幸せの記憶

文字数 5,851文字

 11月にしては珍しく青空が顔を出した。今日くらい暖かい日はピクニックに最適かもしれない。
 軽い羽音を残して、若い黒鷲が飛び立った。
 上空では大鷲がゆったりと舞っている。若い黒鷲が近づくと、二羽は競うように、時には交差するように、晩秋の空を舞った。
 ガリーナは切り株の上に座り、マーシャに編んでもらった水色の毛糸の帽子を押さえながら、幼い子供のように歓声を上げて見ている。オーレグが自分の鳥打帽をとって放り投げると、黒鷲がいち早く嘴で捕らえ、真っ直ぐに降下してきた。

「うまい上手い。やるじゃん、トーニャ」
 手を叩くオーレグの目の前で、黒鷲は変身を解いてアントニーナの姿になった。
「いきなり投げないでよ。びっくりするじゃない」
 アントニーナは少し息を切らし、黒髪を手で整えながら帽子をよこしてきた。
 森の上では大鷲がまだ優雅に舞っている。
「ねえ、伯母さんもトーニャも鳥に変身できるんだからさ、リュドミーラの蜘蛛なんてさっさと食べちゃえばよかったのに」
 冗談めかしてオーレグが言うと、アントニーナが睨んだ。
「悪趣味なこと言わないで。私たちが変身するのは移動のためよ。性質まで鳥になるわけじゃないんだから。それに魔女が魔女を殺したりしたら呪いをもらっちゃう」
「じゃ、プロジーニィは?」
「知らないわよ。あの猫が元魔女かどうかなんて誰にもわからないし、あれきり帰ってこないんだもの」
 二人が言い合っているうちに大鷲も降り立ち、ガートルードの姿に戻った。
「すてき。空を飛べるなんて知らなかったわ、ガートルード。あなたもねオーリガ」
 ガリーナの言葉に三人は一瞬固まったが、ガートルードが落ち着いた声で返した。
「オーリガはここに居ませんよ。この子は私の娘。トーニャと愛称でお呼びになって結構です」
「そう、トーニャだったわごめんなさい。前にもお会いしたわね?」
 無邪気に微笑むガリーナに戸惑いつつ、アントニーナは無言で微笑みを返した。

「お茶が入りましたよう」
 マーシャが声をかけてくる。黄金色の葉が絨毯のように広がる森の中で、薫り高いお茶の湯気が流れる。テーブル代わりの切り株に布を掛け、とびきり大きなケーキが切り分けられた。

十四歳おめでとう、ガーリャ。少し遅れちゃったけどお祝いさせてね」
「正しくは百十四歳、だろ?」
 茶化すオーレグの足を踏んづけながら、アントニーナが紙包みを差し出す。受け取るガリーナは目を輝かせた。
「誕生日のプレゼントって憧れてたの。すてき!」
 破け、破け、とオーレグが手真似で催促するのに応じて、ガリーナが大胆に紙包みを破いてみせ、歓声をあげる。包みの中からは新しい冬用ブーツが顔を出した。
「ママと私からよ。気に入ってもらえるかしら」
「ちゃんとガリーナのサイズに合わせましたよ。自分の足を取り戻したのだから、これから少しずつ歩く練習をしなくてはね」
「外を歩けるの? 嬉しい!」
「そのうち散歩もできるようになるよ。その、僕も手伝うから」
 そう言ってオーレグは照れくさそうに自分のプレゼントを差し出した。先日描いた鉛筆画を仕上げたものだ。髪の毛の部分には花を描き足し、どこまでが巻き毛でどこからが花かわからないようにした。
 せめて額に入れなさいよとアントニーナが文句を言う隣で、ガリーナは水色の目をまん丸にした。
「これ、わたし? 絵を描いてもらうなんて初めて。でも叱られない?」
「誰も叱るもんか。ガーリャはもう水晶魔女じゃないんだ。ただのガリーナ・エルバイヤンだよ。次はちゃんと彩色もして描いてあげる」
 伯母さまが絵の具を返してくれたらね、とオーレグは横目で伯母を見た。ガートルードは渋い顔をしたが、仕方がないというふうに頭を振り、肩をすくめた。お堅い大魔女にしては珍しい仕草に、アントニーナがプッと噴き出した。
「ありがとう。ええと……?」
「オーレグだよ。忘れちゃった? 偉大なる絵描きのオーレグって覚えといて」
 おどけて胸を張りながら言うと、すかさずアントニーナに頭をはたかれた。
「オーリャのハッタリなんて信じちゃだめよ、ガーリャ。魔法の修行そっちのけで描いてるだけなんだから」
 一同の笑い声に驚いてか、灰色リスが落ち葉の中を駆け抜けていった。

