毎日のお弁当

文字数 13,967文字

 どん詰まりの横丁に店を構える、居酒屋りんことたつや。
 小さな飲み屋や小さな接待飲食店、いかがわしいマッサージ店なんかまでもが肩を寄せ合うように連なる、一見すると寂れた時代の遺物めいた横丁ではあるがたまに条件が重なると、その横丁だけで2軒、3軒とはしご酒をするような酔っ払いもいる。あるいは自分の店が終わってから、横丁の別の店で客と待ち合わせるなんていうことも珍しくはなかった。
 夢莉という源氏名の彼女もまた、横丁で働く1人だった。実年齢は不明ながら、源氏名として名乗っている時は合法の18歳と名乗り続けて早2年は経過をしている女性だった。

「凛子ちゃん……今、シェフって奥にいる?」
「あれ? 夢莉ちゃん? 珍しいね、うちに来るって」
「ちょっとねえ……。シェフいる?」
「いるよー。その様子だと飲みに来たんじゃなさそうだね。奥行っちゃっていいよ」
 全くもって来ないわけではないにしろ、やや珍しい客を凛子は厨房へ通してしまう。酒を飲みに来たでもなく辰也に用事があるとは何なんだと、いつもの常連達はにわかに顔を見合わせる。
「シェーフー」
「何か伸ばして呼ばれると中国語っぽい……。どうしたの?」
 厨房では今日も辰也が調理の最中だった。新藤に注文された本格的な中華料理で何か、というリクエストで辰也はスパイスを効かせた麻婆豆腐を作っている。汗を肩にかけたタオルで拭きながら中華鍋をぐつぐつさせて手際よく仕上げていく様子をしばし見守り、無事に提供されてから彼女は手を合わせた。
「お願い、シェフ。お弁当作ってくれない?」
「……お弁当?」
「しっ、声、大きいから」
「そんな大きくないと思うけど……」
 辰也の肩を掴み寄せるようにして夢莉は勝手口の方に行き、さらに声をひそめる。
「これ、内緒だからね? 凛子ちゃんくらいなら教えてもいいけど、絶対に秘密だからって念押ししてよ? シェフは口堅そうだからそこまで念押ししないけど」
「何でお弁当が秘密なの?」
「あたしの子どものお弁当なの」
「……子どもいたの?」
「だから内緒なんだって」
 嘘じゃないかと辰也は思わず夢莉を頭から爪先まで見てしまう。とても子どもがいるとは思えないほどに若い見かけで、実際に絶対に若いはずだろうと辰也は思っている。凛子よりも年は下のはずだとも思っているが、凛子には子どもどころか恋人の影さえも見えないのである。
「保育園の年長なんだけどね。いつもはお母さんが作ってくれて送り迎えとかも手伝ってくれてるんだけど骨折しちゃって手が使えなくなっちゃって。朝ご飯とか晩ご飯なんてパン焼いたり、総菜買ったりすればいいんだけど保育園のお弁当はダメなの、それじゃ。だからさ、シェフ、お弁当作ってくれない?」
「……自分で作らないの?」
「無理。包丁持ったことないし」
「旦那さん」
「いない。別れてるから。そもそも籍入れてないし。産むって言ったらブチられて」
「年長って、何歳?」
「5歳」
 マジかと辰也は口に出しかけたが、口だけ動いて声は出なかった。せいぜいが二十歳過ぎほどじゃないかという若い夢莉に5歳の子どもというのがあまりにも意外すぎた。この横丁界隈では夢莉は20歳じゃないかという説が濃厚だ。それを鑑みたら15歳の時に出産したことになる。辰也からすれば1年後に赤ちゃんを作るという計算で現実味がなさすぎて言葉にできない。
「ね、シェフ、お願いできる?」
「秘密にしなきゃいけないんでしょ? 作るのはいいけど渡すなり届けるなりしてたらバレそう……」
「ああ、それは大丈夫だから。保育園の登園前に寄ってもらうから、そこでお母さんに渡してよ。ね、そしたらあたしの子ってバレないし。で、お迎えの後に寄ってもらってお弁当箱返せばいいでしょ?」
「それでいいなら、いいけど……。毎日? ずっと続くの?」
「どうだろう、3ヶ月とかかな?」
「その間、毎日?」
「1食ってどれくらいになりそう? あ、お弁当箱ね、このサイズ」
