最終話 もう一度始まる恋

文字数 3,001文字





あれから一カ月。私は毎晩のように泣き、それから、時彦さんの「大人になってから」という言葉が彼の誠実さから出たものだと思うと、それを忘れられもせず、悲しみが色あせてからも彼を忘れることはなかった。




私は、高校に通って、大学に進み、そして上京して、小さなオフィスに勤めるようになった。

お父さんとお母さんは厳しいビジネスの世界でバリバリと稼いでたけど、どうやら私はそうでもないみたい。そう思ってちょっと落ち込んだこともあった。でも、両親が私にもそういう生き方を望んだことは一度もなかったから、さほどでもなかったと思う。

私は、単調な毎日を繰り返している。

朝起きたら、歯を磨いて、軽く何かおなかに入れたら、地味なスーツに着替えて電車に乗り、すぐに会社へ。

会社に着いたら、掃除と朝礼、それから、お茶を入れたり書類の整理をしたり、コピーを取ったり、書類の編集、メールのチェックに返信と、社内文章の作成、ダイレクトメールの封入…。

どうして雑用ってこう種類が多いのかしら。日々そう感じているのに、だんだんと考える力を失っていく日々。


そんな日々の中で思い出すのは、私の人生で一番ときめいていて、輝かしかったあの時間。彼と過ごした二カ月と少しと、初めてで最後だった彼の本当の声。


どんな声だったのかもう思い出すことができないのに、それが“間違いなく私に向けられていて、優しいものだった”ということだけ、覚えている。






「お疲れ様です。部長」

他の部署に行っていた、いやーな部長が帰ってきた。いつも嫌味ばかり言っている部長は、みんなに嫌われている。でも、上司だから仕方なく、みんなそれなりに接していた。

部長は私をじろっと見て、「客があるから戻ってきた。お茶の用意をしなさい」と私に命令した。

「お客様は何名でしょうか」

「一人だ。まったく…飛び込みの営業マンだよ。こちらが忙しいのに、迷惑な話だ」

私は「承知しました」と言ってから給湯室に引っ込み、急須で出来上がったお茶を茶碗に、そしてその茶碗を茶托に乗せて、お盆で運んだ。



応接室からは、もう何事か喋りたてている営業マンの人らしき声がする。

やっぱり営業マンの人って声がはっきりしていて聴きやすいよね。そりゃ、相手から話術で契約をもらうんだから、当然と言えば当然だけど。

私はその声を聴いていて、何か遠い昔の匂いのようなものを思い出した。あたたかくて、優しい。


時彦さんの声に似てる気がする…でも、こんなところで会えるわけがないよね。


控えめに三度、扉を叩いて、私は扉を開けた。

「失礼いたします」

そう言って顔を上げた時、私は奥に座ってこちらを向いている男の人の顔を見て、そのまま凍り付いてしまったのだ。

「わが社では、それぞれ顧客の皆様に、システム管理のわずらわしさから解放されて頂きたいと、日夜努力しております。今回こちらにお持ちしましたお話は…」

熱心に部長に向かって喋り続けていた営業の人は、私がぼーっと突っ立ったままなのが気になったのか、顔を上げる。そして、「え」と口に出して、彼もそのまま固まってしまった。


彼は、変わっていなかった。いいや、すごく変わった。


昔は髪は長くしていたけど、今は短く切ってきっちりと撫でつけ、それにスーツも、落ち着いた色合いではあるけど洒落たものを選び、それなのに、私を見る優しい目は、変わっていなかった。