 リュドミーラの一件でこの家に戻って以来、ガリーナの記憶はいろいろと混乱している。人の名前はもちろん、一旦は忘れたはずの百年間の出来事を断片的に思い出し、かと思えば現在のこともすぐ忘れてしまうようで、どれが本当の記憶かわからないと戸惑っていた。
 水晶魔女の役目を終えてただの人間に戻ったガリーナの内部では、止まっていた時間が一気に流れ始めた、つまり百年分の老化が始まったのではないかと、ガートルードはこっそりオーレグたちに語った。
 言われてみれば、ガリーナの実年齢はオーレグより百歳も上なのだ。だが戻ってきたガリーナの容姿は、オーレグが絵に描いてみせた少女像そのままだ――銀色の長い巻き毛がどこにも見えない他は。
 蜘蛛の糸から救い出す時は夢中だったものの、オーレグもアントニーナもそれぞれに、自分が知っているガリーナとは違う姿を見て最初は戸惑ったものだ。とりわけオーレグとっては、あのふわふわした銀髪がもう見られないことは大いにショックだった。
 けれどどんな姿になろうと、ガリーナが大切な存在であることには変わりない。少女でも百十四歳の老婆でも、彼女が無事に戻ってきたんならそれでいいじゃないかと、オーレグは無理やり自分を納得させ、アントニーナと話し合って今日のピクニックを計画したのだった。

「さあさ、ケーキをどうぞ。早く召し上がらないと森のリスに食べられちゃいますよ」
 マーシャに言われて小さな一切れを口に運んだガリーナは、クリームがとろけるような笑顔を見せた。
「おいしい。家族で食べるってすてきね!」
 そうだ家族だ、とオーレグは自分に言い聞かせながらケーキを頬張り、ほろ苦いお茶で飲み下した。
 ガートルードと、アントニーナと、自分。そしてマーシャも。
 みんなガリーナのことが大切で、大好きで。だからここにこうしている。
 水晶魔女の印しの件で自分が誕生したいきさつを聞いたショックは、正直まだ尾を引いている。わだかまりがないと言えば嘘だし、自分たちが本当の意味で家族と言えるかどうかは、正直なところわからない。
 ガリーナの前で笑っている今のこの状態は、ニセモノなのかもしれない。いつになく明るい伯母も従姉も、剽軽(ひょうきん)に振舞ってみせる自分も、ひょっとして『家族』という演技をしているだけなのかもしれない。けれど、今この瞬間のあたたかさだけは信じてもいい。

 橙色や黄色に輝く森の上を、コマドリの群れが渡っていく。風がほのかに冬の気配を運んでくる。ガリーナは陽の光を愛おしむように顔を上げ、目を細めた。その横顔は相変わらず光に透けそうに白い。帽子からちょっとのぞいている小さな耳だけが、血の通った人間の色を見せている。オーレグは人知れずどきどきした。
 一九四〇年、晩秋。
 その美しい一日のことを、オーレグ・ガルバイヤンは生涯忘れないだろう。
 自分たちは確かに家族としてそこにあった。

