史香と明日香

文字数 5,005文字

 一日が終わり、家に帰り着いたあたしは、大きいため息をつく。
 なんで幽霊のあたしのほうが、人間にビクビクしてるんだろう。
 疲れたからちょっと休憩……なんて思ってたのに、家に帰ってきたお姉ちゃんが、何やらゴソゴソやり始めたものだから、のんびりする暇もない。
 あたしの部屋から姿見を運び込み、自分の部屋のものと向かい合うように設置している。あたしたちは年も近いし、部屋の中におそろいのものがたくさんある。この姿見も色違いのおそろい。あたしのは淡いピンクでお姉ちゃんのは木目調。
 それにしても、これなに?
 お姉ちゃんは姿見の真ん中に立ち、腰に手を当てて右を見たり左を見たりしたあと、ウンウンと二回うなずいた。
 それから玄関の飾り戸棚の中から災害用の大きなキャンドルとライターを持ち出す。次はリビングから紫陽花の鉢植えを運んでくる。
 もう、何をしたいのかさっぱりわからない。
 あたしは向かい合わせの姿見中間に立ってみた。
 すると、ふわっと風が吹いてくるのを感じた。
 変なの。戸はしまっているのに。
 けどここに立っていると、何かひんやりとしたものが、鏡と鏡の間に流れているのを感じる。
 お姉ちゃんがなぜこんなことを急にはじめたのかはわからないけど、原因はきっと影山くんじゃないかと思う。
 お姉ちゃんは、鏡の設置を終えると満足そうに微笑んだ。
 あたしは胸がきゅうっとなる。
 どうしてそんな笑顔をするの? 影山くんと何を話したの? 何をしようとしてるの?
 だけどその後、お姉ちゃんは何事もなかったかのように、ご飯を食べお風呂に入って寝てしまう。
 なんだか拍子抜けしちゃった。
 ただ、影山くんと話した後、お姉ちゃんの表情が変わった気がする。
 それまではどこかおどおどと心配そうだったのに。

「学校に行ったら、元気が出たのね。良かったわ」

 お母さんが目尻を拭いながら言った。
 そうだよ。お姉ちゃんが元気になったなら、よかったじゃないか。あたしはもう心残りはないはずじゃないか。
 なのに……あたしの心はぜんぜん晴れないのだった。
 夜。
 しとしとしとしと。
 雨音だけが聞こえる。
 すうすうと眠るお姉ちゃんを、あたしは真上から見下ろしていた。 

 ピピピ・ピピピ・ピピピ・ピピピ!

 突然鳴り出した電子音にびっくりしていると、お姉ちゃんが目を覚ました。覆いかぶさるようにしていたあたしの身体を突き抜けて、ガバリと起き上がると、時計を確認し「よし!」とつぶやく。
 夜中の二時だ。

「やるよ、影山くん! それから××××××!」

 あ、またあたしの聞き取れない言葉。
 なんだろう。お姉ちゃんがその言葉を言う度に、世界がぐるぐると回るような気持ち悪さを覚えるのだ。きっとなにか大きな意味のある言葉なのだろうけど、どうしても聞き取ることができない。
 お姉ちゃんは橙色の小さい電気だけをつけて、ろうそくとライターを持って向かい合わせになった二枚の姿見の真ん中に立った。
 肩を上下させながら大きく深呼吸をすると、ろうそくに火をともす。

 何が始まるの?

 姿見の前にろうそくを置き、お姉ちゃんは瞬きもせずに鏡の中をのぞきこんだ。
 なにが見えるんだろう。お姉ちゃんの後ろから、あたしも鏡の中をへ視線を移す。

 うわ!

