第2話
文字数 1,655文字
元来、紙魚川弥彦という男は良く言えば優しく悪く言えば気弱な男だった。会社では仕事に責任感を持ち言われたことは何でもやり遂げ評価は良かったはずなのだ。それがなぜか唐突に辞めるか残るかを迫られ、辞めて欲しいオーラを察知して辞めることを選んでしまった。今思えば残った方が良かったのかもしれないと思うが依願退職を勧めてくるほどなのだ。きっとあそこには自分の居場所はない。
さて、この紙魚川という男は長い前髪に分厚い眼鏡をかけているのだが、それには一つ理由があった。幽霊が見える、いわゆる霊感というものがあるのだ。ただし、見えるだけで除霊が出来るなんてことはなかった。そこらかしらに居る幽霊と目を合わせないために前髪を長く伸ばし分厚い眼鏡で視線を合わせられないようにしているのだ。それだというのに彼、事務所の主はいとも簡単に視線を合わせてきたのだ。
「どうぞ、インスタントですが」
「あ、ありがとうございます」
出されたアイスコーヒーを紙魚川はゆっくりと飲む。すっかり酔いが覚めた頭に苦味が沁みる。そこで今更ながらとんでもないことをしてしまったのではないのかと冷汗が紙魚川の背を伝う。
「さて、看板のことですが」
「すみませんでした! 酔っぱらっていたとは言えやってはならないことを」
「百万」
「は」
紙魚川は思わず声を出す。
「警察に突き出さない代わりに百万即金で払ってもらおうかと」
「そ、そんな大金ありません」
「本当ですか? あなたの後ろの人はあるって言ってますけど」
「余計なこと言うなよ! 普段は黙ってるくせに!」
紙魚川はガバリと後ろを振り返り背後の守護霊に向かって文句を言う。守護霊はわたわたと慌てているポーズをするがそれがまた腹が立つ。いや、待てよ。どうして俺の守護霊が見えるんだ。しかも会話までしている。
「やっぱり霊感お持ちだったんですね」
「いや、これは、その」
「そもそもあの路地は霊感がある人、もしくは霊障にあっている人にしか見つけられません。ああ、だからと言って看板を壊したことは許しませんので」
ちくしょう。上手く誤魔化せないかと思ったけど明らかに自分の方が悪いと考える。
「百万払うか百万分の働きをしてもらうかどちらがいいですか? 紙魚川弥彦さん?」
「どうして俺の名前まで……」
「俺は色んなものが視えて触れるんですよ」
名前、性別、守護霊、幽霊が、と彼は告げ足す。
「そんなのプライバシーの侵害じゃないか」
「視えるだけなので悪用はしませんし」
今まさに悪用しようとしているじゃないかと言おうと思ったが紙魚川はその言葉を飲み込んだ。
「百万分の働きって何をするんですか……」
そこで目の前の彼はにまりと笑った。
「幽霊退治ですよ」
「へ?」
「僕は幽霊を見るにはこのマスクをつけていないといけないんですよ、その点あなたは眼鏡を外すだけで良い。ああもちろん退治自体は僕たちがやります。あなたは保険、というか助手みたいなものですね」
「俺じゃないといけない理由って」
「ないです。たまたまなので」
いやあ丁度バイトが辞めた所だったんですよと男は言う。
「そうですか……」
暫くの沈黙が続くが、沈黙を破ったのは男の方だった。
「うちはいいですよ、福利厚生しっかりしてますからね」
「福利厚生……」
「そう、健康保険も入れますし労災もおります。まあ少し特殊な方法なのは否めませんが」
そこまで言われたら答えは決まっていた。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ。僕の名前は蚈です。一応ここの所長をやっています。やっちゃんでもやっすーでも気軽に呼んでもらっていいですよ」
「さすがに雇い主にそれは……」
「やだなあジョークですよ」
「わかりにくい……」
と、紙魚川が反応に困っていると目の前に手が差し出される。蚈の手だ。
「なにはともあれよろしくお願いします」
