第1話 春のアレコレ

文字数 24,563文字

義一『えー…って事でですね、今日は”ラジオ・オーソドックス”第一回の放送だったというので、この辺で御開きとさせて頂きます』
アシスタント女性『はい!では来週からは、雑誌オーソドックスに集っていらっしゃる皆さんにもゲストに来て頂く予定になっていますので、よろしくお願いしまーす』
二人『では皆さん、良い一週間をお過ごしくださーい』

シーン…

カリ…カリ…カリ…

…ん?あ…
急に静かになったのでふと顔を上げると、モニターサイズに拡大していたブラウザ画面がスリープ状態になってしまっていた。
手慣れた調子でマウスを左右に振ると、スリープ状態が解けてホーム画面に戻った。
動画…と言っていいのだろう、画面下のシークバーが右端一杯に到達しており、再生が終わった事を示していた。
私は左上の”バツ印”をクリックし、ブラウザ自体を閉じて、それからパソコンの電源自体も落とした。
今日は三月の第四木曜日。夕方の自室にいる。
学園はもう春休みなので、平日だというのにこうして家でマッタリと過ごしている所だ。
因みに今何をしていたのかと言うと、義一がパーソナリティーを務めている…いや、厳密には”務めだした”ラジオ番組を聞いていたのだった。雑誌オーソドックスに出資してくれている、神谷さんの学生時代の一つ後輩だった、全国規模に展開しているビジネスホテルチェーンの創業者である西川敏文さんの提供の元で放送される、コマーシャルなどを入れると約一時間のAMラジオ番組だ。毎週土曜日の朝六時からという枠”らしい”。
これを初めて知らされた時、「義一さん、そんな休日の朝早くから、オーソドックスでやるような濃い内容の番組を流して…誰か聞く人いるの?」と思わずにやけつつツッコんでしまったが、「あはは。確かに実際どれ程の視聴者が聞いてくれるかは未知数な所ではあるんだけどねー」と、義一も自身の事だというのに、普段通りの様子で返してきたが、しかしその後でニヤッと笑いながら返してきた。
「ふふ…生ではね?」
…そう、ここでようやく、恐らく先ほどから幾つかある矛盾点の一つに答える事が出来る。
それは、何で毎週土曜日早朝に放送の番組のものを、今こうして木曜日の午後に聞いているのかという点だ。まぁこれは大した謎でも何でもない。
ただ単に、例の”右のネット放送局”の様に、ネット上にホームページを開設して、そこにアーカイブを載せていて、それを今こうして聞き”直して”いた所だったからだ。既に少なくとも三度は繰り返し聞いていた。
動画の形で載せており、その元の動画は二つに分けてあった。一つは全世界的に知名度の高い動画サイト、もう一つは国内では圧倒的な知名度がある、いわゆるサブカル系に強いと世間一般には言われているサイト、この二つのものだった。サブカル色強めの方は、コメントが画面上に流れるというので、一方よりもコメントが見易いものだった。
サブカルと今言ったが、裕美たちに聞くと皆が皆知っていたので、この見方も変わってきているらしい。まぁどちらにしろ、私自身は義一がこうしてラジオを開設するまでは、知ってはいたし全く見なくもなかったが、そこまで興味が無かったので、また裕美たちを引かせる事に成功した次第だった。
…コホン、まぁそれは置いといて、ここで話を変えて、もう一つの矛盾…と言うと大袈裟だが、まだ未だに触れていない点について話そうと思う。
…んー、これは正直話すのが私からしても恥ずかしいし、義一や他の皆にも誰にも話したことがない事なので、ついつい口ごもってしまうのだが…まぁ内容だけ言うと、今私は、義一のラジオを作業用BGMにしながら、せっせと日記…兼“詩”を書いていた。
…これは初めて話すだろう。なんせ…さっきも言ったが、我ながら”恥ずい”事だからだ。
では何故今それをわざわざ誰も聞いても無いのに自らバラしたのか…?
勿論話の流れ上、そのままスルーする訳にもいかなかったというのもあったが、それと同時に、日記と詩の量が大変なものになってきていて、後々の事も含めて触れざるを得なくなってしまったからだ。恥ずかしついでに開き直って、誰得とも思える話に触れようと思う。今まで本当に根気強く話を聞いてくださった方なら知っていると思うが、というのも例の”夢”についてだ。
あの夢を見だしてから、私は一度たりとも欠かさずに起きたその瞬間机に向かい、その夢の内容を書き綴ってきたのだが、自分で書きながら自分なりの感想をノートの余白に書いたりしていた。因みに今だに義一にこの事を話せずにいた。
さて、そうしていたのだが、段々と余白に収まりきらないほどに言葉が湧いてくる様になり、終いにはもう一つノートを作り、そこに感想を書き殴っていくようになっていった。
それがいつしか、夢を見ない時でも、何か思った事、普段生活している中で思った事、その事についての感想を書いておきたいという強い欲望が湧き上がってしまい、ある種日記という形式になるのは時間の問題だった。そして、日記という形にハッキリなりだした頃から、朝起きてからではなく夜寝る前の習慣になっていったのだった。まぁこの”書き癖”とでも言うのか、この癖自体は義一の影響が多大にあるのだろう。いや、間違いなく。義一の影響ですっかりメモ魔になってしまった私が、こうして何かにつけて書き付けてしまうのは仕方ない所だろう…と他人事の様に言ってみる。
さて、その流れではあるが…これが我ながら良く分からないのだが、その日記の一部が、今度は徐々に”詩”の形態を負うようになっていった。まぁ言い訳でもなんでもなく、浅はかな自己分析をすると、義一からはそれこそ数え切れない程の古今東西…いや、正確に言えば”今”は少なめではあったが、その時代時代を代表する詩人たちの作品を読み込んで行っていたので、自然と詩を紡ぎ出してしまったのだろう…とまぁ、これまた恥ずい自己解釈をしていた。
あー…コホン、まぁこの話は今はこの辺で止すとしよう。
なので結論を言うと、ふと頭に湧き上がった言葉、”詩”と大袈裟に言うのはこそばゆい事この上ないが、それを膨らましたりしつつ書きながら、義一のラジオを聞いてた、まぁそういう春休みの午後だった。
因みに今は詳しく触れられないが、義一と二人で番組を進行するもう一人のパーソナリティーの女性、彼女は百合子の後輩女優との事だった。言うまでもなく百合子に勧められたらしい。
しかし、これもいつまでレギュラーにするかは、彼女自身本業との兼ね合いもあって、毎週出れるとも限らないというので、次、キチンと毎週出演出来る人が見つかるまでの繋ぎ役だとの事だった。

…さぁ、大体の状況は説明出来たので、ここからは話の本筋に入っていくとしよう。

コンコン。
パソコンの電源を落とし、ノートを椅子に座ったまま両腕を大きく天井に向けて伸ばしていると、タイミングよく自室のドアがノックされた。
「はい」
と私が返事をすると、ガチャっとドアを開けて入ってきたのはお父さんだった。スーツ姿だ。
やはりというかなんというか、我が父ながら恐ろしい程にスーツ姿が似合っており、ビシッと決まっていた。誇らしく思えるほどに。
しかも今日のそのスーツの特に上着が、普段使いの物とは一味もふた味も違って見えた。”良い”代物らしい。別に私はこの手のモノには興味がトント無いのだが、それでもいつの間にか、馬鹿馬鹿しい言い方をすれば、この手に対する”審美眼”の様な物が備わってしまったらしい。一目で”良さげ”な事が分かった。
お父さんは部屋に入って来ようとはせず、
「琴音、そろそろ行くが準備は良いか?」
と、いつもの低く響く声色で話しかけてきたので、
「うん」
と返事をしながら私はゆっくりと立ち上がると、室内の等身大サイズの姿鏡の前まで行き、自分の姿を色んな方向からチェックした。
