第9話 さよならも言わないで

文字数 3,049文字




お父さんとお母さんの出発前、三人で朝食を食べていた時、お父さんが急にこんなことを言い出した。

「なあ…父さん、昨日妙な足音を聴いたんだ」

それを聞いた瞬間、私は背中に冷水を浴びせられたように寒気がして、“まずい!バレた!”と焦った。

でも顔色を変えてバレてしまわないように気をつけていると、お父さんは続きを喋りだす。お母さんはよくわからないから続きを聞いていたかったのか、何も言わなかった。

「…真夜中だ。トイレに起きたから、寝室からそこまで歩いた。でも…雪乃。二階から足音がした。初めは雪乃かと思った。でも、昨日夜中に起きたか?」

私は反射的に、首を振ってしまった。

もちろんここで嘘をついてごまかすこともできるかもしれない。

でも、さらにお父さんが何か聞いてきたり、新しい事実を出してきた時、私の言うことがそれとは噛み合わなかったら。私が説明できないことを聞かれたら。

上手くいく保証はないもの。

「そうか。そうだよな。あれは…男の足音だ。重くて、速い。だからおかしいなと思ってしばらく聴いていたら、それはふっと消えて、二階からは物音一つしなくなった」

お父さんが重々しく、でも怖そうに細い声でそう言い終わると、お母さんがこう言う。

「もう。お父さんったら急に何を言い出すのよ。それじゃあ一人で家にいる雪乃が怖がるじゃない。気のせいとか、寝ぼけてたわけじゃないの?」

そう言いながらお母さんは不安そうな顔をしていて、自分の方がよっぽど怖がってるみたいだった。

すると、それを見てお父さんははっとして、しばらく考え込むような顔をしてから、ちょっとくすっと笑った。

「そうだな。もしかしたら、寝ぼけて夢を本当と思ったのかもしれない。ごめんよ雪乃。怖くないかい?」

「う、うん、大丈夫…」

なんとかそう言ったけど、私はこう思った。


お父さんが本当に帰ってきたら、ごまかし切れないかもしれない。


私はそれを思うと、不安で堪らなかった。

もし、二人のうちどちらかが、「怖いからお祓いをしよう」と言い出したとして。

「いやだ」と言って二人を説得するなんて、できることなのかな…。





「どうしたの。悩みごと?」

両親がアメリカにまた旅立って行く朝、私はそう聞いてきた時彦さんに、初めて嘘をついた。

「なんでもないですよ。ちょっと、考えごと」

「そう…」

時彦さんは、ためらいがちに笑っていた。







月曜日に学校に行った時、昼休みに一緒にお弁当を食べようとして舞依の席まで行くと、舞依はいつものように「早く食べよ」と私を迎えてくれた。

「「いただきまーす」」

お母さんが居なくて、料理に慣れていなかった私は、自分でお弁当を作るのは大変だった。

しばらくの間は、舞依が持ってくる具だくさんなお弁当がうらやましかったけど、今朝は久しぶりにお母さんが作ってくれたから、豪華で美味しい!

「あれっ。お弁当、元に戻ってる」

「うん、昨日だけお父さんとお母さん帰ってきたんだー」

「そうなんだ。良かったね〜」

私たちはそれぞれに、唐揚げや玉子焼き、ブロッコリーやミニトマトにサラダ、それからハムで巻いたチーズや、焼肉で巻いたにんじんを食べた。もちろん、ふりかけのかかったごはんも。

