てけよ」
 凛子が正樹にニヤつきながら投げかけていた言葉を辰也が遮った。
「もうお前の家じゃないんだから、さっさと出てけ」
「辰也」
 たしなめようと凛子が腰を浮かせるより早く正樹が立っていた。
「んじゃ、夜になったらまた来る。昼の方が何かと安いからな」
 鞄とジェラルミンケースを携えて正樹が引き戸に手をかけた。
 戸が閉まると卓上の塩を辰也は内蓋を外してぶちまけるように入口へ投げつける。
「二度と来るなっての……。凛子、追い出せよ。何で起こさなかったの?」
「熟睡してるとこ悪いなーと思って。まーくんは厨房入ってないから安心して」
 塩の小瓶を拾い上げて凛子はカウンターに置く。それから憤然としている辰也を見て、店内の壁かけ時計を眺めた。
「寝起きだよね? 学校行ったら? 遅刻しないで済む時間だし」
「行かないし……」
「やれやれ、この不登校は……。それじゃあ出かけない?」
「どこに?」
「ぶらっとどこか。お昼においしいもの食べてから帰ればいいじゃん」
「凛子は寝なくて平気なの? 一晩中、ずっと飲んでたんだろ?」
「そうだよ? ガソリン満タンだからいつまでも動けるね」
「うわばみ」
「辰也もそうかもよ? 着替えて出発、ほら、辰也も着替えるの」
「いいよ、俺は」
「着替える」
「先に厨房の片づけ……。どうせこの時間じゃお店も開いてないだろって」

 ▽

 連れ出されて電車を乗り継ぎながらやって来たのは都内にはいくらでもありそうな繁華街で、凛子は意気揚々と古着屋やアンティーク雑貨の店などを巡った。値札ばかりを吟味するように凛子は服を見て、自分の好みを探したり、辰也に合わせてみたりして買い物を楽しむ。雑貨屋では買いもせずに小物を眺めて冷やかすばかりだった。
 ファッションにも雑貨にも大した興味のない辰也が、いい加減に辟易としてきた頃合いで凛子は昼食を提案した。本当に夜通し、飲酒していたのだろうかと辰也が疑うほどに彼女は元気そのものだった。
 買い物をたっぷり凛子だけが楽しむとランチの時間が少し過ぎてしまっていた。
「お昼ご飯、何食べる?」
「何でもいい……。おいしいなら」
「その注文が一番、難しくない? あ、タイ料理は?」
「やだ」
「何でもいいって言ったのに。じゃあ辰也が決めてよ」
「家帰って作って食う」
「それじゃ面白くないもん。外食をしたいの、外食を」
 結局、そんな言い争いの末に姉弟が入ったのは物珍しくもなさそうな食堂だった。凛子は刺身定食とビールを注文し、ご飯は唐揚げ定食を注文した辰也へ丸ごと寄越す。外食となれば、すぐに酒を飲み始めるのが凛子である。唐揚げ定食だけではご飯を茶碗2杯分食べられず、凛子の刺身と漬物と小鉢のひじき煮をつまみながら辰也はどうにか完食した。
「ふぅ、飲んだ、飲んだ……」
「凛子ってどういう体の構造してんの?」
「普通だよ?」
「……あっそ」
 店に来る客の誰よりも大酒飲みで、好き嫌いなく何でもかんでも食べて、暴飲暴食の限りを尽くすこともあり、それでも凛子はすらっとしたプロポーションを保っている。これは普通ではないんだろうと、薄々、辰也は考えている。
「まーくん、今日も店に来ちゃうのかなあ……? お酒は飲むから黒になるけどずぅーっと一席埋まっちゃってるような感じだからなあ……」
「しかも常連に絡んであんまフードの注文させない。営業妨害でつまみ出せよ」
「でもお酒はねえ、売れるんだよねえ……。正直、昨日の儲けはデカかった」
 悩ましそうに凛子が言い、辰也は舌打ちをしてからお茶をすする。
「……つうか、店の金。あいつが出したって、本当?」
「あれ、そこも聞いてた?」
「聞こえた……」
「まあね。本当だよ。……ほら、めちゃくちゃ、バイトしてたころがあったでしょ、あたしが。それでねえ、ばったりまーくんに会っちゃって、お父さんとお母さんのこととか、お店のこととか話したの。あのまーくんが、神妙にずーっと黙って聞いてさ。一応って連絡先だけ教えてもらっといたんだけど、半月くらいしてから店に電話かかってきて、口座教えろって。その時は理由も話さなかったんだけど、あとで記帳してみたら4桁万円」
「はあ? そんなに、大金?」
「18からずーっと稼いできてたわけだしね、考えてみれば。それにレベルの高いお店ばっかり、渡り鳥みたいに次から次へと移って、お給料も悪くないところにいたんだろうねえ」
 しみじみと凛子が言う。
 嫌な気持ちで辰也はお茶をまた飲んだ。大嫌いな正樹に、知らずに助けられていたというのが酷く胸をざわめかせた。
「頭から爪先まで、余すことなくまーくんってバカだけどさ。救いの余地がある程度には、そう悪いってわけじゃないんだよ」
「あっそ……」
「今だって、昔いたお店に見舞金渡したとか言って、素寒貧みたい。その癖、一晩中、酒を飲むお酒はあるみたいだけど……だからって、店で一晩過ごして時間を潰そうって発想になるのがまーくんらしい、最高のバカだよね」

