ファントムリム~失った手の感覚が…

文字数 6,460文字

 ファントムリムという言葉を知っているだろうか? 
 病気や事故で失った手足の感覚がそのまま残っている。
 幻肢ともいう。
 それは幻の手足。

 手を失った人は失ったその手で「グーチョキパー」だって出来る。
 あるいは目をつぶっていると自分の手や足の感覚がはっきりと残っているのに、目を開けるとそこにはもはや自分の手や足はない。
 そんなもどかしくてやりきれない感覚。

 ファントムリム…幻肢。
 そんな過酷な運命を背負った高校二年生の男女。
 祐介と佳奈。
 
 祐介は野球部で控えの投手。
 左利きで、だから左ピッチャーだ。
 彼は小さい頃から投げることが大好きで、家の近所のうさぎの公園の壁で、毎日のように「壁当て」をやってだんだんと上手になり、今では野球部の試合で時々投げさせてもらえるくらいのピッチャーになっていた。
 とにかくコントロールが抜群だった。

 佳奈はピアノが得意。
 といってもピアノの先生についてレッスンを受けていたというのではなく、小さい頃から家にあった古いピアノを弾いていた。

 佳奈の父はジャズが好きな人で、家にはオスカーピーターソンや秋吉敏子の、ピアノの古いレコードなんかもあった。
 だから彼女は、いつかは秋吉敏子みたいなジャズピアニストになりたいなんて、夢のまた夢のようなことを考えながら、それでもその頃は童謡やアニメソングや、それから定番のメヌエットやアラベスクなんかを独学で練習して弾いていた。
 
 そんなある日の四時間目の授業。
 教科書を忘れた祐介は、隣の席の佳奈と机をくっつけて授業を受けた。
 男の子にとってはラッキーな瞬間…
 そして授業が終わり、だけど昼休みになってもそのまま机をくっつけて話し込んでいた二人。

 祐介は変化球の投げ方の話。
 佳奈はメヌエットやアラベスクの弾き方の話。

「アラベスクはサビの部分のリズム感が難しいのよ」
「スライダーよりも本当はチェンジアップの方が難しいんだ」。

 二人に共通するのは「監督」とか「先生」とかに師事するのではなく、「我流」と言われてもいいから、自分で考え自分で練習すること。
 そんな共通の考えを持つ彼らは一気に意気投合した。

 そして彼らの話はずっと平行線をたどったけれど、二人は飽きることなく自分の夢を語り続けたのだ。
 そしてそれ以来二人は仲良しになった。

 そんなある日、彼らはキャッチボールをやった。
 祐介が今でも「壁当て」をやる、近くのうさぎの公園で。

 祐介は右利き用と左利き用の二つのグラブを持っていた。
 そしてその右利き用のグラブを佳奈に貸してあげた。

 最初のうち祐介は、佳奈が捕れるようにふわりと投げていたけれど、突然祐介はこんなことを言った。

「いいか。思い切り投げるぞ!」
「え~!」
「グラブを構えて」
「だめよ。本気で投げたら」
「本気で投げる!」
「え~、捕れないよ」
「グラブを構えて!」
「構えるの?」
「そうだ!」
「じゃ、こう?」
「うん。そんな感じ。で、グラブを動かすな。そこに投げてやるから」
「本当?」
「そうだ」
「本当に投げられるの?」
「僕を信じろ!」
「え?」
「僕を信じろ!」

 本当に投げられるのかとても不安だったけれど、佳奈は祐介を信じ、目をつぶった。
 そして祐介は見事に佳奈の持つグラブにボールを投げた。

 祐介が佳奈の家に遊びに行ったときには、佳奈は佑介に見事なピアノの演奏を披露した。
 メヌエットにアラベスク。
 それとメリーポピンズに出てくる「鳩に二ペンス」を少しだけ、ジャズ風に。
 形にとらわれない、自由で感性に満ちた演奏。
 祐介はうっとりと聴き惚れていた。

