4 殺し屋が降る

文字数 2,856文字

〈客引き〉のヨシノノブユキはビルの裏口にあった短い階段に座ってタバコを吸っていた。そこは扉の上からひさしが伸びて雨に濡れなかった。
〈探偵〉ってどんな仕事をするんだろうな、ヨシノノブユキはすぼめた口からゆっくり煙を吐き出しながら考えた。ぼんやりしたイメージはあるが、さっきの奴が何をしているのか全く理解できなかった。とは言っても、ヨシノノブユキはたとえばかしこまってスーツにネクタイを締めた〈弁護士〉やお高くとまった〈銀行員〉なんかが何をしているのかも全く分からなかった。ヨシノノブユキが分かるのは〈客引き〉と〈売春婦〉だけだった。
 何にせよ、奴は金をくれたからいい奴だ。ヨシノノブユキにとってそれは絶対的な基準だった。

 それにしてもキョウコの奴がまだ帰ってこない。あんな〈探偵〉のように金をポンとくれる奴ばかりじゃない。このままなら商売あがったりだ。ヨシノノブユキは深く吸い込んだ煙をまた吐き出しながら徐々に不安になってくる。

 そういえばキョウコの奴が言ってたな──ヤバイ奴がうろうろしてるかもって。
 でもまさか──まさか俺が狙われるなんてことないよな──だよな。

 ヨシノノブユキは短くなったタバコを水たまりに捨てる。新しいタバコを取り出し、口にくわえる前に手を止める。

 ──ここはどこだろう?

 あの野郎から金をちょろまかすために人目を避け奥へ奥へと入っていったら、よく知らない場所まで来てしまった。今はとにかく明るく人通りのある場所まで戻りたかった。ヨシノノブユキはわざと大げさに咳払いして立ち上がった。
 ヨシノノブユキは来たと思われる方向をたどって歩いた。狭い路地で傘を差していると、積み上げられたビールケースやエアコンの室外機に当たって邪魔だった。わずかな間ぐらい傘をたためばいいのかもしれないが、最近の汚れた雨は頭髪に悪いと聞いている。ヨシノノブユキの唯一の自慢はこのリーゼントヘアだったので髪が薄くなっては困る。きちんとボリュームがあってこそのリーゼントだ。
 まったくいつになったら雨が上がるんだよ──ヨシノノブユキは空を見上げた。

 ──って危ねえ!

 何か真っ黒で大きなものが空から落ちてきた。ヨシノノブユキはとっさに後ろに飛んでそれとぶつからずにすんだ。

 な──何なんだよ、いったい?

 空から落ちてきたのは人だった。ヨシノノブユキは尻餅をついたままの姿勢で、その人物と、そいつが降ってきたビルの隙間の空を交互に見上げた。右側のビルの外壁に鉄骨だけの簡単な非常階段がくっついていた。どうやらこいつはそこから飛び降りてきたらしい。

「バカやろう! どういうつもりだよてめえ! 怪我するところだったじゃねえか!」

 ヨシノノブユキは条件反射のようにとりあえず凄んでみた。明かりのない路地では暗すぎて、目の前の野郎がどんな奴なのかまで分からない。

「おいこら! 何か言えよ!」

 ヨシノノブユキが怒鳴るとそいつは一瞬笑ったような気がしたが、言葉は何も発しない。

「聞こえてんだろこら! 舐めてんのか、おい!」

 ヨシノノブユキは手に握り続けていた傘を杖のようにして立ち上がった。瞬間──奴が目の前に迫って腕を振った。とっさに飛び退いた。

「──何だよこれ?」

 肩の下の腕が焼けたように熱い。逆の手で触ってみると明らかに雨でないどろっとした温かい液体で濡れている。まさか──血? 分かったとたん鋭い痛みが襲ってくる。

「何なんだよ!」

 ヨシノノブユキの頭はパニックを起こしかけていた。目の前のそいつは今度こそ絶対に笑っている。そいつの右手の先がわずかな光を反射して光った。
 ヨシノノブユキは声にならない悲鳴を上げた。再びそいつの右手が真横に振られようとしている。ヨシノノブユキは握ったままの傘を投げつけた。投げつけ、投げた勢いのまま逃げだした。

 冗談じゃねえぞ、どうして俺がこんな目にあわなきゃなんねえんだ──

 ヨシノノブユキは狭い路地を縫うように全力で走った。何度も躓きそうになるが、どうにかバランスをとって走り続ける。振り返らなくても、水たまりを跳ねる音で奴が追ってきているのは分かる。
 息をいくら吸っても足りない。心臓が口から飛び出そうだ。こんなに走ったことは生まれてから一度もない。しかしこの苦しみももうすぐ終わる。通りの明かりが見えてきた。残念だったなキチガイ野郎、通りに出たらでっかい声で叫んでやる、お前を突き出してやる。

 だから何でだよ──何でなんだよ!

 もうすぐ、もうすぐ行けば明るい表通りに出るはずだった。
 なのに──なのに……

 ヨシノノブユキの前にはコンクリートの壁があった。五階以上はあるビルの壁。乗り越えることなんて出来るわけない。素早く左右を見るが、どっちにも道はない。同じようにコンクリートの壁が立ち塞がっているだけ、袋小路。どこにも逃げられない。逃げることが出来ない。

 ヨシノノブユキはゆっくりと振り返った。奴がゆっくりと近づいてきていた。今では一ブロック先から届く〈街〉の光を反射して、その手に握られた鋭いナイフがはっきりと見える。
 ヨシノノブユキは後ずさる。後ずさるが、靴のかかとがもう壁に当たってしまっていた。

「てめえ、俺のバックに誰がついてると思ってんだ!」

 はったりでも何でも奴がどこかに行けばいい。しかし奴は足を止めることなく近づいてくる。近づいて、手の届くぎりぎりの距離で足を止めた。
 ヨシノノブユキは覚悟を決めた。相手がナイフを持っているからといってビビっていては駄目だ。やるときゃはやらなきゃいけない。勇気を出すために自慢のリーゼントに手を触れた。

 なんてこったい──

 すっかり雨に濡れてヨシノノブユキの髪は下に垂れ下がっていた。垂れ下がった先から雨水さえ滴っていた。もうリーゼントでもなんでもない。
 ヨシノノブユキは叫び声を上げて目の前に立つ黒い影に向かっていった。大声を上げて向かっていったはずなのに声は全く出ず、喉から笛のようなピューという音が漏れるだけだった。

 ヨシノノブユキは地面に倒れた。顔の正面から倒れたのに不思議と痛みはない。これから自分に起こることを理解しながら、それでもこんなことをした奴の顔を見ておきたかった。見なければならなかった。その願いが伝わったのかどうなのか、ヨシノノブユキの体は力任せにひっくり返され上を向いた。続けて奴が胸に馬乗りになる。ナイフが構えられる。だがもうヨシノノブユキに恐怖はない。ナイフが頬に深々と刺さっていても何も感じない。
 奴がナイフを引き抜いた次の瞬間、急に体重が移動したことで肺に溜まった血液が逆流して噴き出した。それはヨシノノブユキの最後の抵抗だというように奴の顔に向かって広がった。ざまぁみろ、ヨシノノブユキは残った力で奴に向けて舌を出してやった。

 奴が顔についたヨシノノブユキの血液を拭うためにレインコートのフードを取る。
 ヨシノノブユキは暗くなっていく視界の中でやっとその顔を知る──

 なぁ、どうしてなんだよぅ……


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