第2話復讐の炎

文字数 10,949文字

 ホットケーキの焼ける匂いがして、母がホットケーキを焼きながら歌を口ずさんでいた。朝の光に満ちた台所。母が旅芸人の頃を思い出して歌を歌うと、いつも不機嫌になる父が、今日は椅子に腰掛け、タバコをくゆらせながら聞きほれている。
「まったく、惚れ惚れする歌声だぜ」
「あら、私の歌なんて嫌いじゃなかったの」
「俺は音痴だから、おまえの歌の良さがわかるのに時間がかかったのさ。いっぺんおまえのステージを見てみたかったぜ」
「私のステージだなんて、歌姫の後ろでコーラスしているその他大勢よ」
「世間の連中も、俺と同じで音痴なのさ。おまえだったら、都会の大きな劇場で歌ってもおかしくないぜ」
「お世辞でも嬉しいわ」
 母は可愛らしい声を返し、焼き立てのホットケーキを皿に重ね、それをテーブルの上に置いた。
「でも私は、都会の劇場に立つより、立派な農夫の妻でいるほうが幸せよ」
「本当かよ」
 父は照れくさそうに言って、母は微笑んだ。こんなに仲のいい二人を見るのは久しぶりだった。なんだか邪魔をするのが悪いみたいで、マユラは隅の方に立っていた。
「そんなところに立ってないで、こっちに来ておかけなさい」
 母に呼ばれて、マユラはどこかぎこちない足取りで、一家の食卓に向かった。椅子に腰かけると、母は焼き立てのホットケーキを出してくれた。キツネ色の生地の上でバターが溶けている。
「お食べなさい」
「いただきます」
 しかしマユラは、ホットケーキを見ているだけで、胸がいっぱいになった。
「どうしたの、大好物だったじゃない」
「・・・」
 マユラは母に顔を向けると、
「オレ、明日から父さんと畑に出るよ」
 父を見ると驚いた顔で、でも嬉しそうだった。
「あんなに畑に出るのを嫌がっていたのに、急にどうしたの」
 怪訝な母に、
「それが一番いいことだって、わかったのさ」
 マユラは大人ぶってて答えた。
「おまえがそう言ってくれて嬉しいよ」
 父は心底嬉しそうな笑顔になり、しかし首を振った。
「嬉しいが、そんなことはしなくていい」
「どうして、ボクは父さんの子だよ」
「おまえは俺の子だが、幸か不幸か、いや、たぶん悲しいことだろうが、大地と戦うために生まれてきたのではないようだ。運命を切り開け、おまえが戦うべきものは他にある」
「なにいってるんだ、他にやるべきことなんてありゃしない。オレは父さんと一緒に畑仕事するんだ。母さんの作った弁当持って、土にまみれて働くんだ」
 マユラは叫んだ。涙があふれて、父も母もなにもかもが、涙の向こうにかすんで、そのまま消えてしまいそうだ。
「マユラ、どんなにつらくても、どんなに怖くても、くじけちゃだめだぞ。おまえは、やればできる子なんだ」
 父の声。
「生きて」
 母の声。
「弱くてもいいから、あなたは生きるのよ」
 涙にゆがむ二人の姿が、白い光に吞まれてゆく。
「待って、これからもずっと一緒に暮らすんだろ、どこへ行くの、待ってよ」
 白い光の中に両親の姿を求め、声を限りに叫んで、ハッと目を開く。ベッドの上に寝かされていた。
「ここは?」
 見知らぬ部屋だった。マユラの家と似たような造りだったが、自分の家ではない。窓は明るく、すっかり日の昇っているようだ。まだはっきりしない頭のままに、マユラは体を起こした。すべては悪い夢で、家に帰れば、相変わらず口やかましい母と、仏頂面でタバコ吹かしている父がいて、いつものお小言をくらう、そんな気がした。
 ドアが開き、部屋を覗いた男が、マユラが起きているのを見て入ってきた。
「目が覚めたかね」
