寒さが温かくなる時

文字数 879文字

 仕事が終わって外に出ると、すでに空は暗い紺色で、ビルや店から漏れ出す光が鮮やかに街路を照らしていた。私は歩きながら、自分の耳に冷たく鋭い風が刺さるのを感じ、マフラーの隙間から入り込む冷気に身震いした。マフラーをなおし、冬の空気を、わざと大きく鼻で吸い込む。こうすると、自分の体が空気と同化したようになって、寒さを感じなくなるような気がするのだ。
 赤信号の間、カバンから冷たくなったイヤホンを取り出して、耳にねじ込んだ。暖房の聞いた部屋で過ごしたまだ少し暖かい耳が、イヤホンを氷のように感じた。その日の朝にダウンロードしたばかりのクリスマスソングのプレイリストをランダム再生した。流れたのは、WHAM!のラストクリスマスだった。中学生の時に、ELTの先生(イギリス出身の小柄な女の先生だった)から、英語の授業のゲームで一位を取った景品にもらった、先生特選の曲がつまったカセットテープに入っていた曲だ。WHAM!が気に入った私は、さっそくレンタル屋に行って、ベストCDを借りて、MDに焼いた。数週間は毎日のように聞き、高校生になってからも思い出しては聞いた。だから、最初の一音でこの曲がラストクリスマスであることがわかった。
 ラストクリスマスを聞きながら、街路樹がまとったオレンジ色の光の粒々をぼんやりと見つめながら歩いた。街の景色が曲に乗って、スローモーションのように流れた。毎日見る帰路の景色がとても美しくて、特別な景色に見えた。オレンジ色の温かな光の下を行き交う人々が、映画のワンシーンのような雰囲気を醸し出していた。いつの間にか寒さを忘れていた。心の中に温かなものがねっとりとまろやかに混ざって、心地よかった。
 心地よさを感じながら、駅に着いた。駅内のまぶしいくらいの蛍光灯の光を浴びながら、現実に引き戻されたように感じ、ふと気づいた。今の私にとって、この曲は不釣り合いだと。ラストクリスマスなんて、私には無いのだ。彼と過ごすクリスマスなんて、これまでもこれからもないのだろう。その気づきから逃れるようにして、深く瞬きをしてまた曲に身を委ねた。
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