第3話

文字数 2,753文字

 さすがに厳しくいくと言っていただけあって、莉緒のしごきはきつかった。当然ながらあたしは覚えが悪く、しかもそれで莉緒が手を緩めることはない。だからしばしばクラスメイトのところに逃げ込んだものだけど、その度に「野中!」と鋭い声が飛んできて連れ戻された。
 休み時間も放課後も常に指導がある。学校の授業でやる勉強、運動、芸術、家庭科などはもちろんのこと、歌や踊り、生け花に護身術、果ては手品まで特訓メニューにある。何でもできる子とは思っていたけど、まさかそこまでとは思っていなかった。まして自分が取り組むことになるとは。
 ただ、それほど嫌だとは感じなかった。自分からお願いした手前、というのが多少作用しているとしても、きついはずなのに本当に逃げ出すには至らない。
 たぶん理由は二つあって、一つはできた時に達成感があったからだ。
 莉緒は一度もほめてくれなかったけど、自分の中で手ごたえをつかむ感覚や、前進する喜びというのを、あたしはほとんど初めて感じていた。昔から失敗続きだったあたしは、いつしか自分のことを諦めて、見なくなっていたんだと思う。己の弱さを受け入れることは、言い訳にしちゃいけなかったんだ。
 莉緒が主に教えてくれたのは、その内容よりも、体や頭の使い方、物の捉え方だった。当たり前の話でも、あたしにとってはどれも新しい考えばかりで、しかしそれも当然だ。自分のことを見ていない人間が、自分について真剣に考えられるはずがない。
 もう一つの理由は、莉緒があたしを見捨てなかったことだ。
 みんなができるのにあたしだけができないというのは、今までよくあった。さかあがりなんかがそうで、大体は馬鹿にされるか、でなければうちの親みたいに「向き不向きがあるからできなくてもいい」という反応だった。結局はどちらもつらいのだ。
 でも、莉緒はあたしの心が折れそうになる度に焚きつけ、最後までやめなかった。まあやり方は荒っぽかったけど、あたしにとっては丁度よかったんだと思う。
 ただそうなると、莉緒のことがより知りたくなる。
 夏休み、あたしの家で一緒に宿題をしている時、思いきって彼女にたずねてみた。
「月本さんは、どうして色々できるの?」
 漢字ドリルを進めていた彼女はぴくりと眉根を寄せ、数秒後に口を開いた。
「あんた、うちの母親見たでしょ」
 あの上品な女の人だと思ってあたしはうなずいた。
「わたしは今おばあちゃんの家に住んでて、あの人は付いてきてない。でも、時々ああしてやって来るの。東京からわざわざ」
 彼女は顔を上げずに淡々と続ける。
「うちの親、離婚してるのよ。わたしはあの人に引き取られて二人で暮らしていたの。三歳からあらゆる習い事をさせられたわ。これからの時代、女も生きていくために何でも身につけなきゃいけないって言われてね」
 あたしにはうまく想像できなかったけど、莉緒の声にはどこか棘があった。
「小さい頃のわたしは何もわかってなかった。ただできるようになれば母が喜んでくれるから、一生懸命やってただけ。どれも自分から始めたわけじゃない」
 前に川原で言ってたことを思い出した。望んでいたわけじゃないと。それでも彼女はできてしまった。
「そのうち、わたしにあれこれやらすのは自分を捨てた夫への当てつけだって気づいてからは、無性に腹が立った。習い事に行ってはめちゃくちゃしてやったの。そうしたら、あなたは疲れてる、一度頭を冷やしてとか言って、転校までさせられたってわけ。そのくせ様子を見にきて、そろそろ戻りましょうとか言ってんの。馬鹿みたい、ぜんぶ意味なかったのにね」
 がりがりと漢字を書く音が部屋の中に響く。あたしは事情も知らずに莉緒の力を羨ましがっていた。そして彼女の苦悩を本当には理解してあげられない。なんて能天気だっただろうか。
 でも、あたしには意味のないことだとは思えなかった。
「あたしは月本さんが来てくれてよかったと思ってるよ」
「え?」
「色んなことを教えてもらって、そりゃまだまだ全然だけどさ、この前先生にほめられたんだよ、最近頑張ってるねって。クラスの子にもなんか変わったって言われた。うれしかったんだよ。だってこのあたしだよ? 月本さんがいなきゃ、そんなふうにはならなかったって、あたしは思うの」
「……そう」
 あたしは笑ってみせたけど、莉緒は笑わなかった。その代わり顔を上げ、こう言ったのだ。
「野中、手が止まってる」
「は、はい」
 あわてて取りかかるあたしを見ながら、先に書き終えた莉緒はお茶を一口飲んだ。

 何かをがむしゃらにやっていると時間の進みが早い。瞬く間に季節は移ろい、冬が終わろうとしていた。風はまだ冷たいけど、明日はいよいよ卒業式だった。
 帰り道、ふと莉緒が遠回りしはじめた。珍しいなと思ってついていくも、彼女は黙っている。しばらく歩き、人気のない農道まで来たあたりで口を開いた。
「来月から中学ね」
「まだ実感ないけどね。あ、でもこの前制服届いたんだ」
「そう。しっかりやりなさい」
「なんでそんな、ああそうか、クラス離れちゃうかもしれないもんね」
 莉緒はそれには答えなかった。
「……ねえあんた、前に言ったわよね。人に助けてもらって、うれしかった気持ちはどこにやればいいのかって」
 自分ではあまり意識していなかった言葉だ。
「わたし、あんたに色んなことを教えたと思う。まあ正直、ここまで手のかかる子とは思ってなかったけど」
 そう言いつつ、莉緒は別に嫌そうではなかった。
「ただ、わたしにも教えられないことはある。人の役に立ちたいとか、恩を返したいっていう気持ちは、わたしには教えられないのよ。でも、麻実は最初から持ってる。それはすごいことなのよ」
 初めて名前で呼んでくれたうれしさと、初めてほめられた喜びがまざって、あたしはふわふわとあったかくなった。
「わたし、自分の力が何のためにあるのかわからなかった。でも今は違う。それはあなたが教えてくれたことなの」
「あたし、が」
 明確に心当たりはなくとも、胸にじんと込み上げるものがあった。同時にこの話の行き先が見えた気がして、泣きそうになる。
「わたしは一人でも大丈夫だけど、お母さんはきっとそうじゃない」
 莉緒がこちらを見た。
「だからわたし、向こうに戻る」
 涙が出てきた。でも泣いたらいけないと思って、必死にこらえようとする。そんなあたしを見て莉緒が笑った。
「なんて顔してるのよ」
「だって、莉緒、莉緒が」
「まったく、手のかかる子なんだから」
 彼女はあたしの手を取った。
「これで最後じゃない。わたしたち、また会うのよ」
「ほん、ほんとに?」
「約束ね」
 ほほえむ莉緒の手を握りかえし、あたしはわんわん泣いた。翌日の卒業式に彼女は来ず、空いた席をあたしはずっと見つめていた。
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