 初めて見る顔だ。小さな町でも大人の中には、マユラの知らない人だっている。実際は見かけていても、言葉を交わしたこともなく、格別意識に残らないような人なら、初めて見る顔と感じることはあるだろう。だがこの人は、単に見かけぬ顔というだけでなく、町の大人たちとはどこか違うと直感した。まぶたはたるみ、頬はこけ、総髪は真っ白の、、七十は超えていそうな、老人といってさしつかえない年格好。麻のジャケットを羽織り、綿のシャツにズボン。幾つかの結び目のある紐を首に掛けたこの人物が何をする人なのか、マユラには見当もつかなかった。
 マユラは無言のまま、ベッドに伸ばしていた足を床に降ろした。立ち上がろうとして、ベッドに腕をつくと、左腕がヒリヒリした。見ると包帯が巻かれていた。
「切り傷だよ。君が倒れていた周辺に、窓ガラスの割れたのが散乱していたからね。それで切ったのだろう。痛むかね」
「いえ」
「他に痛いところはあるかね」
「ありません。手当をしてくれてありがとうございます。ウチに帰ります」
 マユラは礼を言い、部屋を出てゆこうとすると、
「町はひどい有り様だ、気を強く持つのだよ」
 老人の言葉にドキリとした。やはりあれは夢ではなかったのだ。マユラの脳裏に襲撃された町の惨状、そして父親の無念の最期がよみがえった。
「どうかしたのかね」
 マユラの様子がただならぬものに見えて、老人は声をかけたが、それには返事もせず、マユラは部屋を飛び出した。町は打ち壊された家があちこちにあり、焼け落ちた家も何軒か見えた。しかし、元の形状を保っている家も多く、大嵐がもたらすような、町全体が壊滅に瀕する破壊ではない。しかし、自然災害でない暴虐の惨禍は、白昼の陽射しもよどむような酸鼻を漂わせる。
ドアや窓の破られた家。食器や衣類や、その他色々なものの道に散乱して、家々の壁に飛び散ったどす黒い染みは、変色した血なのであろう。町全体が一個の惨殺死体となって、腐臭を漂わせているかのようだ。
 父が倒れた場所にその姿はなく、地面にはどす黒い大きな染みが、水たまりが乾いた跡のようにあって、マユラはしばしその場に佇み、そして家に駆け込んだ。
「母さん、僕だよ、マユラだよ、いたら返事をして」
 マユラは母に呼びかけながら、さして広くもない家を探しまわった。台所に寝室。子供部屋、つまりはマユラの部屋だ。押し入れにトイレ、風呂場から屋根裏まで、家中くまなく捜したが母の姿はなかった。
——母さんまでって、そんなことあるもんか。きっとどこかに逃げたんだ——
 マユラは自分に言い聞かせ、家の中にいるのもいたたまれず、外へと出た。
 目が覚めてから家へ向かう途中も、いま家を出て町を歩いていても、あの老人以外に一人の人間も見ていない。以前なら、町に一軒の雑貨屋の店先では、たいてい二三人の男たちが雑談をしていたし、井戸端では女たちがおしゃべりをしていた。まだ学校に行けない子供たちが、家の前でままごとしてたり、荷馬車が急ぎもせぬ様子で通りを過ぎ、鍛冶屋の槌音が聞こえ、どこかから赤ん坊の泣き声がする。そんな、マユラが慣れ親しんできた町の情景、生活のざわめきの一切が消えて、血のこびりついたかのような陰惨のしじまに、町は息絶えたかのようであった。
 母を捜してあてどなく歩くマユラは、町の広場に異様なものを認めた。町の中心ある広場は、大人たちが集まって何かを決めるときの会議場になったり、祭のときには外からやってきた興行師の見世物小屋のテントが建つこともあった。市場が開かれると様々な露店が出てにぎわい、なんにもないときには子供たちの遊び場だ。マユラなんか学校をサボった日でも、下校して来た子供たちが広場に集まってのサッカーや陣取りゲームには、普通に登校していたみたいな顔をして加わっていたものだ。そんな広場に人っ子一人いないのは、何かの跡地を見るように侘しいものであったが、今マユラは、そんな感傷よりももっと強い好奇心で、広場の地面を見つめていたのである。
