第五節 6

文字数 2,604文字

 バシリオが再び正気を取り戻したとき、サカリアスはバシリオの腕の中で意識を失い、ぐったりと横たわっていた。
「サカリアス」
 切羽詰まった声で名を呼び、息があることを確認して安堵する。
 徐々に落ち着きを取り戻すと、初めて見る全裸のサカリアスに目が釘付けとなった。幾度も頭の中で思い描いてきた通り、胸と腹の柔らかい部位を除いて全身に真っ黒な刺青が刻まれている。
 想像以上の美しさに陶然となる一方で、サカリアスを抱いているときの記憶が一切ないことにバシリオは愕然とした。
 刺青のない肌には、自分が付けたのであろう赤い鬱血斑がこれでもかと浮かび上がっている。サカリアスが悦んでいたことは、重なり合った精神を通じて絶えず伝わってきていた。だが、自分に抱かれ悦ぶサカリアスの姿を何一つ覚えていないとは。
「サカリアス」
 もう一度抱きたい。快楽に溺れるサカリアスの姿を目に焼き付けたい。
 バシリオはごくりと喉を鳴らして唾を飲み込み、意識を失っているサカリアスに手を伸ばす。背徳感が背筋を舐め上げるが、それ以上の欲望に頭の芯が霞む。無防備に投げ出された脚を左右に割り広げ、間に腰を埋めた。
「あ」
 サカリアスが小さな声を上げて(うっす)らと目を開く。官能に濡れた琥珀色の瞳がバシリオを捉える。
 火を付けられたバシリオは夢中になって動き出した。先ほどまで散々高められていたサカリアスの肉体は、バシリオのどんな小さな動きにも敏感に反応する。初めて聞くサカリアスの甘い声に、バシリオは我を忘れた。
 俯せに直し、後ろからも存分にサカリアスの肉体を堪能する。揺すり上げる度にサカリアスの背は快楽に(しな)り、バシリオの視界の中で刺青が生き物のように妖しく(うごめ)く。
 あまりの美しさに、バシリオは恍惚となった。艶やかな黒い髪、綺麗に筋肉の付いた細く引き締まった肢体、そこに刻まれた幾何学的な紋様の刺青。バシリオは完全にサカリアスの肉体に惑溺していた。
(バシリオ)
(バシリオ)
 顔が見えないことが寂しいのだろう、サカリアスが必死にバシリオの名を呼ぶ。共鳴したがっていることが伝わってきたが、バシリオはサカリアスの願いを叶えなかった。
(バシリオ)
(バシリオ)
 サカリアスが益々必死にバシリオの名を呼ぶ。もっと名を呼ばれたくて、求められたくて、バシリオは敢えてサカリアスの望みを無視し続けた。
「う、うう」
 だが、遂にサカリアスが泣き声を上げると、バシリオは途端におろおろとサカリアスの身体を抱き締めた。
「すまない、苛めるつもりはなかった」
(バシリオ)
「ああ、分かった。分かったから頼む、泣かないでくれ」
 バシリオは再びサカリアスと思念をぴたりと重ね合わせ、一つに溶け合っていく。自我の境目がなくなり、二人は肉体だけでなく精神も二人で一つの存在となる。
 深い快楽の海にバシリオとサカリアスは沈んだ。
 その波間に、二人はいつまでも揺蕩(たゆと)うていた。
 二人を正気に引き戻したのは、今回もまたルカスである。
 ティエラ・ゲレロの称号を授かったきり部屋に籠もりっぱなしになったバシリオとサカリアスを、周りの者たちは放っていた。誰もが長年に渡るバシリオの片想いを知っていたから、薄々何が起こっているかを察し、そっとしておいたのだ。
 だがルカスは違った。
 バシリオとサカリアスの精神共鳴の深さをよく理解しているルカスは、二人がこうなった以上、容易には現実へ還って来られないだろうと予測していた。
 三日目の朝、ルカスはバシリオの部屋の扉を叩き、返事がないのを知ると無断で中へ入った。寝室へ踏み込むような真似はしなかったが、寝室の扉を叩いてけたたましい音を立てる。
「バシリオ、出て来い。出て来るまで叩き続けるぞ」
 中からぼそぼそと低い声が聞こえ、続いて衣擦れの音がしてバシリオが出て来る。流石に風呂には入っていたらしく、ルカスが予想していたほど酷い有様ではなかった。薄く開かれた扉の向こうで、サカリアスがどんな様子になっているかは分からない。
「飯を喰うぞ。準備が出来たらサカリアスを連れて俺の部屋に来い」
「え」
「お前に拒否権はない。分かったな」
「あ、ああ」
 ルカスの剣幕に押され、バシリオは訳も分からず頷く。小半時後、サカリアスと共にルカスの部屋を訪れると、食卓に鶏と香菜がたっぷり入った粥と香草茶が準備されていた。
 着替えがなかったのだろう、身の丈に合わない大ぶりの服を着せられたサカリアスは、まだ夢心地なのか席に着くにもバシリオの世話を必要とした。その(さま)を、ルカスは眉を(ひそ)めて観察する。
「サカリアスはまずこれを飲め」
 苦虫を噛み潰したような顔でルカスが湯呑みを差し出すと、サカリアスは素直に受け取って口に運んだ。たっぷりと蜜の入った甘い香草茶である。
「美味しい」
「そうか。なら、次はこれを食べろ」
 ルカスは渋い表情のまま、今度は粥を差し出す。サカリアスは言われるがままに匙を口に運び、再び、美味しいと口にした。
 バシリオが問い掛けるような眼差しを向けると、ルカスは真面目な声音で告げた。
「しっかりしろ、バシリオ。サカリアスを見てみろ。顔色も悪いし、たった三日でずいぶん痩せたぞ。お前、サカリアスを壊すつもりか」
 窓から差し込む日の光がサカリアスを照らし出す。久しぶりに明るい光の中でサカリアスを見たバシリオは、ルカスの言葉にはっとした。確かに顔色が悪く、身体も一回り小さくなったように見える。
「こいつはお前より容易に精神感応を起こす。お前がしっかりしないと、共倒れになるぞ」
 バシリオを正気に戻すには、サカリアスを傷つけるなと諫めるのが最も効果的である。そのことを知っているルカスは、敢えて大仰にバシリオを脅した。
 ルカスの策は功を奏し、バシリオはうろたえ、眉を下げて今にも泣き出さんばかりの表情で必死にサカリアスの面倒を見始めた。
 馬鹿か、お前は。
 喉まで出かかった言葉を呑み込み、ルカスは呆れて溜息を吐いた。
 バシリオが正気に戻ったことで、サカリアスの精神も自然と現実へ引き戻されていった。
 だが、無意識にバシリオの名を呼ぶサカリアスの思念が途切れることは、こののち一度もなかった。バシリオはティエラ・ゲレロの称号を得てからの四年間ずっと、自分の名を呼び続けるサカリアスの微かな思念を聞いて過ごしてきたのである。
 バシリオが天にも昇る心地で四年の歳月を過ごしたことは言うまでもない。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み