 覗いた鏡の中に、向かい合わせになった鏡が映っている。その中にまたこっちの鏡が映って、そこにまた……。エンドレス。鏡の迷宮が出来上がっている。
 引き込まれてしまいそう。
 それから不思議な事がおきた。お姉ちゃんの後ろに見えるはずのないあたしの姿が、映り込み始めたのだ。
 はじめはモヤのような人影として。そして、段々とはっきりとしていったその姿は、あたし、鷲尾明日香の姿ではなかった!
 鏡を覗き込むお姉ちゃんの後ろに、呆然と立つあたしは……。

「みつけた! ××××××(おねえちゃん)!」

 鏡の中には鷲尾史香が二人映っているのだ。 
 ふわふわの猫っ毛で、くりっとした二重の鷲尾明日香じゃなくて、黒髪のストレート、青白い頬をした鷲尾史香。
 鏡の中に映るのは、現実の史香と、幽霊の史香。
 同じ顔した史香が二人、鏡の越しに見つめ合っていた。

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 あたしは自分の叫び声を、どこか遠くで聞いた。

「影山くん! お姉ちゃんを捕まえて!」

 お姉ちゃんの声が聞こえた。どういうこと? 私は明日香でしょ?

 パニックに陥って、部屋から瞬間移動しようとしたあたしの手を、誰かがガッチリと掴んでいた。

「やだ! 離して!」
「落ち着いて!」

 影山くんの声がした。
 どうして影山くんがここにいるの?
 パニックの中で考えたけど、次の瞬間にはあたしの意識は、明日香が死んだ事故現場に飛んでいた。
 傘をさして登校するあたしたち姉妹がみえる。
 まっすぐ史香に向かって迫って行く乗用車。
 ここまではあたしの記憶と一緒。
 このまま時が進めば、史香が死んで、明日香は助かるはずだった。
 その時、明日香の手が史香の腕を掴んで、引っ張った。
 史香も明日香の腕を掴み、そして……。
 史香と明日香の身体の位置が入れ替わる。
 引っ張りあった力が、明日香を迫ってくる車の前に押し出し、史香の身体は歩道側へ――!

 ――いや! だめ!

 そう思ったあたしは、明日香ではなくて、史香だった。

 死んじゃだめ!

 強く思った。
 もどって明日香! あたしの身体をあげるから!

 ◇

「思い出したの? お姉ちゃん」 

 明日香の声が聞こえた。
 自分が史香だったことを思い出して、座り込んで泣いているあたしを心配そうに見下ろす明日香がいた。
 明日香も幽霊になってる。
 抜け殻になったあたしの身体は、ラグの上にころんと仰向けに転がっていた。

「明日香……」

 あたしが手を伸ばす。明日香も手を伸ばし、あたしたちは手を握り合うことができた! 

「明日香ぁ!」
「お姉ちゃん!」

 声を上げて泣くあたしの髪を、明日香の手が梳いてくれていた。

「悪いけど、あんまりゆっくりもしてられないんだ」

 突然無粋な声がかかった。

「あんたの身体をいつまでも空っぽにしておけないし。俺も依代があるとはいえ、そう長くここにとどまれない」

 影山くんの口調は極めて事務的。

「依代?」
「そうなの、あれ」

 明日香が机の上を指さした。
 そこには見たことのないハンカチがあった。

「昼休みに貸してもらったの。お姉ちゃんとあたしの魂をもとに戻す方法を、その時教えてもらったんだ」

「時間がない。いいか? 明日香はあの世へいく。ずいぶん史香の身体にとどまっちゃったから、迷うかも知れないけど、そこの紫陽花の精が助けてくれる」

 紫陽花の……精?

 ふと紫陽花の鉢植えに目をやると、そこにはふわふわの紫の服を被った可愛らしい子どもたちがいて、そこから薄っすらとした光が、天井に向かって伸びている。
 子どもたちが明日香に向かって手を伸ばしていた。

「お姉ちゃん! 身体を貸してくれてありがとう。学校で友達にも会えたし、お父さんとお母さんと一緒にごはんも食べられた! あたし、行くね!」

 明日香の身体が光を放ちはじめる。

「だめ! 行かないで!」

 思わず手をのばした。

「明日香が生きてたほうがみんな喜ぶよ! あたしより明日香のほうが生きてる価値があるの!」
「お姉ちゃん!」

 明日香の光る手が、あたしの頬を包んでいた。

「そんなこと言っちゃダメ! お姉ちゃんには生きてる価値がいっぱいあるよ。あたしのわがままいつも聞いてくれたじゃない。一つしか違わないのに、いつもあたしに好きな方を選ばせてくれてたじゃない。美羽ちゃんだって理子ちゃんだって、お姉ちゃんと話してみたかったって言ってたでしょう? お姉ちゃんのピアノ、みんなに聞かせてあげて。きっとみんな感動する」

 明日香の手が離れていく。

 お願い、置いて行かないで!