 鞄から大きなブランドものの財布とお弁当箱を取り出して夢莉が尋ねる。青いキャラクターものの弁当箱で、こんなに小さいものかと受け取って深さなんかも確認しながら辰也は考えてしまう。
「で、ご飯なんだけど敷いちゃうと食べにくいから、ちっちゃいおにぎりみたいにして入れてほしいの。できる? いくらくらい? とりあえず3ヶ月」
「好き嫌いとかはあるの?」
「緑黄色野菜っていうの? ああいうのダメみたい。ソーセージとかハムとか好き。あとお漬物も好きかな」
「男の子? 女の子?」
「男の子、男の子」
「んん……平日だけでしょ?」
「そう。保育園ある時だけだから」
「だったら正味60日だとして……」
 電卓を取り出して辰也がそれを叩き始める。1食分の費用をおおよそで算出して、60日分で数字を叩き出す。
「こんなもんかな」
「安っ。いいの?」
「その代わり、今日1杯くらい飲んでってよ」
「商売上手だね、シェフ……。じゃあハイボール1杯だけちょうだい。薄めでいいから」
 その場で辰也はハイボールを作って渡すと、夢莉は一気飲みをしてしまう。それから弁当代とお酒代より少し多めの、きりのいい金額を出す。
「じゃあこれでお弁当お願いね」
「多いよ」
「多い分はほら、何か、適当にお弁当にサービスしちゃって?」
「ええ?」
「お願いね。それじゃシェフ、よろしく。明日の朝、7時台に寄るから。それじゃ!」
 勝手口から夢莉は出ていってしまい、辰也は受け取ったお金と残されていった弁当箱を見る。
「保育園児のお弁当……。緑黄色野菜が苦手……。ちっちゃいおにぎり……。適当にサービス……」
 1食分の弁当箱ならば思いつくまま詰め込めるが、概算60食分と考えるとそうもいかない。
 きっちり献立を考えるところから始めないと弁当が破綻するとまで考えて辰也はノートを取り出して作業台に広げる。それから椅子へ座って、献立を考え始める。60食分全てを別々の献立というのは難しい。せいぜい2週間のローテーションと決めてから、カレンダーを見て行事や季節をチェックして手に入れやすい旬の食材も考える。
「たーつや、何してんの?」
「ん、考えごと……」
「メニュー? どったの、こんなことして?」
「夢莉さん……。あ、絶対に内緒だけど、子どもいるんだって。保育園児の」
「へえー」
「お弁当作ってって。3ヶ月」
「そんなに? で?」
「同じおかずじゃ飽きちゃうだろうし、ちっちゃい子だから味つけとかも薄味でしょ? あと傷んじゃったら最悪だから、傷まないようにもしなきゃだし……。あとはー、えーと」
「ちっちゃく作らなきゃダメだよ? 大きいと食べにくいから」
「あ、それもそっか。あとは?」
「そんくらいじゃない? にしてもお弁当か、懐かしいねえ。辰也のお弁当の鉄板メニューと言えば、てりたまつくね。覚えてる?」
「そう言えばあったかも……」
「あれおいしかったよね。お母さんが弁当詰めててさ、お父さんが入れとけって無言の圧力でできあがってるてりつくねのバットをすって出すの。あれってお父さん作ってたんだよ。知ってた?」
「知らなかった」
 喋りながら辰也は冷蔵庫の中を確認したり、カレンダーを見てお弁当のおかずを書き出していく。まめなことをしている弟をしばらく眺めてから凛子はおもむろに弁当箱を取る。
「こういうサイズ感ってかわいいよね……。あたしも赤ちゃんほしいなあ」
「無理だろ、凛子じゃ。相手もいないのに」
「そんなこと言って。だーれがちっちゃいころの辰也の相手をしてあげてたか」
「相手してあげてたじゃなくて、遊び相手にしてたんだろ、勝手に。うざからみして」
「うわ、そんなこと言っちゃう? 時間ってのは残酷だね。やだやだ」
 拗ねるように凛子はホールへと戻り、辰也はため息をつく。とりあえずローテーションする2週間分の献立が決まり、あとはカレンダーの行事や好みを把握しながら適時更新して作っていくと決めた。
「よし、仕込もう」
 金を受け取った以上は一切の手抜かりなく、完璧な弁当を作り上げる。
 そう決心を固くして辰也の弁当作りの日々は始まった。

