躑躅

文字数 5,821文字

 結局、退寮のための荷物整理は捗らなかった。とりあえず風呂場とトイレを片付け、入院に必要なものを用意して、あとはずっと布団にくるまっているか、いつものように音楽を聞きながら部屋を延々とぐるぐると歩き回るだけだった。この癖は幼稚園の頃にはもうあり、よほどの鬱状態で起き上がれないときでなければ、ずっとぐるぐる回らなくてはならなかった。部屋は荒らし放題だったので、仕方なくベッドの上を歩き回った。どうせ下の住人も、帰省していていないのだ。
 もう一年ほど住まなかった部屋は、ベランダが鳩糞に荒らされていて、本来は自力で原状復帰しなければならないところだが、不動産屋である父が、この状況ではあるし、学校が長い間登校禁止だったのだからと色々管理会社に掛け合ってくれ、駆除業者等の手配をしてくれることになった。
 あとは自分の荷物の整理くらいで、どうせ大きなベッドや家電等は一人では出来ないのだから、入院後のゴールデンウィークに両親が来て片付ける手配になっていた。上京前に私も荷物を一旦運び入れるためのトランクルームを手配したり、引越しの見積もりをしたりと慌ただしくしていた。
 そうしているうち、引っ越しの手伝いや入院費など、自殺未遂らしきものをしたせいで、両親に迷惑を掛けている、特に金銭面に関して、不安に駆られ沈鬱な気持ちになった。数日間家族が帰ってくるまで私は自傷し、泣いていたが、私の事情とは関係なしに物事は進行するものであるから、寝ながら授業をぼんやりと受けているうちに回復した。スクールカウンセラーに泣きついたおかげもあるかもしれない。



 入浴したり、飯をのんびり食ったりと、あまりにも準備から家を出るまでもたもたしていたので、新幹線で飛ばしてきた母をイラつかせながらも、細雨が降る中病院へと向かった。
 もたもたしていた訳は、入院というものが始めてである上に、近年よく日本の精神科医療の問題がニュースやネット記事、ブログで取り沙汰されていることから、そのハズレを引いたらどうしようという不安があったからだ。
 それでも、入院を辞めて実家に帰るには、家族と顔を合わせるのがしんどかった。私が何度か「やらかしてきた」こともあるし、騒がしい家から、うっかり一部では名のしれた国立大学に入ってしまったばかりにかかる、早く治って普通に戻るだろうという親の希望的観測から逃れるためでもあった。
 人には誰しも人生の絶頂というものがあり、絶頂があるからには転落するのであり、その速度が早いか遅いかの違いなのだから、私は「回復前」というのがどこを指すのかよくわからなかったし、何をしてもどうにもならなかったことを知っているのは私自身なので、この先どうにかなるとも全く思っていなかった。せめて、自殺する覚悟か「普通に」生きていけるように戦う覚悟をつけるために入院しよう、と考えていた。



 担当医とは初診のときに顔をあわせていた。曰く私の主治医である、大学の精神科の教授の後輩にあたり、学会で何度か顔を合わせたらしい。ぼそぼそと喋り、細長い体に白衣を巻きつけ、眼鏡と中央分けの髪という、まさに精神科医のお手本のような姿をした彼は、初診で主治医が最近出版した本を褒めそやし、あれを読んだか聞いた。私はまだ読んではいないが買った、題材としている三島由紀夫の『金閣寺』は好きな小説なので、と答えた。また彼は主治医の他の著書も感心したように、「あれは……なんというか、素晴らしい、いや、素晴らしいというのもなんだけど、読むべきですよ」と言った。その本は図書館で見かけたが、タイトルからして全く読む気になれなかったし、役に立つとも思えなかった。なるほど、またいつか読んでみますねと受け流した。

 待合室で必要書類を母とともに記入し、預かり金として母は十万ほど現金を取り出した。それを看護師に渡すのをぼうっと見ている間、ああ、自殺できなかった私は、それなりに金がかかってしまうのだ、この先資金が尽きたらどうやって生きていくのだろうと胸の痛みを覚えた。 
 母とはここで別れ、スーツケース、バッグ、段ボール箱といった荷物を、ガラガラとうるさい台車に乗せて部屋に運び入れた。希望していた値段の個室の空きが出来るまで、もうワンランク上の個室に希望価格で入っていてもよいということだった。ワンランク上とは言っても、この病院はもともとの建物を改装工事中で、年季の入った一般病院だった建物に仮住まいしている状態であるため、どこもかしこもガタが来ていた。初診のときなどはコンピューターとレジが故障し、「入院する際のツケ払いでいいです」と言われたほどだった。清潔に保とうとしている努力は伺えたが、蛇口や排水管の金属や、窓のサッシの部分などは必ず錆びるか薄汚れていた。(今日、ついに私の部屋の排水管が漏水し、部屋が水浸しになった。他の部屋の水道も具合が悪いらしい)

