コベイン空襲
文字数 3,448文字
屋敷内が、にわかに慌ただしくなってきた。
水晶魔女がその役目を果たす最大の
とはいえ、人間の赤子とは違って、鉱物である水晶がこの世に出現するにはもう一段回必要だ。コベインの工場近くの町まで移動し、『転移の魔女』によって、ガリーナを傷つけることなく結晶だけを取り出すという大仕事が、これから成されるのだという。魔女たちは祭りでも迎えるかのように浮足立っていた。
ガリーナはこの屋敷で知りあいになった一人一人の魔女を部屋に呼んで、各々から寿ぎの言葉を受け、代わりに予言などを与えていた。むろんアントニーナやオーレグもその中にいたのだが、オーレグはぐずぐずと言い訳を作って順番を先送りにしていた。
「今日こそ逃げちゃだめよ、もうあの方と話せる時間はそんなにないのだから」
従姉にせっつかれて、渋々といった体ていでオーレグが挨拶に向かったのは、ガリーナが旅立つ予定の前日だった。
本当は、会いたくて仕方がなかった。脱出 に失敗した日からずっと、話をするどころか姿を見ることもなかったのだから。だが、魔女ジェインから言われた言葉が呪いのように引っかかって、十三歳の心はなかなか素直になれなかった。
その日、階段の北側に防壁の魔法は掛かっていなかった。水晶魔女をこの屋敷に迎えてから初めて、男子であるオーレグも部屋に入ることを許されたのだ。もうあまり時間の余裕がないことを示しているのだろう。
ドアを開けると、窓横の壁に扇型の掛け時計が目についた。ガリーナが首から下げていたペンダントと同じ形だ。0から12までの数字と目盛りが刻まれ、一本だけの針が12近くを指している。窓からは見えない角度にあるから、オーレグには初めて目にする代物だった。
久しぶりに見るガリーナは真っ白いドレス姿だ。花嫁衣裳のようにも、死人の装束のようにも見える。天蓋付きのベッドの上で、いくつものサテンのクッションに支えられて、静かに水色の瞳を向けている。
「オーリャ、やっと会えた!」
ガリーナは以前と変わりなく、いやいっそう輝くような笑顔でオーレグを迎えた。
「もっと近くで顔を見せて。元気だった? 葉っぱのお便りだけでは来てくれないようだから、いっそ禁忌を破ってお手紙を書こうかしらと本気で思ってたのよ」
相変わらず邪心のかけらもないような愛らしい笑顔を見ていると、ジェインの言葉など嘘じゃないかと思えたが、なぜか直視するのが恥ずかしく、オーレグは視線を逸らしてただうなずいた。
「おかげでわたしったらね、文字を書けるようになってよ」
ガリーナはベッド脇にある水差しの盆に手を伸ばした。白い手袋が汚れるのも構わず、コップの水に指先を浸し、盆の上に滑らせ始める。震える指は丸い円のような形を書く――はずだったのかもしれないが、形になる前に、力尽きたように指先がそれてしまった。
ごめんなさい、と恥ずかしげに手を引っ込めるガリーナを見ていると、オーレグの胸は詰まった。水晶化が進んでいるガリーナの手は、もうあまり動かないのだろう。
部屋の中に、気まずい沈黙が訪れた。何か言わなくては、とても言いたい言葉があったはずだ、とオーレグは焦ったが、口から飛び出したのはとんでもない言葉だった。
「なんだ、嘘つき。そんなの文字じゃないや」
違う。こんなことを言いたかったのではない。自分はなんてことを言い始めるのだ、と思ったが、溢れ始めた言葉は待ってくれなかった。
「時計のことだって嘘だ。誰にも見せちゃいけないとかいってたくせに。同じ形の、こんな大きな時計があるんじゃないか、魔女たちはみんな知ってたんじゃないか。時間もでたらめだし、嘘ばっかりだ」
「オーリャ、あんたなにを言ってるの!」
いつの間にかドアが開いて、背後にアントニーナが立っていた。視界の隅に小さな火花が散り始めた。もうだめだ、いつもの悪い癖が始まった。せめて爆発しないうちに部屋を出ようとする背中を、細い声が追いかけてきた。
「オーリャ、怒らせてしまってごめんなさい。でもひとつだけ予言をさせて。あなたに必要なのは水晶の光ではなく、太陽の光よ。あなたは、あなただけの太陽をいつかきっと見つけるわ……その時がきたら、けっして離してはだめよ」
だがオーレグは振り向くこともできず、頭を振った。
「魔女の予言なんて、信じない」
最低だ。最低だ。
オーレグは楡の木に頭をガシガシとぶつけて涙を落した。
自分はどうしてこうも子ども なのだろう。十三にもなって、あの態度はない。もうすぐガリーナに会えなくなるというのに、あれではまるで頑是ない駄々っ子ではないか。
せめてひと言謝りたい、と思った。でも、どうやって?