 そんな彼らは学校の帰り、川沿いの堤防の道を一緒に歩いた。
 初夏の日差しがまぶしかった。
 緑の風が心地よかった。
 そして彼らは歩きながらいろんな話をした。
 佳奈の音楽のこととか、祐介の野球のこととか、二人の将来の「夢」とか…

 そして二人は手を繋いだ。
 祐介の左手と佳奈の右手。
 突然、祐介は言った。

「俺たちの手って、芸術品だね」
「どうして? あ、そうか。祐介君、あんなに正確に投げられるもんね」
「佳奈ちゃんのピアノだって凄いじゃん。感動したよ」
「でも、まだまだよ」
「だけど、やっぱり芸術品だよ。貴重品かな」


 そんな幸せな日々が続いた夏休みのある日。
 佳奈は自分の右の手の平に出来た大きな「ほくろ」に気付いた。
 しかもそれは日に日に大きくなり、周りにしみ出すように広がり始めていた。
 ハンカチで手を拭いても血が出てしまうこともあった。
 しかも佳奈の右ひじのあたりにも小さな「しこり」が出てきた。

 心配になった佳奈はある日、両親と大学病院を受診した。
 それからいろいろと検査を受け、そして数日後、主治医の渡邊先生は佳奈と両親に説明した。

「悪性黒色腫という皮膚がんです。右肘のリンパ節にも転移しています。だから助かるためには、助かるためには、残念ながら右腕を切断するほかはありません…」

 そのときピアニストになるという、佳奈の子供のころからの夢が、音を立てて崩れた。
 右手を失えばピアニストとしての将来はどうなるのだろう? 
 佳奈は絶望した。
 両親も言葉を失った。

「だけど…、助かるためなら仕方がないよな」
 しばらく考えて、それから佳奈の父が押し出すように、そう言った。

「だけど少しだけ考えさせてもらえませんか? 先生、腕を切るかどうか決めるの、何日か待っていただけませんか?」
 あまりにも突然の出来事に、佳奈は困惑していた。

「早い方がいいけれど、大切なことだからね。二、三日なら…」
「私、二、三日考えてみます」

 それから家に帰った佳奈は両手でピアノを弾きながら、自分の右手のことを考えた。
 きれいな旋律を引き出してくれる自分の右手。その右手が愛おしくて…
 だから佳奈はどうしたらいいのか分からなかった。

(どうしてこんな素晴らしい右手を失わないといけないのだろう? どうして? こんなとき私、どうすればいいの? そうだ! 明日、祐介に逢いに行こう。どうしたらいいか彼に相談しよう…)
 佳奈は思った。

(…命が懸かっているのなら、腕を切るしかないのかもしれない。だけど自分はピアニストになりたい。だけど、だけど、ピアニストになれないなら死んだ方がまし? だけど、だけど、やっぱりどうしう…、とにかく明日、祐介に相談して決めよう!)

 佳奈はいつも川沿いの堤防の道を、手を繋いで歩いた祐介に相談したかった。
 キャッチボールをやった祐介に相談したかった。
 いつも祐介と繋いでいた自分の右手。

 祐介が「芸術品」と言ってくれた、自分の右手をどうするのか…

 次の日、佳奈は携帯で祐介に連絡した。
 だけど、なかなか繋がらなかった。
 やっと繋がって、やっと祐介と話が出来た。

「あ、祐介君? あの、私…」
「佳奈ちゃん。俺の左腕、無くなっちゃったよ」
 祐介は涙声だった。

「え! 今どこにいるの?」
「大学病院」

 そのとき祐介は交通事故に遭い病院で手術を受け、麻酔から覚めてしばらく過ぎていた。
 自転車に乗って、トラックに巻き込まれて…
 祐介は重傷を負い、手術で左腕を切断し、だけど命だけは助かっていた。

 それから佳奈は急いで祐介の入院する大学病院へと向かった。
 病院に着くと佳奈は祐介の病室へと走った。

 ベッドには祐介がいた。
 祐介の左の二の腕には、痛々しく包帯が巻かれていた。

「左腕、無くなっちゃったよ。もう投げられないよ。真っ直ぐも、チェンジアップも、スライダーも…」

 そのとき佳奈は返す言葉がなかった。
 キャッチボールをして、あんなに正確にボールを投げていた祐介の左腕。
 いつも繋いでいた祐介の左手。
 それが失われてしまった。
 腕を失う…