 ▽

「お弁当、言われた通り受け取ったまんまで置いといたからね」
 銭湯帰りの仕入れを終えて辰也が店へ帰ってくると凛子が入れ違いに出かけていく。そう言えば今朝、弁当を渡したと思い出して辰也は勝手口から入って調理台の上の弁当箱を見る。そっと持ち上げ、蓋を開けて辰也は自分で意外なほどの変な声を出した。
「へっ……?」
 大した量を入れていたわけでもないのにほとんど残されている。
 海苔をまいた小さな俵型おにぎりも、カルシウム補給のためにとじゃこを入れた玉子焼きも、食べやすいようにとカレー風味にしたアスパラの炒め物もほぼ手つかずだ。唯一食べてもらえたらしいものは鶏の唐揚げだけ。
「……何これ……どうして……?」
 こうも盛大に残されるのは辰也には初めての経験でもあった。
 ただただ弁当を見つめて愕然としているところへ凛子が戻ってきて、フリーズしている辰也を見て背後から忍び寄る。
「あちゃー、残されちゃった?」
「どうして……? まずかった?」
「食べてみたら?」
 言われて辰也は手づかみでおかずやおにぎりを食べてみる。冷めても想定していた味つけのままだったし、変な臭みや苦味も感じられない。首を傾げていると凛子が同じように指でつまんで食べる。
「……ふむ、おいしい」
「何で残されたの? 嫌いだった?」
「このスペースは何あったの?」
「唐揚げ」
「うーん、見慣れないから警戒して食べなかったとか? でも、そしたらおにぎりも残されちゃうのは不自然か……。味、もうちょっと濃いめがいいんじゃない? ほら、塩っけがないと傷みやすいから」
「それは、そうかも……。けど、それだけ? 見慣れないから食べないの? 玉子焼きは?」
「だってほら、じゃこが混じってるもん」
「それだけで、嫌?」
「繊細なんだよ、ちっちゃい子って」
 そうなんだろうかと疑わしい気持ちはあったが、他にもっともらしい理由も思いつかずに辰也は翌日のメニューについて頭を悩ませながらその日の営業を開始した。

 ▽

「嘘……でしょ……?」
 調理台に置かれている弁当箱を持ってみて、今朝に仕上げた時とあまり重みが変わっていないことを察して辰也は絶望しながら呟いた。中身を改めたくはなかったが、そっと蓋を取る。
「今日も……ダメ……」
 シンプルに仕上げた玉子焼きは一切れしか消えていない。スナップえんどうと小松菜の鰹節和えは手つかずで、たこさん魚肉ソーセージは脚が1、2本だけかじられている。まんまるにした小さなおにぎりは1つだけなくなっている。
 昨日の反省をいかしてできるだけ見慣れたような形や色で作ったにも関わらず、手応えはほとんど感じられない。一体、何がいけないのかが分からずに食べ残されているのをただ目の当たりにすると辰也は途方に暮れるような気になる。
「あれ? またダメだったの?」
 呑気な声がして辰也が凛子を見る。と、その顔を見た姉は今まで見たことがないほど弱ったような表情をしている辰也を凝視し、おもむろにスマートフォンを取り出して1枚撮る。
「何してるんだよ」
「いやあ、これ待ち受けにしたらあたしの気分がいつも晴れやかかもー? とか……」
「消せ」
「んー、今日もダメでしたか」
「いいから消せっ」
「消さないよーっと」
「おい、凛子!」
 しばらく消せ、消さないとやり取りが続いたがまかないの手抜きという制裁案を辰也が持ち出したことで画像は消去された。