いつの間にかすっかり葉を落としてしまった楡の木が、枯芝の上に影をおとしている。顔を上げると、白い月が出ている。ガリーナもあの月を見ているだろうか。あの月の光のように歪まず真っ直ぐに自分の心を伝える術があるとしたら……オーレグは袖口でぐしぐしと涙をぬぐい、楡の木から離れて自分の部屋に走った。
* * *
その夜遅く、ラジオを聴いていたマーシャがいつになく慌てた声をあげた。何事かと居間を覗いたオーレグも、臨時ニュースの緊迫した声を聴いて事態を察した。
「伯母様! コベインの街が……焼かれた!」
コベインといえば、ガリーナの水晶を提供するはずだった軍需工場がある街だ。首都のブラスゼムが焼かれた時と同じように、何の前触れもなく無差別の空襲を受けたらしい。
「そのようね」
大魔女のガートルードは表情も変えず、暖炉の傍に座ってオーレグに答えた。
「ガリーナはどうなっちゃう? コベインの近くに運ばれるはずだったんじゃ……」
「ママ! ガーリャがいない!」
青ざめた顔でアントニーナも駆け込んできた。
「静かになさい。ガリーナ嬢なら少し予定を早めて移動しました。もっと安全な場所にね」
「移動したって……じゃ、もうここにいないってこと?」
オーレグは愕然とした。ほんの数時間前には顔を見て話をしていたのに。
謝るチャンスを逃してしまった、という思いと、もしかしたら、という別の恐ろしい思いが頭の中で交錯した。
その間にもラジオはコベイン空襲の続報を繰り返し読み上げている。
「ほう、工場も焼かれてしまったの。クレーブ卿も気の毒だこと」
暖炉の火に照らされているガートルード伯母の顔は相変わらず無表情だが、ほんの少し口角が上がったように見える。オーレグの背に寒いものが走った。
「もしかして伯母様……こうなると知ってた?」
「もちろんですよ」
なにごともないような調子で答え、大魔女がゆっくりと顔を向けてきた。
「コベインのことはもう何か月も前に『予見の魔女』から聞いていました。我々とて忠告はしたのですよ、何度も」
「何か月も前ですって? じゃあ知っていてクレーブの工場と契約したの?」
アントニーナが額を押さえて聞いた。
「相手が聞き入れないのだから契約するよりほか仕方がないわ。純粋水晶を提供する代わりに相応の対価とジグラーシ魔女の地位確保を。悪い取引でもないでしょう?」
ガートルードはマーシャに合図し、お茶を、と促して続けた。
「クレーブにとって、純粋水晶は喉から手が出るほど欲しい物だったのでしょう。私 の魔法でも人の欲までは操作できないわ。そして魔女の忠告に耳を貸さなかった者は工場と運命を共にした、クレイブのように。忠告に従った者は逃げて生き延びた、ジェインのように。それだけのことです」
「それだけのことって……だって、逃げたくても逃げられなかった街の人もいるでしょう。何人犠牲になったの?」
震える声で言うアントニーナの肩をガートルードが押さえた。
「間違えてはいけませんよ、トーニャ。コベインのことは我々が望んだわけでもそう仕向けたわけでもないの。ジグラーシ魔女は『忠告する』以上の影響力は持っていません。なぜなら、この国で我々は――人として認められていないのだから!」
最後の言葉は囁くようだったが、アントニーナを黙らせるには充分だった。
大魔女ガートルードは優雅な手つきでお茶を飲み干すと、立ち上がって二人を促した。
「さあ、そろそろ時間だわ。二人ともいらっしゃい、水晶魔女の何たるかを明かしてあげましょう」
まだショックから立ち直れないまま、怪訝な顔を見合わせるオーレグとアントニーナを引き連れて、大魔女はガリーナが居た部屋へと向かった。
水晶魔女がその役目を果たす最大の
極
の日――つまりガリーナが水晶を生み出す日が近づいたのだ。とはいえ、人間の赤子とは違って、鉱物である水晶がこの世に出現するにはもう一段回必要だ。コベインの工場近くの町まで移動し、『転移の魔女』によって、ガリーナを傷つけることなく結晶だけを取り出すという大仕事が、これから成されるのだという。魔女たちは祭りでも迎えるかのように浮足立っていた。