 ピアニストを目指す自分は右腕を失うかもしれない。
 それを祐介に相談しようと思っていたのに、その祐介は大切な左腕を失っていた。
 左投手としてチャレンジしようと思っていた祐介の、その左腕…

 そして佳奈はその日、自分の右腕のことを佑介に言い出せないでいた。
 祐介に相談して、右腕を切断するか、さもなければ、死んでしまおうか…
 それほど思いつめ、追いつめられていた佳奈は、そのことを祐介に相談するつもりだったのに。

 だけどいきなり大切な左腕を失った祐介を目の当たりにして、彼女は言葉を失っていた。
 それでもやっと、祐介に掛ける言葉が見付かった。

「せっかくの、芸術品の左腕だったのにね…」

 ピアニストを目指す自分が右腕を失うことが、どんなに辛いことか。
 そして投手…もしかして、プロ野球を目指すかも知れない祐介が左腕を失ったことが、どんなに辛いことか。

 それから佳奈は手術を受ける決心をした。
 手術は無事に終わり、経過もよく、右腕を失ったものの命は助かった!
 それからしばらくして、佳奈の父は「左手のための分かれの曲」という楽譜を佳奈に贈った。
 
右手が不自由なピアニストのために、たくさんの「左手のための曲」が存在することも教えてくれた。
 脳卒中やジストニアという病気や、いろんな理由で右手が使えなくなったピアニストが、たくさんいることも。
 左手だけで演奏するピアニスト…

 絶望のトンネルの遥か向こうに、小さな光が見えた。
 そして佳奈は思った。

(よし。左手一本で弾いてみよう!)

 それから佳奈はその楽譜で必死に練習した。
 そして意外にも左手だけで弾いたその音色は、シンプルだけど重厚で、とても心に響くものだった。
 左手一本でこんなに感動できる曲が弾けるのか!
 佳奈は驚いた。
 そして自分に残された左手が愛おしかった。

(神様は私に左手を残してくれたんだ。だったら私、左手だけの演奏で世界中の人を感動させられるピアニストになってみる!)
 佳奈はそう心に誓った。

 それからしばらくして、佳奈は左手の演奏を祐介に聴かせたくて、携帯を鳴らした。
 佑介はすぐに電話に出た。
 彼もすでに退院していた。

「今、どこにいるの?」
「うさぎの公園の壁」
「壁で…、何してるの?」
「ボール投げ!」
「え?」
「来ないか? キャッチボールしようよ」
「出来るの?」
「あたりまえだろう」

 それから佳奈は、急いでうさぎの公園へと向かった。
 祐介は壁に向かって右手で投げていた。
 彼に残された左の二の腕と脇の間には、左投手用のグラブが脇に挟まれていた。

 祐介は右手で器用に投げ、すぐさまその右手を脇に挟んだグラブに突っ込み、ころころと転がってくるボールを右手で捕っていた。
 それから佳奈は、祐介に渡された右投げ用のグラブを付け、キャッチボールを始めた。
 そして佑介が投げた、最初の球を捕った佳奈は言った。

「だけど私、投げる腕がない」
「だったらグラブトスしなよ」
「それ何?」
「グラブで投げるんだ。ソフトボールみたいに下から」
「下から?」
「そうだ。下から」
「こう?」
「そうそう上手いじゃないか」

 そういうと佑介は、素早く右手にはめたグラブでその球を捕った。
 お互いに利き腕を失った彼らは、それでもキャッチボールが出来た。

 それは彼らにとって、奇跡に思えた。

「ねえ、ここに投げてみて」
「え?」
「左でここにびしっと投げたじゃない」
「だめだめ。俺の右腕はまだまだ信用できないんだ」
「そう。それじゃ必死で練習しなよ!」
「そうだね」
「ねえねえ、今度、私のピアノの演奏聴いてみない? 左手の。練習してるんだよ。まだまだ下手くそだけどね」

