シークエンス1「當山アザミ、登場!」

文字数 7,252文字

 九月ももう終わる。そんな夕方五時頃のことだった。今日は金曜日で、これから訪れるだろう週末を楽しみに待っているはずだった。しかし、うすぼんやりした夕焼けのもと、剣山市の外れにある「さざなみ公園」で、私は逃げようと走っていた。しかし、勢いよく転ける。全身にしびれるような痛みが走り、制服であるセーラー服とプリーツスカートは湿った地面のおかげで泥まみれになる。いつもなら怪我をしていないか、洗濯をどうしようか、クリーニングに出した方がいいのか、とか考えるのだけど、今日は違った。
「あら、杏村。そんなに泥だらけで何をしてらっしゃるの?」
 嫌みったらしいクラスメイトの笑い声が公園中に響き渡る。
 この笑い声から逃げなきゃ、と私はよろめきながら、公園から出ようとする。しかし、
「どこへ行こうとするの?」
 同じ中学の制服を着た長い黒髪のクラスメイト、百合岡は嫌みったらしく微笑む。
「せっかく、わたしはあなたを救ってあげましたのに……。どうして逃げるのかしら?」
 百合岡の言葉に、私は振り向き、
「だ……だって……隠された国語と数学の教科書を見つけてくれたのには感謝をするわ……。でも、だからって! そんな大金を請求するなんて……!」
 と声を振り絞って出す。
「これっぽっちも出せないのですって?」
 再び、百合岡達は指で「三」を示しながら、高笑いをする。
「やっぱ、こいつも痛い思いをしないと、ダメなのねえ……。んじゃあ、やっちゃってよ」
 百合岡の言葉を聞いた悪いウワサが絶えない三人の不良達は、私を見て気持ち悪い笑顔を作った。
 私はこれから襲いかかってくるだろう痛みをこらえるために、拳を思い切り握り、全身に力を込めた。

「楽しいの? それ」
 突然、澄んだソプラノボイスが聞こえてきた。その場にいた人全員振り返る。
 真っ赤なネコっ毛をポニーテールにした少女が公園のブランコに座っていた。
「いつからいたの?」
 百合岡は私とまったく同じ疑問をぶつける。
 緑と白のスカジャンに赤いハーフパンツの彼女は立ち上がって、
「ほんのついさっき」
 と、静かに答える。それは答えになっていないでしょ……と私は思ったが、この場ではツッコみようがない。
 彼女は泥だらけの私に近づくと、
「この街では泥だらけにしたり、なったりするのが流行っているの?」
 と首を捻った。
 私は握った拳を緩める。それどころか、全身脱力する。
 同じように脱力しているらしい百合岡は、
「なんなの、あなたは? 杏村、あんたの知り合い?」
 と気怠く呟く。
 そりゃ、私が聞きたい。
「ん? あたし? あたしは、トウヤマ。トウヤマアザミ。この泥だらけの彼女とは初対面だけど、それが何か?」
 赤い癖毛――トウヤマアザミは私の肩に手を乗せると、キョトンとした様子で自己紹介をする。
「いや、そうじゃなくって……。あんたはわたしたちを邪魔しに来たの?」
「邪魔って何よ。ただ、あたしは今この場の現状を見て、『泥だらけにするのは』のと『泥だらけになる』のは『楽しい』のか、って聞きたいだけなんだけど」
 百合岡はトウヤマの答えになってない答えにとうとう堪忍袋の緒が切れたらしい。
「杏村より、このバカをやっちゃって!」
 百合岡は大声を張り上げる。不良達は恐ろしい顔をして、トウヤマに向かって襲いかかってきた。
 トウヤマは手を乗せたままだった私の肩を押し倒した。もちろん私は後ろ向きに倒れる。
 尻餅をついた。かなり痛い。思わずお尻をさする。
 我に返った私は顔を上げ、もっと痛い思いをしているだろうトウヤマの方を見た。

 トウヤマは避けていた。

 卑怯な三人のいじめっ子からの攻撃を、トウヤマは避けていた。
 右からやってくるパンチを、左から来る蹴りを、蝶のようにひらりひらりと舞いながら避けていた。
 私はその踊りのような光景に、思わず見とれてしまう。