 ▽

 帰宅するといつもなら辰也が起き出す時間帯だった。銭湯へ行き、商店街で仕入れをして、開店の準備をしているとがらりと戸が開く音がする。凛子の声がしなかったので誰かと思って厨房から覗くと正樹が欠伸をしながら椅子に座るところだった。
「酒」
「まだ開店してないから出てけ」
「んじゃ、店が開いてから持ってこい。しばらくいさしてもらうぞ」
「帰れ」
「帰るとこなんざあるか」
「住所どうなってるんだよ」
「昨日の内に、ここに戻しといたってえの」
「はあっ?」
「次の職場が決まるまでだ。籍くらい貸せってえの。俺はここの長男だぞ」
「……っ」
 何を言っても意味がないと悟って辰也は舌打ちをしてから厨房へ戻った。キャベツをひたすら千切りにして、その苛立ちを紛らわせる。
「ただいまーっと」
「凛子、また来た」
 裏口から戻ってきた凛子が買い物袋を置くなり辰也が低い声で言う。縄暖簾の隙間から正樹を見つけ、凛子はあちゃーと顔をしかめる。
「ほんっとに行き場ないんだねえ、あれ……。可哀そうだから、金払ってる限りは置き物程度の扱いはしてあげよ?」
「口利かない置き物だったら、飾ってても別にいいけどな」
「まあまあ。それより、ご飯って何?」
「食べるの?」
「食べるよ。……残されてもわたし食べちゃうから、まーくんの分も一緒に作ってあげてよ」
「何であいつの分まで?」
「いやあ、あれ、お腹空かせてると思うんだよね……。ほら、いつもの元気なさそうだし」
 もう一度、縄暖簾の隙間から辰也は正樹の様子を見てみる。カウンターに額をつけるように伏せっている。
「いつも、っていうのが知らないんだけど、俺」
「ま、それはそれだよね。とりあえず3人分でよろしくね、辰也」
 軽く肩を揉まれ、それを振り払ってから辰也はまかないを作り始めた。