 祐介は右投げの投手として、佳奈は左手のピアニストとして、それぞれの道を見付けたようだった。

 だけどその直後、彼らをもう一つの「不幸」が襲った。
 佳奈の父が仕事でニューヨークへ赴任することになったのだ。
 三年間。
 佳奈は日本に残るのか、家族とニューヨークへ行くのかを迷った。
 佑介にも相談した。
 だけど佳奈一人、日本に残ることなど考えられなかった。

 そして佳奈は最終的に、ニューヨークへ行くことを決意した。
 ニューヨーク。
 ジャズの街。

 佳奈はピアニストとして、左手のジャズピアニストとしての道を歩むため、三年間、ニューヨークでピアノを学ぼうと決意したのだ。

 数日後、佳奈は左手の演奏を佑介に聴かせた。

「左手のための別れの曲」
 佑介は涙を流してこれを聴いた。

「初めて聴かせてあげる、左手の演奏が『別れの曲』だなんて…」
 佳奈も泣いた。
 だけどそれから佑介は、突然こんなことを言い出した。

「俺達、これからもずっと手を繋いでいようね」
「そうね。だけど私、アメリカへ行くのよ」
「でも一万キロ離れていたって、手を繋いでいられるんだ」
「どういうこと?」

 ファントムリム…失われた手足の感覚が残っている。
 佑介と佳奈にも、失われた手の感覚があった。

「俺、手術してくれた渡邊先生に頼んだんだ。俺の腕、貴重品だから永久保存してくれって」
「そうだったの」
「それに佳奈の右腕だって永久保存されているじゃないか。大学病院に」
「そうね」
「だから明日大学病院に行って、渡邊先生に頼むんだ」
「何を?」

 次の日、二人は大学病院へ行き、佑介は渡邊先生に全てを話した。
 渡邊先生はじっくりとその話を聞いてくれ、佑介の提案を快く受け入れてくれた。

「だけど君たち、切断した自分の腕を見られるかい?」
「…」
「どうする?」
「私…、見る!」
「じゃ、俺も見る!」

 それから彼らは渡辺先生と一緒に「病理標本室」と書いてある部屋の中へ入った。
 渡辺先生は「ちょっと待ってな」と言って、少しして大きなタッパを一つずつ抱えてきた。

 一方のタッパには佑介の左腕、もう一つのタッパには佳奈の右腕が、アルコールに浸けられて入っていた。

 永久保存してある「貴重品」の二人の腕。

 それから渡辺先生はさらに大きなタッパを抱えてきて、ゴム手袋をしてから言った。

「じゃ、手を繋いでもらうよ」

 それからそれぞれのタッパから二人の腕を取り出し、二人の手のひらを重ね、そしてひもでかるく縛り、その二本の腕を大きなタッパに入れた。

 ファントムリム…失われた手足の感覚が残っている。
 佑介と佳奈にも、失われた手の感覚があった。

 それから二人は一度目を合わせ、そして言った。

「あ! 繋がった!」
「うん。繋がったね!」
「これから俺達、ずっと手を繋いでいられるね。一万キロ離れてても」
「そうね。私が向こうで左手のピアノの練習をするときも、ずっと祐介君と手を繋いでいられるんだね」
「そうだよ。俺がボールを投げる時も、繋いでいられるんだ!」
 
 二人が手を繋いで歩いた川沿いの堤防の道。
 初夏の心地よい緑の風。
 二人のあの時間は永遠になった。

「俺、ジムアボットみたいなピッチャー目指すんだ」
「その人、誰?」
「片腕のピッチャーさ。大リーグでも活躍したんだ」
「それじゃ私は左手だけのピアノで、カーネギーホールで演奏しようかな」
「これから二人はしばらくの間離れ離れだけど、ずっと手を繋いでいられるんだから、きっとどんなことでも乗り越えられるだろう?」
 渡邊先生が言った。

「乗り越えられます!」
「きっと…乗り越えられるさ!」
「そうだね。君たちならきっと出来るよ。三年なんかすぐに過ぎるさ。だから、これから二人とも辛いだろうけれど、きっと頑張るんだよ!」

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