その鏡には、フォーマルな格好をした、来月には中学三年になる…様には思えない程の、自分で言うのも馬鹿らしく恥ずかしいが大人っぽい女が映っていた。
また性懲りも無く…と言うとお母さんに悪いが、また最近新たに買ってもらった、ノースリーブで黒のロングドレスを着ていた。トップスがレースデザインになっており、薄っすらと下の地肌が透けて見えて、その見え過ぎないのが程よい大人の色気を演出していた。まぁ…私がそんな色香を纏ったからって誰得とは思うけど。ロングスカートは、柔らかなシフォン素材で如何にも値が張る感を醸し出していた。
これは毎度の流れと化していたが、クルッとゆったりと周り
「どう?」
と悪戯っぽく笑いながらお父さんに話しかけると、
「んー…」とお父さんの方でも顎に手を当てつつジーッと全身を眺めていたが、フッと力の抜けた笑みを浮かべると
「あぁ、良いよ」と返すのだった。
「そ?良かった」
と私は生意気風に返すと、掛けていたハンガーから純白のボレロを取ると、それを羽織り、あらかじめ用意していた、今着ているドレスと一緒に合わせて買った、薔薇を模したミニバッグを手に持つと、それを確認したお父さんが無言で一階に降りて行ったので、私も部屋の電気などを消し、他に何か忘れ物が無いかを確認してから後を追った。

階段を降りた先が丁度玄関なのだが、そこには上がらないまま背筋を伸ばして立っている、これまたスーツ姿の男性が立っているのが見えた。
すっかり顔なじみになってしまった人だ。そう、お父さんの大学時代の後輩であり、お父さんの病院で内科医をしている竹下さんだ。
階段を降りつつすぐに姿を認めたのだが声を掛けずにいると、「あっ」と竹下は私の姿に気付くと笑顔を浮かべて声を漏らした。
「やぁ琴音ちゃん。今日もよろしくね?」
そう話しかけられた私は、お父さんの姿が見えないのには心を止めずに、いつも通り”仮面”を付けたまま笑顔で返した。
「はい、よろしくお願いします」
「うん、よろしくー。…んー」
と竹下はジロジロと興味深げに私の姿を見た後で、「今日も可愛いね!」と、これまたテンプレートなお世辞を言ってきたので、「ふふ、ありがとうございます」と、私は私ですっかり慣れた調子で返すのだった。
これは前々からではあるのだが、またこうして意識的に考えてみると、やはり義一や他の一部の皆から言われるよりも、竹下だとかその他大勢からお世辞を言われた時には、さほどのある種の恥ずかしさは無かった。やはり…世辞愛嬌を言ってくる本人達によるところが多大にあるのだろう。だから私は何の躊躇いもなく、こうして無感情に微笑むことが出来た。
「おいおい…」
と、ここで何処にいたのかお父さんが苦笑まじりに竹下に声を掛けた。尤も、冗談まじりに。
「ウチの娘に、父親の前で堂々と口説こうとするんじゃないぞ?」
とお父さんが隣に立ち、私の肩にそっと手を置きつつ言うと、「そんなぁ、滅相も無いですよ。ただ素直な感想を述べただけなんですから」と、竹下は竹下でおちゃらけつつ返していた。
その光景を、私は冷ややかな心持のまま、しかし微笑を湛えたままに眺めているのだった。
と、丁度その時、「お待たせしました」と声を掛けてきつつお母さんが居間から出てきた。その瞬間、「おぉ…」と竹下が私の背後に向かって声を漏らした。私も思わず振り返り見ると、実の娘である私ですら溜息をもらしそうになった。
お母さんは着物姿だった。フォーマル仕様だ。もやぼかしの地模様のある黒地に紫色→紺色→薄い藍色のグラデーションボカシが斜めに入れられ、その上には金、銀、白、紫などで、桜吹雪の様に細かい桜柄が描かれていた。三月という季節にはピッタシな柄だ。その柄にはこれまた金、銀のグリッターやラメが施されていて、微光である廊下の明かりの下ですら、その光を反射してあくまでも控えめに品良く輝いていた。
髪型も着物に合わせて纏めていた。
声を漏らした後、また竹下がアレコレとお母さんの姿を褒めちぎっていたが、丁度良いので何故お母さんがこんな余所行きの格好をしているのかを説明しようと思う。実は今日の”社交”は、以前に話したものとはまた違って、毎月に一度、それも木曜日という曜日に限って催されていた別の会で、これにはお母さんは、ここ数年からだが毎月参加をしていた。私はというと、木曜日という平日の事もあって、流石に毎回参加とはいかなかったが、それでも今日の様な長期の休みと合った時には参加させられていた。…その場には、私以外、ロクに同い年、同年代の子達がいないにも関わらずだ。
勿論、私の性格上、そんな無駄に華やかな場に行くというのは全く望むものでは無いのは事実なのだが、これも以前言ったように、これも良い機会だと、今の世の中で、不景気だなんだ言ってても何だかんだ羽振りも良く、それなりの人間たちが集まる場、それに、特に今日なんかは医者だけではなく、それ以外の業種、横の繋がりのある人種が来るのもあり、それらの人々を観察できるチャンスをむしろ利用しようと、まぁそんな打算的な考えの下で出席していたので、それなりに捻くれた見方で楽しんでいた。
一通りの挨拶が終わった後、竹下を含む四人で敷地内の空いている駐車スペースに停まっている一台の国産SUVに乗り込んだ。3列シート7人乗りだ。運転席には例の如く女性が座っていた。そう、これも恒例となっているが、竹下の元看護婦だという奥さんだ。今日も送ってくれるらしい。自分も出席するからだろう、竹下の奥さんもフォーマルな装いをしていていた。助手席には竹下、後部の前席にはお父さんとお母さん、若干狭めの最後部座席には私一人で座った。奥さん同士で互いの格好を褒めちぎったりなどの挨拶もそこそこに、竹下の奥さんが運転するSUVは、平日の帰宅ラッシュで混み合う幹線道路を軽やかに走り抜けて行った。
この日は以前に話した近所の料亭ではなく、新宿にあるホテルでの立食パーティだった。
…早速だが、このパーティでの話は端折ろうと思う。何せ、何の面白みも無い内容だからだ。
ホテル内の大きな会場の一つを貸し切って、東京都の東地区に位置する医者たちが集まっての情報交換会のようなものだ。
私が小学生の頃までは、そんな頻繁には出席していなかったお母さんも、その凜とした立ち居振る舞い、その容姿も相まって、すっかりこの社交の場の”顔”となっていた。それを証拠に、会場に入るなり、一斉に中に既にいた老若男女問わず出席者たちがこちらに振り向くと、次の瞬間にはお母さんの周りを取り囲んでいたからだ。私もこれに毎回巻き込まれていた。まぁ先ほどもそうだったが…然もありなんといった所だろう。見慣れているはずの私ですら、毎度毎度お母さんの着物姿を見ただけで見惚れてしまうのだから。
それはさておき、今言ったように私もお母さんに巻き込まれて、その出席者達はこっちにも色々と世辞を投げかけてくるのだった。あえて口にはしないが、大体想像された通りだと思う。
皆が集まったのを確認してか、それとも単純に時間になった為か、会の代表を務める初老の男性が壇上に上がり、何やら挨拶を述べていた。その流れで乾杯の音頭と共に食事会がなされるのだった。

「いやぁ、疲れた」
と、お父さんがネクタイを緩めつつ漏らした。
「本当ですね」と相槌を打つのは、これまた竹下と同じ境遇にある橋本だ。大げさに肩を落として見せている。
「ではまぁ、今回もアレを無事乗り切ったというので、お疲れ様の乾杯をしましょう」
と言う竹下の合図の元、私含む他の四人で乾杯をした。
…もうお気づきだろうが、ここは例の会場では無い。そう、ここはお父さん、そしてこの二人の顔馴染みの、地元駅近くにある寿司屋さんだ。
何故急にここにいる話になっているのか?