 ▽

「だああああっ! あああああああっ!」
 いきなり厨房の奥から叫び声がして小杉と村尾と新藤が椅子から腰を上げた。同じく常連の女性陣も縄暖簾の向こうを見つめ、楽しく客と雑談に興じていた凛子が額を押さえる。
「ど、どうしたの、今のって? 凛子ちゃん? シェフのあんな声初めてだけど」
「いやあ、今ね、ちょっと……難問に取り組んでてね。お弁当作ってるんだけど、それが毎度のように残されちゃってほとほと参っちゃってるんだよね……。だから生暖かくさ、気にしないであげてよ。はい、お酒のおかわりいる人?」
 ホールで凛子が取り繕っている間、辰也は洗うだけ洗った弁当箱を前に頭をかき乱していた。弁当作りは4日を経ても食べ残しばかりである。とうとう5日目を控え、何を作ろうかとあらかじめ作っておいた献立をメモしたノートを開いたが、脳裏によぎったのは4日分の食べ残された弁当箱である。
 きっと味に問題はないし、見た目も試した。シンプルなものや、凝ったものや、キャラ弁にまで手を出した。しかし効果はなかった。相変わらず、どういう気分なのか、脈絡なくおかずが少し減っているという程度でしかない。
 和風も洋風もアジアンテイストも満遍なく詰めてみたが食べてもらえる傾向というのは見えずじまい。
 この4日間でこれなら大丈夫だろうと思いつくものはすでに全て試してしまっている。
 調理台へ置いた空っぽの弁当箱。その両サイドに手を突き、頭を垂れるようにただただ辰也は弁当箱を凝視する。あんまりにも小さな、チープささえあるキャラクターものの弁当箱であるのにどんな料理を詰めても全否定されてしまうような虚空の闇のように見えてきてしまう。
「辰也。声、声。やばい声出てたよ。だいじょぶ?」
 様子を見た方がいいと常連達に送り出されてしまい、渋々に厨房へ来た凛子が声をかける。が、辰也はじっと弁当箱を見たまま思考停止で動かない。
「おーい? 辰也くーん? シェフー? 不登校? ……ダメだこりゃ」
 反応はないがすぐ戻ってはまた常連に厨房へ追い返されることが目に見えている。時間を潰そうと凛子は食器棚の隅に挟まれている辰也のノートを開いてめくってみる。お弁当の献立がずらりとことこまかに書かれているページを眺める。ちゃんと1日ずつでページを割いて詰めた献立と、どれだけ食べられたかも記録していたらしい。こういう作業をしてしまうから余計に落ち込んでいるのだろうと勝手に推測し、凛子はため息を漏らす。
 それからふと、自分の小さいころを思い出そうとした。
 が、今も昔も嫌いな食べものも、食べたくないものもなくて参考にならないと気づく。どんなゲテモノも、本来はお子様の口に合わないものであっても凛子は出されたものも、出されていないものもつまみ食いしてきた。ましてお弁当なんて、ぎゅうぎゅうに詰めてくれとリクエストした覚えさえある。
「……辰也、悩んでも答えが出ないなら、ヒントもらうべきだよ」
「……ヒント……?」
「そっ。さっき、外で夢莉ちゃん見かけたからさ。お店行って聞いてくれば?」
「……何か負けた気になる」
「じゃあずっと食べ残される?」
「行ってくる」
「行ってらっしゃーい」
 前掛けを外し、辰也はキャップを被り直して勝手口から出ていく。
 夢莉が勤めているスナックは1分もかからぬご近所だった。無論、本来は20歳未満お断りという風紀的な定めのある店だが同じ横丁に店を構える者同士の顔見知りということや、この横丁で育ったも同然というところがある辰也には板チョコのようなその店のドアを開くことに一切の躊躇はなかった。
「夢莉ちゃんいますか?」
「あら、シェフ、どうしたの?」
「ちょっと話があって」
「へえ? シェフが、夢莉ちゃんに? へええ? いいわよ、お入りなさいな。今、お客も少ないし。ちょっとお買い物行ってもらってるの、氷きらしちゃって。戻ってくるまで待てるでしょ?」
「いくらでも待つ」
「あら、へえ?」
 足の長いカウンターの椅子に辰也が座るとママがコーラを出してきて、辰也が怪訝な顔をする。
「俺、客?」
「指名料いくらにしようかしら」
「凛子に請求しといて?」
「あら、あの娘のツケ払ってくれないの?」
「ツケ? 嘘?」
「冗談よ、冗談。お金なんてとらないから」
「凛子だと本当にありそうだからやめて……」
「にしてもシェフ、うちに来るの初めてでしょ? なのに夢莉ちゃん目当てって? 何かあるの? ねえねえ?」
「何かはあるけど言わないよ」
 やけにニヤついたママに不穏さを感じ取りつつ、辰也はできるだけ気にしないよう努めてコーラをストローで吸い上げる。小太りという言葉では少し収まらない恰幅の、化粧の濃いママに興味津々でニヤつかれて顔を見られているとなかなか落ち着けるものではなかったが、客が入ってきてようやく離れてくれてほっとする。
 それから少しして夢莉が戻ってきて辰也を見つけてカウンターの向かいへくる。
「どうしたの?」
「秘密のあれのことで、ちょっと教えてほしくて……」
「ああー、はいはい。ここはちょっとあれだから、外出よっか。ママ、ちょっとだけシェフとお喋りしてくるね」
 夢莉が声をかけるとママは満面の笑みで頷く。その反応に夢莉はくすりと小さく笑い、違うからと手を振って辰也を連れ出した。横丁の狭い路地まで夢莉は辰也を引っ張り込んで煙草を取り出す。
「あれでしょ? 残してるんだって?」
「そう……。何がダメか知ってる?」
「保育園からもお昼食べてないって言われたらしくてさ。どうしてか聞いちゃみたんだけど、何かヤダって一点張り……。どうしてか言ってくれないし、本人も分かってないっぽいんだよね」
 困ったとばかりに夢莉が煙をすぅーっと細く噴き出す。
 何の解決策も見出せずに辰也はキャップを外して片手で髪の毛をわしわしとかき乱す。
「前のお弁当の時は?」
「たまには残してたみたいだけど、普通に食べてたみたい」
「何で……?」
「さあ? おやつとか、一応は出てるし、そんなに気にしないでよ。食べたくなれば食べるだろうし」
 何だか無責任に聞こえた夢莉の言葉に辰也はため息を漏らす。
「煙草吸う?」
「吸わない……」
「いや、何かすっごくそういう哀愁出してたから」
 いくら母親が気にするなと言っても食べ残しを見るのが苦痛になる。かと言って凛子に弁当箱の中身を捨ててもらったとて、今度は食べてもらえるものが少しはあったのかと気になりそうで大差ない。弱りきって辰也はしゃがみながら悶々と考えた。
「そんなに本気で悩まなくていいって、本当。お腹がへればおやつあるし、晩ご飯は普通に食べてるし」
「俺の料理残すのが許せない……」
「5歳児相手にそりゃむずいって」
「いや、俺が許せないから。……その子と会わせて。1回でいいから。で、俺が作ってるとこ見せて食べてもらいたい」
「ええ?」
「明日の昼とかでも全然いいから」
「いや、明日の昼って……。あ、この後の朝ならいいよ?」
「ほんと?」
「朝ご飯作ってくれるってことでしょ?」
「作る。タダでいい」
 狭い路地の奥の喫煙所。
 そこで夢莉にぐいぐいと迫るように辰也が顔を近づけて話す様子を目撃した常連がいたという。

