第六章3

文字数 9,895文字

     三

 鳳飛たちはイシュタルクを出ると、古都カルナドキアが消えた場所へ向かった。
 そこの支流の入り口にも、もう見張りはいない。支流の中へ入ると難所が次々に現われるのだが、カルナドキアから戻る時と同じで、フィドゥーラは、ロンベルデの双瀑渓でも適確に水流を読み、円滑に船を通した。
 その様子を見て、
「見事なものではないか」
 と、魏出温が感心している。
「水流などわしも見たところで全くわからんぞ。しかし、話を聞かせてもらったところでは昇降岩とか不動岩とか、あるいは変水流とか、支流には珍しい現象がいろいろあるようじゃのう。おそらく昇降岩も変水流も陸で起こる地揺れと原理は同じだと思うぞ」
「陸地と支流に関係があるんですか」
 と、鳳飛は聞く。
「当たり前じゃ。たとえ水の上であっても、その下には地面があり、それは陸地とつながっておる」
「そうですね」
「実は地面の下というのはいろいろとややこしいみたいでのう。土の層が重なったり並んだり、あるいはからまり合ったりしておるようなのじゃ。わしはのう、そうした地層が動いて、それが地面の上にまで伝わり、地揺れが起こるのではないかと見ておる。たぶんそうしたことが、この水の下でも起こっているのであろう。そのせいで複雑な水流が生まれ、岩も動く。そうではないかと思う」
「へえ、そうなの。あなた、ほんとに賢いのね」
 祥訓がそう言い、
「今頃わかったのか、遅いぞ!」
 魏出温は、おかんむりである。
 しかし、フィドゥーラにはニコニコとした笑顔を向けていた。
「するとおぬしは支流で岩が動いたり、おかしな水流があるところを全部知っておるのか」
「はい、知っています」
「ならばそれの地図を作ってみよう。陸で地揺れが起こる場所の地図と重ね合わせてみれば、謎がもっとわかるかもしれん。それと大凶洪のことじゃが、あれも水底の地面の中で何かが起こり、水温が突然高くなるのではないかと見ておる。おぬし、今までの大凶洪がいつどこで起こったかも知っておるか」
「神話の時代のことはわかりませんが、それ以降であれば巫女に伝えられていますので、私もマンダリーカも知っています」
「それも年表と地図を作れば大凶洪発生の仕組みがわかるかもしれん。手伝ってくれるか」
「はい。みな様のお役に立てるのであれば喜んで――」
「そうかそうか、よい子じゃのう。ところでお嬢ちゃん」
 魏出温は、自分の顔よりも大きい虫眼鏡をフィドゥーラに突き出してきた。小柄なので、ちょうど可愛らしい形をしたフィドゥーラの胸の辺りだ。
「はい?」
 フィドゥーラは、少し戸惑い、
「このスカートの中はどうなっておるのかのう」
 魏出温は、スカートに手を伸ばそうとした。
「えっ」
 フィドゥーラは、固まってしまい、
「先生、いけませんと言ったでしょう」
 陸憲が、後ろから羽交い締めにする。
「ええい離せ! この中には絶対とんでもない真理があるぞ!」
 魏出温はもがいているが、力に差があり過ぎて、どうにもできない。
「こいつ、やっぱり賢くないや」
 ジッタが呆れ、
「こいつこいつ言うな!」
 魏出温の怒声が鳴り響く。
 船団は、カルナドキアの近くまでやって来た。
「河神の島と洞夢を見たからには、ここがあっという間に消えた理由もわかるわな」
「なにしろ東都の三、四十隻を入れても神船の数は百隻から百二十隻。数百隻とはいえませんから、ここも船上の都だったということですね、先生」
 そうジッタと陸憲が言う。
 船団は、カルナドキアがあった場所へ入っていった。
 多くの船員が甲板に出てきて、船縁から水面を覗き込んでいる。濁りもあるが、沈んでいるものが透けて見えているところもあった。この辺りは、まだ森があったところだ。
「木の下に船体があるわ」
 と、祥訓が指差す。
 確かに船であった。街があったところへやって来ても同じだ。やはり船が見えた。一ヵ所だけ水面から楼閣が出ているところを覗き込むと、そこにも船体が見える。