それは簡単だ。前述した通り、会場内では中身の無い世辞の言い合い、内容空疎な会話になっていない会話で溢れかえっていたので、これといって私から見ると特に触れるような内容が会の中では無かったのだが、会自体は二時間ほどで終わり、まだ八時にあるかならないかくらいだったので、男組と女組で別れて二次会を楽しむ流れとなったのだ。これも毎度の流れだ。
因みに、私はまだ子供枠なので、本来は男組にも女組にも入る余地は無いのだが、その自由さの為か、大体交互に行き来していた。前回は、お母さんについて行って、奥様方に混じって”女子トーク”をしていたのだが、今回は男組、とは言ってもいつもの面子に混じるだけなのだが、こうして寿司屋に来たという話だ。
相変わらずお父さんに対して腰を低くして見せている大将女将コンビは健在だった。お父さん達が来ただけで、今回も暖簾をしまってしまった。
そんな大将でも、初めて来た時もそうだったが、立食パーティー帰りだというのもあって、今回もただお酒と簡単なツマミを頼むだけのお父さんに対して愚痴を洩らしていた。それにはお父さんはまた平謝りをしていた。いつものってやつだ。
これはいつだかに聞いてもないのに教えて貰ったが、別に毎度いつもの”社交”の帰りにだけ寄ってる訳ではなく、普段から月に四、五度のペースで来ているらしい。
カウンター席に座り、普段通りというか、あの会場内とは変わらない中身の無い会話をべちゃくちゃとお父さん達がしているのを聞きつつ、たまに学園での話だとかを振られて、私は当たり障りない返しをしていた。
この時には出なかったが、今まで触れない中で去年の夏、私がピアノのコンクールの全国大会で準優勝したというのを、この橋本と竹下はお父さん伝いに知っており、確か九月だったと思うが、今みたいな機会の時に頻りに褒めてきていたのを覚えている。
その時に、いつだかの義一と絵里のように『いつかピアノを弾いてみせてよ』と言った言葉を投げかけられたが、その度に『まぁ機会があれば…』と無難に誤魔化すのだった。こう返す度にチラッと視界の隅に入るお父さんの表情に陰りが浮かぶのが見えていたが、いくら今だに私なりに”良い子ちゃん”を演じているとはいえ、こと芸に関する事での誤魔化しは無理に等しかった。一口に言えば、本心では本当は興味も関心も無いというのに、ただ場の空気のままに吐き出された社交辞令に対して、アヤフヤな、テキトーな態度を取る事は土台無理な話なのだった。
…また話が逸れてきたので、ここいらで軌道修正をしよう。
とまぁ、そんなこんなの雑談で盛り上がっていたのだが、ふと一つのインターバルに入った時、会話をキチンと聞いてる体を見せるために今までニコニコと笑顔を浮かべつつ、カウンターの中で新聞紙を広げて読んでいた大将が、ふと紙面の一部を私たちの方に見せてきたかと思うと、お父さんに話しかけた。
「…あ、そういえば先生?この人ってもしかして…アレですか?」
「ん?」
とお父さんは、ふと大将が紙面の中で指をさした先を顔を近付けて見た。
私を含む他の三人も一緒になって脇から覗き込んだのだが、その瞬間私は胸がキュッとなる感覚に襲われた。
何故なら…そもそも大将がこちらに向けてきた紙面は、いわゆる広告がメインになってるような所で、その時旬の作家達による新刊情報などが載っているのだが、その指先には…『望月義一』と、他のよりも殊更に大きく出ていた。その脇には、今度新たに義一が出した、江戸時代までの思想の流れの一つ、”古学”の学者、思想家達を紹介している『二十一世紀の新論』という本の題名も添えられていた。
私はしばらくその文字に目が釘付けになっていたのだが、ふと我に返って、顔は紙面に向けつつも、視線だけ恐る恐る隣に向けてみると、お父さんもジッとその字を眺めていたのだが、その表情は、なんと表現すべきか…ただただひたすらに静かで、その顔のどこを切り取っても感情が全く現れていないような、そんな無表情であった。その流れでチラッと他の二人を見ると、何だか気まずそうな、腫れたものに迂闊に触ってしまったかのような、そんな苦い…軽く笑みを浮かべながらもそんな表情を浮かべていた。
一口に言えば微妙な空気が流れていたのだが、それを察してるのか察していないのか、大将は一人呑気な調子を変えずに言葉を続けた。
「ここに出ている”望月”って人…最近たまに新聞の端で紹介されてるのを見るんですが、もしかして…先生の親類か何かですか?」
と大将が冗談めかして言うのを聞いた瞬間、見るからに他の二人がアタフタとし始めて、お父さんと大将を交互に見比べ始めた。私も二人ほどでは無かったが、感情の乱れを悟られまいと必死に落ち着きを払いつつ、しかしやはり同じように二人の顔を見比べていた。
お父さんは一口日本酒を飲むと、
「…なんで、大将はそう思ったんだ?」
淡々とした口調で返した。
すると、まだ空気が読めてないらしい大将は、今までずっとこちらに向けていた紙面を自分の方に戻して、そして改めるようにジッと見つつ返した。
「だって先生、この人の苗字、先生と同じ望月じゃないですか?だから、もしかしたら先生と関係がある…そう思っただけ…ですけど…」
と大将は、ここにきて、ようやく先程までの和気藹々とした空気が変化してるのに気づいたらしく、最後の方はカウンターの向こうの私たち四人の顔を眺め回しつつ、弱々しげに返していた。
口には出していなかったが、どうやら大将的には冗談のつもりだったらしい。望月という苗字自体は珍しくなくても、こうしてメディアで見ることは確かに珍しかった、そういうこともあってか、何も考えずに話を振ってみたのだろう。当然ここから読み解けるのは、大将自身、”望月義一”がお父さんの実の弟だというのを知らない事実と、言うまでもなく、その兄が弟を心の底から嫌悪していると言う事実だった。
大将が言い終えても、お父さんは無言で表情を変えないままにチビチビとお酒をやるのを見て、「た、大将…あのね、その望月さんって人は…」と、ようやくというか、まず普段からおちゃらけ具合の強い竹下が説明しようとしたその時、
こと…
とお父さんがお猪口を置いたかと思うと、ここにきてようやく表情を気持ち緩ませつつボソッと言った。
「…そう、大将の言う通り、そいつは俺に関係している奴だよ。ま、親類だな。何せ…俺の実の弟だからな」
「…え?へぇー…」
と、すっかり私たち…いや、お父さん以外の私たち三人の緊張が伝染してしまった大将は、その言葉を受けて、戸惑いを隠せないままに、また紙面に目を落としていた。
「せ、先生んとこの弟さんだとはねぇ…」
と独り言のように言うと、大将はまだ恐る恐るといった調子でゆっくりと顔を上げると、お父さんのご機嫌を伺うかのように少し無理くりな笑みを作りつつ上目遣いで続けた。
「せ、先生とはかれこれ長い付き合いになるけれど…先生にご兄弟がいるとは知らなかったもんで」
そう言われたお父さんは「あぁ、まぁね」と、これまた淡々としか言いようのない無表情な声音で返していた。
このようなやり取りを、私は黙って出された湯飲みに入った焙じ茶をチビチビと飲んでいた。
とその時、
「大将…」
とお父さんが不意に表情を和らげつつ口を開いた。
「ちょっと…その新聞を見せて貰っても良いかな…?」