ガリーナはこの屋敷で知りあいになった一人一人の魔女を部屋に呼んで、各々から寿ぎの言葉を受け、代わりに予言などを与えていた。むろんアントニーナやオーレグもその中にいたのだが、オーレグはぐずぐずと言い訳を作って順番を先送りにしていた。
「今日こそ逃げちゃだめよ、もうあの方と話せる時間はそんなにないのだから」
従姉にせっつかれて、渋々といった体ていでオーレグが挨拶に向かったのは、ガリーナが旅立つ予定の前日だった。
本当は、会いたくて仕方がなかった。
その日、階段の北側に防壁の魔法は掛かっていなかった。水晶魔女をこの屋敷に迎えてから初めて、男子であるオーレグも部屋に入ることを許されたのだ。もうあまり時間の余裕がないことを示しているのだろう。
ドアを開けると、窓横の壁に扇型の掛け時計が目についた。ガリーナが首から下げていたペンダントと同じ形だ。0から12までの数字と目盛りが刻まれ、一本だけの針が12近くを指している。窓からは見えない角度にあるから、オーレグには初めて目にする代物だった。
久しぶりに見るガリーナは真っ白いドレス姿だ。花嫁衣裳のようにも、死人の装束のようにも見える。天蓋付きのベッドの上で、いくつものサテンのクッションに支えられて、静かに水色の瞳を向けている。
「オーリャ、やっと会えた!」
ガリーナは以前と変わりなく、いやいっそう輝くような笑顔でオーレグを迎えた。
「もっと近くで顔を見せて。元気だった? 葉っぱのお便りだけでは来てくれないようだから、いっそ禁忌を破ってお手紙を書こうかしらと本気で思ってたのよ」
相変わらず邪心のかけらもないような愛らしい笑顔を見ていると、ジェインの言葉など嘘じゃないかと思えたが、なぜか直視するのが恥ずかしく、オーレグは視線を逸らしてただうなずいた。
「おかげでわたしったらね、文字を書けるようになってよ」
ガリーナはベッド脇にある水差しの盆に手を伸ばした。白い手袋が汚れるのも構わず、コップの水に指先を浸し、盆の上に滑らせ始める。震える指は丸い円のような形を書く――はずだったのかもしれないが、形になる前に、力尽きたように指先がそれてしまった。
ごめんなさい、と恥ずかしげに手を引っ込めるガリーナを見ていると、オーレグの胸は詰まった。水晶化が進んでいるガリーナの手は、もうあまり動かないのだろう。
部屋の中に、気まずい沈黙が訪れた。何か言わなくては、とても言いたい言葉があったはずだ、とオーレグは焦ったが、口から飛び出したのはとんでもない言葉だった。
「なんだ、嘘つき。そんなの文字じゃないや」
違う。こんなことを言いたかったのではない。自分はなんてことを言い始めるのだ、と思ったが、溢れ始めた言葉は待ってくれなかった。
「時計のことだって嘘だ。誰にも見せちゃいけないとかいってたくせに。同じ形の、こんな大きな時計があるんじゃないか、魔女たちはみんな知ってたんじゃないか。時間もでたらめだし、嘘ばっかりだ」
「オーリャ、あんたなにを言ってるの!」
いつの間にかドアが開いて、背後にアントニーナが立っていた。視界の隅に小さな火花が散り始めた。もうだめだ、いつもの悪い癖が始まった。せめて爆発しないうちに部屋を出ようとする背中を、細い声が追いかけてきた。
「オーリャ、怒らせてしまってごめんなさい。でもひとつだけ予言をさせて。あなたに必要なのは水晶の光ではなく、太陽の光よ。あなたは、あなただけの太陽をいつかきっと見つけるわ……その時がきたら、けっして離してはだめよ」
だがオーレグは振り向くこともできず、頭を振った。
「魔女の予言なんて、信じない」
最低だ。最低だ。
オーレグは楡の木に頭をガシガシとぶつけて涙を落した。
自分はどうしてこうも
せめてひと言謝りたい、と思った。でも、どうやって?
