第2話

文字数 1,415文字

 ハレムの一番奥は、王族の居室となっております。オスマン家に生まれた男子は、ここから出ることは叶いません。その時は、皇帝(スルタン)になるか死体になるかです。忌まわしい因習を−新しく皇帝(スルタン)になった者による兄弟たちの殺戮を回避するために、命の代わりに自由を差し出すのです。私が初めてアウニに出会ったのは、いえ、今となってはアウニとなどお呼びするのは(はばか)られます、偉大なる征服王(ファーティフ)メフメト二世に出会ったのは、ハレムの庭の一角でございました。豪奢なカフタンは身分の高さが知れましたが、それを放り出して、土をいじっておられたのです。私は、いつも誰が手入れしているかも知らないその花壇に、見たことのない薔薇が咲いていることに興味が湧いて、写生などをしておりましたので、思わず声を掛けてしまったのでした。

 メフメト様は私と大して変わらないのですが、十二の歳に譲位を受けて皇帝(スルタン)になられました。ところが若い王にイェニチェリたちは従わず、また敵国が猛攻を仕掛けてきたので、ムラト二世が復位されたのです。同情などおこがましいのでしょうから、私は勝手にメフメト様のお気持ちを想像してみるのです。メフメト様は、ムラト二世と奴隷身分の女性から生まれました。オスマンでは、奴隷の女性が皇帝(スルタン)を産むことも稀ではございません。ただ、生まれてすぐに後ろ盾の無い母親から引き離され、厳格で臣下からの支持も厚い父王の監視下に置かれていたため、アウニは、どこか寂しくて横柄な青年に育ってしまったのだと思います。機転が効き腕っぷしも強かったため、輝かしい帝王とならなければならないという重圧を一身に受けていたのでしょう。それなのに、戦果を残せず側近に裏切られ、帝位を返さなければならなかったことは、本当は繊細な彼の自尊心をひどく傷つけたに違いありません。

「お前、マラ・ハトゥンのところの新しい女官だな」

 生みの母親に会うことを許されなかったメフメト様を励まし、慈しみの手を差し伸べていたのは、他でもないマラ・ハトゥンでいらっしゃいました。帝国を率いる重責と、父王との軋轢に独りで耐えなければならなかったメフメト様、政治的な争いに囚われて、誰にも心を許すことのできなかったハトゥンが、互いのことをよりよく理解していたのは道理であるかと思います。ただ私にとってアウニは、いつも強がっていて、新しいもの好きな、このように申し上げてよいものか知れませんが、弟のような存在でした。

 メフメト様はご自身の花壇で、世界中から珍しい植物を取り寄せて栽培したり、交配をおこなったりされていました。私の描く植物の絵を褒めてくださり、私はお庭のことを手伝うのを楽しみにしておりました。私には一つ、わくわくする考えがあったのです。

「柘榴を育ててみたいのですが。ハトゥンがお好きなのです」

 いつものように、鷹揚に笑って下さると思っていたメフメト様が、眉根を渋められたので、私の気持ちもしぼんでしまいました。何か失礼なことを言ってしまったのかと、俯いて次の言葉を待っていると、静かな声が尋ねられました。

「ハトゥンは、柘榴をよく召し上がるのか」
「はい、丸ごと、食べてしまわれます」

 そうか、とメフメト様はお手元の薔薇を撫ぜておっしゃいました。あのように草花にはもの柔らかな御手が、もう何人も殺しているなどと、誰が信じられましょう。あちらの聖母子に添えて描かれていることもあるがな、柘榴の果皮は古来より、薬であり、毒なのだ。
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