と新聞に向けて指をさしつつ聞かれた大将は、「は、はい…」とまだどこか足元がはっきりしない調子であったが、それでも笑みを浮かべつつカウンター越しに手渡した。
「ありがとう」とお父さんが隣で受け取ったのを、私もなるべくそれ程には関心がない”演技”をしつつ、自分なりにバランスに気を配りながら、ほんの少し体を傾けて見た。
当たり前だが、先程見せられた時とは全く紙面の内容に変化が見られなかった。いつだかの週刊誌、そして前回の数奇屋でジャーナリストの島谷に見せて貰った雑誌とは違って、本当にただ単純な新刊の宣伝でしか無かった。
だが、この時またふとお父さんの横顔を見ると、また冷たいとしか言いようの無いような無表情で、そんな単純な広告に目を落としていた。
と、その時、我知らず不用意に眺め過ぎていたのだろう、私の視線に気づいたお父さんは不意にこちらに顔を向けてきた。
その顔は、やはりというか、ただただ冷たいという、横から見たときの変わらぬ印象だった。
お父さんの方がどんなつもりだったかは定かでは無かったが、私の方で言えば、変にここで視線を逸らすと、アレコレと今この場の事だけではなく、過去の今までのことまでもが明るみになってバレてしまうような気がして、なるべく変化がない方が良いだろうと、この時はその冷たい表情に負けまいと、何とか視線を合わせ続けた。
どれほどだろうか、実際は数秒といった所だろうが、体感的には何十分もそうしていたような心持ちでいたが、とここでフッとお父さんの表情に緩みが見えたかと思うと、お父さんは私から視線を外して、そして紙面に戻しつつ口を開いた。
「…ふーん、義一の奴…いつのまにこんな本を書いていたんだ…?」と独り言のように言っていたのだが、それを隣で聞いていた私は、何だか肩透かしを食らった気分だった。てっきりあからさまに嫌悪を面に打ち出しつつ、吐き出すように言うものと思っていたからだ。
あの例の記憶…。小学校二年生に上がる直前の春休みという、大人からしたらそれほど前には感じないのだろうが、こう見えてまだ中学二年の私からすると、今からもう、時期的にも丁度六年前の出来事という遠い過去の話ではあるのだが、それでも、あの法事の帰りの車の中でのやり取り、そして何よりも…義一に関してお父さんがお母さんに対して乱暴に怒鳴りつけるように言い放っていたあの晩…あの時に初めてお父さんの怒鳴り声を聞いたというのもあってか、思い出そうとしたら今だに鮮明に思い出せるあの記憶…それがずっと頭にあった私にとって、今のお父さんの態度に良くも悪くも違和感を覚えるのは当然だろう。
そんなお父さんの様子を、すっかり演技を忘れて自分でも分かるほどに目を丸くして呆気にとられていたのだが、ふとここでまたお父さんが不意に私に目を向けた。そこには普段通りの、表情の変化の少ない人ではあったが、ある種の温かみの見える薄っすらとした笑みが見えていた。
また少しの間見つめ合ったのだが、今回はそれ程には時間が経つのを長く感じる前に、お父さんが口を開いた。
「…琴音、お前は…ここに出ている義一、俺の弟の事…覚えているか?」
「…え?」
と私は思わず声が漏れるような”演技”をした。いつものお父さんに戻ったおかげか、私も普段通りの”演技”が出来るまでに本調子に戻っていた。しかし、自分でも分かるほどに声が掠れて聞こえたのが失点だったが。
それに気付いてるかどうかはともかく、お父さんから何か話が続く気配が無かったので、私は改めてお父さんの手元の新聞に目を落とし、思い出すフリをした。
それと同時に私の頭は別でフル回転をしていた。
一体どう答えたものか…。今の様な具体的な状況を想定していたわけでは無かったが、いつかはこの様な話を、お父さんとすることもあるだろう事は想像だけはしていた。…してはいたのだが、それは漠然としたもので、こんなに時期尚早に来るものだとまでは考えていなかった。ので、この想定外の事態に、今持てる力で対処する他になかった。
まぁ…、話を聞いておられる人からすれば、今更感があるかもしれない。色々とあるが、極め付けは、『こうして義一が論壇デビューと言っていい事をしだして、しかもデビュー早々、こうしてメディアにも大々的に取り上げられるほどになってしまったのだから、義一について、当事者がどうしようとも、今回の様に外野から横槍が入るのは目に見えてるじゃないか』と。
…まさしくその通り。一片の反論の余地も無い。
ここほんの二ヶ月余りの事で一気に物事が進んだためと言い訳を始めに置いておくが、その関係で本心は聞けていないが、おそらく今言った様な感想は、少なくとも絵里なんかは同じ様にもっているのだろう。もしかしたら私の知らないところで、義一と二人で話しているかも知れない。
…あ、こほん。いつもの様にまた話が逸れてしまったが、そんな事を想定してこなかった事を後悔しつつも、繰り返せば、私は思い出すフリをしつつ、どう答えたものか考えあぐねていると、「実は…」とここでお父さんがまた口を開いた。
「お前は覚えているかな…?実は琴音、お前がそうだなぁ…俺の親父の七回忌の時だから、今から六年前…その時に、こいつに会ってるんだよ…どうだ?」
「へ?」
と今度は我知らずに気の抜ける様な声を漏らしてしまった。まぁずっと今までそれを含めてどう返せば良いのかを考えていただけに、その核心に触れる事をお父さん自ら振ってきたというので、また気が動転してしまったのを誤魔化すがために、そんな声を漏らしてしまったのだろう。
しかし、それでもお父さん自らあの法事の事を触れてくれたお陰で、肩の荷が下りた心持ちになったのは事実だった。
私は悟られない様にゆっくりと鼻で一度深呼吸をしてから、何となく気持ち表情を緩めつつ答えた。
「…んー、覚えてる様な、覚えていない様な…。だって、私が小一か小二の頃でしょ?…流石にハッキリとは覚えてないわ」
と最後に苦笑を添えて言い終えると、また数瞬の間お父さんがジッと私の目を見つめてきたが、
「…そっか」
とすぐにまた力の抜けた笑みを零しつつ言うと、ふと私の背中に優しく手を添えて、今度はニヤケつつ続けた。
「流石のお前でも、そんな昔の事までは覚えてないんだな」
「ふふ、まぁね」
と私も何故か胸を張って見せつつ返した。
「流石の私ですらね」
と生意気百パーセントに付け加えると、今までそんな私達の会話を黙って聞いていた橋本が「あははは」と笑い声を上げた。
それを聞いたお父さんと私は、二人顔を見合わせると、今度はすぐに二人してどちらからともなく「ふふ」と笑い合うのだった。
そんな和やかな雰囲気が戻りつつあったその時、私とお父さんの会話の間席を立っていた竹下が、ふとカウンターの端で大将と女将さんに小声で話しているのが耳に入るのだった。
「大将たち…何も訊かずに聞いてくれ。今日は先輩の機嫌がまだ良かったのか何とかなったけれど…先輩の前で兄弟の話は勘弁してくれよ?あそこはまぁ…”色々”とあるんだからさ?」



三月の第四週。お父さん達との”社交”から二日後の土曜日。春休み。私と裕美はいつも通りにマンション前で待ち合わせをし、律たちの待つ、これまた代わり映えしない例の喫茶店を目指して電車に揺られていた。