 ▽

『何でこんな味わいもしねえ連中に、料理を出さなきゃいけねえんだよ!』
 18歳の夏のことを、正樹は今も鮮明に覚えている。
 頭に来てぶちまけた暴言に、それまで手を出すことだけはなかった父親が初めてゲンコツを握った。殴り飛ばされて壁にぶつかり、そうしながら見上げた父の顔には激情があった。まごうことなき怒りが、その顔に溢れていたのを覚えている。
 仁王像を髣髴とさせる、その顔が脳裏にこびりついている。
 その瞬間は殴られたことでさらに正樹の怒りが激しく熱を持ったが、それから随分と時間が経って、同じような顔を見た。うんちくばかりを垂れて、てんで的外れに、店を、料理をこきおろすようなことをのたまう客をぶん殴り、そのまま女将に店を放り出された後の自分の顔だった。
 プライドを持って料理を出した。最高の食材を仕入れるために苦労して築いたコネクションを使って、自分の目で選び、最高の魚を丁寧に、丁寧に、心血を注いで作ったものをこき下ろされて激怒した後の、自分の顔だった。
 父はきっと、同じほどの誇りを持って料理をしていたのだと悟った。
 居酒屋なんて酒を飲んで駄弁るための店でしかないと正樹は考えているが、それでも理解のしえない何か、大切なものを見出していたのだろうとは思えるようになった。
 それが何であるかは、いまだに分からずにいる。