 ▽

「お邪魔しまーす」
「ほんっとに来ちゃうのね、シェフ……」
「俺の客見たい」
「あたし」
「じゃなくて、弁当食べる方」
「はいはい、こっちどうぞ……」
 公営団地の一室に夢莉は5歳の息子と暮らしていた。玄関から入って両脇に水回りがまとめられ、浴室と台所とかがある。奥の居間は畳張りで男の子が特撮ヒーローのフィギュアで人形遊びをしている。
「名前は?」
「はるちゃん」
「はるちゃん?」
「はるちゃん、料理すっごい上手なお兄ちゃん来てくれたよ。最近のお弁当作ってくれてるお兄ちゃん。何かね、朝ご飯も作ってくれるってさ。おばあちゃんの代わりね。で、シェフ、何作ってくれるの?」
 遊んでいた息子を抱き上げて夢莉が尋ねると、辰也は持ってきていた買い物かごから前掛けを出して腰に巻きつける。被ってきたキャップをぎゅっとつばを下げるように被り直して辰也は夢莉の息子の陽貴に背を向けるようにして台所へ立つ。
「何作るのー? ねえってば?」
「何がいい? 玉子は?」
「え?」
「玉子焼き、目玉焼き、スクランブルエッグ、茹で玉子。はるちゃん、何がいい?」
 振り返って辰也が人見知りする陽貴に尋ねて、買い物かごから玉子を見せる。
「たまごかけごはん」
「……分かった。じゃ、これは玉子かけご飯」
 それは最早、ほとんど手を加える余地がない。
 が、5歳児を相手に注文をひっくり返すことはできず辰也は受け止めておいた。
「汁物は? お味噌汁? お吸い物? スープがいい?」
「はるちゃんには分からなくない?」
「分かんなくてもいいって。何がいい、はるちゃん?」
「……おすいもん?」
「の。おすいも、の。はい、了解。あとおかずが、お魚、鶏肉、豚肉、牛肉。どれがいい? 魚は鯵と鰆と鰤。ほら、いっぱい用意してきたから」
「ええ? 豪華すぎない?」
「鶏、豚、牛、味、鰆、鰤。どーれ?」
 尋問か詰問かでもするかのように辰也は次から次へとメニューを決めさせてから料理に取りかかった。
 お米を朝食用に一合分だけ研いで炊くところから始め、陽貴に見せながら辰也は手際よく朝食を作っていく。決まったメニューは鰤の照り焼きとほうれん草のソテー、かまぼこのお吸い物、そして玉子かけご飯だった。
「シェフってさ、どこでこんなに覚えたの、料理」
「知らないの? あの店、元々、親がやってたから厨房で教わってたんだけど」
「へえ……。あたしが今の店入った時って閉店してたからさ。にしてもこんだけ目の前で作られるとちょっと女としての自信が揺らいでくるわ」
「別に女の人だから料理できるってわけじゃないと思うけど……。凛子なんて作るのは全然だし。そのくせ、舌は何かすごいんだよな……」
「いいよねえ、シェフ。仲良しのお姉ちゃんいて」
「別に仲良くないし」
「ない、ない。そりゃないから。少なくとも凛子ちゃんはシェフのこと大好きでしょ。じゃなきゃ、あんなに良くしてくんないもん」
「ま、多少はね」
「多少って、シェフ」
「はい、できあがり」
 照り焼きのたれが煮詰まり、味を確認した辰也が皿に盛りつけてダイニングテーブルへ並べる。幼児用の椅子に座らされた陽貴は目の前にずらりと並んだ朝食を眺めてから夢莉を見た。
「ほら、いただきますして食べちゃって。これから保育園なんだから」
 言いながら夢莉は通園の準備を始めダイニングキッチンから別室に行ってしまう。生玉子を割って溶いた小さな器にはお吸い物にも使った出汁を煮詰めたものを少し混ぜて小葱も散らす。それも置いてようやく朝食の完成だった。
「朝ご飯食べないと元気になれないよ」
