第一話 春の風は、第二の人生を迎える道しるべ。

文字数 1,991文字

 登場人物一人目・北川(きたがわ)初子(はつこ)の場合。


 ……何が悪かったのか?

 と、自問自答を繰り返して、もうすぐ三十五年になる。

 今となっては、所詮(しょせん)は過去のこと。
 過去は未来を築く土台にすぎないから、もうあの日に帰ろうとは思わない。

 ……けれども、机の上にある一通の手紙は、また遠い過去へ戻そうとする。

 その手紙を(つづ)ったのは、星野旧一(ほしのもとかず)。わたしが教師になって、初めて受け持ったクラスの男子生徒。そしてその手紙が、この子の最後の言葉になった……。

 まるで昨日あった出来事のように、わたしは今も、覚えている。
 あの日、あの交わした言葉たちが、今でも鮮明に聞こえてくる。


「卒業までもう少しですね」

「えっ?」
 耳を疑った。

「はい」「いいえ」
 と、この子の口から、それ以外の言葉を聞いた人は、お家の人を除けば、わたしだけだと思う。そんなこの子が、自ら話しかけてきたのは、この日が初めてだった。

 この子と出会って、もう二年が過ぎた頃の話だ。

 この子は、体育を苦手としている。国語・数学・英語……などの五教科の成績は、良くはなかったけれど、決して悪くもなかった。大人しくて……大人しすぎて、逆にそれが目立っていた。基本的には優しい子。妹が二人いて五人家族。後は『坊ちゃん刈りの真面目という言葉が似合う男の子』が、この子の特徴だ。

 それらのことも踏まえながら、

「そうね。卒業しても、困ったことがあったら相談してね」
 と、わたしは、言葉を返した。

 この子は、少し(うつむ)いて、
「もう困ったこと……あります」

「なあに?」

「僕は先生が大好きです。できるなら卒業したくない。まだ一緒にいたいです」
 と、この子は顔を上げると、涙目になっていた。

 ……愛の告白?
 それよりも、もっと純粋。

 この子のあどけない瞳が、そう物語っていた。

旧号(きゅうごう)、卒業しなきゃ、あなたの人生、進めないわよ」

 わたしがつけたこの子のニックネーム。あの有名な、バイクに乗って大地を駆ける特撮のヒーローみたいで、何だかかっこいいでしょ?

「…そうですね。変なこと言って、ごめんなさい」

「いいのよ。卒業しても、あたしでよければ、会いたくなったら会いに来ていいのよ」

「はい。先生、ありがとう!」

 この子の、初めて見る満面な笑顔がそこにあった。


 ……でも、その約束が果たされることはなかった。

 あまりにも早すぎる死……。
 この子は、卒業式を迎えられなかった。


 窓を開けると、白いカーテンが(なび)いた。その向こうにはベランダが……。

 ここは三階。お別れの時が来た。

 この風の強さを利用して……この子の最初で最後の手紙を両手で破った。
 この子の言葉が迷うことなく、舞い散る桜の花と一緒に、この場所から、新しい季節へ旅立てるようにと、願いを込めた。

 すると、
「ママ!」
 って、呼ぶ声が聞こえた。

 この様に、わたしのことを呼ぶ子は世界で一人しかいない。髪が白くなって還暦を迎えたおばあちゃんのことを、孫みたいに小さな子が「ママ」って呼ぶわけがない。そのことを、ほんの少し頭の片隅に置いて、ベランダから見下ろせば、ショートボブの丸顔とは不釣(ふつ)り合いな、艶のある黒に、緑色の昆虫を連想させる派手なライダースーツを着た女性が、ヘルメットを抱えて、こちらを見ていた。

 そして、言うの。

「駄目だよ、ベランダからゴミ捨てちゃ」

「あっ、ごめんごめん」

 その女性は……やっぱり似合わない。その子は、わたしの娘だ。

 今日はアルバイトの最終日だったそうで、明日から教職に()く。
 わたしと同じで……って、パパもか。やんちゃしていた子だけど、それも似合わないほど童顔で小柄。学校へ行くと、生徒の中に混ざってしまいそうだ。

 ……と、まあ、そんなことまで想像したけど、(かえる)の子はやっぱり蛙みたい。
 それは、この子が高等部に進学する朝のことだった。


「わたしもママみたいな先生になる」

瑞希(みずき)、いつも言ってるけど、『ママ』じゃなくて『お母さん』でしょ。……まあ、それはそれとして。お母さんみたいな先生になったら大変よ」
 と、わたしは笑いながら言った。

 ……本当は反対だった。この子に、わたしと同じ思いをさせたくない。

 でも、この子自身、気づいてないかもしれないけど、きっと、この子が本当になりたいのは、わたしではなくて『パパみたいな先生』だと、そう感じた。

 なぜなら、わたしは『数学の先生』だった。パパは『国語の先生』で、この子も明日から『国語の先生』になる。……それでも、

「わたし、(あこが)れてたの。ハッピー先生に」

 それは、わたしの名字が『(くれない)』で、まだ白衣の代わりに法被(はっぴ)を着ていた頃、当時の生徒たちがつけてくれた大切なニックネームだ。
 旧号も、わたしのことを、そう呼んでいた。


 そして瑞希は、わたしが長年に渡り、席を置いていた千里(せんり)の私立大和(やまと)中学・高等学園から教師生活をスタートする。またそこは、この子の母校でもあった……。
  



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