1-25 異変
文字数 4,641文字
吟味台の上に広げた海図を眺めながら、シャインは見張りのエリックが報告してくる一時間ごとのロワールハイネス号の速度数値を目で追った。
単純な計算上でのロワールハイネス号の平均速度は11ノルン(1ノルン=時速1.8km)。
幸い潮流が南から北に向かって流れている海域なので、うまく海流を利用してこの速度が出せているのだろう。
まずは予定通りの針路で進むことができていると思う。
もっとも、正午の船位置をきっちりだしてみなければ、断言はできないが。針路通りに進んでいても、風や潮流の影響でどうしても横に流されるので、そのズレを修正しなければならない。
カカーン
カカーン
カカーン
カカーン
シャインは時を告げる『
船上では、30分測れる砂時計の砂がすべて落ち切ったら、当直の水兵が一つ鐘を打つことになっている。
八点鐘――つまり、午後12時だ。
そして30分経って12時30分になると、鐘は再び一回(一点鐘)へ戻る。
30分経つごとに鐘の鳴らす回数を一回ずつ増やしていき、八点鐘まで鳴らされると、一点鐘(この場合は16時30分)へ戻るのだ。
正午になった。船首甲板ではジャーヴィスが六分儀を片手に計測を始めているだろう。
海図から顔を上げたシャインは、海図室の扉にはめられた、ひし形の硝子の前に黒い人影が映るのを見た。
「グラヴェール艦長」
その声の主はクラウスだ。
シャインは扉に近づき自らそれを開いた。
「何かあったかい? クラウス士官候補生」
やっと雲間から顔をのぞかせた太陽の光が、鳥の巣を思わせるクラウスの渦を巻いた金髪頭を眩しく照らしている。
「いいえ。異常ありません。ディアナ公爵令嬢からの伝言をお伝えに来ました」
額に親指を軽くつけてクラウスが敬礼する。
「ディアナ様が?」
「はい。なんでも、昨晩の夕食のお礼がしたいということで、13時に一緒に昼食をいかがでしょうか、とのことです。艦長がお忙しいのなら15時のお茶でも構わないがということですけど……」
シャインは頬にかかる金色の前髪を無意識のうちにかき上げた。
船客をもてなすのも艦長の仕事である。けれどディアナが昼食に自分を誘うということは、彼女は
船酔い
にはかかっていないということだ。ロワールハイネス号の乗り心地は正直、あまりよいものではない。
まだ七時間しか航海していないが、船は始終左右上下に傾き、波を乗り越える度に暴れ馬に乗っているように船体ごと跳ね上がる。
実は二名の水兵がすでに船酔いにかかっていた。
出港してから一時間経って、ジャーヴィスがあきれたように報告してきたのだ。
「ラティとティーナの二人ですが、船酔いで動けないそうです」
「二人は今どこに?」
「大船室のハンモックです。まあ、船内のどこにいてもこの揺れからは逃れられませんが……新兵とはいえ困ったものです」
ジャーヴィスが肩をすくめた。
「厨房担当は先程別の水兵を割り当てました。全く、あの二人は格好からふざけていますが、この航海が終わるころにはもう少しマシになるよう努力します」
ジャーヴィスの横顔には苦笑が浮かんでいた。
「……そうだね。13時にお部屋に伺うとディアナ様に伝えてくれるかい?」
シャインはちらりと船尾を見た。
樹木の葉のように茶色の髪をわさわさと揺らして甲板を駆けてくる、見張りのエリックの姿が見えた。
「了解しました。ディアナ様へ艦長の返事を伝えてきます」
クラウスが返事をする。シャインは微笑しながら頷いた。
「ああ。頼んだよ」
「はい!」
クラウスは踵を返して波飛沫が舞い散る甲板を颯爽と歩いていった。
その背中はまだまだ頼りなさそうだが、彼もいっぱしの船乗りとして頑張っているのが感じられた。
「グラヴェール艦長!」
入れ替わりで甲板を野ウサギのように跳ねながらエリックが走ってきた。
「すごいですよ。今、13ノルン(1ノルン=時速1.8km)出てます」
「ほう、それはすごいな」
商船でも13ノルンはなかなか出せない速度だ。風と潮流、最適な帆の角度、船の状態。それらの複合的な条件が揃ってこそ出せる。
シャインは惚れ惚れとした眼差しでフォアマストを見上げた。ロワールハイネス号の真新しい帆は白く輝きぴんと力強く張られた状態を維持している。
「非常に満足な結果だね。エリック、速度の計測はもうしなくていい。当直勤務に戻ってくれ」
「はい」
エリックが頷いた。
けれど水兵は少し迷ったのち、ちらとシャインの顔を見た。
「まだ何か用事でも?」
「……あの」
エリックは一瞬ためらったのち、額に親指をつけてシャインへ敬礼した。
「艦長。お礼を言うのが遅くなってすみません」
「礼?」
シャインは心当たりがないのでエリックの顔を凝視した。
「アイル号のことです。艦長がアスラトルまで船を帰港させてくれたから……俺の従兄弟は死なずに済みました」
「従兄弟?」
思わず聞き返すと、エリックは小さく頷いた。
「そうです。従兄弟はアイル号の一等海尉でした」
シャインは驚きのあまりしばし返答に詰まった。
「君の従兄弟は、ヘルム一等海尉なのか」
「はい」
エリックが照れくさそうに鼻の頭を指で掻いた。
