第5話 缶詰

文字数 2,204文字

 私は食べ物に関して、珍しい物を見つけたらひとまず挑戦することにしている。
 そのために、新製品や見慣れない味の食べ物を見つければ買って食べてみる。外食に行くときはチェーン店ではなくローカルで個性がある店を探す。輸入物の置いてあるスーパーを物色することは習慣になっている。
 そんな私が一つだけ手を出していない物があった。スウェーデンで作られるニシンの塩漬けの缶詰。シュールストレミング。
 殺菌しないために缶の中で発酵が進み続け、様々な腐敗の臭い成分が狭い空間に閉じ込められることで生じる臭いは、「世界で最も臭い食べ物」としてギネス記録になるレベルまで高まる。人間が感じる臭いを数値化すると、納豆が452、焼き立てのくさやが1267のところ、シュールストレミングは8070にもなり、もはや食べ物どころかこの世の物とは思えない域に達する。
 だが何をとち狂ったのか、友人の一人がそれを手に入れてしまった。なにやら非常に安い物を偶然見つけて、ついつい買ってしまったらしい。売られていた最後の一個で、値段も他の数分の一しかなかったそうだ。ノリが軽い男なので、深く考えずに買ってしまったらしい。冗談抜きで破裂する危険があるために放っておくことも出来ず、仕方がないので他の友人にも何人か声をかけて、全員で消費することにした。地獄に道連れだ。

 結局、友人の実家の裏山の空き地で開けることにした。ここなら悪臭で警察を呼ばれることがないし、危険物を埋めても文句は言われない。念のため、使い捨てに出来る(燃やしても有毒物質が出ないらしい)カッパととゴム手袋を用意しておいた。
 食べ方もリサーチして、付け合わせに大量の玉ねぎやらジャガイモ、トマト、クラッカーと、ウォッカとアクアビットを4本用意する。強い酒を用意したのは、臭み消し以外に、食べきれなかったときに焼いて始末する燃料の意味もある。
 さて決行の日、予定通り集まった私たちはまるでこれから毒ガス汚染地帯に入ろうとするかのように、服の上からカッパを着て、手袋を装備して、隙間をガムテープでふさいだ。問題は誰が最初の犠牲者――つまりは開封する役になるかだったが、ジャンケンで私になってしまった。
 空けた時に中身がガスで噴き出して飛び散るのを防ぐため、水の中で開けた方がいいらしい。そこでバケツに水を貯め、問題の元凶である友人が懐中電灯で私の手元を照らすなかで、私は水中で缶に缶切りの刃を突き刺した。
 その瞬間、ピンクとも何とも言えないドロッとした物があふれ出し、出てきたガスが気泡になって上ってきた。水面に出てはじけた時に私の嗅覚を襲ったのは、もはや人間が表現できるレベルを超えた、物理的な威力さえ伴った‟臭い”だった。
 懐中電灯を持っていた友人はつぶれたカエルのような声をたてて顔を背け、私も鼻を通じて脳を殴りつけてきた臭いに意識が遠きかけた。胃の中身が逆流しそうになったものの、何とかこらえて缶切りで缶の蓋を切り裂き続けた。
 友人はこちらを懐中電灯を照らすどころではなく、腰を折ってえずいている。お前が買ってきたんだから、せめてちゃんと照らせと思うが、流れ出てくる内容物で水が濁り、私の方も臭気で目に涙が滲んでいるせいでよく見えない。
 もうここまでくればヤケクソだと、缶切りをギコギコやり続け、どうにか蓋が開けられそうなところまで切り開いた。

 その時、蓋が内側から押されるような感触があった。中身がこぼれ出そうなのだと思って缶を上に向けて軽く蓋を押さえたが、内側から蓋を推す力はさらに強く、何かが中で「動く」感触がした。
 あれ?と思う間もなく蓋が内側から開かれ、できた隙間から「何か」が出てきた。出てきたそれはニシンの半身ぐらいの大きさで、濁った水の中では暗い色をしているように見えた。それがビニール手袋越しに私の手に触れると、両生類の肌のような、ぐにゃりとした嫌な感触が走った。
 そいつが水中にいたのは一瞬で、すぐにバケツ内側を這い上がり、外に出てどこかに消えた。下生えが鳴る音がしただけで、後には何も残らなかった。懐中電灯の光が明後日の方向を向いていたせいで、出てきた‟もの”の姿はわからないままだった。
 懐中電灯役の友人が立ち直り、私は開封‟された”缶を引き上げた。中には半ばとろけたようになったニシンの切り身が入っており、はっきり言えば腐った残飯にしか見えなかった。

 試食の結果、全員が「最悪」の感想しか言えなかった。付け合わせを全部消費し、アルコールを2瓶空にして、ようやく食べきることができた。2人が耐えられなくなって吐き戻したので、食べきったと言えたかどうかは怪しいが。
 幸いなのは中身が予想よりもはるかに少なかったことだろう。発酵が進みすぎると、魚の身が本当に液状化してしまうらしい。ほとんどが溶けてしまっていたので、水の中で開けたときに流れ出てしまったのだという結論になった。
 でも、私は知っている。中身は‟あれ”が食べてしまったのだと。あれがどんな形で缶に入ったのかは知らないが、大きくなる前に一緒に食べてしまったらどうなったのだろうか?
 缶を買ってきた友人は、世の中なんでも経験だと言うが、しない方がいいこともあるという格言めいたものを残した。私もそれには同意している。
 少なくとも、わけのわからん怪しい缶詰を食べるのはやめておいた方がいいかもしれない。
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