 それでもわざわざこの病院に入院を決めた理由は、一つは私の一応の診断名である「広汎性発達障害」の専門科や専門医を持つ、珍しい病院であるということと、もう一つは名称が現在のものになる前、大学の主治医とスクールカウンセラーがこの病院で働いていて、担当医やソーシャルワーカーなどは彼らの顔見知りだったからだ。
 親は私が、お互いにこのまま一緒にいるのはしんどいだろうし、入院したいと私が投了したときに、その病院ならと認めた。理由はそれなりの権威を持つ、私の主治医の紹介があったからだろう。一時期、近所の評判の悪い精神病院の介護職員として、認知症患者の入浴補助等をしていた母は、精神の病棟はあまり見ていないといえど、そこはなかなかのものだったらしく、やはり心配なのだろう。


 部屋に入り、入院生活のルールについて一通り説明を受けると、まずPCR検査をした。プラ製の容器の目盛りまで、口の中を吸いながら頑張って唾液を絞り出した。看護師に渡すと、基本的に私は外出届けを出せば一時間までなら外出が出来るが、結果が出るまでは感染拡大防止のため、外出は出来ないといわれた。どうせここ一年はまともに外に出ていなかったのだから、数日くらい大したことはないと頷いた。
 看護師が去ると、荷物を解いた。着替えや貴重品、衛生用品など大したものはない。それらを、机と、ロッカーと、ベッドと、洗面台だけの、殺風景だが実家の私の部屋よりはそこそこ広い部屋に適当に配置していく。ただ、事前に主治医の許可を得て、オンライン授業用のパソコンとスマホは持ち込んでいた。それが命綱だな、と思いながら、ポケットWiFiを充電するための差し込み口を探していると、ノックがした。
 「ちょっと今構いませんか」
例の細長い担当医だった。
 「あ、はい……大丈夫です」
と返事を返したが、マスクを外していたことを思い出し、慌てて机の上の紙マスクを装着した。
「ちょっとあちらの部屋でよろしいですか」
と言われ、使用可との掛札がかかった部屋に案内された。



 「……入院されてどうですか?お部屋は何かご不便はありませんか?」
「入ったばかりで分かりませんが、今のところは大丈夫です」
「そうですか、今まで飲まれてきたお薬などで何か副作用は……」
 薬は、少量ながらも色々試してきた。しかし、あまり効いたという試しがなかった。それは私の生まれ持っての性質、性格、環境、そして考えの誤りによって私は道を踏み外しており、その性質という点に関しても薬にあまり効力はないと、私が懐疑的だからだ。
 大学図書館の、叢書ウニベルシタスの脇にあった精神科医療の歴史について簡単にまとめた概説書、そして加賀乙彦の「フランドルの冬」を愛読していたこともそれに拍車をかけたかもしれない。
 「副作用は……ストラテラは2度ほど試しましたが、腹痛の副作用と、SSRI系のお薬と同じように、ハイになって自殺衝動が起こるという感じですかね」
「そうですね、それは……カルテにも書いていますね、今後はその系統は禁忌にしましょう」
「はい」
「以前お話してくださったと思いますが、もう一度お困りのことを話して頂いてもよろしいですか?……しんどくなければ」
「大丈夫です……そうですね、私が自殺未遂っていうには中途半端ですけど。首を吊ろうとしたのは、初診のときにお話したように、将来に対する不安と、自分がどうにもならない人間だと思ったからですね。でも親が帰ってきて、いや、それは言い訳で本当は怖くて死ねなかったから、近くの公園に行って、着の身着のままでどうしようって思って池を見つけて、しばらくそこに佇んでいました……身を投げようかと思ったんですけど、しばらくあまり食べていなかったし、睡眠不足で眠いしで、怖い怖いと思いながら、蹲っているうちに寝ていました。起きてみるとあまりに冷たくて、飛び込もうにも手が悴んでいるものですから。ですが家に帰ることも恐ろしくて、するとこの公園を抜けた先の駅に、実家に戻ってから行ってるかかりつけの病院があるから、そこにとりあえず行こうって思ったんですね。でもお金もないし、予約もとっていないから……どうしよう迷惑だ、追い返されるかもしれないと思いながら、外の椅子に座っていると、たまたま看護師が私を見つけて。それで先生に見てもらって、やっぱり私家にいるのも辛いし、ここにいても治る気がしないので入院したいですっていって。それでまだ電話面談をして頂いている学校の〇〇先生の紹介もあったし、この病院に決めたわけです」