 不良達は、トウヤマに何度も何度も繰り返し蹴ったり殴ったり、攻撃を仕掛けてくる。しかし、彼女には一発も当たらない。
 十分ほど繰り返しただろうか。とうとう、不良達は息を切らし、その場から動けなくなってしまった。
 一方のトウヤマはほとんど息は荒れていない。
「まったく! あなたたちったら、役に立たないですね!」
 しびれを切らした百合岡は、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。そして中に入っていたものを取り出し、一回手首を振る。
 振った手から刃物が伸びていた。どう見てもナイフである。
 百合岡は無言のまま、ナイフを持って、トウヤマに襲いかかった。私は思わず目を手で覆い隠す。
 何かが倒れる音がした。十秒ぐらい風と木の音しか聞こえない。
 私は薄目で二人の様子を見た。それから、はっきりと二人の様子を見た。
 百合岡が倒れていた。そして、ナイフを持っている右手はトウヤマの足で踏まれていた。
 トウヤマは一瞬百合岡を踏んでる足を上げると、ナイフだけ蹴飛ばした。ナイフは宙を描き、滑り台の方まで飛んでいく。いくら足の速い不良でも取りに行くだけで二十秒は軽くかかりそうな距離だ。
 トウヤマは百合岡の顔をのぞき込むようにしてしゃがみ込むと、
「ねえ……大丈夫? でも、そんな危険なものを振り回すそっちが悪いんだよ? ねえ、聞いてる?」
 伏せた百合岡の頭を突く。
 ふと私は目線をそらす。不良三人は消えていた。あんだけ私のことをリンチしかけてたのに、親分がやられたら、この様かあ。そう思いながら頭を掻いていると、
「くそおおっ!」
 百合岡は勢いよく体を起こすと、そのまま公園から飛び出していった。こいつも逃げるのか。
 トウヤマはその様子に首を軽くかしげる。そして瑠璃色の目で私の方を見て、
「キミ、大丈夫?」
 と鈴のように澄んだ声で心配してくれた。
「え……えぇ。大丈夫、大丈夫。怪我はしていないみたいだし、あとは制服をどうするかだけど……母さんに頼んでみるわ。気にしないで」
 私は空元気でトウヤマに笑いかける。
「そ。なら、気にしないでおくわ」
 トウヤマはそう言うと、ナイフのところまで走って行って、ナイフを拾う。そして、そのまま公園の外へと消えていった。
 私は彼女の姿を見て、なんだかほっとした気分になった。しかし、トウヤマアザミにお礼を言っていないのと、彼女がどこの人なのかを聞かずじまいだったことに気がつき、もだえてしまった。そして、また家に帰ってから、こってりしぼられることを想像して、五キロぐらい体重が減った気がした。


 帰宅後、怒られるかと思いきや、母さんの真っ青な顔をして待っていた。お巡りさんもいる。母さんは泥まみれの服にかまわず、私に抱きつくと、私の名前を呼び、子供のように大泣きし始めた。私は何が起きたのかさっぱり理解できない。
 母さんが落ち着いた頃、お巡りさんは事情を話してくれた。長ったらしいので簡単にまとめると、私と百合岡が柄の悪い三人に囲まれているのを見たという通報を受け、公園に行った。しかしだれもいなかったので仕方がなしに私の家に来た、らしい。
「何があったのか、正直に言ってごらん?」
 背の高いお巡りさんは腰を落とし、私の目線を合わせ、優しく問いかけた。どう答えようか悩んだが、意を決して正直にあったことをありのまま……隠された教科書を見つけてくれた百合岡一味に大金を請求されたこと。それを拒否したら、リンチを受けそうになったこと。そこをトウヤマアザミという女の子に助けてもらったことを話した。
「まさか……」
 お巡りさんは呟いた。
 百合岡はこの街じゃ一番の権力者……というか名家に生まれたコだ。誰もまさか百合岡がリンチの首謀者とは思わないだろう。
 恐る恐る母さんの顔を見た。母さんも同じ反応だろうな、と思いきや、
「まさか、って! うちの子がそんな嘘をつくと思っているのですか?」
 とお巡りさんに食ってかかった。
「あ……いや……」
 お巡りさんはしどろもどろに戸惑っている。深呼吸して落ち着いたお巡りさんは、
「まあ、百合岡さんのお宅にも、僕ら行っているので、大丈夫でしょう」
 向こうが嘘をつく可能性とかいろいろあるだろうに……。何が大丈夫なんだろうか。
「大丈夫って……! 何かあったら、責任とってもらいますよ! うちの娘になにかあったら、百合岡さんも警察もまとめて潰してやるから!」
 母さんはお巡りさんを思いきり睨んだ。お巡りさんはたじたじだった。



 月曜日になった。
 ぶっちゃけると、私は学校に行きたくなかった。百合岡と顔を合わせなきゃいけないのだ。そりゃあ、怖い。多少とはいえ、警察沙汰にもなっているわけだし、仕返しが来そうだ。でも、今日は日直。日直を休んだら休んだで、バカな男子にからかわれて、面倒くさいことになる。