 幅五六センチの赤い線で、直径十メートルはあろう、大きな円が描かれていた。赤いタイルでも埋め込んだような、固く乾いた塗料で描かれた大きな円の内部には、マユラが初めて見るような図形や記号、そして古代文字らしいものがびっしり描かれていた。これが何であり、どんな目的で描かれたものかは知らないが、一つだけ確かなのは、これが町の者によって描かれたものではないということだ。この状況で、町の誰かが悪ふざけにこんなものを描くとも思えない。それにこの図形は、意味は分からないがいい加減に描かれたものではない。大きな赤い円はコンパスで引いたような真円だし、中に書き込まれた図形や記号や古代文字も、ゆがみのないきっちりした書体で、緻密に配置された印象だった。そして地面に石みたいに固く乾いた塗料も、マユラの初めて見るものだった。
 ヴァルカンやヴァルムが書き残していったものか、しばし地面に描かれた正体不明の図形を眺めていたマユラdったが、なぜか赤い線をまたいで、図形の中に足を踏み入れる気にはならず、しばし眺めていたが、やがて謎の図形を後にして歩き出した。
 町のはずれで初めて人の姿を見た。家並みが途切れて、そこからは十数ヘクタールの耕作されない土地、休耕地となっていた。なぜ耕作されないのか、理由は以前父から聞いた気がするが忘れた。しかし、町が抱えている農地全体の、五パーセントにも満たないものだ。その広大な空き地に、荷車に積んだ板や木材などを運び入れる男たちがいた。荷馬車には、町のあちこちから集めてきたらしい、薪の束や材木、壊れたドアや椅子などもあって、それらを投げるようにして積み上げてゆく数人の男たち。まるでこれから、大きなキャンプファイヤーでもするつもりのようだ。近づいて見ると、薄汚い肌着にズボンや、ジャケットにジーンズの男たちだ。見たことのない顔ばかりで、彼らはズボンのベルトの上に、さらに革のベルトを締めていた。剣帯という刀剣装備用のベルトで、腰の横のホルスターに剣を差し込むと、単にベルトの間に差し込むよりも、ずっと安定して腰間に保持できる剣士必須のアイテムだ。こんなものを装備しているところをみると、職業もマユラの父親たちとは異なったものであろう。しかし、作業の邪魔になるためか、男たちのホルスターは空っぽだった。
「何をしているのですか」
 声をかけると、マユラに目が集まった。
「目が覚めたか」
 男がマユラの前にきた。マユラの父親も大きいほうだったが、目の前の男はもう少し丈があり、父親は横もあったが、男は広い肩幅に厚い胸板、腰のあたりにかけてはグッと引き締まって、精悍な体型をしていた。
「あなたは?」
「人に名を聞くのなら、先ず、自分から名乗るべきであろう」
 静かだが、揺るぎない声音だ。
「マユラです」
「マユラか、私は志摩ハワードだ」
「シマ・・・さん」
「我らのリーダーだよ」
 振り返ると、目が覚めたときに会った、あの老人がいた。
「私たちはレギオンシリウスに所属する傭兵だ。傭兵はわかるかね」
「用心棒みたいなもんでしょう」
 マユラの読んでいた冒険小説にも傭兵は出てきた。ただし、小説では誰もが憧れる上級騎士や、貴族の若様などが主役で、傭兵は悪役と、相場が決まっていた。
「用心棒もするし、その他様々、武張った仕事をこなす、腕を頼りの稼業というヤツだ」
 また別の若い男がしゃしゃり出てきた。
「ヴァルカンとも戦う」
「あたぼうよ」
「ヴァルムを倒したことある」
「ヴァルムのクソどもなんざ、数え切れないほど始末して来たもんさ。俺はファズってもんだ」
「ファズさん」
「チームの一番二番は、リーダーとバルドスの兄貴に譲るが、三番手はお任せの、目下売り出し中のお兄いさんよ」
「子供相手に吹くんじゃないぞ」
 また別の男が野次をとばす。
「おじいさんも戦うの」
 マユラは老人に聞いた。こんな年寄りが、ヴァルムやヴァルカン相手に戦えるとは、とても思えなかった。
