第2話 橋のない隅田川

文字数 3,887文字

 邯鄲の夢ー①橋のない隅田川

 昇段審査に敗れてから数年後、黒川翔太は隅田川界隈に居た。

「おい黒川君、また将棋みにきてんのかい?」
 隅田川沿岸の青テントの主、白髪の松尾はまだうら若い珍客に表面上ないはずの威厳を演技しつつも内心嬉しかった。

「ああ」
 翔太がぶっきらぼうに応えたが、朝から降り続く雨と水嵩が増した隅田川の水音でそれは消え入りそうだった。

 「お前、いくつになったんだ」
 松尾が、翔太の内面に土足で踏み込んだ。

 「二十九、もうすぐ誕生日なんで三十だよ」
 翔太は、含羞をもって応えた。

 「三十路のチョンガーだな」と松尾が揶揄すると
気に障ったのか翔太はそれっきり寡黙になった。

 翔太は黙って、松尾が設えたビールケースで組み立てた即席のちゃぶ台の上で、マグネットの詰将棋を並べた。

 「今度のそれは、何手詰めなんだい?」
 松尾が口直しに興味深げに覗き込んだ。

 「三十一手詰めだよ」
 翔太は盤面を凝視して腕組みしている。

 「詰んだのか」と松尾が嫌に儀礼的に聞いた。

 「いや、二歩の筋があって、なかなかに難しい」
 翔太は、根が正直でてらいがない。

 「まるで、プロだな」という松尾は五手詰めかせいぜい七手詰めて息切れするので、翔太のそれが神業のように見える。

 「なり損なったよ。将棋指しは、潰しが効かねえ。人間失格だな」と翔太は褒められたのがかえって良くなかったのか、それきり口をきかなくなった。

 
「ハゼが少しばかり釣れたんでな。その出汁で粥を炊くと美味いんだ」と松尾が白髪頭を掻きながら場を繕うと、翔太は立て掛けられた竿を一瞥した。

ここは隅田川界隈、青テントの数もずんと減ったが、残った者には不屈の根性が入っているとの妙な自負がある。

松尾は、千住大橋の橋桁の下に居を構えており、それが雨の日でも妙な安心感と安定感をもたらす。

松尾は還暦を優に超えていそうだが、テントの中に携帯用の小さなTVを持っており、翔太はそれが目当てで入り浸っている。

「英愛戦というのはね、世紀の一戦なんだ。ライブ中継を見逃すわけにはいかないな」
 翔太はなけなしの南京豆を口に放り込んでは画面を凝視している。

「この界隈で将棋を見るのは、お前だけだよ」と 松尾は冷え込む朝の空気を確かめながら、昨夜からハゼの出汁と一緒に漬け込んだ米をストーブに掛けた。

ストーブといっても固形燃料に毛の生えたようなものだが、冷え込む朝は実に有り難い。

「人間の将棋の名人がね、人工知能のAIと勝負するんだ。前代未聞のタブーだね」と翔太は画面に釘付けになった。

(お前もプロを目指していた口か、それで挫折して落ちてきたんだな、では真剣師として生きてみたら)という文句を松尾が呑み込んだ。

 松尾は、千駄ヶ谷の奨励会員が26才までに四段の昇段審査に合格しないとプロへの道が閉ざされることを人づてに聴いて知っている。

「十秒、九、八、七....まで、九十七手にて英愛の勝ち」とテレビが告げると、翔太が天を仰いでスイッチを切った。

天井が青い、しかしそれはブルーシートの青さだ。空の蒼さとは違う。

「どっちが勝った?」と松尾が渋面の翔太に横槍を入れた。

「機械の方さ。江戸時代以来の将棋界の伝統もこれで崩れたね」と応えた翔太の内面で何かが崩れ去った。

 昨夜から降り続く雨で隅田川の水量も危険な程に切迫している。

「粥、炊けたら食っていくだろ」と松尾が遠慮がちにきいた。

「ああ、もう出勤時間もないし、缶を拾うにもこの豪雨じゃな。気楽なもんだよ。食い残しだけど、これ一緒に煮ていいかい?」と翔太は松尾の同意を得てから、残り少ない南京豆を粥を炊く鍋に入れた。

雨音は尽きることがなく、翔太と松尾は一瞬寡黙になった。

「保険がないんだから、雨に濡れないようにしないとな。この界隈でも結核が出たらしい。全く結核なんて昭和の遺物かと思っていたが、とんでもねえな」 という松尾の言葉を遠くに聴きながら、鍋のかかった火を見ているうちに、翔太はいつしか睡魔に襲われた。

(機械が、人間に人間失格の烙印を押す日もそう遠くないよ)と翔太が力無く呟くと、ストーブの火がパチっと小さく弾けた。

************************************

「おい、起きろ。そろそろ英愛兵の朝の点呼の時間だぞ」
 翔太が目を覚ますと整然と調度された部屋にベッドが二つあり、向かいに寝ているベッドの青年が気ぜわしく制服のようなものをロッカーから取り出して着替えている。

