秘密

文字数 4,309文字

 午前中から続く重い雲は、昼近くになると雨を降らせ始めた。
 北側の部屋の前に立ち、アントニーナは深呼吸をした。
 女性だけが入ることを許されるこの部屋で、アントニーナはしばしば水晶魔女の会話の相手をつとめている。名誉なことだ。それに――不遜なことではあるが――田舎では滅多に使われない公用語の実践的練習の機会でもある。
「ごきげんようトーニャ。もうそろそろだと思ったの」
 人懐こい微笑みを向けて、ガリーナはいつものように出迎えてくれた。狭い部屋の中で器用に車椅子を操り、窓際の椅子をすすめてくる。

『客用ではなく家族用の部屋に。できれば子ども部屋に住んでみたい』というのがガリーナ本人のたっての希望だった。とはいえ、相手は尊い水晶魔女という身分だ、粗相があってはなるまい。昨年までオーレグが使っていた部屋に改修を加えたのは、つい先月のことだ。急いで職人をかき集め、田舎で手に入る限りの材料で頑張ったと、母のガートルードはいうが……
 確かに壁紙は明るい小花の柄に張り替え、上部に前時代の額長押(がくなげし)までわざわざ付けたし、カーテンはチンツではなくベルベットに替えた。暖炉は小さいが最新式、その隣には新しく増設した次の間へのドアも。
 だが、所詮は急ごしらえの庶民仕様だ。
 ブラスゼムから運び込まれた由緒ありそうな年代物の調度品を見た途端、あまりの格の違いを目の当たりにして、アントニーナは顔から火が出そうになった。ガリーナ本人はこの小さな部屋を気に入ってくれたらしいが、どう見ても家具と部屋の雰囲気がちぐはぐだ。カーペットを取り払った床など、古い寄木作りが剥きだしではないか。ちょっとした凸凹が車椅子の移動に不便をかけないか、見ていてはらはらする。せめて最新のリノリウム貼りにすれば良かったものを、と唇をかんだが、今さら仕方ない。

「その格子柄は素敵ね。今風なの? とてもよく似合っていてよ」
 こちらの緊張をよそに、(たっと)き水晶魔女たるガリーナは、何の気取りもなくうきうきと話しかけてくる。今風どころか、母のお古を仕立て直したただけの野暮ったいワンピースなのだが、とアントニーナは戸惑った。都会から来た水晶魔女なんてどんなお洒落さんなのだろうと思っていたが、ガリーナときたら流行には全く疎いらしい。今着ているのだって、お婆ちゃんのファッションプレートにあるようなドレープたっぷりの古いデザインだ。だが、それこそが尊い人と世俗との違いかもしれない。アントニーナは気を取り直し、友人としての微笑みを精一杯作りながら椅子に座った。

 ※ ※ ※

「――という水晶魔女の昔話を、オーレグに話したの。そしたらね、勇者は助けに来ないのか、ですって。ふふ、どうしてそんなふうに思ったのかしら」
「まったくあの子ったら。たぶん男の子には理解できない感覚でしょうね」
 アントニーナは首を振りながら答えた。
「勇者なんて必要ないのに。私はガーリャの語った結末が美しいと思います。できることなら私だって水晶の砦に立て籠もってしまいたい……あ、茶化しているわけではないの。水晶の精霊に選ばれるのは特別な存在ですもの、身の程はわきまえてるつもりです。でもね」
 思いつめた表情で言いあぐねていたアントニーナは、小声でやっと告げた。
「私もね……結婚させられるかもしれないから」
「まあ! それは……おめでとうと言うべきなの?」
 とんでもない、という風にアントニーナは首を振った。
「母の策略なんです。ジグラーシ魔女の地位を確保するために娘の結婚を利用するくらい、なんともない人だもの。今はどのお話も断っているけど、そのうちに逃げ切れなくなるわ、きっと」
「トーニャは逃げたいの? 水晶の砦に籠ってしまいたいの?」
「そうできないのは解っていますけど。現実は残酷だもの」
 アントニーナは肩をすくめ、視線を巡らせた。ガリーナの趣味なのか、かわいらしい調度の数々が見える。箪笥の上に座る陶器のお人形とドールハウス、繊細なレース天蓋のついたベッド、いくつものクッション、鏡の前の数えきれないサテンリボン。この部屋は甘やかな乙女の夢の中で時を止めたようだ。

「他の時間を生きる魔法があるなら、もっと本が読みたい。勉強したいんです。なのに私の毎日ときたら年寄りの魔女たちと魔法薬を作るしかなくて。魔法使いは適性によって他の職業にも就けるのに、魔女として生まれた子はウィッチにしかなれないなんて、おかしいわ。なぜ私は選べないの? 魔女だから? 今はもう二十世紀なのに。こんな古臭いしきたりが変わる日はいつ来るのかしら?」 
 ガリーナは首を傾げて薄い水色の瞳をじっと向けるばかりだ。アントニーナは独り言のように続けた。
「いいえ、自分の役目はわかっています。ジグラーシ魔女としての伝統も、一族の血も絶やしてはいけないもの。いつかは結婚しなくちゃって、頭では理解しています。でもね、魔女という特性を、誰かの手札のように使われるのは嫌。それに利害や義務感だけで結婚したらどうなるかなんて、うちの両親を見ていればわかるもの!」
 語気を強めたアントニーナは、ごめんなさいと呟いて息を整えた。
「トーニャはご両親をを見てると、つらいの?」
「つらいですって? 今さらだわ。それに父はもういません」
 皮肉に笑って、アントニーナは立ち上がり、窓を背にした。