 薄紫色の子どもたちに手を引かれ、明日香が光の階段を登っていく。

「待って!」

 追いすがろうとするあたしを、影山くんの手が捕まえる。

鷲尾史香(わしおふみか)!」

 突然名前を呼ばれて「なに!?」って、影山くんを振り返った。
 ニヤリと笑った影山くんの顔が目の前にあった。

「返事をしたな。お前は史香だ。俺もまさかあんた自身が自分を明日香と思い込んでるとは最初のうち、気がついてなかったけどな。もう逃げられないぞ。さあ、自分自身にもどれ」

 影山くんの人差し指があたしの額をトン、と突いた。
 その途端、あたしはまるでのもすごい勢いで流れてくる大量の水に飲み込まれるように、声を上げる間もなく、自分の体の中へと流れ込んでいった。

「明日、必ず学校に来い。いつもより一時間早く家をでろよ」

 最後に聞こえたのは影山くんの声が、暗闇の中に消えていく。
 あたしの意識は、そこでとぎれた。

 ◇

 次の日、朝からだるそうにしているあたしを見て、お母さんはオロオロしながら「学校休んだら?」って言ったけど「ただの筋肉痛」と言いわけをした。

 ――そろそろ、梅雨明けですかね?

 テレビの中でアナウンサーと気象予報士が話をしている。

 ――この雨が上がれば、ずうっと晴れマークが続きます。ようやく梅雨明け宣言が出そうですね。

 玄関を開けると、もうすでに雨はやんでいた。
 良かった。とても傘をさしてなんて歩けない。だるくて、重くて、うまく体を動かせないのだ。
 影山くんに言われた通り、いつもより一時間早くに登校することにしてよかった。

 ガラガラガラッ。

 しんと静まる校舎に戸を開ける音が大きく響く。
 教室の奥。あたしの視線の先に、影山那緒が立っていた。

「結構早く着いたな。身体重いだろ? ずっと放ったらかしにしてるからだ」

 よろよろと影山くんに近づくと、あたしは力を振り絞って背筋を伸ばした。

「明日香を……返して……」

 言った途端に涙がこぼれた。

「明日香を……返してよ!」

 あたしは手にしていたハンカチを投げつけた。
 ハンカチ影山くんまで届くことなく床の上に落下する。

 ポトリ。

 ハンカチの隣に、水滴が落ちた。
 自分の体を支えていることさえつらくなって、その場にへたりこんでしまった。

「あんた、わがままな姉ちゃんだな」

 わがまま?
 そんなこと、言われたことない。
 妹思いの、面倒見の良い、大人しい、おねえちゃん。
 いつもそう言われていた。
 だからあたしは、自分をそういう人間だと思っていたんだけど?
 なのに、わがまま? 

「死んだ人間を返せだなんてさ」

 そう。あたし、わがままなんだ。
 言われてみて、初めて気がついたよ。

「あたし、明日香のことが……少し嫌いだった」

 開いた窓から風が吹き込み、カーテンの舞う音がした。
 見つめた床に、あたしと影山くんの影が一瞬濃くなり、そしてまた薄くなる。

「あの日、髪型が決まらないって……明日香がもたもたしていたから……遅刻しそうになって、あたしは腹を立ててたの。だから……差し出された腕をわざと強くひいた……!」

 最後に残った梅雨空を、風が強く払う。

「あたしに、生きてる価値なんてない……」

 いつの間にかしゃがみこんでいた影山くんが、あたしの頭をぽすぽすと叩いた。

「価値があるから生きてるわけじゃない」
「じゃあどうして生きてるの?」

 少しだけ上にある影山くんの顔を見上げた。

「知るかよ。でも自分の気持に気がつけて、良かったんじゃないの? だってあんた、分裂しかかってただろ? おまけにかなり霊体としての力を高めてたしさ。戻れなくなるとこだったぞ」

 影山くんの後ろの窓から、すごいスピードで飛んでいく雲が見えた。
 雲の切れ間からは青い空と太陽が、久しぶりに顔をのぞかせていた。

    

    
    

    

    

    
    

    
    
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