「これ、塔船じゃねえか」
 と、ジッタが言う。
 ここは、街もその手前にあった森も船の上に造られていたのである。カルナドキアには二十五万人ほどが住めるとマンダリーカが言っていたから、神船だと四、五十隻。前の森の部分はその倍近い広さがあったので、七十から九十隻だとすれば、合計で百十から百四十隻ほどの船がここに並べられていたことになる。
「船に穴を開けて沈めたのじゃな」
「そういうことです」
 と、鳳飛は頷く。
「僕たちはここからまだ先へ行ったところで船を泊め、陸の人たちの船酔いが回復するのを待っていました。その間、ゼルマの船が出入りを繰り返していて、あれは準備をしにいっていたのだと思います。長い歳月の間に船だとわかるようなことになっていないかを調べ、もしなっていたら直したりして、僕たちを招奇壇のあるところへ連れて来る日が決まると、それに合わせて船体へ穴を開けにいったのです。船内へ入るにはイシュタルクの時と同じで、水に潜っていったのでしょう」
「百数十隻もの船を順番に沈めていくのか!」
 ジッタは、口あんぐりといった感じだ。
「船体のどの部分にどれくらいの穴を開けたら、どれだけの時間を掛けて船だとわからないように沈んでいくか。そのやり方がマンダリーカに伝わっていたんだ。だからその指示通りにやった」
「支流に近い方から沈めていったのは、都の方から沈み出し、そこで水飛沫が上がったりすれば、地面だと思われたところが実は下に水があるとわかってしまう。それを避けようとしたのじゃな」
「ええ。それだけの準備を整え、マンダリーカは沈み始める時間に合わせて僕たちを連れて行ったんです」
「神族が都を一夜で築き、一夜で消したというのも船上の都であることを利用したのじゃな」
「その都もここと同じように支流の近くにあったんです。船上に宮殿を建てていた船、木畳だけの平たい船、甲板の上に土を盛り草木を植えて森に見せ掛けた船。そうした船を予め用意しておいて、神船がたくさん停泊できる場所に隠れ、一夜で船を並べれば都ができます。そして、その船が移動して、また同じ場所に隠れてしまえば一夜で都は消える。数万人が住むような街で地面を裂いたという奇蹟も、そういう船上の街を別に造って船を動かしたんです」
「なるほど、もしその街が仮に五万人ほどが住める規模であったとすれば神船で十隻前後、一夜で築いて消した都でもカルナドキアと同じように百隻以上の船を使っていれば、イシュタルクの東都で使われていた船、西都に住んでいた神族の四十万という人数分の船、そして、今ここに沈んでおる船と併せ、全部で三百五十隻から四百隻ぐらいになる。神族が数百隻の神船で現われたという神話もこれで嘘ではなかったということじゃな」
「そういうことになるでしょうね」
 神船が二百隻だったと仮定して、一隻当たり千二百五十人が乗っていたという机上の計算をしたが、四百隻だとそれが半分になるわけである。
「しかし、地面を裂いたという数万の街はもう残っておらぬのか。それと一夜で都を築いて消した都も消したままでなくなってしまったのか」
「マンダリーカはここがただ一つ残っている大陸の都だと言っていたわね」
 と、祥訓。
「神族がいなくなる時に、それに使った神船も一緒に行ってしまったんじゃないだろうか。だからマンダリーカは奇蹟の起こし方を知っていても、それをどう使えばいいのかがわからなかった」
「どういうことでしょう、鳳飛様」
 と、フィドゥーラが聞いてくる。
「たとえば地面を裂く奇蹟を起こそうとしても、もうそれに使った船上の街はない。どうしていいかわからなかっただろう。そんな時に、幻瑛が別のやり方を教えた。河神の島で小さな船を使う方法を教えたんだ。このカルナドキアも同じだ。一夜で都を消す奇蹟をここでやろうとすれば百隻以上の神船を動かさなければならない。それも少しだけ動かせばよかったイシュタルクと違って、支流の隠れ場所まで動かす必要がある。ここから一番近い停泊場所までどれくらいかかる?」
