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文字数 5,048文字

足元がふわふわとして心地よい。
緩やかな風が肌を撫で、小さな庭に光が溢れている。
そして夢を見ているんだってわかった。何度も見ている夢だから。
わたしに向かって小さな女の子が走ってくる。ぶつかる寸前、女の子はわたしの体をすり抜けて向こう側に抜けていく。

「ママー! 見てこれ! 綺麗でしょ! 裏庭のお花で作った冠だよ!」
「あらあら。すごい。まるでどこかのお姫様みたいよ。とーっても可愛い」
いつの間にか現れた女性。地面に膝をつき、小さな女の子と視線を合わせてお話ししている。女の子と同じ、銀色の髪の女の人。
「えへへ〜すごいでしょ。オレンジのお花が可愛いの」
「そうね、お姫様。ほっぺもすべすべ」
「うふふ〜。わたしがおひめさまなら、ママは女王様だね」

ーーわたしの大事な大事な、お姫様。大好きよ。


そこで世界が暗転する。世界が切り替わる。


キッチンで働くママの後ろ姿を、小さな女の子が眺めている。星の光が降り積もった雪に映えて、白い光が窓を照らしている。
わたしは冷えた床をゆっくりと歩いて、女の子の隣の椅子に腰かける。
女の子はわたしに気づかない。キッチンで働く女の人も、わたしの方を見ることはない。

「ねえママ。パパって、いまどこに居るの?」
「そうね。あの人は今、いったいどこにいるのかしらね・・・貴女が生まれたばかりのころ、ここに来てくれたことを覚えているかしら?」
「そうなの? ぜんぜん知らないよ」
「そう。まだ小さかったから、無理もないわね。・・・貴方のパパは、渡り鳥みたいな人なのよ」
「わたりどり?」
「そう、街から街へと・・・。季節が移るごとに、南へ渡る鳥が渡り鳥よ。あのひとは、それにそっくり。ひとつの街にたどり着いたら、次の街へ・・・。なかなか、戻ってきてはくれないわね」
「ふーん。ママは、パパがいなくて寂しい?」
「・・・。ネージュ、貴方は、パパがいなくて寂しいかしらね?」
問いかけられた女の子は、鼻息あらく椅子の上に立ち上がった。
「んーん。ぜんぜん! アタシ、ママが居ればだいじょぶ!」
「ふふっ。強い子ね。そうね、ママも、ネージュが居れば大丈夫だわ」
「ねえママ。もしパパが戻ってきたらね」
「うん?」
「げんこつ一発で許してあげるの!」
「あらあら、パパはげんこつされちゃうの?」
「げんこつだよ! だってママを寂しがらせるんだから! でもずっと怒ってるとママがまた悲しがるから、一発だけで許してあげるの! だから・・・パパはきっと帰ってくるの」
「そう。ネージュは偉い子ね」女性は女の子のところに来て、頭を撫でる。「頼りになるわ。きっと、あの人に似たのね・・・。ありがとう・・・」
女の子は、鼻をふくらませて胸を張っている。

そこでまた、世界が暗転する。切り替わる。
この年は、いつもよりも寒い冬だった。部屋にいても凍えてしまう寒さ。

(いつもの夢、か)

わたしは目を瞑り、見える風景から背を向けた。もう何度も見た夢。
目は閉じることができても、耳は塞げない。
咳き込む音。すがって泣く声。かき消すような吹雪の音。
あの日の記憶が容赦なくわたしの心をかき乱して、過ぎ去っていく。
暖かなともし火をすべて握りつぶして、灰にして。



■□■



ずいぶんと芯の短くなった洋燈に火をともす。硝子(ギヤマン)のフードをかぶせると、大きなか影が部屋に浮かびあがる。俺は手近な椅子に腰掛けて少女の目覚めるのを待つ。
ベッドに寝かせた少女は、うなされるでもなく、今は眠るようにして胸を規則正しく上下させている。