「戦うよ。私とてチームの一員だからね。戦力にならぬ者は傭兵チームにはいられないのだ。ただし、剣や槍を持って戦うのではない。この年寄りが剣を持ったところで、案山子ほどの役にも立たぬでの。私は、私の能力でチームの戦いを助けるのだ」
「おじいさんの能力って」
「私は魔道師なのだ」
「魔道師はローブを着て、杖を持ってるんじゃないの」
魔道師は、実際に見たことはないが、冒険小説ではおなじみ存在である。主人公を助けてくれる光の魔道師や、悪の手先となる闇の魔導師がいて、どちらも魔導師のローブをまとい、魔導師の杖を持つという姿で描かれる。ローブの色の白か黒かで善悪がわかり、稲妻を放つみたいな凄い術を使う。マユラが、少年向けの低俗冒険小説で培った魔導師のイメージとはこんなところだが、目の前の爺さんは、ちょっと風変わりな印象だが、神秘的な雰囲気のかけらもなく、マユラの抱く魔道師のイメージとは程遠かった。
「私は、仰々しい格好大嫌いでね」
「でも、杖がないと、術が使えないじゃないの」
「そんなことはない」
 老人は、マユラの冒険小説仕込みの知識を一蹴した。
「一般にいう魔道師の杖とは、術構築の助けとなる術式を組み込んだ精密錬成アイテムなのだが、それはなにも杖である必要はない。伝統的なアイテムなので愛好者は多いが、私はへそ曲がりでね、ステレオタイプは嫌いなのだ。もっとも寄る年波には勝てん。いささか足腰も弱ってきて、そちらの用では、いずれ杖も必要になるかもしれんがね。マユラくんだったね、私はカムラン、このチームでただ一人の魔道師だよ」
「母さんを捜しているんだけど、魔道師なら、どこにいるのか分からない」
 マユラの読んでいた小説では、魔道師が盗まれた宝石の隠し場所や、行方不明の人物の所在を言い当てたりするご都合主義な展開もあった。
「占い師ではないのでね、人捜しや失せ物捜しは専門外だよ。我々が町の中で見つけた生存者はキミだけだが」
「ボクしか生き残りはいないというの」
「いや、町の外に逃れた人たちがいる」
 答えたのは志摩だった。
「我々がこの町のことを知ったのは、ここから四五十キロも離れた町にいた時だ。馬車で逃げ込んできた人たちから聞いたのだ」
「それじゃあ、その人達の中に、母さんがいるかもしれませんね」
「その可能性はある」
「だったら、僕をその町に連れてってください」
「いいだろう」 
 志摩はあっさり承諾した。
「実は、ここに来るにあたっては、馬車と馬を借りている。それを返さねばならぬし、街道へ出るにも前にいた町まで戻らねばならぬから、ついでなのだ」
「散り散りに逃げた者もかなりいたようだから、たとえその町でお母さんが見つからなかったとしても、気を落とすんじゃないよ」
 魔道師カムランの言葉に、母の消息に気をもんでいたマユラは、少し安心した。そして逞しげな傭兵チームの面々を見て、
「悪党どもは、あなたたちがやっつけてくれたの」
「いや、我らが来たときには、連中は立ち去った後だ」
 そう聞くと、マユラは顔に悔しさをにじませる。
「しかしキミだけ、連中がよく目こぼししてくれたものだ」
 問いかけたのは、褐色の肌をしたインディオの男だった。
「俺たちは、家の中で倒れているキミを見つけたんだけど、あれがヴァルカンどもの仕業なら解せない。あいつらは、気絶させたまま放っておくような、中途半端なまねはしない」
「目の前に、家ほどもある巨人が現れたんだ」
「トロールか」
 聞いたのは、ファズと名乗った白人の若者だった。
「たぶんね。そいつが柱みたいな棍棒をを振って、吹っ飛ばされてからあとのことはわからない。気がついたらら、ベッドに寝かされてたんだ」
「トロールの一撃を食らったら、アーマーつけてたってまともじゃ済まんぞ。なんで無事でいられるんだよ」
「僕にもわからないよ。けど、命が助かって文句もいえないしね」