「私たちが雨をしのいだ辺りは他にも泊められるところがありますので、そこが一番近いです」
 あの場所からここまでは朝に発って昼過ぎに着いた。
「しかし、前回の、いや、今はもう前々回になった七十年前の大凶洪で、ゼルマの民は三百隻の船団が七十隻ほどにまで数を減らしてしまった。その人員で、いくら舵と進路役と機関室の人数だけいれば充分とはいえ、百隻以上の神船をそれだけの距離動かすのは、ゼルマの民といえどもさすがに無理だったのだろう。だから一夜で消す奇蹟もできなくなった。そこで幻瑛は、マンダリーカの知識を活かし、船に穴を開け目の前で消すやり方をさせることにした」
「――――」
「イシュタルクで水魔を見せた奇蹟も、神族の時には四匹の水魔が現われたという。これには観奇楼の最上層の四方にあった窓の外に二隻ずつの塔船を使って造り物の水魔を空に浮かべていたんだと思う。つまりこれをするには八隻の塔船がいる。しかし、塔船も二隻だけになり、やはりどうすればいいか、マンダリーカにはわからなかった。それも幻瑛はマンダリーカが水魔の頭に載るというやり方を教えた」
「マンダリーカはとても嬉しかったのだと思います。これで自分の知っていることを役立てられるとわかったのですから――」
「だから幻瑛にあれだけ入れ込んでいたのね」
 と、祥訓。
「うんうん、潜帝宮でも朱い巫女のお嬢ちゃんは頑張っておったのう。しかも、あの子は目が光っていた。あれは病気じゃ」
 魏出温の言葉を聞いて、
「えっ、病気、なのですか」
 フィドゥーラが、円らな目を見張っていた。
「ああ病気じゃ。詳しいことはよくわからんが、目の中で何か異常なものができていると思われる。しかも、治す方法がないのじゃ。辺境の国で目の光る子供が生まれたという話がいくつか伝わっておるのじゃが、みな早くから目が見えなくなり、大人になる前に死んでおる。モルダの巫女の場合は先祖からずっと目を鍛え続けてきた特殊な体質によるものと思われるが、目が光ることで何かの機能が活性化し、よく見えるようになるみたいじゃ。しかし、所詮は病気。光ることで病は進行し、やがては目が見えなくなって、命まで失うこととなる。過去におったという瞳光の巫女もそういう運命をたどっている筈じゃ。できることといえば瞳光を極力抑え病の進行を遅らせる。それしかない。わしはそのことをあの子に伝えようとしたのじゃが、止められてしもうた。自分の身体のことじゃ。どうなっていくかがわかっていたようじゃのう」
「なのに、あの子。フィドゥーラが彼女の目の代わりをすると言ってあげても拒んでいたわね」
「あれはたぶん自分だけの力で幻瑛の役に立ちたかったんじゃないかな」
 と、鳳飛は祥訓に言う。
「河神の島もイシュタルクの洞夢もカルナドキアも朱い巫女の家に伝わっていたことで奇蹟は起こった。しかし、それをやるには多くの人の協力が必要で、マンダリーカが一人でやったわけじゃなかった。でも水流や空を読むことは彼女一人でできる。だからマンダリーカはそれを手離したくはなかったんだ」
「そうまでしてマンダリーカは幻瑛様のために尽くそうとしていたのですね」
 フィドゥーラは、自分の胸を抱き締めて悲しんでいるようであったが、ふとその表情がやわらいだ。
「でもマンダリーカの気持ちはよくわかります。私も嬉しかったから――。鳳飛様に支流を案内してほしいと――。幻瑛様やマンダリーカのように奇蹟に使う場所だけを案内するのではなく、人がいるところまで通っている支流を全部案内してほしいと言われて、私の知っていることをたくさん役立てられるとわかり、とても嬉しかったのです。それに鳳飛様は朝虹で初めて水流を読んだ時から私のことを信じて下さいました」
「そう。それであなたは鳳飛のために尽くそうとしているのね」
 祥訓にぐいっと顔を覗き込まれ、
「そ、それは――」