 ホームルームの時間が来ても、百合岡は二年G組の教室に来なかった。しかも何故か一番窓側にある私の席の後ろに一つ椅子と机が増えている。
 二つの空席を見て、薄気味悪いなと思っていると、担任の赤坂先生が入ってきた。その後ろに、昨日見た赤いポニーテールの女の子がうちの制服姿でついてきている。
 教室がざわつく中、彼女は黒板の中央に立つと、チョークを持ち、字を書き始めた。
「當山亜沙実」
 赤毛の女の子は無表情に、
「あたしの名前は、こう書いて、トウヤマアザミと読みます。よろしくお願いします」
 と澄んだきれいな声で言うと、頭を軽く下げた。ポニーテールも軽く揺れる。
 先生の「時期外れの転校生だけど、みんな仲良くしてね」という言葉を聞きながら、私は彼女を見た。
 夕方の薄暗い中だったから、あのときははっきり見えなかったけど、透き通った肌といい、瑠璃色のネコ目といい、通った鼻筋といい、少々華奢だけど、女の私から見ても、かなり可愛い。髪色のせいか、瞳の色のせいか、どこかしら東洋的……? いや、西洋的か? どっちでもいい。どこかしら日本人っぽい感じはしない女の子だった。
 當山アザミは私の後ろに座ると、背中に担いでいた学校指定の黒い鞄を机の右端のフックにかけた。

 ホームルームが終わった後、一時間目が始まる少しの間、私は振り返り、當山を見た。
「あ、金曜日の。服、大丈夫だった?」
 當山はぶっきらぼうに反応する。
「ええ。こんなにきれいに洗ってもらったわ」
 當山の問いに、私は笑いながら答える。
「それは良かった」
 當山は目線を窓側にそらし、頬杖をつくと、無愛想に言った。
 私はどうしたものかと頬を掻いた。

 私は機会があるたびに、當山に話しかけようとしていたのだが、まったく出来なかった。休み時間のたびに消えるし、給食の時間は無言で食べる。話しかけても聞こえてないような無反応。
 昼休みまでは、彼女に話しかける人が多かったが、帰りのホームルームでは、當山に話しかけるのは誰もいなかった。
 私も話しかけるのは怖かったのだけど、まだ金曜日のお礼を言っていないのを思い出して、教室のドアに手をかけた當山に、慌てて机を避けながら、近くまで走って、
「ねえ、金曜日はありがとう」 
 頭を下げた。
 私は顔を上げた。當山は、
「どういたしまして」
 素っ気ない返事だったが、うっすらと笑みを作ってくれた。
 しかし、その後会話が続くこともなく、じゃあ、これで、と彼女は言うと、そのままどこかへ消えていた。

 部活終了後、昇降口に向かっている當山を見つけた私は声をかけた。
「當山さん、部活、どこにするの? ちなみに私は合唱部なんだけど」
 何気ない質問をする。
「ん……いろいろ覗いてみたけど……なんかどこも合わなそうなんだよね」
 當山は仏頂面で答える。
「ふうん……」
 私は當山の手応えのない答えに心の中でため息をつく。
 どうやったら、雲から答えが出せるか悩んだ結果、
「當山さんって、どこから来たの? どこ生まれ?」
 こう訊いてみることにした。
「一応、日本だったわ」
 これが彼女の答えだった。
「一応って……」
 私は再びどうしようかな、と悩んでいると、
「あたしにとって、どこも故郷じゃあないのよ。海外には行ったことないけど、その国々ですら、あたしにとって外国なんだと思う」
 當山は気怠げな表情を作る。
 當山の暗い様子から、私は慌てて話題を変えようと、
「あ……あの。當山さんって、ハーフだったりするの?」
 私の問いに、
「ん……。実の親は知らないんだよね。双子の弟はいるけど。まあ、育ての親もいたけど、四年前に死んじゃったし。このなりのせいで、ガイジン、ガイジンってどこ行ってもからかわれてたわ」
 と陰のある表情を作った。
 しまった! 當山の地雷を踏みまくってる! 私は焦りまくる。
 数秒間の沈黙の後、當山は立ち止まり振り返って、瑠璃色の瞳で私の目を見た。そして、
「ねえ、あなたばかり質問してるわよね? あたしも質問させてよ」
 とさっきと打って変わって、気持ち悪いぐらい満面の笑みをしている。
「え……ええ。いいわよ」
「あたし、あなたの名前、聞いてない」
 當山は微笑む。あ……そうだった。こっちの自己紹介してない……。私は頭を掻きながら、
「私は杏村真弓。杏はアプリコットのアンズね。村は市町村の村。真実の真に、弓は弓矢の弓」
 改めて自己紹介すると照れくさい……。顔が火照る。
「んじゃ、よろしくね。杏村さん」
 當山は手を差し出す。私はその手を握った。暖かく、柔らかかった。