「あ〜お母さんありがとう!美味しい!」

私が思わずそう叫ぶと、舞依は私の頭を撫でて「いいこ、いいこ」と言っていた。

「舞依はお母さんじゃないでしょ」

「でも、雪乃によく勉強教えてるもん」

「それとこれとは…」

「はい、ごちそうさまでした」

「あ、ごちそうさま」

私がなんとなくごちそうさまを言って、お弁当箱を元通りにしようとしていた時、不意に舞依がこんなことを言った。

「でもさ、雪乃ちょっと痩せたんじゃない?ていうか、かなり」

「え、そう?」

私は何気なく聞かれたことだと思ったのに、舞依の顔を見ると、じっと私を見つめていて、真面目そのものだった。

そしてその真面目な顔のまま、私を見て舞依は真剣に私に聞く。

「ダイエット中にしたって、もうやつれてるくらいじゃん。ちゃんと食べてる?」

「う、うん…食べてるよ?朝昼晩、ちゃんと…ダイエットもしてないし、気のせいじゃない?」

すると舞依は急いで首を振る。

「気のせいなんかじゃないよ!帰ったら体重計って!絶対!」







「ほんとだあ…え〜、5キロ減ってる…」

その晩、家で体重計に乗って、私は驚いた。前に計ってから1ヶ月も経っていないのに、私の体重は5キロも減っていた。

どうしたんだろう?そう思いながら、体重計のあった洗面所で鏡を覗き込んでみて、また私はびっくりした。


確かに、顔も痩せてる。Tシャツの半袖から出た二の腕も、首も、前より細くなってる。


…ダイエット、しなくていいかな?一回くらいなら、好きなものいっぱい食べてもいいかも!

って、昨日ビスケット食べたばかりだけど。

私は、お母さんがお土産に買ってくれたチョコレートを食べることにした。

明日、なんとか舞依に、「心配ないよ」って言わないと。でも、こんなに短期間に、なんでこんなに減ったのかな。

思い当たることがなかったけど、その晩はアメリカのチョコレートを食べていた。



私はこの時は、自分の身に恐ろしいことが起こっているなんてわからなかったけど、翌朝、思いもよらぬ「さよなら」で、それを知ることになる。





朝になると、初めて、私が起き上がる前から、枕元に時彦さんが居た。

私はちょっとびっくりしたけど、最近では時彦さんが急に現れるのも慣れていたから、ちょっとびっくりしただけで、「おはようございます」を言った。

すると、時彦さんはちょっと悲しそうに笑って、同じように「おはよう」と言ってくれた。

でも私はなぜか、その朝の時彦さんがあんまり儚げに微笑むから、時彦さんを見つめたまま、動けなくなってしまった。


もしかしたら、私が驚いて悲しんだ顔をしたなら、時彦さんが次の言葉を言わないと決めてくれるんじゃないか。

私はそんなふうに、別れの予感を感じてしまったのだ。


「…「幽霊が取り憑いた人間は、体力を消耗して、やがては死んでしまう」って話、聞いたことあるよね?」

突然の通告は、平和な朝の光に包まれた部屋でされた。

私は、自分の体重が急に5キロも減った理由が分かって、それから、時彦さんがなぜこんな話を始めたのか、理解する。


……いやよ。


私は我知らずに、かすかに首を振っていた。すぐに時彦さんに説得されてしまわないように。

いやだいやだとわめき出したら、“子どものわがまま”と、一蹴されてしまうかもしれない。

時彦さんは優しげな微笑みを崩さず、少しうつむいて瞼を伏せた。朝の光に透ける彼の姿を見るのが最後だなんて、知りたくないのに。

「…知ってるね。だから、お別れしよう」

時彦さんは窓に向かって顔を逸らし、朝陽に体を向けて、今にもそこから飛び立って行ってしまいそうだった。


私には、断るすべがない。

どうやっても、時彦さんを引き留めたら私が死んでしまうんだろうから。


私だって死にたいわけじゃないけど、だって、こんなに急になんて…。



「君を見守っていたくて…一緒にいたのは、僕のわがままだった。これ以上、付き合わせられないから…」

「待って…」


朝陽に溶けて、時彦さんが消えてしまう。こんなに急に。

私はその姿に駆け寄ったのに、時彦さんは軽く手を振りながら、たった一瞬で消えてしまった。


「嘘…」

嘘なんかじゃないのはわかっていた。でも私はそれから、家中を駆けずり回って、初めて会ったあの日のように、何度も彼を探した。


でも見つからなかった。彼はいってしまった。

「さよなら」も言わないで。






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