「まーくん、起きろ」
 背中に冷たいものを感じて、驚きながら正樹は覚醒して椅子を立つ。シャツから滑り落ちていったのは氷の欠片だった。
「何しやがる、凛子!?」
「お腹、減ってるんでしょ? 冷める前に食べちゃってよ、片付かないから」
 それまで伏せっていたカウンター。正樹の横にはお盆に乗せられた一人前の食事があった。カウンターの向かい側には辰也がいて、むすっとした顔で黙々と食べている。
「食わねえよ、こんな店——で……」
 はねのけようとしかけ、腹が鳴った。
 朝方に出ていってから漫画喫茶に入り、そこでしけたモーニングを食べてからずっと寝ていた。昨夜から酒と、そのモーニングしか口にしていない。ひもじさはあった。
「体は正直みたいだねえ?」
「っ……」
「はい、食べて。あったかいお茶も特別にあげるから」
 湯気を立てるほうじ茶も凛子に出されて、正樹はひとまず茶をすすった。
 どれもできたてだというのは分かった。ほんのりと湯気が立っている。みそ汁と白米と、胡瓜と白菜の漬物。メインにはたっぷりのキャベツの千切りが添えられた肉野菜炒めで、副菜にきんぴらごぼうともつ煮、冷奴もついていた。
 美食と呼ばれるものとは程遠い献立の食事。それでも目の前にすると酷く空腹感を刺激されてしまい、割箸を手に取って観念するように真っ二つに割った。
「いただきます」
 みそ汁をすすり、出汁の旨味を感じる。珍しくもない、鰹節と昆布の合わせ出汁。わかめと麩と葱が入っていた。関東らしい塩味の利いた味噌だが、出汁がしっかり利いていて味噌の主張が強いわけでもないのにしっかりと味わえる。
 キャベツの千切りはシャキッと新鮮さをうかがわせる。幅は揃い、きちんと細く仕上がっている。
 肉野菜炒めの1つずつの食材も下処理をきちんとやっているのを正樹は食べて理解する。野菜の食感を残して、肉も存在感を失わず、しかし野菜を盛り立てる。少し濃い目の味つけが、白いご飯を食べろと急かすようだった。
 吟味するように食べる正樹を辰也はちらちらと目だけで窺っている。
 どんな罵詈雑言が飛び出てくるかと、内心、苛立ちに満ちている。こんなやつに食べさせることはなかったのだと凛子に抗議する気でいる。
「ごっそさん……」
 米粒一つも残さず、きっちりと完食してしまったのを辰也は訝しむ。
 しかも文句を言わずに黙ったまんまで水を飲み、仏頂面で座り続ける。
 そして沈黙である。
 じっと睨み続ける辰也にようやく凛子が気づくと、正樹を向いて口を開く。
「ご感想は?」
「んなもんあるか」
「ほうほう。つまり、文句なしだってさ、辰也」
「んなこと言ってねえだろ」
「でも言うことなしなんでしょ? 食べたんなら皿洗いくらいしてってよ。タダ飯なんてプライドが許さないんじゃない?」
「ちっ、俺を何だと……」
 舌打ちしながらも正樹は食器を重ねて持ち、厨房へと入っていく。辰也が目で凛子に抗議するが、どこ吹く風で食事を続けている。さっさと辰也は食べきって、厨房を荒らされないようにと急いで戻る。
 正樹は腕まくりをして普通に自分の食器を洗っていた。自分の食べた食器を持ったまま辰也が妙な動きをしないかと観察をしていたら、正樹が辰也に気づいて顔を向ける。
「出せよ、洗う程度はしてやる」
「……はい」
 皿洗い程度ならば、別に厨房へ入られても構うまいと判断してとりあえず辰也は食器を渡す。それが洗い終わったタイミングで、今度は凛子がさらに洗う食器を追加した。
「よろしく、タダ飯くん」
「凛子、てめえ」
「そう言えばだけど、昨日、一旦、レジ締めの時にお金もらったけど、そこから先の酒代もらってないんだよね。どうする? 働いて返す? それともにこにこ現金払いがいい?」
「凛子、何だよ、働いてって」
