文字数 3,008文字

 三年前、私があの大学に合格したとき、母は泣いて喜び「雲の上の人みたい」と言った。職員室に報告に行ったときも、この高校では(そんな変な大学を志望した奴を含めてだろう)現役合格は初だと、努力が報われたと、労いの言葉がかけられた。東大や京大じゃあるまいし、と私は思った。コネも普通の就職先もない。合格したからといって、いや合格したからこそ私のようなタイプの人間には、その先の将来は不安しか残らない。つまり制作する能力も、研究する能力もなく、または口を見つけるために、無心になれない人間だ(それはどこでもそうだろうが)。それに、わざわざ遠方の予備校の寮まで入ったくせに、私は全く勉強しなかった。勉強しなければ受からないし、勉強しないということは怠惰以外の何物でもなく、金をかけている親に申し訳ない。それでも、机に向かい、取り組もうとすると動悸がしてどうしても出来ない。それは高校入学前の春休みの宿題をこなしているときに出てきた症状のようなもので、高校3年間ずっとそうだった。
 合格がわかった後も、勉強がまだできないことへの不安と、一人暮らしという重荷に恐怖し、帰りの新幹線の中で富士山を眺めながら、呼吸が苦しくなるのを感じた。そして入ってから全くついていけなくなることを恐れた。ネットでお馴染の質問サイトを見ていたときに、数年前の私と同じ学科の受験生が、入った後のことを考えて、入試のために『芸術家列伝』の伊語原文と英語訳をを訳したほうが良いかを聞いていた。そこまでしなくともそのくらいの読解力はいると回答されているのを見て、大げさすぎると思ったものだ。だが、二次試験で出題されたプラトン主義の美学に関する英文が全く理解できなかったため、入学前から外国語の読解が危うかった私の不安は後に的中した。最初の英語の授業で、イギリスにおける政権の交代による芸術の政治的な動向、資本主義や官僚組織との関わり等について述べた論考の読解で、早くも脱落しかけた。一応英語科を卒業した私の自身は砕け、フランス語も全くついていけない。高校で2年間勉強してきた中国語は卒業要件単位に含まれておらず、また動悸をさせながら、当てられるたびに頭が真っ白になり、恥をかきながらも、必須単位のフランス語にしがみつくしかなかった。例えイタリア語かドイツ語を選択していたとしても、志望する分野が違うし、そもそもどの言語でもまともに勉強出来ないのだから一緒のことである。中国語もぎりぎり4級に受かったが、その受験勉強もしなかった。
 柱である美術史は、まだ楽しいと思えていた。しかしただ座学として学ぶ分には興味深いのだが、具体的な作例を長い時間かけて分析するやり方は、正しくはあるのだが、遅々として進まず、薬学部の友人が国家資格の合格に向けて勉強しているのを聞くたび、これが一体何のためになるのだろうと思った。また、ゼミでの発表や討論で、美術史の知識が浅いこと、それより肝心なのは、他の学生や先輩のように「これを研究したい」と胸を張って言えるものが何もないことが、あるにはあるのだが、漠然としすぎていることが私を困惑させた。その上自分の論の、どこか間違っているのか、どこが不味いのか曖昧だった。正確には、はっきりと指摘はされないのだが、なんとなく自分の発言がこれまでの議論を冷やしているのだと思っていた。間違っているとはっきり言われたらいわれたで、悪い癖だが、全てが否定されたようで、勝手に傷ついた。その傷ついたという子供らしい点も嫌悪した。 
 高校までの詰め込み式の勉強なら、なんとか授業を聞いて参考書をテスト前にめくっていたらごまかせたし、入試もごまかして入ってきた。向上心もなく、そもそも中学時代から成績は上の下で、もっと賢い子はいくらでもいた。入学後にセンターはどうだったかを同級生に聞くと、九割近くとっていたことが殆どで、平均8.5という合格最低ラインだった私は、本当にギリギリだったのだろう。
 実技に関しても、美術が大の苦手で、一応通った絵画教室も、課題として出された紙一枚、瓶一つも上達せずに終わった。そもそも絵を描くことは大嫌いなのだ。だがまともにカリキュラムを読んでいなかったため、リトグラフ・デッサン・ドローイング・油絵・写真・日本画・彫刻・キャンパスの張り方に至るまでやらされることを知らなかった。ついでに、一年生は入学してすぐに学園祭で神輿を作り、パフォーマンスをしなければならないことも知らなかった。


 それほどまでに学問や実技に身が入らず、志望校のことを何も知らなかったのに受験したのは、偏に美術館の学芸員になりたかったからである。


 小学校一年生のとき、両親に手を引かれて連れて行ってもらった「オルセー美術館展」。そこで私はある少女の絵に釘付けになった。
 美しいとかそういう感想はわかなかった。ただその色彩、造形に対する衝撃が勝った。ある種の原始的な「美的体験」であったかもしれない。
 彼女の乳白色の肌、赤みがかった頬、ピンク色の背景、毛並みのぼやけた猫……それらのマティエールは私を捉えて離さなかった。展覧会が終わったあとも興奮が冷めやらず、子供用の画集を買ってもらった。その絵はルノワールという画家の、《ジュリー・マネの肖像、あるいは猫を抱く子ども》という作品であることを知った。


 しかし、その後はニュースの解説番組や、当時流行っていた政治を討論する番組に小学生ながらハマっていたことや、また母がそういったことに関心が深く、ユニセフのマンスリーサポーターで、毎月の冊子を読んでいたこともあり、ジャーナリストか国連の職員になりたいと思っていた。
 だが私は昔から内気で泣き虫な性格で、クラスに馴染めなかったため、おせっかいな子から誘われたりしたら遊ぶが、一人で本を読むほうが好きだった。そんなある日、一冊のティーン向けの小説を読み、それは美術品に宿る付喪神と少年の話なのだが、そこに出てきた「学芸員」という職業が引っかかった。 
 調べてみると、美術館で働けて、美術の研究も出来て、さらに教育などといった公的な活動にも携われるという、非常に魅力的な職業に思えた。小説に出てきた彼らは教養豊かで、海外を飛び回ったりして文化的な暮らしをしていると思った。しかしその頃から学芸員の就職事情は厳しく、父は割と真剣に私が言うものだから調べたらしく、少し難色を示していた。



 しかし、その後私はいじめにあった。あったのだが、その痛みと苦しみは今でもフラッシュバックするのだが、不思議と何をされたのかは覚えていない。クラスの人間の顔も思い出せない。だが私がいじめられていたことは確実でーそれは中学に上がったときに同じ小学校だった人間や、唯一の親友が証言しているように、あったことは確実なのだが、不思議なことに覚えていない。正確には具体的に何を言われたのかや、何をされたのかは覚えていないが、笑い声やあの馬鹿にしたような視線を背中越しに感じていたことだけは覚えている。
 その後、中学校ではリストカットをしながらも、部活や勉強を何とか修め、そこそこの自称進学校に入学し、大体あの経緯を経て今に至るのだが、それらは重大なことではあるが、些末なことである。最も大切な記憶が時とともに段々霞んでいってしまっている。


 「彼女」と出会ったのは、小学校三年のことである。
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