 結果オーライ。そのことについては、深く考えもしないマユラだった。
「おまえ、怪しいぞ」
「怪しいってどうゆうこと」
「命惜しさにヴァルカンになるやつがいる」
「僕が、ヴァルカンだっていうの」
 思いもよらない嫌疑をかけられ、マユラの小さな体は、怒りに震えた。
「あんな奴らに魂を売り渡したっていうのかよ」
「見え透いたウソをつくところが怪しい」
「ウソなんかついちゃいないよ」
「まあ、マユラくん落ち着いて。ファズも、相手はまだ子供なのだぞ。そんな、ケンカ腰でものを言う奴があるか」
「子供だって、ヴァルカンになっちまったものは見過ごせない」
「そんなものになるぐらいなら、八つ裂きにされたほうがマシだ」
「そうかい。だがこの町には、ヴァルムヘルの魔法陣があったんだぜ」
 ファズは叩きつけるようにいった。
「魔法陣!」
 魔法陣は冒険小説に出てくるので知っている。地面に描かれた円形の術式で、小説の中では悪の魔道師が。魔法陣から怪物を召喚するのだ。現実と結び付けて考えたことがなかったので、あのときはわからなかったが、いま魔法陣と聞いて、マユラの胸にも思い当たった。
「広場に描かれていた、アレですか」
「そうだ」
 答えたのはカムランだった。
「ヴァルカンは魔法陣を使って人食いの儀式、ヴァルカンになるための儀式をすると言われている。ヴァルムヘルの魔法陣なので詳しい解読はできなかったが、発動の痕跡はあった。なんらかの忌まわしい儀式が、行われたのだ」
 この町を襲った惨禍以上に、忌まわしいこともないと思うが、確かにマユラも、あの魔法陣には、言い知れぬ不吉さを感じていたのである。
「ヴァルカンがブレイヴ体になれば、顔に邪紋が現れてすぐに見分けがつく」
 尻尾を捕らえたかのようなファズ。
「僕には、そんな能力ないよ」
「いや、キミはブレイヴを覚醒させている。私はブレイヴに反応するセンサースキルを備えている。寝ているところを調べさせてもらったが、確かにキミはブレイヴの能力を覚醒させている」
「そんなはずないよ。ブレイヴ体になんか一度もなったことないし、憧れてはいたけど、僕には無理だとあきらめてたんだから」
 カムランの言葉に戸惑うマユラだったが、、ファズはいよいよ疑念を濃くした目つきとなった。
「それで、こんな所でキャンプファイヤーでもするつもりですか」
 マユラは戸惑いを紛らわすみたいに、休耕地に集められた木材の山に目をやった。
「野辺送りの火だ」
 志摩が答えた。
「野辺送り?」
「たくさんの死体を埋葬したが、手足とか、一部だけというのもずいぶんあった。それらをまとめて火葬にするつもりだ。逃げ延びた人々はいずれ戻ってくるだろうし、引き続きここで暮らさぬにしても、家財は今後の生活の足がかりとなるものだからな。町の中でそれをやって火事でも出したら、悪かろう。それで、町はずれのこの野原で、盛大に送り火を焚こうというわけさ」
「一部だけ・・・」
 志摩の視線の示す先、地面に毛布が広げられている。五六枚も広げた毛布は赤黒い染みのまだらに浮いて、その下の何かを覆い隠している。それは地面に直接置かれてるのではなく、毛布の下から、下に敷いたシーツの白い布がはみ出ていた。
 マユラはそこで何を見つけようという考えもないままに、そちらに歩き出した。毛布の前に立つと、少し前から感じていた生酸っぱい臭いが強烈だった。その下にあるものを考えることなく、毛布の端をつかんでめくった。目の当たりにしたものに、殴られたような衝撃を受けた。吐き気を覚える前に感覚のネジが吹っ飛んだみたいに、潰されたり、切り取られたり、裂かれたりちぎられたりした、かって人間の一部だった物の並ぶ光景を、不思議と嘔吐を催すことなく眺めていられた。