「皿洗いくらいならいいでしょ? 席にいられたら回転落ちるし、こっちいてもらった方がいいじゃん」
「でも」
「いいぜ、やってやらあ、皿洗いなんぞ」
「ほら。本人もやる気だし。あ、まーくん、口出し禁止だからね? 皿洗いがシェフに意見するなんてないし、店のやり方っていうのがあるからね。そういうことでよろしく。ちょっと出かけてくるから、皿洗い以外もホールは手伝っていいから、じゃね」
 色々と条件をつけるだけつけ、凛子は勝手口から出ていってしまう。
「……ちょっと詰めて、仕込み始めるから」
「詰めなくてもいいだろ、チビなんだから」
「これから背え高くなるし」
 正樹が横にいる状態で仕込みをするのは、辰也は嫌だった。すぐに横から何か言われそうで。
 しかし存外、正樹は凛子につきつけられたことを守るようで皿洗いが終わると勝手を熟知しているかのようにホールの開店準備を始めて、辰也の料理には口を挟まなかった。正樹とて、数々の店を渡り歩いて修行した料理人だ。店それぞれにやり方があり、その味を目当てに客は訪れる。だからその店のやり方、その店の調理方法について、自分だったらこうした方が良いという意見は求められたり、あまりにも見ていられない限りは言わない。
 やがて開店時間になり、辰也が暖簾を上げてから厨房に戻る。今日のお通しは小松菜のおひたしだった。一人前ずつ小鉢に分けていたら、暇を持て余した正樹が横へくる。
「やらせろ、それくらい。暇だ。他にもやることあるんだろ」
「……出す時にだけ、胡麻、ぱっぱだから」
「白胡麻だな」
「そう。それだから」
 胡麻の容器だけ教え、辰也は少しだけ正樹の手つきを見守った。さすがと言うべきか、菜箸の動きに迷いはなく洗練された所作で次から次へと盛りつけていく。面白くはなかったが、何も言わずに辰也は自分の仕事にかかる。
 と、その直後に客が来て辰也は包丁を置こうとしたが、辰也に先んじて正樹がカウンターの中へと厨房から出ていってしまう。
「いらっしゃいませ。お好きなところにどうぞ。お酒、どうされますか?」
 接客態度だけ切り取れば、凛子よりもよほどマシな、ちゃんとした態度で正樹は受け答えをする。何度か来店したことのある客だったらしく、瓶ビールと聞こえて辰也は冷蔵庫からビールを出して栓を抜いてコップを用意する。そうしている間に正樹は厨房へ戻り、お通しの小鉢を1つ取って白胡麻を軽く振る。
「ビール、そこ置いといたから」
「あいよ」
 兄弟の連携は完璧に近かった。注文から1分足らずで客にビールは届き、2分未満で客はビールで喉を潤す。
「焼き鳥、4本。塩でお任せ。あと竹輪の磯部揚げ。中にチーズ射込み。それに冷奴と、お新香」
「分かった」
「奴とお新香くらいは俺が出すぞ」
「冷蔵庫の真ん中の段がお新香。豆腐は下の奥。冷奴は茗荷と万能ネギと鰹節乗せて。お皿はそこの棚の透明の小さい皿。お新香はアニキあるから、そっちからでやって」
「あいよ」
 テキパキと迷う様子もなく正樹は指示された通りに、お新香と冷奴を同時進行で用意して客へと出す。立て直した際に間取りも収納の配置も、ほとんど元のままにしていたので正樹には勝手知ったる厨房も同然だった。それに昨夜、居座り続けながら辰也の料理を観察し、ほぼ全てのメニューが昔と変わらないスタイルで提供していることも理解をしていた。ずっと昔の経験ではあるが、この店での手伝いが原体験でもある。それゆえに本人でも意外なほどにメニューの1つずつをよく覚えていた。
 だんだんと客が増えてピークを迎えても凛子は帰ってこず、辰也と正樹は2人で店を回し続ける。仕込みの済んでいるものを取り出して盛りつける程度のメニューを正樹に任せつつ、辰也は刺身や揚げ物、フライパンを使う煽りものであったりというメニューを捌いていった。

