第18話 小春日和

文字数 4,397文字

 それからの僕は、ひどい自己嫌悪に陥っていた。どうにもならないくらい好きだと自分では思っていたのだが、本当の意味では、玲奈を愛してなんかいなかったことに気が付いた。僕は玲奈のために何ひとつ大事な物を賭けてはいないし、真剣に向かい合ったことさえなかった。単に雄が雌に、男が女に必然的に持つ感情を持ったに過ぎなかったのか? 人間として心の触れ合いはなかったのか? そう自分に問うが、過ぎてしまった事を書き換えることは出来ない。
『うかつな日々を過ごしてしまった』
 その後悔だけだった。
 玲奈とその男が()りを戻したいきさつに付いて、その後明日香から聞かされた。別れてしばらくしてから、男は玲奈を呼び出したと言う。なんと言って呼び出したのかは知らないが、それに応じた時点で既に、玲奈の方に、男に対する未練が有ったと言う事、つけ込まれる隙が有ったと言うことが言える。男が白々しく()びを入れ、再交際を迫った事は想像出来る。玲奈は、少なくとも言葉の上では拒否し続けていた。その話し合いは、車を降りて、二人で河川敷を歩きながらお行われていたらしい。この時点で既に、()く迄拒否し続けている女が取る態度では無い。玲奈が、少なくとも口では拒否し続けているのを見て、男は玲奈から離れ、水の中へザブザブと入って行ったと言う。もう少し行けば深みと言う辺りで立ち止まって、『おまえを失うくらいなら、俺は死ぬ!』と叫んだと明日香は黒田遥から聞かされたと言うのだ。
『安もんのラブ・ストーリーパクってんじゃ無いよ』と腹では思ったが、口には出さなかった。『気を引く為の芝居よね』と明日香が言った。今回の玲奈の自殺未遂の原因が又もや男の浮気であった事を考えると、そう言う臭い芝居が玲奈に届いてしまうという、ドラマとは違う現実が有ることを認めざるを得ない。玲奈の自殺未遂に付いても、躊躇(ためら)いが有ったためかも知れないが、事前に黒田遥に電話している事を考えると、男に対するポーズ、アピール的な要素が無かったとは言い切れない。或る意味、(だま)し合いながらもお互いを必要とする関係というのが有るのかも知れない。
「そもそも、玲奈が呼び出しに応じて出て行った時点で、そうなる事は決まっていた。後は、お互いの気持ちを納得させる為のお芝居ごっこさ」
 僕は、吐き出すように言ったかも知れない。
「…… 雄介君……」
 その時明日香は、僕の名前だけ読んだが、後の言葉は出さなかった。

 今まで生きてきた中で、最悪の気分で迎える年末となってしまい、実家に帰る気分にもならなかった。ただ、ひょっとして玲奈から連絡が来ないかと言う思いが有った。後から考えれば有り得ないことではあったのだが、僕がそう言う気持ちを未練がましく、まだ引きずっていたと言うことも確かだった。当然、玲奈から連絡は来なかった。

 広田和樹と言う男には本当に腹が立っていたが、かと言って、そいつに何か言える立場でもないと思った。『玲奈はお前でなく俺を愛していたんだ』なんて言えるか? 俺が憎んだとしても、玲奈は広田を憎んではいないのだ。広田とどんな結末を迎えるのかは分からないが、それが玲奈の望む方向であることは、残念ながら間違いない。僕は、第三者でしか無いと自覚した。

 ところが、そんな風には思わない奴が居たのだ。
 年が明け、アメリカへ出発の準備も忙しくなってきた或る日、僕は、部屋で、荷物の整理をしていた。渡航費用を貯める為に、僕が住んでいたのは、エアコンも無い、古いワンルームのアパートだった。PCを開くと、
『八王子で大学生が刺され重体』
と言う、トピックスの見出しが目に入った。『八王子』と言うワードが気になって開いた。
『警察の発表によると、今朝、十時過ぎ八王子市内のマンション前で、マンションから出て来た男性が男に背後から背中を刺された。刺された男性は、このマンションの住人で、八王子大学三年生の広田和樹さん二十一歳とみられている。近くの救急病院に運ばれたが、重態とのこと。
 犯人の男は、埼玉県に住む、自称会社員の河原崎光則、四十二歳と名乗っており、動機については八王子警察署が取り調べ中で、現時点では詳細は不明』とあった。
 調べなければならない事が有って、荷造り途中でPCを開いたのだが、僕は荷造りを放り出したまま何時間も、ただ窓の外に視線を向けていた。色々な事が頭を(よぎ)ったが、意識にまで結び付かず、乾いた映像として繰り返し通り過ぎる。