 家が同じ方向だったということで、賑やかな商店街のアーケードを當山と二人で帰ることになった。
 この街にあるおいしいモンブランが食べられる喫茶店や、有名な家系ラーメン、行きつけの美容室などなど……若干偏っている情報のような気もするし、深く覚えてはいないけど、いろいろ一方的にべらべらと話してしまった。
 はたと気がついた私は、あんまりに恥ずかしくなって、
「あ、ごめんなさい。話しすぎたわ」
 と顔を火照らせた。
「いいえ、かまわないわ。楽しいから」
 昼間の無愛想と打って変わって、當山は柔らかい笑顔をした。この笑みになんだか私もほっこりする。
 私はふと、
「あ、そういえば」
 と訊かなきゃいけないことを思い出した。
「なに?」
 當山は立ち止まり、首を捻る。
 私も立ち止まり、
「百合岡さん達はどうなったの?」
 と訊いた。
「ん……? ああ、いじめっ子四人ね。おそらくだけど……今頃彼女ら、お寺で修行しているみたいよ」
「へ?」
 私は目が点になる。
「どういう……?」
「家の恥だって。他の三人も連帯責任でお寺に三日間で修行して、清く正しく美しくしろ、って言われたらしいわ。警察にあのナイフを持っていったかいがあったわね」
「え、あのナイフを?」
「ええ。最初は百合岡さん……だっけ、彼女の言っていること……自分もリンチされかけたっていうこと……まあ、ざっくり言えば、あたしがリンチを仕掛けたことにしたということをみんな信用していたみたいだけどね。でも、あたしが拾ったあのナイフ、百合岡の父が三ヶ月前になくした鉛筆削り用のナイフだったみたいでさ。あたしはこの街に来たばっかりだから、三ヶ月前に盗みようがないし……。他にも余罪があるみたいだから、ガチの警察沙汰になるみたいよ。っていうか、杏村さん、聞いてないの? 被害者なのに?」
「恥ずかしながら、土日は自分の部屋に引きこもっていたもので」
 私の気まずい返事に、當山は吹き出すと、
「杏村さんって結構面白い人なのね」
 と、今までで一番柔らかく、すてきな笑顔を作った。
「でさ、もう一つ、訊いてもいい?」
 この私の言葉に、ええ、いいわと當山は優しく返事をする。
「どうして、百合岡からどうしてあんなに避けることが出来たの?」
 私の質問に、ああ……それね、と空の方に目線をそらす。
「あたしね、『予備動作』を見切れるの」
「ヨビドウサ?」
 私は當山の言葉をリフレインする。
「ええ。予備動作。人の動きって、ほとんど必ず予備動作があるの」
「はあ」
「たとえば、殴るとき、ためがはいるのよね。こんな風に」
 そう言って、彼女は右手を前に挙げ、後ろに引く。
「そして、パンチ」
 まっすぐ腕を突き出す。
「でね、あたし、どんな小さい予備動作でも見えちゃうんだよね」
 私は目をまん丸にして、
「え、そんなことが?」
 と驚く。
「人一倍、肉体の動きに興味があったの。それで、自然と身についたんだと思う」
「それでも、あんなにきれいに避けられるはずがないわ!」
 驚きを隠せない私の様子を見た當山は、クスリと笑うと、
「あたし、運動神経がいいらしくて。前の前の前の学校で、柔道やらないか、って言われたぐらい」
「はあ……」
 とてつもないコが目の前にいる現実に、私は動けなくなってしまった。
「どしたの? 大丈夫?」
 當山はぽかんとした顔をする。それから、目線を下に向けてから、まっすぐ私の目を見て、
「ああ、そうそう。あたしのことさ、『アザミ』って呼んでいいよ。その代わり、あなたのこと、真弓って呼んでいいかしら?」
 當山は照れくさそうに顔を赤らめさせ、頬を掻いた。
 彼女の突然の申し出に、
「へ……」
 私は変な声を出してしまう。今の私の顔はピカソの絵にそっくりに違いない。
「あ、ぶしつけに申し訳なかったわね。ごめんなさい」
 當山は焦った様子で、顔を伏せる。
 私はなんだかうれしくって、大声で爆笑し、
「いいわ。いいわよ。よろしくね、アザミ」
 手を差し出す。
 アザミは素敵な笑顔で、
「よろしく! 真弓!」
 と私の手を握った。
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