 *  *  *

 穏やかな日々の終わりは突然にやってきた。
 ガートルードの屋敷が軍に接収されることになったのだ。
 こんな不便な田舎屋敷までなぜ、と憤るアントニーナに、ガートルードは静かに答えた。
「驚くことではありませんよ。魔女が少し財産を持てばもっともな理由をつけて取り上げる。昔からよく行われてきたことです。安心なさい、命まで取られるわけではないのだから」
 大魔女の声は冷静だが、怒りを秘めていることはオーレグにもわかった。
 幸いにも農場や森までも接収されるわけではないらしい。今より不便な生活になるが、生きていくだけならなんとかなるだろう。だが問題は、屋敷の地下に棲む魔女たちの世話だ。少なくとも五人はいるはずだ。彼女たちは昔、水晶魔女の秘密を記録しようとした咎とがで人前に出ることができないという強力な魔法を掛けられたのだが、リュドミーラが喰われてしまった後もなぜかその魔法は解けないままだという。屋敷の主が変われば地下に棲み続けるわけにはいかない。といって、人目を避けたままどこかへ移住するのは難しすぎる。
「何か方法はあります。あの者たちとてこの屋敷の一員です。なんとしても守らなければ」
 ガートルードはそう言うが、いくら大魔女でも全員を守るのは無理なんじゃないだろうか。オーレグは不安で仕方なかった。

 庭や木々に霜が降りたほどの寒い朝『終焉』が訪れた。
 早朝に暖炉の薪を足そうしたマーシャが、ガリーナが部屋にいないことに気づいたのだ。驚いた皆が屋敷の近辺をくまなく探したが、どこにも姿は見えない。部屋の窓は鎧戸に鍵がかかったままだし、少し歩けるようになったとはいえまだ自力で階段を降りることはできないし、一人で外に出ていったとは思えないのだが。
 ひょっとして、と胸騒ぎを覚えたオーレグは、伯母を急かしながら森に向かった。先日ピクニックをした、大きな切り株があるあの一角だ。
 ガリーナはいた。
 遊び疲れてちょっと眠り込んでしまったという風情で、足を投げ出して楡の木の根元にもたれていた。
 ガーリャ、と呼びかけようとして、オーレグは声を呑んだ。ガリーナの全身がガラス細工のような霜に覆われている。 
 水色の帽子と真新しいブーツ、家族からもらったばかりのプレゼントを身に着け、そのくせ外套も着ず、夜着のままで。
 頸に触れたガートルードは、脈を確かめて無言のまま頭を振った。

 アントニーナが駆け寄り、冷たいガリーナを抱きしめて肩を震わせた。
「そんな、ガーリャ……どうしてこんなところに。なぜ黙って出たの、それとも誰かにさらわれたの?」
「飛んだんだ」
 オーレグは少しの汚れもない真新しいブーツを見つめて呟いた。
「ガーリャは自分で飛んだんだよきっと。そんな魔力なんてもう残っていないと思ってたのに……」
「なぜそんな必要があるの! こんな寒い朝に独りぼっちで? ありえないわよ!」
 涙を散らせながら噛みつくように言うアントニーナの肩を、ガートルードが押さえた。
「静かに。誰か来ます」

 シャリリシャリリと霜を踏みながら、黒いフードの一団が歩いてきた。ガートルードが驚いて声をかける。
「貴女がた、地下の魔女たちね? どうやって出られたのです」
 一人の魔女が膝を折って会釈し、フードを持ち上げてガリーナの姿を見、ああやはり、と悲しい声をあげた。
「ガリーナ様が……我らの縛めを解いてくださったのです」
 黒い魔女の一団は次々とガリーナの前にひざまずき、木枯らしのようなで号泣し始めた。
「リュドミーラは我らに罰を与えたばかりでなく、呪いをかけていました。水晶魔女、いえガリーナ・エルバイヤンがご存命の間は我らの縛めが解けないようにと」
「なんてこと!」
 ガートルードがとうとう怒りを露わにした。
「我らの魔法はけっして呪いになってはならないはず。ああ、ではあの醜い姿のままでリュドミーラが死んだのは自業自得というわけね!」
 大魔女は両手で顔を覆って天を仰いだ。
「我があるじ、ガリーナ様! (わたくし)は約束を守りました、けれど、けれど!」
 黒いローブが翻った。オーレグが顔を上げた時、そこに大魔女の姿はなかった。