春の麗らかな陽気、日差しのせいか、車内だというのに窓から差し込む陽の光が、小学校時代を彷彿とさせるほどに短く切られたツンツンの裕美の頭を際立たせていた。
そう。以前に軽く触れた様に、裕美は今年の五月に催される都大会へ力を普段以上に入れていて、折角ボブまで伸ばしかけていた髪をバッサリと切ってしまったのだった。流石の私でも勿体無いと口に出してみたが、「久々に短くしたら楽で良いよー」と呑気な言葉で返してきたのだった。
しかし…こうして二人並んでいる姿を、ちょうど今地下に電車が入った事もあって、目の前に映る二人の姿を眺めると、そんな頭してても服装はキチンと今時の可愛いらしい女の子の格好をしてるのが見えて、それを含めてまた私は一人、何となく懐かしい気分に浸るのだった。
喫茶店に着くと、この日はカウンターに学園OBの里美さんがいて、笑顔でもう他の三人が来ている事を知らせてくれた。
喫茶店の二階部分に上がると、その瞬間、紫と藤花に声をかけられた。二人とも笑顔だ。藤花の隣に座る律も、声は発していなかったが、それでも微笑を浮かべつつ胸の前で小さくこちらに手を振ってきていた。
紫たちの明るい声に合わせる様にして裕美が元気に返している間、私も胸の前で小さく律に手を振り返した。
私と裕美が席に着き、「久しぶりー」などといった定型文での言葉を交わしていると、里美さんが私たちの注文の品を持ってきてくれた。
それに皆そろってお礼を言い、それを笑顔で返して一階に戻って行く里美さんの後ろ姿を眺めてから、改めて恒例となった乾杯をするのだった。
と、ここで何故こうして皆して集まったのか、その理由を説明したいと思う。…まぁ尤も、別に友達が集まる、みんなで会うということに一々理由なんか無くても良いのだが、こうしてわざわざ取り上げる以上、一応理由のあるものだけをピックアップしているのだ。
…って、誰に向けての言い訳だか分からないが、そんな意味無いことはこの辺で止めるとしよう。
コホン。今日皆で集まったのは、この喫茶店のすぐ側にある、有名な御苑に行って、桜を眺めに行くためだった。
もう三月の終わりに近いこの時期、ニュースだとかでも頻りに桜の開花情報を流しているわけだが、それらをそれぞれ各人が各様にその情報に触れるにあたって、誰からともなしに桜見に行こうという話が湧き上がったのだ。
実はこの流れは、去年…そう、ちょうど一年前、中学一年から二年に上がるその間の時期に、今日の様に喫茶店に集まった時に出来た習慣…になりかけている事だった。
去年の時に集まった時は、それこそ何の意味もなく、皆が揃って暇してるなら会おうか程度の内容だったのだが、その時に雑談の中で誰が言い始めたのか覚えてないが、御苑が近いんだし、ニュースとかでよく桜の事で話題に上がるから、試しに行ってみようという事になったのだった。
その提案にすぐ皆そろって同意してからは、すぐに喫茶店を後にして、御苑前に行き、入場料を払い、そして中に入ってみた。
まぁ尤も、人で溢れていたというのもあって、何処かで腰を落ち着けて満開の桜を眺めるとまでは出来なかったが、広い園内を五人揃って足取りもゆっくりと、春の陽気の下で過ごすあののんびりとした時間は、とても楽しいひと時だった。話をここまで聞いてくださった方なら覚えておいでだろう…そう、去年のこの時期の私は、四月の頭からとうとうコンクールが始まる、その予選が控えているというのもあって、自分で思うよりもナーバスになっていた訳だったが、まだ裕美にすらその件について話していなかった中で、私一人、その桜を陽だまりの中で見たその経験は、大きなリラックス効果を生んでいたという事は付け加えさせて頂く。
まぁそれはともかく話を戻すと、その後での皆の話ぶりを見ると、それぞれがそれぞれの形で、私と同じ類の気持ちを持ったのは確かな様だった。
それをまた去年と同じこの時期を迎えるにあたって、また行ってみようという話が持ち上がったのだった。

皆で落ち合ってすぐに御苑に行くという選択肢もあったのだが、そんなセコセコとしなくても桜は逃げないと、まずは一旦腰を落ち着けて、いつもの様に近況報告という名の雑談を楽しむ事にした。
私が”珍しく”まず口火を切って、裕美の髪型について触れた。色々とそれについて思う事も合わせてだ。…正直、もう今の髪型に裕美は今年の初めには変えていたので、もう二、三ヶ月も経ち、ネタとしての鮮度も落ちていると皆して自覚しているはずなのだが、いつも…特に私の見た目に対してからかってくる裕美が、自分の事になると毎回違う態度で照れて見せるので、ついつい私だけではなく、紫、藤花、それに律までが、一緒になってツイツイ弄ってしまうのだった。まぁ…そういう事を口に出すタイプじゃない律ではあったが、裕美や他の二人が言う様に私と対応が似ているとするならば、恐らくここ一年近く、裕美たち”二組グループ”に二人揃ってからかわれ続けてきたので、そのお返しという気持ちもあったんじゃないかと思う今日この頃なのだった。
…何だか意味不明な事を言ってしまった気がするが、気を取り直して話を戻そう。
当然その裕美の髪型の話から、大会のある五月の話題に話が及んだのだが、可愛らしく照れて見せていた裕美が不意に、今度は私に矛先を変えるべく話を振ってきた。
「そういえば琴音…」
「え?」
と私が聞き返すと、私の隣、通路側に座っていた裕美は先程までの慌て具合が嘘の様に、どちらかというと真顔に近い表情をこちらに向けてきつつ口を開いた。
「やっぱり…今年のコンクールには、そのー…出ないの?」
「…」
…そう。もしも私の事について関心を持ってくれてた人がいるとしたら、その人はこう思ってくれていたのかも知れない。
『今年のコンクールには出場するのか?もしくは、どうするのか?』といった事だ。
んー…結論から言えば…この通り、少なくとも今年のコンクールは辞退する事を決めていた。
一応この件について、軽くだけ触れてみたいと思う。
去年のコンクールが終わってからの、私のピアノとの付き合いは少ししか触れていなかったが、その中でも言ったように、すっかりコンクール出場という、我知らずに重荷だったらしい事から解放されてからは、むしろ以前に増して師匠の所、勿論それだけではなく自宅での練習に勤しんでいた。それらは当然思い通りにいかない、上手く中々なれないもどかしさとの葛藤などなど、それらは全て苦しみを伴うことではあるのだが、その苦しみがあるからこそ、とても”楽しかった”。
なので去年の後半は、ずっとその楽しみの中で一心不乱に過ごしていて、師匠の本心はともかく、大袈裟ではなくすっかりつい前にコンクールに出場し、そして”運よく”全国で二位になれたその事実を忘却する程だった。
で、ふと…このコンクールにまた出るかどうかは、お母さんと師匠とで十二月に三人で食事を取ったその時、雑談風にお母さんから話が出たのが初めだった。
我ながら呑気なもので、食事を摂りつつハッとしたのだが、師匠の顔を覗くと、師匠は普段と変わらない、薄っすらと微笑みを浮かべているのみだった。
ただ、そのお母さんの言葉には何も返さずに、ジッと静かに私の顔を眺めてきたので、ここは自分の判断に任されているんだと直感した私は、この時初めてどうしようか考えたにも関わらず、妙な確信を持ってお母さんに辞退する旨を伝えたのだった。
