11 キリストが十字架の上で

文字数 1,348文字

 ひとつ確かなのは、リリーは、私の格闘性能(かくとうせいのう)見込(みこ)んで、復讐を依頼(いらい)してきたわけではない、ということ。
 私が穴をつっついてしまったからだ。いわゆる墓穴(ぼけつ)
 彼女のかくされた過去を超能力的に言い当てた(よろこ)びは、正直、かなりあったが、その代償(だいしょう)は大きなものだった。
 私に、人を、殺せ、と?
 報復の手伝いをしろ、と?
 
 たしかに、私は遠い国から来たばかりの旅行者。
 ここで重罪(じゅうざい)(おか)したとしても、警察に犯人特定される前に日本に戻ってしまえば、(つか)まることはないだろう。
 よく「旅行者がねらわれる」と言うが、「旅行者がねらう」というのも、逆にありなのかもしれない。

 なんか、自由って、すごいな。

 私たちは、パスタをそれぞれの皿に()り、レトルトのトマトソースをかけて、私の部屋に移動した。
 二人でベッドに腰掛(こしか)ける。
 (さいわい)い、ロイは外出中。

「で、相手は、わかっているの?」
 私の現実的な問いに、リリーはパスタに手をつけずに見つめたまま、肩をすくめた。
「本当のことを言えば、それは、ロイのおじさん。私がここを()き止めたときは、もう死んでた」
「ロイの、おじさん?!
「もちろん、ロイはいい人。そんなことはしない。でも、おじさんは、ひどかった。雑貨屋(ざっかや)をやっていたんだけど、お使(つか)いにくる子供を物色(ぶっしょく)して、相談に乗るふりをして部屋に連れ込んで。私は知らないけど、たぶん、私だけじゃない。しかも(じゅう)の販売とかで人脈(じんみゃく)もあるし、何度か警察を助けて表彰(ひょうしょう)もされていた。子供の主張が(みと)められる状況(じょうきょう)じゃない。彼も、それを知っていて、やった」
「ひどい……」
「私、8歳だった」
「リリー……」
「今でも(いた)むし、普通じゃない出血(しゅっけつ)するときがある。でも、わかる? 彼は、すでに死んでいたの」
「やっぱ、犯罪(はんざい)に巻き込まれて?」
「いいえ、ただの(がん)。まあ、それが私や、被害者(ひがいしゃ)(うら)みによるもの、といえば、そうだったのかもしれないけどね。ごめんね、せっかく作ってくれたのに、ちょっと、いまは」
 と、リリーは横の物入れの上に皿を置いた。
 私も、食欲をなくし、同じくそうした。

 私は、パスタの()わりに、バイオリンを取りだした。

「弾いていい?」
「うん」

 とはいえ、今の心境(しんきょう)にあう曲が、最初から明確だったわけではない。
 ヘンな話だが、昔のテレビCMの脳天気(のうてんき)なメロディが、ふと浮かんだりもした。
 元気になろう、という意味で。
 でも、さすがにそれはね。
 調弦(ちょうげん)しながら、もっと真面目なやつ、と考えたら、これまた極端(きょくたん)な発想が。

 バッハ。
 たしか「マタイ受難曲(じゅなんきょく)」で、キリストが十字架(じゅうじか)のうえで死んでから、すぐに(そう)されるアカペラ合唱。
 タイトルとか、まったく知らないけど、猛烈(もうれつ)に美しくて、一度聞けば忘れられなくなる。
 長い全曲を聴いたのは一度だけだけど、印象的なメロディは、あとでさらったりしていた。
 それを、今は、この楽器が(ほっ)していた。
 私は、楽器の要望に応えて、手と指を動かす。

 それが、ふさわしいことかどうかはわからないし、リリーという西洋人(せいようじん)の気持ちに、どのように入っていくかはわからなかったけど、とにかく、私ができること。

 悪霊退散(あくりょうたいさん)の聖水みたいな。

 これが「復讐(ふくしゅう)」で、いいでしょ?
 
 リリーの、充血(じゅうけつ)して(うる)んだ(ひとみ)が、(いた)かった。



※ マタイ受難曲 No.62コラール「いつの日か、われ去り逝くとき」

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