「……」
 小さな子供用の箸をグーで握るように持ったまま陽貴は料理を眺めては何だか気が乗っていないとばかりに動こうとしない。一体、どうして食べないのかと辰也も険しい顔で見つめる。
 目の前で作ったもの、しかも分かっていないとしても自分で選ばせたものならば食べてくれるのではないかという考えだった。それでこの朝ご飯を食べてくれれば、同じように丁寧に作ったのだと弁当も食べてくれるかも知れない。そういう魂胆が辰也にはあったが、朝食さえ食べてもらえないのでは無料出張料理の甲斐もなくなってしまう。
 だんだんと冷めていく手つかずの料理を眺め、だんだんと辰也は負け戦に臨んでいる気分になった。いてもたってもいられなくなり、割箸を割ってから陽貴の横に座る。
「ほら、鰆。自分でこれって指差したやつ。あれを、おいしいタレで焼いたやつ。タレおいしいから、タレ。ちょっとぺろって舐めて」
 割った箸の先にタレをつけて口元へ持っていってやると、ちらと陽貴は辰也を見てから、ぱくっと口に含む。
「おいしい?」
「……おいしい」
「じゃ、今度、魚の身の方。ちょっと骨あるけど、こうして骨よけて……はい、骨ないからこれ、ぱくって。鰆っていうお魚。すっごく柔らかいお魚。さっきちゃんと骨抜いたとこ見たでしょ? だから、ぱくって」
 言いながら鰆の身を少し崩し、端の先で持ち上げてこれも口元に運ぶ。
 その一欠片の魚の身をしばらく陽貴はじっと見つめ、おもむろに口を開く。そっと辰也がそれを口に放り込むとゆっくり咀嚼する。
「おいしい?」
「……うん」
「食べるの嫌い?」
「……ううん……」
「お弁当、どうして残しちゃうの?」
「……んう……」
 曖昧な声を洩らされ、辰也は首を傾げる。
「お弁当、おばあちゃんの代わりにお兄ちゃん作ってるから。いつも残されちゃうとさ、おいしくないかなって思うでしょ? だから食べてほしいんだけどさ、食べてくれないの?」
「んん……」
「お腹すかないの?」
「うん……」
「そう……」
 これはダメかも知れないと落胆し、辰也は箸を置く。
 残っている洗い物を片づけながら、どうして食べないのかと何度も何度も考えた。味は問題ないらしい。一応はおいしいと言ってくれている。おいしくとも好みではないということだろうかとも考えたが、どういう味が好きかを確かめるならば幼児相手では全て食べさせてみて一個ずつヒアリングをする必要がある。現実的ではない。
 どうしたものかと悩み、持ってきてから使わなかった食材を見た。店の金ではなく小遣いから捻出した食材だ。
「夢莉さん、食材、あげるから置いてっていい?」
「ええー? 今、料理する人いないもん、腐らしちゃうから持ち帰ってよ」
「じゃあ温めるだけにして作っといたらいい?」
「それ別料金?」
「タダだよ……」
「あ、じゃあお願い。ていうか、はるちゃん、もう行く時間。ほら、食べた、食べる食べる食べる」
 ダイニングキッチンに戻ってきた夢莉はもそもそしている陽貴を見るとじれったいとばかりに次から次へと、親鳥が雛に餌を与えるように口へ突っ込んでいく。そして意外なことに陽貴は突っ込まれるまま食べている。
 その様子を見ていた辰也は口をぽかんと開ける。
「はい、ご馳走さまでした。それじゃ行くよ。あ、シェフ、好きに作ってて? お酒のつまみ系だと嬉しいなー。よろしくー」
 嵐のように夢莉は陽貴を連れて出ていく。
 人の家のキッチンに取り残され、辰也は思わず額を押さえた。
「俺って何してんだろ……」
 垣間見てしまった光景で原因に思い至って少年は頭を振った。