いつの間にかすっかり葉を落としてしまった楡の木が、枯芝の上に影をおとしている。顔を上げると、白い月が出ている。ガリーナもあの月を見ているだろうか。あの月の光のように歪まず真っ直ぐに自分の心を伝える術があるとしたら……オーレグは袖口でぐしぐしと涙をぬぐい、楡の木から離れて自分の部屋に走った。
* * *
その夜遅く、ラジオを聴いていたマーシャがいつになく慌てた声をあげた。何事かと居間を覗いたオーレグも、臨時ニュースの緊迫した声を聴いて事態を察した。
「伯母様! コベインの街が……焼かれた!」
コベインといえば、ガリーナの水晶を提供するはずだった軍需工場がある街だ。首都のブラスゼムが焼かれた時と同じように、何の前触れもなく無差別の空襲を受けたらしい。
「そのようね」
大魔女のガートルードは表情も変えず、暖炉の傍に座ってオーレグに答えた。
「ガリーナはどうなっちゃう? コベインの近くに運ばれるはずだったんじゃ……」
「ママ! ガーリャがいない!」
青ざめた顔でアントニーナも駆け込んできた。
「静かになさい。ガリーナ嬢なら少し予定を早めて移動しました。もっと安全な場所にね」
「移動したって……じゃ、もうここにいないってこと?」
オーレグは愕然とした。ほんの数時間前には顔を見て話をしていたのに。
謝るチャンスを逃してしまった、という思いと、もしかしたら、という別の恐ろしい思いが頭の中で交錯した。
その間にもラジオはコベイン空襲の続報を繰り返し読み上げている。
「ほう、工場も焼かれてしまったの。クレーブ卿も気の毒だこと」
暖炉の火に照らされているガートルード伯母の顔は相変わらず無表情だが、ほんの少し口角が上がったように見える。オーレグの背に寒いものが走った。
「もしかして伯母様……こうなると知ってた?」
「もちろんですよ」
なにごともないような調子で答え、大魔女がゆっくりと顔を向けてきた。
「コベインのことはもう何か月も前に『予見の魔女』から聞いていました。我々とて忠告はしたのですよ、何度も」
「何か月も前ですって? じゃあ知っていてクレーブの工場と契約したの?」
アントニーナが額を押さえて聞いた。
「相手が聞き入れないのだから契約するよりほか仕方がないわ。純粋水晶を提供する代わりに相応の対価とジグラーシ魔女の地位確保を。悪い取引でもないでしょう?」
ガートルードはマーシャに合図し、お茶を、と促して続けた。
「クレーブにとって、純粋水晶は喉から手が出るほど欲しい物だったのでしょう。
「それだけのことって……だって、逃げたくても逃げられなかった街の人もいるでしょう。何人犠牲になったの?」
震える声で言うアントニーナの肩をガートルードが押さえた。
「間違えてはいけませんよ、トーニャ。コベインのことは我々が望んだわけでもそう仕向けたわけでもないの。ジグラーシ魔女は『忠告する』以上の影響力は持っていません。なぜなら、この国で我々は――人として認められていないのだから!」
最後の言葉は囁くようだったが、アントニーナを黙らせるには充分だった。
大魔女ガートルードは優雅な手つきでお茶を飲み干すと、立ち上がって二人を促した。
「さあ、そろそろ時間だわ。二人ともいらっしゃい、水晶魔女の何たるかを明かしてあげましょう」
まだショックから立ち直れないまま、怪訝な顔を見合わせるオーレグとアントニーナを引き連れて、大魔女はガリーナが居た部屋へと向かった。