「なんだね、早くお茶を置きなさい。何をグズグズしているんだ!」

「も、申し訳ありません。お客様、前から失礼いたします…」

「いえ、ありがとうございます」


彼の笑顔も、最後に見た時と同じで、どこに居てもわかるほど、優しかった。







時彦さんは、部長との話が終わったのか応接室から出てきた時、一度もこちらを見なかった。


ああ、やっぱり。そうだよね。昔ちょっと会った女の子くらいなんだから、私。

もう彼女か奥さんがいておかしくないんだし、私のことは、避けるよね…。


そう思ってかなり落ち込んだけど、そんなことで仕事の手を止めるわけにいかない。

私はきちんと仕事をして、重い重い体を引きずり、一階に向かうエレベーターに乗った。








私が帰ろうとして会社の玄関口から出ると、少し離れた植え込みを囲うコンクリートの土台に、背の高いスーツ姿の誰かが、背中を丸めて座り込んでいるのが見えた。

昼間見たのと、同じ色のスーツ姿。私の心臓がずきりと痛む。あんまり嬉しいから、胸が痛んだ。





「ここに居れば、会えると思って」

私が時彦さんの前に出た時、彼は真っ先にそう言った。そして、嬉しそうに笑う。

「ずっと、ここにいたんですか…?」

「まさか。契約を取ってから一度社に戻って、それから取って返したよ。今日中にあと一件行きたいところがあったからってね。つまり、ズル休みだ」

「え!あの部長から契約、取ったんですか!?」

私は信じられなかった。今までへそ曲がりの部長に追い返されてすごすごと引き下がった営業の人なんて、いくらでも見たからだ。

すると時彦さんは、「意外と僕は成績が良い方なんだ」と言って笑った。

「そうなんだ。すごい…」

「もう帰るでしょう。途中まで送るよ」

そう言われて、私はふるふると首を横に振った。

「時彦さんが良ければ、私、お話したいんです」

私がそう言うと時彦さんはすぐに「わかった。じゃあごはんでも行こう」と言ってくれた。







「私…あのあとちょっと落ち込んで…でも、時彦さんは誠実な人だからああ言ったんだと思うと…やっぱり…」

目の前に居る時彦さんは、ちょっと恥ずかしそうに肩を揺らした。

私たちは、二人の間にもう何かの了解があるかのように、柔らかな思い出話をしていた。

「もちろん、あの頃はね。大人なら、当たり前のことだよ」

「そうかな」

「それに、茶々丸の恩人だもの」

「そっか…」

私はずっと、新しい一言を言うタイミングを探していた。でも、なかなか掴めないままで夜は過ぎていく。

舞依のこと、私の家族のこと、あの頃の私たちの生活のこと…たくさん喋ったけど、決定的な一言は言えないまま夜の11時を過ぎて、私たちはレストランから掃き出される。

「そういえば、時彦さんに会ったあと、舞依が、「あの人いい人だね」って言ってて…」

「へえ、ありがたい」

ぽつりぽつりと、もう飽きたはずの思い出話をしながら、私たちはその近くの地下鉄駅までを歩いていた。


どうしよう。早く言わなくちゃ。

すると、私の少し前を歩いていた時彦さんがくるりと振り向いて、こう言う。


「雪乃ちゃん、会えて、本当に良かった」


“私もです”、そう言おうと思ったけど、もう目の前にメトロの水色の看板が見えているのに、そんな悠長な真似はしていられなかった。

「時彦さん…今、お付き合いしている人、いますか…?」


怖かった。こんなに素敵な人に、女の人が寄ってこないはずないから。


すると時彦さんは苦笑する。

「残念ながら…」

「えっ…」

「いないんだ、ずっとね」


私はもう、我慢していられなかった。ずっとずっと心のどこかで待ち続けていた彼に向かって駆け寄って、抱きついて泣きついた。


「よしよし、いいこ。雪乃ちゃん」

「時彦さん、時彦さん、時彦さん…」



私は結局、彼の腕に抱かれて名前を呼び続けることしかできなかった。「好きです」なんて言えなくて、でも、あの頃のように私を撫でてくれる時彦さんの手のひらは、今度こそあたたかく私を包んでくれた。




私の恋は、もう一度始まった。今度こそ。



「時彦さん」

「なあに?」









End.
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