月暈

文字数 3,481文字

 4月27日、つまり入院する二日前の夜道、月が暈をかぶっていた。


 《コンポジション》の柄の買い物袋が体に当たってサリサリ音を立て、時折中の飲みかけのペットボトルがチャポチャポ言うのが、静まり返った夜道で際立っていた。
 下町に似つかわしくない少しだけ洒落た趣の街灯が照らす通り。左手はただ白く四角いだけのマンションが広がる団地である。右手にはフェンス越しの送電塔の足が、隣家の光を受けて朧げに光っている。

 寮を引き払う準備のため、一昨日私は上京していた。3週間前に自殺未遂らしきものをしたことが嘘のように、掃除や手続きなどやるべきことに追われていた。

 もう人がいない。もう何度目かになる例の御勅令のせいで、店が20時にしまってしまう。私が一年前にこの街に住んでいたとき、今歩いている住宅街に抜ける前の、駅北口から未完成の環状線を繋げる道々は、パチンコ屋や風俗店、あるいは年季の入った建物がせせこましく並ぶ商店街を繋げていた。南口を出てデパートからショッピングモールへ繋がる大通りはファストフード店と居酒屋の明かりが立ち並ぶ。脇の商店街に入るとタバコの吸殻がぼたぼた落ちていて、ここ一帯は下町特有の騒がしさと汚らしさに溢れていた。
 「不要不急の外出は避けて下さい」と連日叫ばれる中、私はどうしても駅の近くのショッピングモールに行かなければならなかった。19時半、引越し前の嵐のあとのようにひっくり返した部屋で入院に必要なものを確認していると、箸箱が心許ないことに気づいた。持参した子供用の小さな箸やスプーンやフォークでは、一ヶ月、二ヶ月ほどの入院には不便だろうと考え、これは不要不急であると言い訳をつけ、実際はもうここに来ることはないだろうから、最後の思い出にどうしてもそこに行きたかったのだ。
 明日から店は臨時休業だから、行くなら今しかない。勿体ない、毎度感傷に駆られてこういう浪費をしてしまうと思いながら、急いでタクシーをつかまえ、慌ただしく買い物をした。目当てのもの、期間限定出店のケーキ、朝食用のパン、チューハイを買うともう閉店時間で、不登校だったー今でも「不登校」だがー頃に訪れていた映画館には行けなかった。それでもチラと視界の端に本屋、雑貨屋などを目に留め、忘れないよう焼き付けた。そのとき、どこかの店から私の大嫌いな米津玄師の歌が流れてきた。今の彼の歌を聞くたびにイライラするし、「ハチ」の頃の彼を小学生のとき好きだった私は悔しい気分になる。有終の美が汚された、最悪だ。私はそそくさとモールを出た。

 この土地の治安の悪さを示すように、五限目がある時など、夕方過ぎに駅前のバス発着所を通りかかると、細足をむき出しにして首からホワイトボードを下げた私と同い年くらいの女性たちが必ず三四人立ち並んでいた。「ガールズバーで飲みませんかー」と、サラリーマンにいそいそと駆け寄る彼女たちと、バイトも一時期しかしていない、服も髪も化粧も垢抜けない、脱毛すらしていない大学生である私が恐らく同い年であることが焦りをもたらした。自分の性的な魅力を売り物にして金を稼ぐことが出来ること、それを了承して、冬の日も変わらず足をむき出しにして立てる彼女たちは、確実に私より強かった。自力で立って世の中を渡る力強さと、生きていくことへの確固たる自信がないことを、その度思い知らされるのだった。


 この街は、猥雑な生活の息で出来ている。商店街も風俗店もショッピングモールも、程度は違えどそれぞれが排気口で呼吸をし、それが循環して出来ている。      
 

 だが私は常によそ者だった。それは住んでいた大学の寮、矢鱈セキュリティの厳重で、白々しい壁に囲まれた、家々のなかでぽつんとそこだけ高く立つ建物に住んでいたからかもしれない。それは官舎のような、いかにもお役所然とした建物で、裏側は実際公民館であり、地方からのよそ者が集まるよそ者の家だった。24時間換気のせいか、部屋は春でも寒かった。冬になると、外のほうが温かみあるのではないかと思うほど寒かった。
 もしくは、この街で労働をしておらず、ただ街の諸々の食べ物や娯楽を消費しかしていないことによるのかもしれない。学校に少し行った帰り道、ふらふらと様々な店を覗いたり、ファストフード店やレストランで飲み食いもした。それでも、胃に消えて行くもの、ものになるものは虚しかった。どちらにせよ、私の痕跡はここには何もなかった。
 