 かつての水晶魔女、ガリーナ・エルバイヤンの訃報は、ジグラーシ魔法族の間に瞬く間に伝えられたようだ。この国にこんなにも同族がいたのかとオーレグが驚くほど、魔女や魔法使いが続々と集まってきた。
 魔女に墓はないといわれる。殊にジグラーシ魔女は、死期が近づくと『(つい)の魔女』の許に身を寄せ、死を迎え入れた後は遺骸を残さず灰と水に分解されるのが常だ。その後は森の土と混じり、大いなる自然界の循環に任せる。それが彼らなりの伝統だった。
 ガリーナの弔いは、終の魔女ではなく解放された地下の魔女が担った。彼女たちが強く望んだためだ。
 水晶魔女として百年もの間一族を支えたガリーナ・エルバイヤンの最期の様子は、伝えられるうちにどんどん研ぎ澄まされ、純化されたようだ。リュドミーラの呪いをかつての水晶魔女が自らの死をもって解き、地下に縛められていた魔女たちを解放した――なんとも魔女好みの美談だ。
 オーレグは涙を流さなかった。魔女たちの葬列を睨みながら、そんなんじゃない、と何度も首を振った。
「勝手に綺麗な話にしちゃってさ。ガーリャはそんな、自己犠牲なんてかっこいいこと考える子じゃないよ」
「でも結果的には地下の魔女を救ったんじゃない」
 アントニーナは目の周囲をを赤く腫らしながら言った。
「じゃ、あんたはどう思うの。あの寒い中をガーリャ一人で森の中まで飛んだのはなぜ?」
「遊びたかったから」
 オーレグはかつてガリーナと語らった窓を見上げながら答えた。
「ガーリャの百年間の記憶ったらあやふやで、ごちゃまぜでさ。ガーリャ自身にもどれが本当か嘘かわからなかったみたいじゃないか。きっとあのピクニックはガーリャにとって、本物の幸せな思い出だったんだよ。幸せな思い出がある森で、ただ遊びたいって、思いついたら勝手に身体が飛んじゃったんだ。そういう子なんだよ」
「わざわざ帽子やブーツまで着けて?」
「そうだよ。だってガーリャは聖女じゃない。悪戯好きの悪ガキなんだ。誰にも見つからない時間にちょっと脱出してみたかった、それだけだよ。勝手に偽物の美談にして祭り上げないでよ!」
「オーリャ」
 いつの間にかガートルード伯母が傍に立っていた。
「偽物でもなんでも、心の支えとして美談が必要な者たちはいます。これからしばらくの間、苦しい時代を生きていかねばならないのですからね。今は黙って、気が済むまで弔わせてやりなさい」
 黒いローブがオーレグを包み、ほんのひと時、あたたかな体温が伝わった。が、すぐにローブは翻り、ガートルードは大鷲となって飛び立ってしまった。

 寒空の下で大鷲は甲高く鳴いた。長く長く、風を切り裂くような声で、何度も鳴きながら森の上を舞った。
「人間の姿じゃ泣くこともできないものね、ママは」
 鼻をすすり上げながらアントニーナが空を見上げている。
 自分は泣くものか、と奥歯を噛み締めながら、オーレグもまた空を見上げた。

 黄金の楡が夕陽を受けて輝いている。それはもうすぐ迎える長い冬を前に、名残を惜しんでいる姿にも見えた。
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