 ▽

「いやあ、話し込んじゃったよ。まーくんもいるし、いっかー、なんて思ってたらあっという間だったよね」
 なんて言いながら凛子が店へ帰ってきたのは、日付が変わってからだった。厨房では辰也が洗い物をし、ホールからは正樹の喋り声が聞こえている。落ち着いているらしいとはすぐに凛子は気づき、冷蔵庫から出した瓶ビールを厨房で開けてラッパ飲みを始める。
「店のもの勝手に飲むなよ。あとどこ、ほっつき歩いてたんだよ?」
「ちゃんとお金をレジに入れとくから大丈夫だって。んで、まーくんとちゃんとお店回せた?」
「……仕方ないから、顎で使ってやった」
「いいね、どんどん顎で使っちゃえばいいんだよ」
「で、どこほっつき歩いてたんだよ?」
「友達と話し込んじゃってさ。いやあ、息抜きって大事だね」
 むしろ息が詰まるような局面がこの女にあるのかと辰也は眉根を寄せたが、当の本人はあっさりと中瓶を飲み干してしまってビールケースに空き瓶を突っ込んでしまう。そう言えば昨日からずっと酒ばかり飲み、睡眠も取っていないのではないかとふと辰也は気づく。それでもいつも通り、疲れなど欠片も見せぬ、緩みきった態度だ。やはり普通ではない。そう再認識した時にホールから呼ぶ声がして縄暖簾へ顔を向けた。
「シェフ、シェフ、お願い!」
「何を?」
「あれ、聞こえてなかった? まあ、うん、それならそれで改めて……」
 どうやら呼んでいたのは新藤のようだった。いつもはホールの方へ聞き耳を立てている辰也だが、凛子と話していたので会話は聞いていなかった。
「ほら、こちらのシェフのお兄さん? 聞けば、何だかすごい料理人だっていうじゃない。シェフの料理ももちろん、おいしいんだけどさ。一流の名店で腕を振るってる料理人が、ここの厨房を使う許可さえあれば振る舞ってくれるとか言ってくれてて……だからね、味わってみたいなって思うんだよ。いや、いや、もちろんね、シェフの味目当てでここのお店に通ってるよ? だけどさ、ね? 今はどこのお店でも働いてないってことだし、それじゃあ、食べに出かけることもできないだろう? だからさ……シェフ、この通り」
 手を合わせて拝むように新藤にせがまれ、辰也は渋い顔で正樹を見た。正樹は白々しくビールを煽っている。
「いいけど、今日だけだから」
 渋々といった様子で辰也が了承すると、正樹がビールを飲み干してから椅子を立った。袖をまくりながら厨房へ入り、隅に置いていた自前のジェラルミンケースの蓋を開ける。
「まーくん、それ何?」
「商売道具に決まってんだろ」
 厨房に辰也も戻ると、丁度、ジェラルミンケースが開けられるところだった。
 牛刀、三徳包丁、出刃包丁、柳刃、ペティナイフ——5本の包丁が綺麗に揃えて収納されていた。どれもこれも、一目で高額なものだろうと思わせられる立派なものばかりで凛子は感嘆の声を漏らす。
「ついでだから、俺と凛子と、正樹も食べたいなら自分のまかないも一緒に作れよ。まかないは冷蔵庫の中のアニキなら何使ってもいいから」
「へえ、とうとう厨房貸しちゃうくらいまでには仲良くなれた?」
「新藤さんがどうしてもって頼むから仕方なく……」
 辰也と凛子の会話を聞き流しながら正樹は入念に手を洗ってから牛刀を取り出してジェラルミンケースをしまう。
「凛子、何が食いたい。リクエスト聞いてやる。ある食材でな」
「んー、辰也にパース」
「別にない」
「何か言え。注文受けて作るのが料理人だ。てめえの好き勝手作ったもんを出すのは家庭料理なんだよ」
「……じゃあ、家庭料理。日本の。あと悪くなりかけの食材から使って。そんだけ」
 やっぱり態度が気に入らず、辰也は意地悪くそう言ってカウンターの内側へ行ってしまう。
「可愛げの欠片もねえ……。あいつ、どんな育ち方しやがったんだ?」
「辰也はまーくんの百倍は可愛いと思うけどねー。健気で。じゃ、まーくんの家庭料理、首をながーくして待ってるから」
 凛子もホールへ行き、正樹は舌打ちをしてから冷蔵庫の中身をチェックした。