まぁ…この確信は何処からくるのか、それ自体はとても単純な理屈を付けられる。というのも、コンクールに向けて練習をし始めた時期というのが、話を延々としてきたように、その前の年の十一月からだったのを途端に思い出していた点だ。
もうこの時は師走。しかも前回はあれほどの高い意気込みの元で自分なりにそれから努力をし続けて来れた訳だったが、繰り返しになるが先程述べたように、すっかりある種のしがらみから解放されて、己自身の芸を極めんとする日課に戻れた喜びに浸っていた私が、また雁字搦めのコンクールといった中に頭を切り替えて飛び込めて行けるか、その自信が全く無かったというのもある。
さて、私の答えを聞いて、お母さんは最初…というか暫くあからさまに驚いた表情を浮かべていたのを覚えている。まぁ確かに、前のコンクールで成績が振るわなかったのならともかく、初出場にして全国大会に出て二位を取れたとあれば、普通はまた出ると意気込むのが本当だと思うのは普通だろう。二位という順位も、それだけで自分で言うのも何だが立派だと思うが、それでもやはり一位になれなかったという”余地”が残されているので、まだテッペンを取っていないんだから挑戦する価値があると思うのも必然だろう。
因みにというか、何故お母さんがこんな話を振ったのか、そもそものキッカケがあった。というのも、この時期あたりだったと思うが、私とコンクールとは、銀賞を獲ったという以外には繋がりが無いはずなのだが、それでもあの事があってから毎月のように主催側が発刊している例の雑誌が届くようになっていた。
内容自体は、私と同い年くらいの子達、あそこで出会った他の出場者達がどう過ごしているのかが分かるといった点で、それなりに面白く読んでいたのだが、ついこの間に、その雑誌と一緒に、何とコンクール出場の招待券の様なものが付属されていたのだった。
何でも、コンクールで優秀な成績を収めた人には、来季のコンクールでは、予選からではなく本戦からの出場を認めるというのだ。
初めてお母さんと二人してコレを見た時に、お母さんが一人興奮したのは本当だったが、今十二月の食事の場で、私の答えに驚いた理由がその招待券に追加して書かれていた。
というのは、もしこの招待券を使わないで辞退したら、仮にその次の年にコンクールに出る気があっても、また予選からのスタートだと表示されていたのだ。この事があったので、尚更お母さんは間を空けずにまたコンクールに出て欲しかったのだろう。
これは当然純粋なお母さんの…いや、コレは自分で言うのは恥ずすぎるが、自分の娘の晴れ姿を、他の自分の友人たちにも見てもらいたいという、そんな考えもあっただろうが、それでもお母さんなりに私のことを考えての、話を戻せば驚きだったと思う。
私もそれを分かっていたので、理由を素直に説明しようとしたその時、ふとここでようやく師匠が微笑混じりに口を開いたのだった。
「…ふふ、そっか…琴音。ここ最近は一切コンクールの事について触れなかったけれど、あなたはそう考えていたのね?…うん、琴音、あなたがそうしたいなら、今度のコンクールは出なくて良いと思うわ」
「さ、沙恵さん…」
「ふふ、瑠美さん…。私も私なりに瑠美さんの気持ちは分かるつもりです。でもですね…?ふふ、コレが参考になるかどうか分かりませんが…何を隠そう、私自身も、コンクールで優勝した次の年は、出場を辞退しているんですよ」
「…え?あ、そうなんだ」
と私は、初めて聞く話のあまりに、師弟を忘れて思わず小学生時代の様な馴れ馴れしさマックスに聞き返した。
その態度には気を止める事なく、師匠はますます微笑みを強めつつ続けて言った。
「えぇ、そうなの。で…私は結局、その間二年くらいを置いて…私の場合は丁度そう、琴音、確かあなたと同じ中学二年になってから、またあのコンクールに出たの。…それは京子と一緒にね?」
そう言う師匠の笑顔が、またとびきりに可愛かった。
「他のコンクールには良く二人で出てたんだけどねぇ…順位はともかく、二人の間では勝ったり負けたりだったけど。…ふふ、だから瑠美さん?」
とここで師匠は、もう驚きの表情は引っ込んでいたお母さんに顔を向けて言葉を続けた。
「別に今回コンクールに出ないからって、何も気を病む事なんて無いですよ。あれ以外にも他にも沢山のコンクールがあるんですし、もし琴音が出たいとまた思いさえすれば、どこにだって出て、そしてまた活躍出来ます。…ふふ、だって…」
「え?」
と不意に師匠は私の背中に手を添えるので、一瞬ビクッとして声を漏らしてしまい、そして顔を向けると、師匠は優しげに目を細めつつ、口調も慈愛に満ちた調子で続けた。
「この子は私のたった一人の弟子である訳ですが、それとは関係なく…元からこれ程のポテンシャルを持ってるんですから。…ふふ、私以上のね」
「え!?あ、いや、そんな訳は…」
と、この時点ですっかりネット上に上がっている師匠の演奏動画は、ほぼほぼ全てと言って良いほどに見尽くしていた私は、その当人の口から予期せず聞かされた言葉に、反射的にアタフタとしてしまったが、それらを含めた私たち二人の姿を見ていたお母さんは、「あははは」と明るい笑い声を上げたかと思うと、「まぁ…瑠美さんがそこまで言ってくれるなら…」と言った後で、フッとお母さんはさっきの師匠の様な柔らかい笑みを浮かべつつ
「…ふふ、琴音、あなたがそう決めたのなら、私からは何ももう言わないわ」
と言ってくれたので、私も素直に「うん、ありがとう」と微笑みつつ返したのだった。
…これまた私の悪い癖で、ただの回想のつもりが長話になってしまったのだが、そんな話もあり、コンクールに出ないことは正式に決まったのだった。
それからしばらくして、このグループ内で誰からともなくコンクールの話に今年に入ってからされたのだが、その時点で出ない事は答えていた。裕美たちもお母さんの様に驚いて見せて、また残念がって見せたが、それ以降何度か今話した様な事を、裕美の水泳大会出場の件に伴って掻い摘んで説明するのが、最近の私たち仲良しグループ内でのトレンドとなっていた。ここでググッと話を喫茶店まで戻そう。
「…えぇ、まぁ今年はね」
と私が何でも無い調子で返すと、一口コーヒーをまた啜ってから、隣の裕美の肩に手をそっと添えてから、意地悪げに笑いつつ返した。
「裕美、そんな私なんかの事よりも、今は自分の事に集中してね?」
「そうそう」
とここで瞬時に藤花が合いの手を入れてくれたので、そのまた次の瞬間には皆して同調して、同じ様な言葉を裕美に投げつけるのだった。その度に裕美は、また照れ笑いを浮かべつつも対応し返していた。

「あはは。…あ、そういえばさ」
とそんな一つの話題に一区切りが済んだその時、ふと私の右隣、御苑の見える窓側に座っていた紫が、私に顔を向けつつ口を開いた。
「琴音、あなたのそのー…義一さん…だっけ?叔父さん、さ、いるでしょ?」
「え?…ふふ」
と私は、もうすっかり緩くなってしまったホット(?)コーヒーを一口飲んでから
「えぇ、もちろんいるわよ」とニヤケつつ返すと、紫もニコッと一度笑みを浮かべてから続けて言った。
