第1話

文字数 1,079文字

西の空が茜に染まる。
まるで熟しすぎた柘榴のようだ。

ハトゥン、と私は銀の皿を掲げもって言った。
コンスタンティノープルが堕ちたとのことです。

美しいハトゥンは、夢みるような視線を私に戻して、微笑んだ。


 私がハトゥンに仕えるようになったのは、まだムラト二世がご健在の頃です。マラ・ディスピネ・ハトゥン、セルビアでのお名前はマラ・ブランコビチ様は、お父上のセルビア公がトランシルバニア公と計って攻勢をかけたもののムラト二世に敗北し、セルビアがオスマン帝国に従属する証として、エディルネのハレムに送られたのだと伺っております。ムラト二世は恐ろしく、しかし信仰に厚い皇帝(スルタン)でいらっしゃいます。政略により輿入れさせられたハトゥンを丁重に迎えはしましたが、部屋へ(おとな)うことは稀でございました。

 私はトランシルバニアの職人の娘だったのですが、当時故郷はキリスト教国連合とオスマン帝国が争う最前線でありました。父母を病で亡くした際に、イエニチェリと(ねんご)ろであった叔母から、エディルネのハレムへ下働きとして売られたのです。版画や活版印刷の版下を製作していた父から教わり、私は幾つかの文字を読み書きできたので、近しい言葉を話せばハトゥンのお慰みになるだろうと、側付きにされたのでした。その時は己れの境遇を恨みましたが、トランシルバニアで孤児となれば、叔母のように軍人たちの囲いものになるのがおちでしたでしょうし、やはり幸運であったのだと思います。

 ハトゥンは、まだ幼く何も分かっていなかった私を、それは可愛がってくださいました。オスマンのハレムには女学校があるのです。皇帝(スルタン)の息女や有力家から宮廷入りした娘たちが学ぶ場所でありましたが、ハトゥンは私もそこで学べるよう手配して下さいました。私は優しく美しいハトゥンに、心からお仕えすることを決めました。囚われの身でありながら、慈悲深く慎ましく賢明なハトゥンに、私は忠誠を誓い、故郷も家族も失っていた私の思慕の全てを注いだのです。

 ただ一つ、奇妙なことがございました。ハトゥンのお肌はいつも柘榴の香りがするのです。そのことに気が付いたのは、仕え始めて何年か経ってからでございました。ハトゥンは柘榴を毎日のように召し上がられます。優雅で奢侈なところなど何もないハトゥンでありましたが、柘榴だけは一年中、広大な帝国のどこからか取り寄せて、口になさいます。そのまま、齧られるのです。私が皮を剥こうと、みどって差し上げようとしても、笑って断られます。紅の引かれた唇から首筋に、それよりも染まった果汁が滴り落ちます。まるで、人の心臓を貪っているかのように。
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