 ▽

「産地不明の鯛のポワレ。旬野菜のソースでお召し上がりください」
 新藤の前に出された飾り気のない白いだけの皿。
 しかしそこには皮目を上に配置された鯛の身と、色鮮やかなグリーンのソースが盛りつけられている。光を反射して煌めくようなミニトマトが添えられ、鮮やかな赤がアクセントとなっている。
「おおおお……! ぽ、ポワレって、耳にはしますけど食べるのは初めてかも知れませんね。いただきます!」
 一緒に出されたフォークとナイフで、たどたどしく新藤は魚にナイフを入れる。色鮮やかなグリーンのソースを絡ませてから口に運び、彼はゆっくりと咀嚼をする。
「お口に合いましたか?」
「…………おいっしい、です。語彙力のないのが恨めしい……!」
「新藤さん、一口もらうねー」
「えっ? ちょ、凛子ちゃ——ああ……」
「こら、凛子!」
「んー、おいしい。これ、ソースって……クレソン? それにアスパラ、ニンニク、グリンピースもかな? 鯛も皮がパリパリ通り越して、バリンバリンで、でも身がパサついてないし、ソースとも意外に合っちゃうけど物足りなさ——ああ、新藤さん、これ、添えられてるミニトマトが肝心要の、超重要なモブだよ」
「トマト? どれどれ……お魚と、ソースと、トマト……」
 凛子に言われたように新藤はまた一口、魚とソースを口に入れて、それからミニトマトも食べる。
「うまっ……」
「でしょー? これね、ミニトマトの甘酸っぱさが爆弾みたいになるよねー」
「凛子ちゃんて、意外と舌が肥えてるよね……」
「シェフの料理、毎日食べてるからでしょうかね?」
 ドヤ顔で新藤を小突いている凛子について、ひそひそと小杉と村尾が言葉を交わす。
 一皿に費やした工夫について、その最後の仕掛けのミニトマトを見破られて地味に正樹は面白くなかったが、一口のつまみ食いでよく分かったものだとも顔には出さず驚いている。
「それより俺のご飯は?」
「まかないなら厨房で食え」
「席空いてるし、たまにはこっちで食べたいからいいの」
「この野郎……」
 辰也に言われて正樹が舌打ちをしてからまかないを持ってくる。白いご飯とみそ汁は普通だった。古くなりかけだった焼き鳥を串から外して加えたらしい、鶏肉入り野菜炒めが主菜だった。
 今日の開店前のまかないと違うのは、使っている肉くらいのものかと辰也は顔をしかめる。意趣返しのつもりだろうか、だとすればこれは喧嘩を売られているにも等しいとまで考える。
「待ってました! でも何か、平凡……ていうか、数時間前に食べた。何でメニュー被るかなあ!?」
「うるせえ、まかないなんだからこんなもんだろ」
 凛子の感想をよそに辰也は早速、一口、鶏肉野菜炒めを食べる。野菜は食感を残している。鶏肉は片栗粉をまぶしてから湯通ししているらしく、食感がぷりぷりとして野菜炒めの味つけのタレがよく絡んでいる。
 悔しいことに美味しかった。しかも使われている野菜がことごとく、少し古くなっていたものばかりで、文句もつけられない。どの食材も適切に火入れされ、互いを邪魔しない。キャベツ、葱、玉葱、人参。どれもありふれた平凡なものだが、丁寧に処理されていてそれぞれがおいしい。
 辰也が今日の開店前に作ったまかないの肉野菜炒めとは味つけも違うし、野菜への火の入れ方も違う。材料は似たり寄ったりなくせに味つけも食感も変わっている。
「あ、これおいしいじゃん、まーくん」
「当たり前だ。おい辰也、文句あるか?」
「別に……?」
「ありそうな面じゃねえか」
「ないから、こんな顔になるんじゃん」
「可愛くねえ……」
「可愛さなんかいるかよ」
「何がどうなったらこんなになるんだか……」
 兄弟の会話に、また小杉と村尾が反応して顔を見合わせる。
「何だかんだ、似た者同士だよな……」
「ですね。やっぱり兄弟なんでしょう。それにしても新藤くんの料理、おいしそう……」
「それ。俺もね、何か無性に食べたくなってきた。正樹、俺もさ、何か横文字のしゃれたやつ、食べたいんだけどいいのないかな? 軽めの」
「あ、小杉さん、抜け駆けですか。わたしも食べたいんで、2人分、何かお願いしますよ。シェフ、いいでしょう?」
「俺、休憩中だから好きに顎で使っていいよ」
「てめえ……。まあいいか。それじゃあ小杉さん、貝ってお好きですか? アクアパッツァなんてどうでしょう?」
「アクアパスタ? 水のパスタってこと?」
「違いますよ、アクアパッツァ。小杉さん、イタリアの有名な料理ですよ。魚介系の、貝とかお魚のものですよね?」
「ええ」
「んー、でも貝はさ、ほら、貝殻取るの邪魔くさくて好きじゃないんだよな」
「またそういうことを、小杉さん……」
「はは、いいですよ。それじゃあ何か、すぐできるアンティパストでも作ります」
「あんちぱすた?」
「だから、パスタじゃなくって……」
「横文字苦手なんだよ……」
 気の抜ける発言をする小杉に笑いながら正樹は厨房へ入っていく。
 その背中を茶碗越しに見て、辰也は何となく、父の背を思い出した。

 ▽

 


 