そのカーキ色の制服は何やら刑務所を連想させる。

「何をポカンと呆けているのだ。点呼をサボると連帯責任で俺にまで類が及ぶじゃないか」とその青年が上気してまくしたてた。

「君は、誰?」
 翔太には状況が飲み込めなかった。

「同室のベッドバディ、大橋じゃないか。何を寝ぼけているんだ」

翔太も急いでカーキ色の制服に着替えた。廊下に出でみると、廊下の両側にはズラリと似たような部屋の住人たちが整列している。

「朝の点呼を始める」
 廊下の末端向こう側には、まだ若い二十代の男が二人、緑色の制服に赤の腕章を付けて立っている。皆、190センチ近くはありそうな立派な体格、ハンサムなバレーボール選手のようである。

「番号!始め!」、「一、二、三、四...四十五、四十五名異常なし」。

「同志アネイブル黒川翔太!」
翔太はふいに名前を呼ばれて狼狽した。

「はい」

「おまえ、昨日の体育の時間に野球のキャッチャーをやっていて、バットが後頭部に当り、脳しんとうを起こして失神したという報告を受けたが、大丈夫か」

「何が、なんだか分かりません」

「そうか、一時的な記憶障害に陥っているのかもしれん。同志アネイブル大橋、おまえよく面倒を見てから、後でディスペンサリーに連れて行ってやれ」。

「はい!」
 大橋が直立不動でこたえた。

翔太には、まだ二十代前半の輩が三十代以上の者達に上から目線でモノを言う態度に異常なものを感じた。

(あの、看守みたいなデカイ奴らは一体何だ?人の名前の前に勝手に同志とかアネイブルとかつけやがって、なんて失礼なんだか)
 翔太の脳裏に色々なものが去来するが判然としない。

「最近、朝の礼拝時間に教会内において、あくびをしたり、私語をしたりと不届き千万な輩がいると司祭さまから報告があった。君たち同志アネイブルにとって全くあってはならないこと、場合によっては不敬罪にあたり、告発されることもあるので充分注意するように」

「はい!」
 整列している全員が真っ青になって震えて応えた。

(なーにが不敬罪だ。馬鹿じゃないのか、こいつら)
 翔太はまだ事情が飲み込めずに鼻白んだ。

朝の点呼が終わり、部屋に戻った翔太が大橋に尋ねた。

「今日は、何年何月何日か?」

「カレンダーを見てみろよ。208●年●月●日だろ」

翔太は、慌てて窓に駆け寄った。川の両岸は見事に整備され、雲をつくような摩天楼が幾数棟も建ち並んでいる。所々に芝生の空き地があり、運動場のようなものも見える。川の水が日光のそれのように透き通って綺麗である。

「あ、あれは隅田川か?」

「ああ、明治の文豪芥川龍之介が愛した隅田川だよ」

「な、ない。ないぞ!」

「何が?」
大橋が呆れたように聞き返した。

「せ、千住大橋だ」

「橋?そんな時代遅れなもんは景観を壊すので全部取っ払ったんだよ。白鬚橋だってないだろ」
 大橋が一笑した。

「で、ではあちら側に行きたいときはどうすれば?」
 翔太は、頭が混乱してきた。

「われわれアネイブルは、向こう側には行きたくても行けないのよ、向こう側はエイブル地域だからな。ついでに言うと、子供を産める現役の女も全員あっちにいる。もっとも同志英愛兵は、仕事と任務があるから日本州何処へでも瞬時に行けるがな」

「どうやって、泳いで?」

「川のこちら側にボックスが見えるだろ」
 大橋は電話ボックスのようなものを指差した。

「ああ」

「あそこから、ダイヤルすると日本全国に配置されているワープボックスに瞬時に人間が送られるのさ。もっとも俺たちアネイブルには入り口のアクセス権がないので、中に入ることさえ出来ないけどな」

「電話ボックスならぬ、ワープボックス!」
 翔太は開いた口が塞がらず、理解不能で脳裏が混濁してきた。

「あっ、それとね慣習的なことだけど、僕たちアネイブル同士はね、苗字の前に同志とアネイブルを付けて呼び合うことになっているんだ。同志アネイブル黒川、同志アネイブル大橋ってね」
 翔太は大橋の話をボンヤリ聞いていた。

 「さ、さっき日本州と君は言ったが、日本はやはりアメリカの属国になってしまったのか?」
 翔太が正気を取り戻した。

 「何を今更、旧日本地区は英愛地球連合の常務理事を担当しているんじゃないか、その傘下組織なんだから当然州になるわけだろ、今世界は英愛が統括しているんだから」
 大橋がドヤ顔になったのが、翔太にはどうしても理解できなかった。

 










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