 ▽

「お? 昨日より、食べてもらえてる? 良かったじゃん、辰也」
「……何となく分かった気がする……」
 戻ってきた弁当箱を開けた凛子の横から、辰也も弁当を覗き込む。
「何が分かったの?」
「多分だけど、分からないもの食べたくないだけだと思う……」
「分からないもの?」
「珍味系とか、げてもの系とか、よく分からないのって箸伸びにくいことあるでしょ。それと一緒」
「はあ、なるほど……」
「だから、これまでお弁当に入れてたようなおかず聞いといた。サイズ感とか形とかまで」
「さすがだね。転んでもタダじゃ起きないね。不屈っていうより負けず嫌い感だけど」
「うるさい」
 弁当箱を洗ってから辰也は今日の仕込みに取りかかった。
「今日のまかないって何?」
「野菜炒め」
「出た……。クズ野菜炒め」
「野菜クズだって無駄にしちゃダメだろ」
「そうなんだけどねー。何だかねー、手抜きっぽいなーって」
「……じゃあつくねハンバーグのトマトソースがけ」
「一気に手が込んだね。ムラがありますね、辰也くん」
「どうでもいいだろ、まかないなんて」
「ノンノン、まかないこそが大事なんだよ」
「はいはい」
 仕込みをしながら出た野菜クズをホールトマトで煮込んで味を調え、フライパンで焼いたつくねの上へかけて生野菜も添える。いつもならば味噌汁をつけるところで、おかずが洋風なことに合わせてコンソメスープも作った。
「はい、できた」
「おおー、つくねハンバーグって、言っちゃえば鶏肉のハンバーグみたいなものだよね? つくねとハンバーグって何が違うの?」
「つなぎとか、中に入れる具材とかの違いじゃない? つくねは長ネギとか、山芋とか入れてるけどハンバーグは入らないから」
「なるほど。で、このトマトソースと、コンソメスープにクズ野菜さん達が入ってるわけね。いっただきまーす。脇を固める副菜が変わらない味ですなあ」
 ぽりぽりと浅漬けを食べながら凛子がしみじみ呟くのを聞き流し、辰也はさっさと食べてからまた開店準備へと戻った。

 夢莉がふらりと店に来たのは、彼女の務める店が閉まってからのことだった。時刻にして午前3時。客が来なくなったので早めに閉めたということだった。
「何かね、今日はおいしかったって言ってたよ」
「へえ。でも残しちゃってたよね? 何でなんだろ?」
「さあ? お腹空いてなかったんじゃない? あ、ビールもう1本追加ちょうだい」
「はいはーい、辰也、ビール!」
 仕事を放棄して完全な飲み友達のように凛子は夢莉の隣で一緒になって飲酒中である。暖簾から少し顔を出してその様子を見た辰也は、ため息を漏らしてから瓶ビールを持っていく。
「仕事しろ」
「いいじゃん、こうしてお喋りしてるとお酒が進むんだから。ねえ、夢莉ちゃん?」
「そうそう。喋って飲ませるのが基本だよねー」
「ねー」
「酒もいいけど、だったら食べものの注文も取れっての……」
 遅い時間で客は少ない。のんびり、しみじみと語り合う2人組の中年サラリーマンと夢莉くらいしか客はいなかった。
「それじゃあシェフ、注文してもいい?」
「いいよ。何にする?」
「んーとねえ……あ、はるちゃんに作ってるお弁当。1回食べてみたいなーって」
「弁当箱に詰める? それともおかずだけ一緒にして普通に出す?」
「どうせだからお弁当箱がいいかも」
「いいよ。でもちょっと時間かかっちゃう」
「大丈夫、大丈夫。凛子ちゃんと飲んでるから。ねー?」
「ねー!」
 仲良しかと内心でつっこみを入れてから辰也は厨房へと戻った。――凛子は実際、客とすぐに仲良くなってしまうところをしっかり理解していても。