「そのあなたの叔父さんさ…前に全国放送に出てたでしょ?…ふふ、まぁ私とか他のみんななんかはリアルタイムには見てなかったけど…聞きしに勝る、カッコいいイケメン」
「あはは」
紫の発言の直後、裕美含む皆して明るい笑い声を上げた。それを私は「あはは…」と一人呆れ笑いを漏らすのみだったが、それと同時に、義一が番組に出たその週の事を思い出していた。
…まぁ大したことでは無い。ただ単純に、裕美がその時言った様に、皆事後的にネットなり何なりで見て、今紫が言ったそのままの感想を述べてきた、それだけの事だ。
勿論、番組内での義一の発言などは一切話題にならなかった。
とまぁ、そんな事を思い出していたので、またその話題か…といった心境での呆れ笑いだった。
「やっぱりさ…?」
と、隣に座る紫が、まだからかいたい気持ちが残っているらしく、ニヤニヤ笑いながら言った。
「見た目というのは遺伝するんだねぇー…、あなたを含め、メッチャ美形家族じゃん。お母さんも美人だし、お父さんもチラッとしか見た事ないけれど、やっぱそうだしねー」
「確かにー」
「あのねぇ…」
と、これまた前回の様に、私という本人を目の前にして、何の多足にもならない、為にもならない話題で他の四人が盛り上がっていた。
それを私は相変わらず為す術もなく、ただ笑って見てる他になかったのだが、ここでふと紫が何かを思い出した様な顔つきを見せて口を開いた。
「あはは!…って、あ、そうだ!琴音、あなたのお父さんの話を出して思い出したわ。何もあなたの叔父さんの、その見た目についてアレコレ話したかったんじゃなくてね?えぇっと…」
とここで紫は不意に自分のスマホを取り出すと、「ちょっと待ってねぇ…」と独り言を漏らしつつ何やら操作をしていた。
そんな様子を私含む他の四人は黙って見守っていたが、「あった、あった」と明るいトーンで声を漏らしたかと思うと、紫は自分のスマホをテーブルの空いてるスペースに置いた。
紫は何も言わなかったが、言うまでもなく見て欲しいという意図が見えていたので、私たちも何も断りもなく、軽く腰を浮かせたりして前のめりに皆してその画面を覗き込んだ。
それはネット内の画像の一つの様で、見えているブラウザーの一番上には検索用の枠が設けられており、そこには『三月一五日 FTA 国会審議入り 画像』と打たれていた。紫がそう検索をかけたらしい。その打たれた通りに、おびただしい数の、ソレに沿った画像がズラッと下まで列挙されていた。画像の一つ一つの下に、小さく字が出ていたが、ソレを見た限りで、どうやら衆議院本会議での様子らしい。
私も、それにこれに関していえば義一も、いわゆる大枠での”政治”には興味があるが、こうした実務的な、具体的なミクロな事までは興味が及ばなかったので、画像を見ても何となくでしか分からなかった。
紫以外の他の四人は、数秒間黙ってそれを眺めていたが、いくら見ても見せられた意図が汲み取れずに、ほぼ同時に顔を上げて揃って視線を向けた。
すると紫は、心なしか得意そうな笑みを浮かべて、一度スマホを手に取ると、その中の一つの画像に一度タップし、そしてまたテーブルに戻した。
私たちがまた同じ様に覗き込むと、そこには一つの場面が画面一杯に表示されていた。
そこには一人の四、五十代であろう男性が演台を前に立っており、ズラッと並んで座っている国会議員に向かって何やら説明してる”風”だった。
この瞬間、紫が見せたかったのはこの男性なんだとすぐに察した私は、その画像を隈無く観察してみることにした。
…したのだが、この”謎”はほんの一瞬にして”解明”出来てしまった。
何故なら…この画像での男性の胸元あたりに、おそらく役職名なのだろう、何やら長ったらしい肩書が表示されていたのだが、そのまた下に…馴染み深いと言うと何だか違和感があるのだが、”どこかで”聞いたことのある名字が出ていたのだ。
そこには、”宮脇”と出ていた。
そう、この名字は…
「…ねぇ、紫?」
と、この時点で私と同時に皆も顔をまた上げたので、揃ってこの謎を解明したのだろうが、第一声を発した責任を取って、そのまま率先して、未だに得意げな笑みを浮かべている紫に声を掛けた。
「ん?なーに?」
と紫が惚ける風を見せてきたので、
「んー…」
と私も勿体ぶって声を漏らしつつ、スマホを手に取ると、画面を紫に向けながら、若干の意地悪げな笑みを浮かべつつ言った。
「私の記憶が正しければ…よ?普段下の名前でばかり呼んでいるから、正直アヤフヤなんだけれど…ここに出ているおじさん、もしかして…あなたと同じ名字の人なんじゃない?」
「…あはは」
と私の言葉を聞き終えると、ほんの一瞬場に沈黙が流れたかと思うと、今度は紫も揃って他の皆が笑みを零した。
「同じ名字って…」
とまだ口元がにやけっぱなしの紫は、目元だけ意地悪げに細めつつ返した。
「そんなに溜めに溜めて出た結論がそれなのー?」
「…ふふ、溜めに溜め出したのはそっちでしょ?」
と私も同じ目つきで、口元も同様に返したが、そのまま話を進めることにした。
「って事は、やっぱりこの人は…」
「そう、その人は…」
と紫は私からスマホを取り上げて、そしてそれを仕舞いながら続けて言った。
「私のお父さん」
「へぇー、やっぱりー」
と藤花が呑気な調子で相槌を打つと、その次の瞬間には他の皆も同じ様な感想を述べていた。
「これってテレビのスクショ?」
「うん、そうみたい」
「ふふ、そうみたいって」
「これって平日にやってるー…らしい、国会中継でしょ?」
「うん、そう…みたい?」
「…ふふ、紫ー?さっきから”みたい””みたい”って曖昧な…」
と私が”また”ツッコミを入れると、紫も何だか照れ臭げに笑みを浮かべつつ、ストローを軽く噛みながら答えた。
「だって…国会中継なんて見ないもん」
「あら、そうなんだ?」
と私はふと先程の画像を思い出しつつ返した。
「見てないんだね。だってさっきの画像…三月十五日って出てたから、その時って平日だけど、私たちってほら、試験休みだったでしょ?」
「あ、そうだねぇ」
「うん」
藤花と律が合いの手を入れる。
「だったらさ、てっきり実際見ていて、それをこうして見せてるんだと思ったよ」
「そりゃそうだねー…でもまぁ」
と裕美も紫と同じ様子を見せていたが、ふと顔だけチラッと私に向けた。その顔には思いっきりイタズラっぽい笑みが浮かんでいた。
「このメンツの中…っていうか、国会中継みたいな年寄りくさいのを、せっかくの休みに好き好んで見ようとする女子中学生なんて…ふふ、琴音、この世の中でアンタくらいしかいないでしょ」
「あははは」
「そうかもねぇ」
「うん」
と途端に皆して裕美に同意を示したので、「ちょ、ちょっとー…」と私はまた、さっきから変わらずにし続けている呆れ笑いを継続させつつ不満げを露わに示した。
そんな様子を見た他の四人はますます笑みを強めていったが、そんな中で、私も自然な笑みに戻しつつ返した。
「もーう…ふふ、でも流石の私…って、流石の意味が分からないけれど、そんな私ですら、国会中継なんか見ないよ。…興味ないもの」
「へぇー…琴音でも、興味ないものとかあるんだねぇー」
と藤花が途端に、言ってる内容には毒気があったが口調や表情は天真爛漫な笑みを浮かべて口を挟むと、「そうねぇ」と紫がまたニヤつきながら後に続いた。
