帰り着く家 2

文字数 2,574文字

 帰り着いた家は四季咲きの蔓バラに囲まれていた。
 オーレグの生家ではない。五歳の時に父と別れ、母を亡くして以来、彼の後見人となった伯母、ガートルードの家だ。亡き母がそうであったように、伯母もまた魔女界では相当な地位にあるらしい。
 もっともそんなことは今の自分にはどうでもいい。この家に帰ったからには努めて『いい子』の振る舞いをしなくてはと思うと気が重かった。だが決して心からくつろげる家ではないにしろ、ここしか帰る場所がないというのも、またどうしようもない事実なのだ。
 少年は立ち止まってひとつ息を吐き、覚悟を決めて玄関ベルを鳴らした。

「まあ、オーリャ坊ちゃん! 大きくなられたこと」
 愛称で呼びかけながら出迎えてくれた懐かしい笑顔に、少し心がほぐれる。
「ただいま、マーシャ」
 小柄な婦人にオーレグは笑顔を返しつつ、白髪が増えたんだな、と思う。昔は子守として、現在は家政婦として誰よりも長く関わってくれているマーシャは、魔女でもなんでもない普通の人間だが、家の中で唯一心を許せる存在だ。できれば小さい頃のように思いっきり抱きついてここしばらくの泣き言を聞いて欲しいとも思ったが、さすがにもうそんなことは気恥ずかしくてできない。ローブを渡すついでに軽く肩を叩くだけで我慢した。
「そうだ、荷物届いてる? 部屋に入れてくれた?」
 明るい調子で話しかける少年にマーシャはなぜか表情を曇らせ、何かを言おうとしたが、廊下の奥を見るや急いで口をつぐんだ。マーシャの視線の先に目を向けて、オーレグもまた緊張して口元を引き締めた。

「遅かったこと、オーリャ」
 威厳のある女性の声が奥から聞こえた。固い靴音と共に、廊下の灯りの下に長い黒髪を揺らして、大柄な魔女がゆっくりと近づいてくる。
「ただいま帰りました、伯母様」
 目を合わせずに挨拶を述べると、魔女は抑揚の無い声で告げた。
「お前の荷物は二階の南側に移しました。今日からそこをお使いなさい」
 オーレグは驚いて顔を上げた。なぜ、という言葉が口をついて出そうになったが、辛うじて呑みこみ、
「はい、ありがとうございます」
 と掠れた声で答えるしかない。大魔女ガートルードの意志はこの家の意志だ。逆らうことは許されない。いつものことだ、なんでもないことだ、自分で自分に言い聞かせながら足早に伯母の横を通り過ぎた。

 二階の、南側の部屋。日当たりも良いし、決して悪い待遇ではない。いや、わずか十三で師匠から謹慎を申し渡されるような出来の悪い男の子を住まわせるには、むしろ良すぎるというべき環境だ。子ども部屋なんて大抵は屋根裏があてがわれるものなんだから、それに比べたら――が、ドアを開けた途端、やっぱり、とオーレグは舌打ちした。
 陽が当たりすぎる。といって、常に分厚いカーテンを閉めておいたのでは暗すぎる。この国に住む者大半が東や南の部屋を好まない理由がそこにある。いい部屋はたいてい北か西の向きに窓があるものだ。いや、そこまで贅沢は言わない。自分はいわば居候だし、家具や本が陽に焼けたって構やしない。ただ、絵を描くにはこの部屋の採光は最悪だ。なぜ、今までどおりの、従姉の部屋の隣ではいけないのか。もちろん伯母は意地悪でこうしたのではないと思いたい。けれど。

「あれ、マーシャ、僕の画帖知らない? それにイーゼルは、絵の具は?」
 荷物の箱をひっくり返して探すオーレグに、マーシャは言いにくそうに答えた。
「もう、ここにはございません。その、ガートルード様が……オーリャ坊ちゃんには必要ないと……」
 全てを聞き終える前に、オーレグは部屋を飛び出していた。
 あんまりだ。他の事は我慢できても、これだけは譲れない。絵は、彼の最後の砦だ。極端な話、魔法使いになんてなれなくていい。魔力を失ってもいい。けれど絵を描くこと、表現することだけは奪われたくない。なのに彼の宝物でもある絵の道具を、伯母は勝手に処分したというのか。

「伯母様、僕の絵道具……!」
 息せき切って居間に飛び込んだオーレグは、言葉を呑んだ。
 伯母と従姉が並んで座るその向かいで、車椅子に座った見知らぬ少女がこちらを見ている。古風なボンネット帽子を被った頭は、銀髪を通り越して水色に近いくらいの薄い色だ。肌の色も薄い、瞳の色も薄い。身体の全ての色素が、光を通してしまうのではないかと思えるほど薄い子だ。これは人間か? 妖精が化身しているのではないだろうか。
「なんです、騒々しい」
 ガートルードは顔をしかめたが、オーレグを叱るよりも先に少女に向き直り、
「さっき話した甥のオーレグですわ」
 と公用語の発音で紹介した。
「オーリャ、こちらはガリーナ・エルバイヤン嬢。しばらくうちで預かりますから失礼の無きように。さ、ご挨拶なさい」
「どうも。初めまして」
 無愛想に答えながらオーレグは形だけ会釈をした。姓に『バイヤン』の音が入っているところをみると、自分たちと同じ北方ジグラーシ移民の魔女だろう。だが今はそんなことよりも大切な問題がある。
「伯母様、僕の荷物に入っていた画帖を知りませんか? あとイーゼルと絵の具!」
 声が上ずっているのが自分でも分かる。まさか処分したのでは、という最悪の言葉が口元から出かかったとき、伯母が重々しく口を開いた。
「今のお前には必要の無い物です」

 瞬間、身体中の血管が冷たくなった。『絶望』という言葉が頭の中に敷き詰められる。何か言い返さなくては、と強張った口を動かそうとした矢先、目の端に従姉のアントニーナの顔が見えた。三つ年上の彼女が冷たく横目でこちらを見ているのが分かると、凍り付いていた血が逆に沸騰した。
「なんで!」
 目の前に青い火花が散っている。悪い兆候だ。けれどもう止められなかった。
「あれが必要ないなんて、どうして言えるの! 返せ、返せ、かえせ! 僕の宝だったのに!」
 足を踏み鳴らしてわめく自分は、魔女たちから見たらどれだけ子どもっぽく、滑稽だろうか。けれど叫ばなければ心が破裂しそうだ。青い火花はますます激しく明滅し、視界がぼやけてきた。
「落ち着きなさい、オーレグ」
「うるさい、うる……さい……」
「まずいわ、ママ、押さえて!」
 魔女たちの声、椅子の倒れる音、ガラスの割れる音。
 それらをどこか遠くに聞きながら、オーレグは青白い闇に呑まれていった。
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