 マユラはたじろぎもせずに次々と毛布をめくった。白日にさらされた惨たらしい陳列物。その中に見覚えのあるものを見つけた。肘はらちぎられたような、瘦せた左腕。薬指に指輪をはめていて、どこにでもありそうな安っぽい銀の指輪だが、くすみ加減や傷に見覚えがあった。親指の付け根にある火傷の跡。どの指よりも長い薬指。記憶の中の母の左手と一致した。マユラは腰をかがめて左手を拾い上げた。胸の奥から酸っぱいもののこみ上げてくるのをこらえて、指輪を抜き取った。内側に刻まれた文字を読む。ゲンジからリタへとあった。両親の名だ。
「母さん」
 マユラは既にウジのわいている左手、母の遺体を胸に抱いて泣き崩れた。
「お母さん、どんなに痛かったろう、怖かったろう、かわいそうなお母さん。助けられなくてごめんなさい」
 腐臭プンプンのウジの這う左腕に、マユラは構わず頬ずりをした。こんなありさまになって、母がどんな気持ちで死んでいったかと思うと、泣きじゃくることしかできなかった。
「オイ、悲しいのはわかるけど、気をしっかり持てよ」
 ファズが見かねて声をかけた。
「で、ソレ、戻しとけよ」
「ソレとはなんだ、母さんだぞ」
「お母さんを、安らかに旅立たせてあげるのだ。おぬしがそんなにメソメソしていては、お母さんも安心して天国へ行けぬだろう」
 志摩ハワードは、鷹の如き双眸にも、一抹の憐れみを刷いた。
 マユラは志摩にもなにか言い返そうとしたが、その鷹の如きまなざしはグズグズした感傷を貫き、涙に溺れようとする心を一喝した。マユラは母の遺体をもう一度抱きしめると、万感の思いを込めて、同様の遺体の中に戻して、優しく毛布を掛けた。
「ひどいざまだぜ」
 ファズは顔をしかめて、マユラの頬を這うウジを指で弾いた。
「お母さんは気の毒であったのう。わしらのような見ず知らずのの他人が、どう言葉をかけたところで、慰めにもならぬだろうが、とにかく風呂に入りなさい。服も着替えるといい。風呂は沸かしてあげよう」
 カムラン老人の心遣いに、
「風呂ぐらい、自分で沸かせます」
「こういうときは、人の好意に甘えても恥ではないよ。なんといっても、お母さんを亡くした後だからね」
「父もです。父は目の前で殺されました。好意と言うのなら、もっと早く来てみんなを助けてくださいよ。なにもかもおわってから来て、好意と言われても、どうありがたがればいいんですか」
 母親の腕の腐臭の沁みつき、どこかにウジの這っていそうな、シャレにもならない有様で、息巻くマユラだった。
「バカバカしい。なんでアタシらが助けなけりゃならないのさ」
 鼻で笑うような声は、若い女のものだった。見ると、コーヒー色の肌の女が一人、ツンとすましている。年は二十歳前後、体は細いが背丈は男並あって、大きな黒い瞳の、やや猫額だが形の良い顔立ちは美人といえた。ポニーテールの髪型で、黒いシャツに黒革のベストを重ね、ジーンズの腰には剣帯。左右のホルスターにショートソードを差している。ルックスも抜群だが、黒い雌豹の如き獰猛なたたずまいは、ナンパ野郎も二の足を踏む。
「アタシたちは民間の傭兵、戦う事は商売なの。仕事でもないのに、駆けつけて助ける義理はないし、仕事上の関係がなければ、どこで何人死のうと、知ったこっちゃないのよ」
 その言いざまに、マユラもカチンときた。
「だったら来るなよ」
「来たくて来たんじゃないわ、リーダーの命令で仕方なくよ。死体を埋葬するのだって、
大した手間だったのよ。礼の一つも言いなさいよ」
「それは感謝するけど、でも、ここで大勢の人が死んだんだぜ」
「だからなによ」
「そんなの、なんでもないみたいな言い方は、あんまりだよ」
「ハァ、アタシたちはもっとひどい現場も見てきているのよ。いちいち他人の死に感傷的になってるような、ヤワなハートじや、この稼業は務まらないのよ」
「それは違うぞ」
 志摩だった。
「修羅場に慣れても、人の死にぞんざいになるべきではない」