「いわゆる…私たちみたいな女子校生が好きそうな流行以外にもね」
「もーう、からかうのもいい加減にしてよ?」
と私も負けまいとそう苦笑まじりに返すと、紫だけではなく他の三人も平謝りをしてきた。これも過去に何度も繰り返されてきた”いつもの”やつだ。
ただし…もう流石にこの流れが長く続き過ぎたと私は個人的に判断して、元の会話がなんだったか思い返しつつ聞くことにした。
「んー…で?紫…そんな国会なんか興味ないあなたが、何でこんな写真があるのを知ってるの?…って、なんか質問がおかしいかもだけど」
と私が聞くと、紫は何だか軽く恥ずかしげな表情を浮かべて見せると、間を置く事もなくそのまま口を開いた。
「え?んー…ふふ、まぁまず、今こうやって画像を見せたのは、ただ単に雑談の中での話題提供程度の考えだったんだけど…少し話していい?」
と聞いてきたので、私たち他の四人も間髪を入れずに「いいよ」と快く返した。
それを聞いた紫は「あはは、ありがとう」と明るく笑いながら返すと、そのまま続けた。
「何から話せば良いのかなぁ…まぁ私もよく分からないんだけどね?んー…私が初めて知ったのは、そう…期末試験が終わって、さっき琴音が軽く言ってくれたけど、画像では十五日ってなってたでしょ?その次の日くらいにね、お母さんに教えて貰ったの。『紫、今お父さんね、とても大変な仕事に携わってるんだけれど、ほら、ちょっと見てみてくれる?』って見せて貰ったのが、それだったの」
「さっきの画像ね?」
と私が相槌を打つと、紫は少し意味ありげな笑みを浮かべつつ返した。
「あ、いや、んー…さっきの画像はね、みんなに見てもらうためってんで、私が勝手に検索しただけで、その時にお母さんに見せて貰ったのは、実際にテレビで中継されていた物の録画だったの」
「へぇ」
「でね、まぁこっからが私自身よく分かってないんだけれど、ほら、私のお父さんってアレ、んー…あ、そうそう、経産省って所で役人をしてるでしょ?」
「うん、言ってたねー」
と藤花が呑気な調子で合いの手を入れた。
「そうそう、でね、そのお父さんの仕事場っていうのは、その字の如く、経済に関するアレコレをする役所らしいんだけれど、お母さんが言うには、ほら琴音、あなたなら分かるでしょ?」
「え?何が?」
と、この時点で何の話か読めていたのだが、敢えて惚けて見せると、そんな私の心中を知ってかしらずか、紫はまた意地悪げに笑いつつ続けた。
「ふふ、ほらー…あなたの叔父さん、そのおじさんが全国放送に出るキッカケになったアレよアレ。あの本」
「んー…あっ、アレねアレ」
と私も我ながらしつこめに、今気づいたかのように振る舞うと、紫はニターッと一度笑って、しかしそれに対しては何も触れずに先を続けた。
「そうそう。アレなんだっけ…自由貿易がどうたらかんたら…って、そんな細かいことはともかく、取り敢えずお母さんの話に戻ればね?何でもお父さんは今回のソレに深く関わってるらしくて、何だっけなぁ…えぇっと、所謂事務がたのナンバーツーだか何だからしくて、結構責任を持つ立場にいるらしいの」
「へぇ」
さっきの画像を見ただけで、今紫が説明した様な事はすぐに推測が出来たが、それでも実際に口にしてもらうと、尚更実感として伝わってきて、素直に興味深いと声を漏らすのだった。
すると紫は、そんな私の様子を、そしてその流れで、私と同じく静かに黙って話を聞いていた他の三人の顔を見渡すと、クシャッと一度照れ笑いを浮かべてから話を続けた。
「まぁー…何度も言うけど、私なんかこんな難しい話なんて一ミリも分からないから、これ以上何も話せないけれど、要はね、ほら…あなた達、一昨年と去年と、クリスマスの日に私の家に泊まりに来たじゃない?」
「うん」
「でさ、お母さんとは毎回会ってると思うけど、お父さんとはまだ一度も会ってないっしょ?まぁ、一々父親を友達に紹介する必要は、なんていうか…自然と鉢会うのならまだしも、それ目的ではする必要はないと思うけど…。でね、まぁ画像を今見せたのはその意味もあるしー…あとね、まぁ…確かに私のお父さん、年末も大分遅いくらいの時まで仕事をするのはザラだったけど、特にここ二年くらい、そう、今回のことで責任者がわに付いてから、余計に忙しくなっちゃってね…って、あれ?私、何が言いたかったんだっけ…?」
と紫は自分で話していて、軽く混乱しているように見えたが、フッと一度力を抜くように笑みを浮かべると、口調もハキハキと続けた。
「んー…ま、とりあえずね、どっかの誰かさんが自分の叔父さんがテレビに出たことを、何故か仰々しく変に真面目に伝えてきたからね、それで私も、自分の父親がテレビに、まぁ国会中継だけど何度か繰り返し出ていたから、それを今話した…ただそれだけです!」
ともう最後の方はただの勢い任せに言い切って見せたので、「何よそれー」と、誰からともなく私たち四人は顔を見合わせて声を漏らしつつも笑みを零した。
「どっかの誰かさんって誰のことよー?」と私が不満げを装いつつ声を掛けても、紫はただ一人ニヤニヤしてくるのみだった。この場にはまたにこやかな雰囲気が流れていた。
そんな中、雑談の中身は自然と紫の父親話に集中していたが、私は一人別の事に思いを巡らしていた。
そっか…紫のお父さん、今回のFTAに於ける責任者の一人なんだ…。何となく経産官僚だって聞いてたから、もしかしたら何かしら関わり合いがあるのかと思ってはいたけれど。ふーん…
と、他の三人とにこやかに会話する紫の横顔を眺めていた。と、この時、同時に今度は”何でちゃん”(そろそろ…って大分遅いかも知れないが、いい歳して”なんでちゃん”と全部平仮名なのもどうかと思っていたので、大人らしく(?)”何でちゃん”と漢字を取り入れてみる事にした。…ちゃん付けはそのままで)が起き上がってくるのを感じた。そう、私個人としては当然の疑問…『紫のお父さんは、そもそも今回のFTAについて、交渉当事者としてどう考えているのか、仕事だから言われた通りに遂行しなければならないとしても、本心としてはFTAについて賛成なのか反対なのか』それを是非とも、義一が深く関わってるだけに尚更聞いて見たくてウズウズし出していた。これは勿論、その娘である紫、紫自身が自分の父親が今頑張っている仕事の内容について、どう思っているのか、そこまでに及んでいた。
なので、それをすぐさま聞きたくて繰り返しになるが、皆に合わせて表面上はニコニコ笑顔を浮かべて話を合わせていたが、ウズウズは止むことが無かった。
が、しかし、”まだこの頃までの”私にはまだ一般的な自制心が働いており、本人も繰り返し『何も分からない』と口にしていただけに、今のこの場の空気を壊してまで聞き出そうという思いにまでは駆られなかった。…この時点ではだが。
それはともかく、予定よりも話し込んでしまったと、話にもいい区切りが付いたというんで、それぞれが各々自分のトレイを片付けて、帰り際にカウンター内で作業をしていた里美さんに挨拶をし、五人は仲良く揃って、若干オレンジがかった日差しの中、御苑を目指して足取り軽く行くのだった。
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