「うん、それは大変な思いをされてきたと思います」
私は僅かに身じろぎした。なんだか腹が減っており、鳴ったらどうしようと思った。
「そうですね……昔からいじめっぽいことをされたり割と浮いてる子だったんですけど。高校入学前急に漠然とした不安と恐怖心に襲われて、それ以降拍車をかけたように人とか社会への恐怖心が強まっていきました。大学に入っても不安で、一人暮らしとかサークルとか図書館でのバイトとか、やらなくてはならないことが増えて、授業とかレポートとかもこれで合ってるのかものすごく心配だったし、そもそも自分は美術とか芸術を学ぶことに向いてないし、興味がないということに気づいて。学芸員になりたかったんですが、今は非正規雇用が主になったし、正規はなるのも大変で、院に行くべきか、それとも将来公務員とかになろうかなって考えたり、いや、就活のためになにかインターンとか行ったり資格を取るべきかって不安を抱えていました。そもそもこの頃には一人での生活とか日々の生活が上手く回らなくなっていて、処理が出来なくなっていました。お話したように、いじめられていた小学4年生の頃に始めて自殺を考えて、それ以降中学や高校でもしんどくなることが度々あり、特に高校では、今までそこそこ出来ていた勉強に身が入らなくなって、なんとかしなければとはずっと思っていたんですが、いざ向かうと不安になって出来ないことが繰り返されていたんです。大学では、次第に登校したり外に出たりすることが、最初はしんどいことがあったときに、ちょっと休もうってサボってみたくらいだったんですが、怖くて登校できなくなりました。外出も人の目が怖くなって、夜中にコンビニに食べ物を買いに行くくらいしか出来なくなりました。それでも大学図書館の週2回のバイトには頑張って行ってたんですが、食事をとったり風呂に入ることも出来なくなって、バイトを無断欠勤してしまったんです。明日謝りに大学に行かなきゃならないけど、どうしようってパニックになって。そのときに発達障害の障害者手帳を持っていて、同じ予備校出身で同期で一番仲のいい友人なら、話せるかもと思って連絡してみたんです。そしたら彼女が付き添ってくれて、学校の精神科にかかったんです……」
 
 実家に戻って来て、薬をもらうために例のかかりつけ医の初診に赴いたとき、カウンセラーや主治医に何度か繰り返してきた回答だ。そこに最近あったことが付け加わるかどうかでしかない。
 私はそんなものもうどうでもよかった。「彼女」との思い出や、美しい子供時代を抱えたまま、ガキじみたまま、精神も知識も聞く音楽も時が止まったまま、早く死にたかった。私という人間は、高校のスクールカウンセラーや母に言われたように、「悲劇のヒロインぶってる」のだった。そうならないためには、下らない人間になり、生産性もない人間にならないためには、死ぬべきだった。本来人間はそれぞれ等しく「人間であること」という価値があり、それと同時にどの人間も等しく価値はない、いや価値があってはならないと考えていた。自分の生へ無自覚でいられず、かといってその意味付けが出来なくなり、うだうだしているだけ、将来はよくて引きこもりの私は、なんの利益も「私」に齎さないため死ぬのがベストだった。


 「一つは絶対的な死。もう一つは緩慢な生。行き着く先は、死」だったか、間違っているかもしれないが、皆川御大の小説の一文で、中学の時に始めて読んで以来、私はずっとあの戦時下での少女同士の愛を描いた作品が好きだった。始めて読んだとき、体に甘美な響きが走ったことを覚えている。
 それはその頃、合成音声の歌を何度も聞きながら、転校してここにはいない「彼女」への感傷に溺れ、涙を流しながら、それに逃げこんでいた私が理想とする世界だったからだろう。

 
 そう、結局は生か死しかない。だから私は、どうしようもないところまできてしまう前に、決着をつけなければならなかった。


 「……お話しをお聞きしましたが、そうですねぇ、やっぱり気分の変動や、脳で処理するときの解像度が高すぎることにより困っている側面はあると思うんです。薬が何か役にたつとやっぱり思うんですが」
 私は彼がそういう他ないことを、これまで何度も「支援者」達と話してきた経験から知っていた。
「はい。そうですね。やっぱりそういったお薬の調整は入院中にしかできないと思うので、よろしくおねがいしますね」


 三日後、PCR検査の結果が出た。陰性であった。
水や生理用品を買うために久しぶりに外に出ると、病院の前の躑躅が咲いていた。一つ、茎から伸びる細い糸のようなもので辛うじてぶら下がっている、首の折れた花があった。



 昔、彼女との帰り道、躑躅の蜜をよく舐めていたことを思い出した。




 
 
 
 
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