 フィドゥーラの顔は明らかに赤らみ、ジッタが他の若い船員と一緒に、ひゅうひゅうと口笛を吹いている。
 鳳飛は、突っ立っているだけだ。
「そうかそうか。若いというのはよいことじゃのう」
 と、魏出温は相好を崩し、
「それに比べて陸憲、おぬしにはこういう話がちっともないのう」
 こちらには呆れたような顔を向けていた。
「大きなお世話です」
 と、陸憲は顔をしかめ、
「それよりもこれで残る奇蹟は潜帝宮だけになりました」
 そう話を戻す。
「あそこだけは陸地の真っ只中なのよねえ。いったいどうやって奇蹟を起こしたのかしら――」
 祥訓の言葉に、
「ならば行ってみようではないか」
 と、魏出温は張り切っていた。
 鳳飛たちは支流を引き返し、北の大陸へ向かったのである。

     四

 鳳飛の船団は旭甫に停泊し、陸憲が町へ行って、そこから帝都へ連絡してもらった。それでバナン率いる警護隊が駆け付け、全員が船から降りて潜帝宮までやって来た。
 内宮に入り、鳳飛たちは初めて不朽殿を見る。
「わしにはもう密室の謎がわかったぞ」
 魏出温は、鼻高々に言い、
「陸憲、おぬしもわかったであろう」
 と聞くが、陸憲が首を傾げると、
「まだわからんのか。情けないヤツよのう」
 白い目を向ける。
「悔しいわねえ。鳳飛はわかったの」
 祥訓に聞かれて、
「うん」
 と頷いた。
「フィドゥーラもわかっているんじゃないか」
 そう言われて、
「はい」
 と、フィドゥーラも答えている。
「みんなもここを上がればすぐにわかるよ」
 鳳飛たちは楼門を潜り、二階分ほどの高さがある基壇の階段を上がっていった。すると、
「えっ、どういうこと?」
「こんなことがあるのか」
 祥訓もバンガロッドも信じられないという顔をしている。
「同じだ」
 陸憲もわかったようである。
 いったいどういうことか。
「これも船だよなあ」
 と、ギルガランが言い、
「確かに浮いてる。――てことは、この下に水があるのか」
 ジッタは、基壇の端から身を乗り出して下を覗き込んだ。しかし、木畳がびっしりと敷かれているから見えるわけはない。
 一同は、基壇から下りてきた。それで、
「門や階段があるところは普通の地面だ」
 と、ジッタが木畳を踏み締めて確かめている。
「つまりこの基壇の下だけに水があるのか」
「いや、そういうわけでもないじゃろう」
 魏出温は、一同を門の反対側へ連れて行った。そして、門がある方と同じく長方形の長辺側に当たる塀のすぐ外の木畳に足を載せると、
「これも船だ。塀の中よりもはっきりと揺れるぜ」
 そうギルガランが言う。不朽殿の基壇は二階分の高さがあって、こっちは地面と同じ高さなのだから、それだけ船体が低いということになり、その分、水に揺れやすいのである。
 塀の外をぐるりとまわってみたが、船になっているのはそこだけであった。
「でも、ここはカルナドキアみたいに川の側というわけじゃないわ。なのにどうしてここだけに水があるの?」
 と、祥訓が聞いている。
「さっき外宮でいつも満々と水をたたえている池を見せたであろう」
「地下に水路を造って川の水を引っ張ってきているのよね」
「あれと同じ仕掛けになっておるのよ。内宮の地下にも水路があって水を通し、不朽殿の下に水をためておるのじゃ。胡彩河から直接通しているのか、外宮の池から通しているのかはわからん。とにかく地下水路があって、それには排水用のものもあり、水があふれ出さないようにしているのじゃ」
「船だということは、私もあれだけ乗っていたのでわかりました。しかし、船で密室を作ることができるのですか」
 陸憲は、訝しそうであったが、魏出温は、ふんと鼻で笑っている。
「ここも船を動かせばよいのじゃ」
 調べてみると、塀の外で船になっているところは木畳を剥がすことができた。するとそこには、塀に沿う形で二隻の船が縦に並んでいたのである。甲板はなく、全体が空洞になっていて、長さは塀の半分、横幅は五、六歩程度、舷側の高さは疾走船と同じくらいという船だ。河神の島にあったのと同じように船首が尖っておらず、長方形をしている。この形であれば、前後も左右も隙間なくくっ付けることができる。しかも、沿っていると思われた塀も船に含まれていたのだ。