 次に作ろうとしていたお弁当の試食としても都合が良いと打算を働かせて辰也は料理に取りかかった。メインは生姜を利かせた、お店で出しているものと少し違う薄味の唐揚げだ。調味液にもみ込んでから少し放置し、小麦粉4対片栗粉6の比率の衣をつけてカラっと揚げる。
 玉子焼きは出汁と砂糖を入れて甘めにふっくらと焼き上げた。
 ほうれん草とじゃことくるみの和え物とミニトマトを彩りにし、おかず同士の仕切りにはレタスを使う。少し空きそうなスペースを見つけ、とうもろこしと人参のグラッセも作る。
 ご飯の上には梅干しを埋め、黒胡麻をふりかける。本当ならば荒熱を取ってから蓋をするところだったが、すぐに食べるということを考慮して、ほとんど冷めない内に蓋をしておいた。
「できたよ」
「おおー、待ってました」
「今ね、おかずに何入ってるか予想してたんだよ。あたしはね、やっぱり辰也のことだから焼き魚が一切れは入ってるんじゃないかなーって」
「魚は骨嫌いみたいだったから入れてない」
「いきなり外れた……。ちぇー」
 お弁当を開けて夢莉はいきなり写真を撮る。
 パシャパシャと角度を変えながらひとしきり撮影してから箸を取って食べ始めた。
「やっぱシェフのご飯っておいしいよね……。こんなの毎日食べられて、何で凛子ちゃん太らないの?」
「そりゃあもう、体質の賜物だよね」
「羨ましいなあ、その体質……」
「でもすぐ手抜きだからね、辰也って。いや料理人っていうのがそうなのかも。野菜炒めとか週に3度以上は出るし」
「ごねると手をかけてくれるけど、ごねないと手抜きがデフォだから」
「でもその手抜きもレベル高いんじゃない?」
「いやいやいや、野菜炒めなんて、汁がだばだばだからね。おいしいはおいしいけどさ」
「ほら、おいしいんじゃない。……でもお弁当って、あれこれあるけど、これっていうお決まりの一品もあるよね」
「ていうと?」
「んー、あたしの場合はね……ウインナー。切れ込み入って、塩コショウ振ってくれてたんだけどね、その塩コショウが濃いんだよ。2、3本あるんだけど、それだけでご飯全部食べられちゃうくらい。でもそれが思い出なんだよね……」
「分かる。あたしは玉子焼きかな。出汁と砂糖と入れてて、ちょっとお上品な感じでさ。大体、この玉子焼きってお母さん作ってたんだけど、たまにお父さんが目を盗んで醤油を数滴垂らしてくれてたことがあってさ。そうするといきなり、ご飯にがっつり合うことになっちゃうんだよね。多分、辰也のこれも同じで醤油垂らすといきなり変わると思う」
 言われて夢莉が醤油を一滴だけ垂らし、口に運ぶ。
 咀嚼し、すぐにご飯を口へ入れた。
「合う」
「でしょっ? もうね、お父さん、天才かなって思ったよね、この発見した時は」
「贅沢もんだね、シェフも凛子ちゃんもさあ。こんなのもう家庭のお弁当のクオリティー超えちゃってるって。仕出し弁当だよ」
「お弁当屋さんかあ。有りかも?」
「ダメダメ、それじゃ長居して凛子ちゃんと喋ってお酒飲めないし」
「ええー? そんなに嬉しいこと言ってもあんまりサービスしないよ? 辰也、ビールもう1本ね」
「自分でやれよ」
「きゃー、ビール、ビールっ。早くちょうだい、そのサービス。おだてるもんだね」
「どんどんおだててよ。何かさあ、辰也ばっかり褒められるんだよ、この店。あたしも仕事してるのにさあ」
「だって凛子ちゃん、お店の人ってより同じ客の友達みたいな感じだもん」
「そっか、しょうがないね」
「しょうがなくないだろっての……」
 ぼやきながら辰也は冷えているビールを持ってきて王冠を抜く。
 しかしふと、夢莉がたまに店へ来るようになったのは凛子が最初に連れてきてからというのを思い出した。やはり今と同じように2人で並び合うように座って、客同士であるかのようにお喋りをして、しかし夢莉はそれが切欠で来るようになったのだった。
 ちゃんとした仕事こそしないが、客を捕まえて通わせているのは凛子の手柄なのだろうかとも少し辰也は考えてしまうのだった。
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