 そんな、二行の置手紙を見つけて凛子は、朝には確かに正樹がいたはずの辰也の布団を見た。しかしそこで眠っているのは、見慣れている起床が苦手な弟だけだ。
「イタリア、フランス、日本、アメリカ……か。次は中国、トルコ、どっちかかな?」
 そんなことを呟いてから凛子は欠伸をし、眠る前に干しておいた洗濯物を取り込んで畳む。そうしている間に目覚まし時計がけたたましく鳴り出した。辰也が自分でセットしているものだが、いつも止めるだけ止めて二度寝に入ってしまう。3個も目覚ましをセットしているのに、5分置きに鳴るそれらを全て止めても布団の中へ引き籠もろうとする。
「辰也、早く起きないとまーくんが厨房乗っ取っちゃうかもよー?」
 いつもなら問答無用で布団を引っぺがして叩き起こすところだが、凛子はそんな言葉をかけてみた。すると、がばっと辰也は起きてしまう。
「…………あれ、正樹は?」
「ほい、お手紙」
「手紙?」
 残されていた置手紙を凛子に渡されてそれを見て、辰也は眉根を寄せる。
「今度はアメリカ? あれ、裏にも何か書いてる」
「え? 裏?」
 凛子が洗濯物を畳む手を止め、辰也の手元を覗き込む。紙の裏にも短いメッセージが書かれていた。

 


 



「これ、どういうこと?」
「ああ、これね。どうして、うちのもつ煮が塩味なのかって。知ってる?」
「知らない」
 洗濯物をしまっていく凛子を見ながら辰也が答える。
「お店じゃ言えない、くっだらない事情なんだよね……」
「何?」
「んんー、ちっちゃいころにまーくんがさ、味噌の、いわゆる普通のもつ煮をある日いきなり、食べたくないって言ったことがあってさ。その理由が、うんちみたいだからって」
「はあっ?」
「で、お父さんとお母さんが困っちゃったんだよね。その時もたまにお店で面倒見られてたりしたから、お客さんの前でそんなの言われちゃたまらないでしょ? で、毎晩、毎晩、お父さんとお母さんが試行錯誤しながら、今の塩味のもつ煮作ったっていう経緯があったの。うんこじゃないよ、って」
「……くっだらな」
「まあでもさ。まーくん、もつ煮大好物だったんだよね。辰也のもつ煮も、認めてくれたってことだよ。良かったね。銭湯行っといで。はい、お金。ちゃんと耳の後ろまで洗うんだよ」
 お金を押しつけられ、辰也はとりあえず寝間着を脱いだ。
 桶にタオルと着替えを入れて近所の銭湯へいつも通りに歩きつつ、辰也は、ふと思い至る。――正樹はいつ、もつ煮を食べたのか。
 銭湯で体を洗いながら、大きな浴槽に浸かりながら考え、しかしやはり検討がつかなかった。銭湯の帰りに商店街での仕入れをしてから店へ帰り、冷蔵庫のもつ煮のストックを見る。
「……つまみ食いされた?」
 微妙に減っているような気がし、辰也はため息を漏らす。
 凛子といい、正樹といい、どうして勝手につまみ食いをするのか。一言くらい断れば良いものを、と文句にしても気が抜けることを思った。
「もつ煮、仕込むか」
 辰也自身は、まだ何か、両親の味と同じものではないと感じている、メニューもない店の看板メニューの仕込みへ取りかかる。

「たーつや、今日のまかない、何?」
「肉野菜炒め」
「またっ? 昨日なんて2回も食べてるのに?」
「正樹のよりうまいの作るんだよ」
「違うの食べたかったなあ……。どうせ、満足いくまでずぅーっと同じの、作り続けちゃうんでしょ?」
「……じゃあ」
「おっ? 譲歩してくれる?」
 おもむろに冷蔵庫から辰也が鯛を取り出す。まだ手もつけていない、丸々の鯛だった。締められているだけで内臓もまだ取られていない。
「鯛?」
「ポワレもつけてやるよ」
「それも昨日食べた件について」
「じゃあ自分で用意すれば?」
「はいはい、分かりましたぁー……」
 まな板へ鯛を置き、鱗をがしがしと落としていく辰也を眺めてから凛子はため息を漏らす。
 この店で厨房に立つのは絶対に1人だけでいいと、彼女は決めた。辰也が妙な対抗心を燃やし、相手よりおいしいと思えるようになるまで同じメニューを作り続けてしまうのが目に見えたためである。
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