 空洞になっている船の内部は何もなかったのだが、前後の部分に船床から棒が三本ずつ立っていた。長方形なのでどっちが前なのかわからないが、縦に並んでいる二隻がくっ付いている側を前、反対側を後ろとすると、鳳飛たちは、まず後ろ側に立っている棒に縄を括り付け、不朽殿の短辺側に当たる方へ引っ張った。動かしやすいようにするため、油を塗った板を地面部分の木畳に敷く。必要になるだろうと思い、朝虹から運んできたのだ。船を陸揚げする時の要領である。
 そうすると、二隻の船はそれぞれの方向へ動き、地面部分の木畳に乗り上げていった。水面下の地形が乗り上げやすいようになっていたこともよかった。勿論、そういう地形にしたのであろう。塀も一緒に動いていくので、乗り上げると、門の反対側にあって長方形の長辺に当たるところが塀もすっかり取り払われた形となり、その向こうに不朽殿が見えた。船が動いた場所には水がたまっている。
 次に鳳飛たちは、塀がなくなった側から基壇の柵の部分に縄を六本括り付け、これも引っ張った。さっきの船よりも大きいから縄に取り付く人数も増やし、手前の方へ引っ張る。すると、これも動き出した。基壇だけでなく塀との間の隙間部分も一緒に動いてくる。しかし、地面に乗り上げさせる必要がないため、さっきの船の横幅と同じ五、六歩程度動かしたところで止める。
「なんてことだ!」
「こんなことになるの!」
 驚きの声があちこちから上がった。
 不朽殿が基壇ごと二つに分かれているのである。基壇も長方形をしている。その長方形が短辺側の真ん中から真っ二つに分かれているのだ。だから基壇の上の不朽殿も同じように真ん中から二つに分かれている。
 基壇は二階分ほどの高さだから甲板下の船室が三層になっている朝虹より一階分低い。また基壇は五、六百人が上がれるというから、半分で割ると二百五十人から三百人が上がれる広さの船だということになる。甲板に上がれる人数がそのまま船の定員になるわけではないが、朝虹よりもやや大きい船であった。不朽殿は、そういう二隻の船にまたがる形になっていたのである。それが離れていったのだ。
「つまりあそこから中へ入れるわけか」
 ギルガランが、分かれたところを指差していた。不朽殿の内部は間仕切りのない素通しなので、そこから中が丸見えになっているのである。
「そうじゃ」
 と、魏出温が頷く。
「不朽殿は水の上を航行させるわけではないから、不朽炉というものを造っておらぬのであろう。だからあの時も縄を括り付けて片方の船だけを動かし、不朽殿への出入り口を作った。しかし、船を動かすには今みたいにいくらか時間が掛かる。その間に朱い巫女のお嬢ちゃんは幻燵におかしなことをされてしまった。そこへ巫女の配下が入ってきたのじゃ」
 二つに分かれたところは、動いた方も動かなかった方も床下に当たる部分に梯子が作られていた。梯子は五つあり、陸地側から小舟で漕ぎ寄せて、それを上がれば一気に数人が不朽殿の中へ突入できるのである。テーブルや寝台は扉側の壁際に置かれているため、動かなかった方の不朽殿に残っている。だからそちらへ突入したのだ。
「もしかしたら真っ先に突っ込んで幻燵の首を斬ったのは幻瑛自身であったかもしれんな。そして、巫女を外へ連れ出し、今度は逆の向きへ船を引っ張り元に戻したというわけじゃ」
 不朽殿の場合は、今と同じ柵に縄を括り付けたままで反対側へ――動かさなかった方の船越しに引っ張ったのであろう。そして、木畳に乗り上げさせた船は前側の棒に縄を括り付け、これももう一隻の船越しに引っ張り、元へ戻した。