 入学してからすぐの頃、ここから一本先の夜道を歩いていると、通過した自転車が何か怒鳴りながら私の横をかすめていき、少し先で女がしゃがみ込んで泣きながら男を怒鳴っており、それを男があやしていることがあった。また、怪しげなフライヤーを大量に抱えた、黄ばんだシャツによれて色の掠れたズボンを履いた老人に追いかけられたこともある。そのような「人種」は、私の故郷のミナミの裏路地にたむろしている人々だった。恐怖と嫌悪感を覚えた私は、コンビニやパン屋があって便利なものの、その道を歩くことを諦めた。色々試してみて、街灯もあるこの送電塔と団地に囲まれたこの道が帰路には良いだろうと判断した。私の育った住宅街に、この下町の中では珍しく似ている空気を感じたからでもあった。


 
 
 地元でいうところの4回生になったが、これまでの三年間毎日この道を歩いていた、わけではない。一回生の後半と二回生の半分くらいは不登校で、三年次に上がる前の春休みの帰省中、感染症のおかげで学校が臨時休校となり、そのまま私の学科はなんとなくオンライン授業へと移行した。日本画の授業ですらも私は実家にいることを選んだため、一日も登校していない。それはそれなりに苦しくもあり、それなりにその時間を謳歌していた不登校の私に、世間が連続してきたようでもあった。
 それは私の学生生活において僥倖であった。去年単位をかなり取れたおかげで留年せずにすみ、実家で少なくとも金の心配はせずにすんだからだ。だが私はまだ苦しかった。なにがということすらも薄れつつあるけれど、どうしようもない、どうしようもないと繰り返した。
 

 またここには来れるかもしれない、もう来ないかもしれないと、最後になるこの路を歩いていた。眼鏡をかけていない目に、街灯が霞んでいる。『街灯』というジャズを頭の中で流した。歌詞に合成音声の少女の声が乗る。そうだ、琥珀のドレスを纏った人々も、裡に悲しみを秘めているのだ……この曲を中学校の帰り道にも聞いた。名古屋の予備校に通っていたころ、夜の栄でも聞いた。「星の王子さま」の、あまりに一日が短いものだからずっと電燈をつけたり消したりしている男。街灯は、都市の夜を照らすために生まれたときから、ファサードの悲しみを背負っている。
 側溝が暗い沼のように沈んでいる。動くものは私の他に誰もいない。東京は随分静かになった。丸の内地下の御幸通りも、ギリシアの神殿に入り込んだように、太い柱が立ち並び、怖いほど私の足音が響くのみだった。


 突然体が発光した、ように見えた。はっと顔を上げる。月だ。体を捻って上を見上げると、月の輪郭はぼやけ、暈がかかっていた。異様なほど明るく、青白に発光している。プリズムは団地の白壁に照り返って虹色に光り、細いカーブを描いていた。灰色の空を裂く光は、雲を藍と紫の中間色に映し出している。
 その月は、四苦八苦度を合わせ、天体望遠鏡でくっきり見えて喜んだ、小石のような星ではなかった。ただの曖昧な光だった。水分を含ませすぎた筆で、せっかくの下絵を滲ませてしまったようだ。


 私はその光を、買い物袋とともに受けながら、これが誰からかは知らないけれど、何らかの形で私自身が片付くという啓示であってほしい、と思った。



 入院前に訪れたルーテル派の教会、牧師が詩篇139篇を読み上げたことを思い出した。教会に願掛けするような気持ちで、縁もゆかりもないのに急に押しかけ、その上自分から頼んで祈って貰ったのに、内容は全く覚えていなかった。ただ、パイプ椅子が並べられた小さな教会に似つかわしくないほど大きな十字架を思い出した。それは私を嫌悪させ、だがここにいつか身を投じることができれば、生きていけるのではないかと、そのようになりたいと願った。十字架でなくても良かった。ガールズバーの店員でもよかった。
 

 彼女たちは今も稼げているのだろうか。そう思いながら月に背を向けた。右と左を向き、どうせこない車を確認しながら、赤信号の横断歩道を少しだけ背中を伸ばして渡った。
 

 
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