「俺は従兄弟のヘルムさんに影響されて海軍に入ったんです。俺に海や船の事を教えてくれた。まあ俺は頭が悪いから水兵じゃないと船に乗れなかったんですけどね」
「ヘルム一等海尉の体の具合は?」
シャインは海軍の療養院にヘルムが収容されていることを知ってはいたが、自分の体調のせいもあり見舞いには行っていなかった。
ただ足の怪我の治りが芳しくないことだけ、療養院の職員から聞いた覚えがある。
エリックは寂しそうに瞳を伏せ唇を噛んだ。
「従兄弟はもう海には出られません。左足を切断したんです。でも、命は助かりました。いつか艦長にお礼を言いたいと言ってました」
「エリック……」
「じゃ、当直に戻ります。従兄弟の分まで今度は俺が頑張りますよ」
シャインはゆっくりと頷いた。
「ありがとう」
「失礼します」
エリックはもう一度親指を額に当てて敬礼すると、自分の持ち場である
彼の仕事は船に近づく危険な波や漂流物がないか、海賊船がいないかを見張ることだ。それらの発見が遅れると船が沈むという最悪の事態を招いてしまう。
シャインは見張りに立つエリックの姿を頼もしげに見上げた。
その時だった。
心地よい揺れ(シャインにとっては)で走っていたはずのロワールハイネス号に異変が起きたのは。
各三本のマストに上げた縦帆が一斉にばたつきはじめた。はちきれそうに膨らんでいたそれらが激しくばたばたと波打ち、風をこぼしてしまっている。
風向きが変わったせいかとシャインは一瞬思ったが、舵輪を回す航海長シルフィードの様子がおかしい。彼は必要以上に舵輪を回して、隣にいるジャーヴィスへ何事かを訴えている。
ジャーヴィスがシャインへ手を振った。それを見るまでもない。
シャインは踵を返し、船尾方向へ後部甲板へと急ぎ足で向かった。
本当は走りたかったが、ロワールハイネス号の甲板が左右ひっきりなしに傾くので、船縁や上げ綱に捕まらないと倒れそうになる。
「どうしたんだ!」
「どうしたもこうしたもないです。急に舵がきかなくなったんです」
シルフィードが舵輪を回しながら答えた。それは何の抵抗もなくからからと回り続けている。
「操舵用のロープに異常が発生したのかもしれません」
ジャーヴィスがシャインの耳元で囁いた。
「誰かが
切断
したのかも」シャインは眉間をしかめた。
仮にそうだったとしても今は船の安全を回復させる方が先だ。
「ジャーヴィス副長。君は
「了解しました」
ジャーヴィスの姿が後部甲板の
シャインはクラウスを呼び寄せた。
「全マストの帆を下ろすんだ。クラウス、君は
「り、了解、しました」
緊張を隠しきれない様子でクラウスが頷く。
危なげなその背中を一瞥して、シャインは甲板にいる水兵達にすぐ
◇◇◇
ジャーヴィスは
「やはり……だな」
船匠のエオルがため息を漏らした。
ランプの明かりの中、照らし出されたのは切断されてぶらぶらと揺れている操舵用のロープだった。
上甲板の舵輪の軸に巻きつけられている操舵用ロープは下甲板、最下層甲板へと伸ばされ、最終的には舵へ動力を伝える滑車を通して、全体的に大きな輪のようになっている。よってこれが切断されると舵輪を回しても舵が動かないのだ。
「エオル。早く操舵索を舵へ繋いでくれ」
船匠の青年は、ジャーヴィスの言葉に対して軽く舌打ちした。
後頭部でひとくくりにした茶色の髪が不機嫌そうにがっしりとした双肩の上で揺れる。
「副長。そんな簡単にできる作業じゃない! 操舵索を外して新品と交換して、全部巻きなおさなくてはならないんですよ」
エオルの言う事は正論だ。だがジャーヴィスは内心焦っていた。
「風が強まっている。それに伴い波も高い。操船不能の時間が続けば続くほど、本船は転覆の危険が高まるんだ!」
ジャーヴィスはエオルの胸倉を力任せに強く掴んだ。そのまま自分の方へと引き寄せる。
「応急修理で索を組み継ぎすればどうだ」
「そ、そりゃ……そっちの方が早く修理できますが……」
「ならすぐやれ! 本船の命運はお前にかかっているんだ! 何が他に必要だ。資材庫から私が取ってくる」
「ジャーヴィス副長~それ、アタシがやりましょうか?」
「なんだか上(上甲板)は大変なことになっているみたいですわね」
薄暗い甲板の中で浮いた声が響いた。
ジャーヴィスは振り返った。
背後に立つ人物が持つランプの明かりが眩しい。
手でそれをさえぎりながら、ジャーヴィスは両目を細めた。
顔を見るまでもない。このふざけた声の主はすぐにわかった。
「ああ、お前たち。船酔いの具合が良くなったのなら、ちょっと手伝ってくれ。資材庫から組み継ぎ用のロープと工具を取ってきてくれ。私は艦長へ操舵索の切断を報告してくる」
ランプを手に黒髪を相変わらず夜会巻きにしたティーナと、肩口で切りそろえた金髪を揺らしたラティの顔が浮かび上がった。
「命令はよくわかりましたわ。でもね」
ティーナの泣きぼくろがある瞳が物憂げに伏せられた。
同時にジャーヴィスはいつの間にか目の前に近づいたラティの顔を凝視した。
みぞおちに強い衝撃を感じて息ができない。
ランプの明かりもその衝撃で消えてしまったのだろうか。
足で体を支えることができずジャーヴィスは床に倒れた。
薄れゆく意識の中、声だけが聞こえた。
「邪魔だから、ここで大人しくしててね。ジャーヴィス副長」