「わしはおぬしたちの船に乗せてもらった時から、これが不朽殿にいた時と同じ感覚であったことに気付いた。しかし、あの時は船などというものに乗ったことなどなかったからわからなかった。下に地面がなく水の上に浮いておるという感じがわからなかったのじゃ。わしだけではない。陸の民で船に乗った者など、おぬしたちのように物資の運搬に携わっている者だけ。しかも、大幻は交易をしておらなかったからモルダの沿岸へ行くこともなく、船を見た者さえいない。だからこれまで誰も気付かなかった。しかし、不朽殿に入れば、なんだかおかしいという気にはなるであろう。だから異変をきたす。ちょっとした船酔いを起こしていたようなものかもしれん。それで悪夢を見ることもあった」
「先生様は悪夢も見なかったんだろうな」
 ジッタが茶化すように言い、魏出温は、顔を真っ赤にして噴火しそうになったが、
「確かに気分を悪くしていればちっとは気付いたかもしれんな」
 と、珍しく不明を認めている。
「わしらは不朽殿にしか注目していなかったから、基壇や塀のまわりは調べなかった。なにしろ基壇と塀の間は子供でも入れるかどうかという隙間しかないし、塀の外は不朽殿ではないと思ってしもうたからな。勿論、それを狙ってこういう造りにしたのじゃ。それでも塀の外にあった船はあれだけ揺れたのだから、わしでも水の上だとわかったであろう。しかし、塀のまわりはゼルマの者が固めておったから調べようとしてもさせなかったであろうな」
「先生には船のことがわからないので、幻瑛陛下とマンダリーカは自信を持って先生に不朽殿を調べさせることができたわけですね」
「そういうことじゃ」
 これを鳳飛が引き取った。
「河神の島やイシュタルク、カルナドキナには僕たちを連れて行き、奇蹟を見せていた幻瑛とマンダリーカがどうしてここだけは連れて来なかったのか」
「船だと気付かれるのを恐れたのね」
 と、祥訓。
「それとは逆に幻瑛陛下とマンダリーカは先生をカルナドキアへ連れて行かなかった」
 今度は陸憲が言う。
「先生が奇蹟の現場を見たがっていたことや船に乗りたがっていることは二人とも知っていたし、みなさんは大陸の空が読めないということですが、先生は読める。そのことも幻瑛陛下はご存知だった。先生をお連れすれば役に立った筈なのにそうしなかった。先生を船に乗せたら、ここも船だったことに気付かれると思ったのですね」
「そういうことです」
 と、鳳飛は応じる。
「やっぱり奇蹟なんかなかったのよねえ」
「確かにこれなら俺たちにもやってやれないことはねえ。神船を動かしたり、都を沈めたりするのはちいっと練習が必要だが、やろうと思えばできる」
「それに河神の島にあった小型船は自然木でも充分造れるし、船上の都や街も長持ちこそしないが、自然木でできないことはないだろう。不朽木でないと無理というわけでもなかった。船長の言った通りだ」
 祥訓、ジッタ、バンガロッドがそうこもごも言っている。
「当たり前じゃ」
 魏出温は、ふんと鼻を鳴らした。
「祈るだけで地面が裂けたり街が壊れたりするものか。水魔が空に浮かぶこともなければ、本当の密室の中へ出入りすることなど不可能。神族はこの世界へ来た時、船を使って奇蹟としか思われない現象を起こし、まずは自分たちがどれほど途轍もない力を持っているかを見せ付け、言うことを聞かせようとしたのであろう。だから自分たちの人数より遥かに多い神船を持ってきたのじゃ」
「力のある者になびく。これまたどうしようもない真理だなあ」
 と、ギルガラン。
「しかし、その結果、奇蹟で何でもできると思うようになった」
「ですから奇蹟の正体を知らせ、そうした人々の目を覚まさなければいけない」
 と、鳳飛は語気を強める。
「うむ。北の大陸の連中はここへ集め、不朽殿のこの姿を見せてやろう。陸憲、手筈をしてくれ」
「南へは僕たちが行きましょう。カルナドキアを見せます」
 これで世界は変わる。
 鳳飛は、そう確信していたのである。

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