『寒い! 』
 暖房をつけていない部屋の寒さを突然感じた。石油ストーブに点火する。油量計が赤くなっていて、残油量がほとんど無い。黒い油煙が上がり我慢出来なかった。ストーブを消して、炬燵(こたつ)の電源コードを繋ぎ、潜り込む。体が温まってくると、思考も巡り始めた。特に大きな事件でも起きない限り一週間から二週間、この事件は繰り返し報道されるだろう。
 ワイドショーや週刊誌で、河原崎の過去や現在が、これでもかと言うほど暴き立てられるに違いない。生死の境を彷徨(さまよ)っている被害者である広田については、最初はごく遠慮がちに、同情的に報じられるだろう。広田が助かるかどうかにも依るが、TVのワイドショーが飽きて来た頃になって『被害者の意外な行状』を週刊誌が報じ始める。
 例え、河原崎が、動機について黙秘を貫いたとしても(僕には、何故かそう思えた)、『A子さん』とか『Rさん』と言う表現で、玲奈の存在が、好奇の(まと)になり始める。
 睡眠薬を飲んだ時点での玲奈は、無意識に助かりたいと思っていたはずだ。だから、親友である黒田遥にSOSを発した。何かに頼りたくて入った宗教も、多分何の役にも立たなかったのだろう。
 だが、河原崎の起こした事件によって、玲奈はもっと苦しいところに追い込まれてしまうだろう。家族のサポートで乗り切ってくれれば良い。或いは、黒田遥が手助けをしてくれるかも知れない。
 自分が何か出来ればとは思ったが、最早、何を出来る立場でも無かった。このまま玲奈とは、もう会うことは無いのかも知れないとも思った。ただ、結局僕には何も出来なくて、このまま一生会うことが無いとしても、僕は、日本に居ようと思った。
 頭では、玲奈との関わりは終わったと理解したはずだった。しかし、それに反し僕の中には、玲奈がいつか僕に連絡して来て、彼女のために何か出来る可能性はゼロでは無いと言う想いが有ったことも事実で、大した目的もないアメリカに行くよりここに居ようと決心するに至った。矛盾する二つの心理ではある。それは、僕の勝手な思い込みであり、現実には起こり得ない事ではあるのだが、僕はそう思うことで、心のバランスを取っていた。その後、広田和樹が一命を取り留めたとNEW-Sで知った。喧嘩別れした経緯は有るが、河原崎が殺人犯とならなかったことにはほっとする思いが有った。

 突然、明日香から電話が入った。事件を知って驚いたと言うことを暫く語った後、
「玲奈には、すごく好きだったお兄ちゃんが居たの」 
といきなり言った。
「十三のとき交通事故で死んじゃったんだけど、あいつ、刺された人のことだけど、そのお兄ちゃんに似てたんだって。それで、玲奈、好きんなちゃって。でも、ひどい。キャバ嬢と浮気してた。ひとりじゃなくて、二人も三人も。そんなら、自分がキャバやってやるって、なんだか分かんないけど、玲奈、そう思っちゃったらしいのよ」
 僕は、無言のまま明日香の話を聞いていた。いつもの明日香とは違う何かを、僕は感じていた。玲奈がキャバクラに勤めた理由が判明した訳だが、今更と言う感じで、誰に聞いた話かを確かめる気も起きなかった。興奮した明日香と冷めた僕がそこに居た。
 一つだけ思い当る事が有った。関連は分からないが、或いは、十三の時交通事故で死んだ兄。玲奈は僕についた嘘の中で、好きだったその兄と一緒に暮らすイメージを描いていたのかも知れない。兄夫婦の娘は、幼い頃の玲奈自身を投影したものだったのかも知れない。現実の苦しさと、(ひと)り描く幻想。そんなものが玲奈の中に有り、玲奈はそれを僕に語っていたのだ。そう思った。

「どうして、気が付いてあげなかったの! あの子、(ゆう)くんにSOS出してたはずだよ。まだ、あいつを好きだったからじゃなくて、悔しくて、自分を壊して、あいつに復讐したかったのよ。分かんない? ねえ。分かんないの?! それ、止めて欲しかったに決まってる、雄介君に……」
 明日香は興奮して、そんなことを言い始めた。明日香の態度に違和感を感じたのと、今更そんな事を言われてもなんの意味も無いだろうと言う気持ちも有った。
「分からない」
 僕は、明日香のテンションの高さに面食(めんく)らい、無機質な声でそう言った。
「馬鹿……」
 明日香は泣いていた。どう言うことか分からなかったが、(しず)めるには翔太に任せた方が良いだろうと思った。
「翔太は? 居るの、そこに」
と聞いた。
「居ない。出て行った」
『出て行った』と言う言い方が引っかかった。
「何で! どういう事?」
と問い詰めた。
「あいつも浮気した。…… 多分わざと……」
 明日香の言っている意味が良く分からなかった。
「何それ? 明日香ちゃんがあいつの浮気を疑って、それで喧嘩になって翔太が出て行ったってこと? 分かった。俺、電話してみるから、(まか)しといて」
 事態を了解したつもりの僕は、なんとか二人の力になろうと思って言った。
「違う。あいつ、すっごくいい奴だから。私がそんなの許さないって知ってて…… わざと……。雄介みたいなカンニブじゃないんだよ、翔太は」
 明日香が何を言っているのか、僕にはまるで分からなくなった。明日香を落ち着かせて納得させた上で電話を切り、翔太に架けて聞く方が早いと思った。しかし、その時明日香は、簡単に電話を切らせてはくれなかった。

 後になってから、明日香が本当は僕のことをずっと好きだったことを知った。それを察した翔太がわざと浮気をして、明日香の前から去ったことを知った。
 翔太に比べて、自分の人間としての小ささ、自分のことしか考えてない身勝手さを突き付けられた想いに押し潰されそうになった。翔太は消え、連絡も付かなくなった。意識すると、逆に明日香とも疎遠になってしまい、しばらく連絡が途絶えた。

 それから色々有った。本当に色々有ったんだ。でも、それに付いては又の機会でのこととして、今回は、僕が玲奈に片想いをしていた話。そして、親友だった翔太の、僕には理解出来なかった行動に付いての話だった。玲奈に付いては忘れた。

 僕は今、三十一歳になる。今日は十一月の穏やかな休日。二歳になる息子を膝の上であやしながら、妻の明日香がベランダで洗濯物を干しているのを、僕は穏やかな気持ちでただ眺めている。明日香に不満は無い。僕達は上手くやっている。ただ、翔太に付いて二人で話した事は無い。
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