「あぁあ大魔女ガートルード! 自分の母ながら大したものだと思うわ。移民の一世代目が古い魔法に固執して公用語すら覚えようとしない中で、あの人は二世代目にして、この国の魔女や有力者とも互角に交渉できるだけの力を身に着けたのだから。いったいどうやって? どれだけの闇を飲み込んで力に替えたの? 恐ろしくて考えたくもないけど……母はね、どの縁談も嫌ならいっそ身内から婿を迎えてジグラーシの血を残しなさいって言ってるんです。しかも相手は誰だと思って?」
 アントニーナは歩き回り、不思議そうに小首を傾げているガリーナをよそに、手を広げながら吐き出すように言った。
「従弟よ。あの癇癪(かんしゃく)持ちで、駄々っ子で、三つも年下の!」
 しばらくじっと考えていたガリーナは目を見開いた。
「その従弟って……オーレグ? オーレグなの?」
「そう。もともとは親同士が口約束で決めたのだけど。母はあと三年のうちに私の縁談が決まらなかったら、あの子と正式に婚約させるつもりだわ」
「トーニャは、オーレグのことが嫌い?」
「好き嫌い以前の話です。だって」
 アントニーナは顔を向けて眉間に皺を寄せた。
「あの子は弟のようなものです。五歳でうちに引き取ってからずっと。ガーリャ、わかってくださるかしら。たとえあの子が十六になろうと、もっと大人になろうと、私の中では永遠に三つ下の、手のかかる弟。結婚相手になんて考えられない。もしそんなことになったら、私の一生はあの子のお守り役で終わってしまうわ!」
 アントニーナは額を押さえてふーっと息をついた。
「世間に出れば、たとえ年下でもしっかりした男性(ひと)はいるのでしょうね。でもオーリャはだめ。心の根が幼いままなんだから。自分がどれほど恵まれているか、どれほど沢山の宝を抱えているか、まるでわかってないわ。ソロフ先生のところで学べるなら、私が弟子入りしたいくらいなのに。だいたいあの目は……!」
「あの水色の目はきらい? わたしよりもずっと深い色をして、綺麗だと思うけど」
 無邪気なガリーナの言葉に苦く微笑んで、アントニーナは黒髪を揺らした。
「あの子の目は無防備な人の心を読んでしまう、生まれついてのそういう能力なんです。おかげで私や母は、家の中でも心に『(かんぬき)』の魔法をかけなけりゃならない。結婚なんかさせられたら、何十年も心に閂をかけたままで、油断なく過ごさなくちゃいけなくなるわ。そんなの耐えられて?」

 そこまで一気に言葉を吐いて、アントニーナははっと我に返り口元を押さえた。
「ごめんなさい、私ったら何を言ってるのかしら。清浄な水晶魔女にこんな世俗の悩みをえんえん話すなんて、どうかしてるわ」
 ガリーナは微笑み、車椅子を近づけてくる。
「いいえ、すてきだわ。魔女アントニーナ、よく心の内を話してくれました」
 何の邪心もない澄んだ瞳の中に捕らえられて、アントニーナは震えた。
――これが、水晶魔女の力。人の心の鎧を解いて、心の底に隠している本心を引き出してしまう。まるで水晶玉に映し出された姿のように、この方の瞳に捕らえられると誰も自分を繕えない。母や他の魔女たちがこの方を尊びながらもけっして正面には座らず、目を合わせようとしないのはそのためか。
 
 ならばいっそ、言ってしまえ。誰にも明かさずにいた自分の秘密を今こそ口に出してしまえ。アントニーナは覚悟を決めると、告げ口妖精などが窓の外にいないか、ドアの隙間から入り込んでいないか注意深く見て回ってから膝を折った。
「ガーリャ、私の秘密を聞いてくださる? だれにも言わないと約束してくださる?」
「まあトーニャ、もちろんよ。この部屋の中の言葉は守られています。誰にも聞き取れないはずだから安心して」
 ガリーナは車椅子から身を乗り出し、手を取った。アントニーナは床に跪いて、告解でもするように声を潜めた。
「私、あと三年のうちには家を出ます。その計画を立てているの。ちゃんと職業を持って、ちゃんと自分が見つけた相手と恋をして、自分で人生を選びます。私の身は、私のもの。母の思惑どおりになんか、絶対になりません!」
 これにはガリーナも驚いたようだ。まあ、と呟いた口元はやがて微笑みの形になり、アントニーナに顔を近づけた。
「トーニャ、あなたったらわたしを驚かせる考えをいっぱい持っているのね。魔女が職業を持つだなんて聞いたこともないけど、すてきなことだわ。でもオーレグは?」
「あの子だって逃げればいいのよ。絵描きになりたいならそうすればいい。外に修行に出ている分、大魔女ガートルードの懐から逃げ出すチャンスはいくらでもあるんだから……私と違って」
 呟くようなアントニーナの言葉に、ガリーナは微笑んだ。
「トーニャ、あなたは強い魔女だと思っていたけど、そんな風に思い悩んでいたのね」
 そのままアントニーナの顔を両手で挟むと、その額に自分の小さな額を合わせて目を閉じる。
「秘密を打ち明けてくれてありがとう。あなたの望む未来を、清らかな水晶が護ってくれますように」
 祈るような声を聞いて、アントニーナの目尻に小さな光が揺れた。

 窓の外では静かな雨が降り続いている。
 十六歳の魔女の口の端から生まれた言葉は、こうして水晶魔女と雨以外誰も知ることのない秘密となった。
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