蚈の瞳は嘘をついている瞳ではなかった。紙魚川はごくりと唾を飲み込んでから差し出された手を握り返す。
「こちらこそよろしくお願いします」
紙魚川にとって何十年ぶりかに他人と目を見て話した日だった。
さて、この紙魚川という男は長い前髪に分厚い眼鏡をかけているのだが、それには一つ理由があった。幽霊が見える、いわゆる霊感というものがあるのだ。ただし、見えるだけで除霊が出来るなんてことはなかった。そこらかしらに居る幽霊と目を合わせないために前髪を長く伸ばし分厚い眼鏡で視線を合わせられないようにしているのだ。それだというのに彼、事務所の主はいとも簡単に視線を合わせてきたのだ。
「どうぞ、インスタントですが」
「あ、ありがとうございます」
出されたアイスコーヒーを紙魚川はゆっくりと飲む。すっかり酔いが覚めた頭に苦味が沁みる。そこで今更ながらとんでもないことをしてしまったのではないのかと冷汗が紙魚川の背を伝う。
「さて、看板のことですが」
「すみませんでした! 酔っぱらっていたとは言えやってはならないことを」
「百万」
「は」
紙魚川は思わず声を出す。
「警察に突き出さない代わりに百万即金で払ってもらおうかと」
「そ、そんな大金ありません」
「本当ですか? あなたの後ろの人はあるって言ってますけど」
「余計なこと言うなよ! 普段は黙ってるくせに!」
紙魚川はガバリと後ろを振り返り背後の守護霊に向かって文句を言う。守護霊はわたわたと慌てているポーズをするがそれがまた腹が立つ。いや、待てよ。どうして俺の守護霊が見えるんだ。しかも会話までしている。
「やっぱり霊感お持ちだったんですね」
「いや、これは、その」
「そもそもあの路地は霊感がある人、もしくは霊障にあっている人にしか見つけられません。ああ、だからと言って看板を壊したことは許しませんので」
ちくしょう。上手く誤魔化せないかと思ったけど明らかに自分の方が悪いと考える。
「百万払うか百万分の働きをしてもらうかどちらがいいですか? 紙魚川弥彦さん?」
「どうして俺の名前まで……」
「俺は色んなものが視えて触れるんですよ」
名前、性別、守護霊、幽霊が、と彼は告げ足す。
「そんなのプライバシーの侵害じゃないか」
「視えるだけなので悪用はしませんし」
今まさに悪用しようとしているじゃないかと言おうと思ったが紙魚川はその言葉を飲み込んだ。
「百万分の働きって何をするんですか……」
そこで目の前の彼はにまりと笑った。
「幽霊退治ですよ」
「へ?」
「僕は幽霊を見るにはこのマスクをつけていないといけないんですよ、その点あなたは眼鏡を外すだけで良い。ああもちろん退治自体は僕たちがやります。あなたは保険、というか助手みたいなものですね」
「俺じゃないといけない理由って」
「ないです。たまたまなので」
いやあ丁度バイトが辞めた所だったんですよと男は言う。
「そうですか……」
暫くの沈黙が続くが、沈黙を破ったのは男の方だった。
「うちはいいですよ、福利厚生しっかりしてますからね」
「福利厚生……」
「そう、健康保険も入れますし労災もおります。まあ少し特殊な方法なのは否めませんが」
そこまで言われたら答えは決まっていた。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ。僕の名前は蚈です。一応ここの所長をやっています。やっちゃんでもやっすーでも気軽に呼んでもらっていいですよ」
「さすがに雇い主にそれは……」
「やだなあジョークですよ」
「わかりにくい……」
と、紙魚川が反応に困っていると目の前に手が差し出される。蚈の手だ。
「なにはともあれよろしくお願いします」
蚈の瞳は嘘をついている瞳ではなかった。紙魚川はごくりと唾を飲み込んでから差し出された手を握り返す。
「こちらこそよろしくお願いします」
紙魚川にとって何十年ぶりかに他人と目を見て話した日だった。