第九話

文字数 1,648文字

 何が彼のお気に召したのかはさっぱり分からないが、里部(さとべ)は頻繁に私を食事に誘うようになった。
 店のホームページや口コミサイトのURLと一緒にメッセージが届き、予定が合えば返信する。予定が合えば、とは詰まる所白夜(はくや)からの連絡が無ければ、という意味であり、白夜が新しい女に夢中になっている現在、それはつまり毎回里部の誘いに乗っている、という事に他ならない。
 それは時にカジュアルなイタリアンだったり、時に洒落た創作和食だったり、かと思えば滋味溢れる小料理屋だったりする。何処も女を口説くには丁度良い店ばかりだ、と私が揶揄すると、里部は肯定も否定もせず、美味い店を多く知ってるんだ、と笑って見せた。
 
「貴女に全くその気が無いのは分かっているんだけど、一緒に食事をしてくれる女性(ひと)というのはどうも魅力的でね。嫌だったら断ってくれて良いよ」
 里部にそう言われたのは何度目の食事だっただろうか。その気が無いのは半分正解で、しかしそれを事細かに説明するのも憚られ、私は少しの間言葉を失った。
 彼の誘いに応え続け、白夜でなく里部との未来を見据える事が普通、否、それ以上の幸福であると痛い程解っていた。私如きが持ち合わせている程度の資質と比べて見れば、里部は願っても無い程優れた人間だと思う。同じ状況に置かれた友人がいれば間違いなく私はバンドマンなど直ぐに忘れろと忠言するだろう。幸福であろうとするならば、私は里部の誘いを断る事など出来ないのだ。
 同時に、店内を彩る抒情的なピアノやクラシックを聞く度にライブハウスが恋しくなってしまうのもまた事実だった。落ち着いた店内で、身の丈に合わない服を着て、無い頭を取り繕ってまで里部の話に相槌を打つ自分は何処かむず痒く惨めにも思える。そんな惨めさを一度知ってしまうと、鼓膜を突き破るような音に身を任せ髪を大きく振り乱すあの時間が更に愛おしくなってしまうのだ。違いも大して分からない、爆音に酔い痴れるだけの私は卑俗で、貧賤で……それでもライブハウスという場では私の存在が赦されている気がする。赦される、認められる、という体感は何故これ程までに蠱惑的なのだろう。
 世間一般的な幸福を得たい。
 欲望に従った夜を過ごし続けたい。
 私にとってはどちらの感情も偽物では無かった。しかし私には片方に振り切る勇気も無ければ、両方を手の内に収め続ける甲斐性も無い。私は常に中途半端だった。
 
 食事を終え、店を出る。
「たまには僕に奢らせてくれてもいいんだけどな」
 里部が半ば冗談めかしてぼやく。
 初めて食事した時は気付かない内に会計を終わらされていて、食べた分を支払おうとする私と飄々と躱そうとする里部の間で押し問答が続いた。結局私が半ば自棄になり「奢られるなら来ません」と言い放ち、それからは割り勘にして貰っている。
 ここだけ聞けば私が善人のように聞こえるかもしれないが、実際は私の自己保身とちっぽけな良心紛いの感情が原因である。相手の好意に(かこつ)けて自身が得をする女を私は嫌っていた筈だった。「プレゼント貰っちゃったけど私はそんな気無くてぇ――」等と語る女が大嫌いな筈だった。自身が里部を選ぶ覚悟を決められない限り、食事を奢られる事は、嫌っていた筈のその女達と同類に成り下がる事だと思った。それが堪らなく嫌だったのだ。
「今日もこのまま解散、かな?」
「えぇ、ごめんなさい。明日も仕事で……」
 だよね、と微笑む里部の目を見る事は出来なかった。毎度の如く吐く私の安い嘘を里部は見破っているに違いない。
 駅前には大学生らしき集団やサラリーマンが多くいた。里部は路上ライブでギターを弾き語る男性の横を素通りしてゆく。私はちらとその男性を見遣り、しかし里部に倣った。
「楽しかった。じゃあまた」
「ありがとうございます。また」
 改札の前で手を振る里部に私は頭を軽く下げた。
 逆方向の電車に乗り込み、足はそのままライブハウスに向かう。シャンパン二杯分のアルコールと自己嫌悪が脳味噌を溶かすようにグルグルと回っていた。
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