「フン、リーダーの好きな武士道ってやつ。そんなお題目につき合う義理はないわよ」
「やいサブリナ、リーダーになんて口ききやがる。」
 咎めたのはファズだった。
「それにおまえは、さっき、死体の埋葬も大した手間だったとかぬかしやがったが、そんなのいっこも手伝ってないじゃないか」
「私は、リーダーが見張ってろっていうから、見張ってたじゃない。だいたいか弱いレディーに力仕事させる気。だからアンタはからっきしモテないのよ」
「何がか弱いレディーだ。人の喉笛に食らいつく、雌豹みたいな面しやがって」
 サブリナの減らず口に、いまいましげなファズだった。
 マユラは、しかしそんな話声も、少し前から耳に入っていなかった。母の死の大きな悲しみの波の後で、怒りの火が胸に点り、それはたちまちメラメラと燃え上がり、狂おしいまでの業火となった。マユラは我知らず、近くに落ちていた棒切れを拾い上げ、突如、全身火を吹くもののごとく、ごうごうと揺らめく波動に包まれた。
「ブレイヴ体になりやがった。しかもなんてブレイヴだ」
 ファズが驚きの声を上げる。
「この激しさは、とても、少年のものとは思えぬ」
 カムランも目を瞠った。
「ヴァルカンはどこだ。ヴァルムどもはどこへ失せやがった」
 熱を持たぬ業火に包まれたかのように、激しい波動を噴き上げるマユラは、カッと目を見開き、髪は逆立つ怒髪天、正気を失った形相で猛り叫ぶ。
「薄汚いヴァルカンはどこへ逃げやがった。汚らわしいヴァルムどもはどこへ消えた」
 マユラは、あたり構わず棒を振り回す。
「落ち着け、連中はもういない」
 ファズは、マユラが振り回す棒をよけながらなだめようとした。
「ヴァルカンは、ヴァルムは」
 怒り狂ったマユラには、どんな声も聞こえない。
「ウスギタナイヴァルカンハ、ヤルシカナイ。ケガラワシイヴァルムハ、コロスシカナインダ」
 マユラは棒切れを振り回し、それが近くの杉の若木を一撃すると、直径二十センチはあろう幹が砕けた。
「コイツはスゴい」
 ファズは目を丸くした。
「ドコニイル、ヴァルカンドモ、ドコヘニゲタ」
 狂ったように棒を振り回すマユラに、偉丈夫の風を巻いて、大鷲の如く飛びかかった。マユラははじき飛ばされてしりもちをつき、
「イテテテっ」
 強く打った尻が痛そうに立ち上がる。業火の如きブレイヴは消えて、顔もいつもの表情で、正気に戻ったようだ。
「風呂に入ってサッパリしろ」
 志摩はそれだけ言うと、大きな背中を向けて立ち去った。
 マユラは、燃え上がったたき火が、いきなり水をかけられたような、くすぶった気持ちでいた。
「疑って悪かった、おまえはヴァルカンじやない。ヴァルカンどもはブレイヴ体になると、顔に邪紋が現れるが、おまえの顔にはなかった。そして、奴らに魂を売ってもいない」
 すまなそうなファズに、
「ボクもみなさんに甘えてました。死体の埋葬だって大変だったはずなのに、お礼もいわないで」
「そんなことはいいさ」
 インディオの男だった。
「それより風呂に入れよ。沸かすの手伝ってやるぜ」
「そんなことまで手伝わせちゃ悪いですよ」
「俺たちも入るんだよ。食えるときに食い、風呂も入れるときに入る。でないと次がいつあるかわからない。傭兵の暮らしってそんなもんさ」
 インディオは手を差し出した。
「俺はダオだ。マユラだったな、よろしくな」
 気さくなインディオに、
「こちらこそよろしく」
 マユラは握手した。
「僕の家の裏庭に井戸があるし、薪も置いてあります」
「家に入るのはつらいだろう。どうせ空き家だらけだ。よそのを借りればいい」
 ダオは歩き出し、マユラも並んで歩く。
 逞しい体格のインディオと並んで歩きながら、傭兵についての認識を改めるかのマユラだった。
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