手持ち無沙汰で、悪いとは思いながらも俺は部屋を見回す。窓ひとつ。ベッドひとつ。3脚椅子がひとつ。箪笥ひとつ。棚が2つ。こざっぱりしたささやかな部屋だ。

一階で気を失った少女を床に寝かせたままにするのも忍びなく、建物の二階を探すと少女の私室らしき部屋があったので、気を失った少女をここまで運んできたのだ。他にもいくつか部屋があったが、今も使っている様子があったのはこの部屋ひとつだけだった。つまり、この少女は独りでこの建物に住んでいるのだ。

すぐに目をさますかと思えば、予想に反して少女はそのまま眠り続け、もう陽が落ちてしまった。何しろ目の前で気を失ったのだ。頭などは打ってはいなかったと思うが、目を覚ますまでは心配・・・というか、自分の気持ちの座りが悪い。

それにしても・・・、と思う。

相棒だったバルネスに娘がいるというのは初耳だった。奴と組んだのは3年くらい。短くもないが長すぎもない、という期間だった。俺とあいつは戦闘やダンジョンの探索スタイルがうまく噛み合っていて、無口だったけれど気のいいあいつと一緒にいて俺は楽しかったし、あいつも若くて跳ねっ返り気味だった俺を受け入れてくれていたのも心地よかった。お互いに互いの過去や家族だのを詮索しない性格だったのも良かった。

だから遺書に、イグドラシルにある建物を俺に譲る、あったときは、これが恩返しになるのなら・・・と思って引き受けたのだ。借金付きだったので、ずいぶんと高い恩返しになったが。

けれど、今の状況をみれば、あいつが頼みたかったのは建物ではなくて、きっとーー。

物思いをそこで止めた。
小さな呻き声。一瞬だけ、少女が起きそう気配がした。だが、再び規則正しい寝息が聞こえてきた。しかし、見ると、少女の長いまつげのまなじりから、一筋の涙が流れていた。数瞬迷ったのち、俺は手巾を取り出すと、そっと彼女の涙をぬぐった。

涙のあとに沿うように手巾を動かし、まなじりに溜まった涙は布に吸わせるように、とん、とん、と、できる限り優しく動かす。
だが、結局それで、それで、彼女も起こしてしまったらしい。
「パパ・・・?」
薄く翠の目を開けた少女は、視線だけでゆっくりと周囲を見渡す。まだ意識がはっきりしていないらしい。

わたし・・・泣いてた・・・? 隣に誰か・・・ああ。
かすかな呟きは、自分に向けて言っているようだった。そして俺へと軽く視線を向けて、かすかなため息をつくように、
「アンタ・・・まだ居たの」
「気がついたか。すまなかった。刺激の強い話をしてしまって・・・」
少女は無言でかぶりを振った。
「いいの・・・きっと必要なことだから、話してくれたんでしょ・・・?」

枕から送られてくる視線はとても静かで、何も誤魔化すことなどできそうもなかった。俺は頷く。次に喉から出てきた声は、かすれていた。
「話にはまだ続きがあって・・・」
言いながら躊躇したが、少女は先を促すように小さく頷いた。俺は覚悟を決めた。

「君のパパ・・・バルネスは冒険先で亡くなったんだ。火山ダンジョンで炎の精霊との戦闘で・・・。戦いには勝ったけど、足場を崩壊させられて。アイツは、溶岩に落ちて、飲まれた。・・・ほんの一瞬の出来事で、助ける間もなかった。
遺体も、形見めいたものも・・・残らなかった」
「・・・そう」

「冒険者は、所属している冒険者ギルドに正式な遺言状を残せるんだ。ダンジョンから戻って、俺は遺言状を確認した。その遺言状に、『最も信頼のおける友人たるディルクに』つまり俺にーー『家を任せる』と。
さっき見せた、建物の権利証と、俺のサインだけが入っていない契約書も同封されていた。
でも、そこまでしても、あいつ、君のパパは、自分が死ぬとは思えなかったんだろうな。ずいぶんとくどくどと、これは念の為だ、もちろん死ぬつもりはない、とか書いてあったよ」

こんな話し方で良かったのだろうか。喉に言葉が張り付くようで、上手に話せた気はまるでしない。少女の反応に期待するが、笑うでも泣くでもなく、翠の瞳は天井の一点を静かに見つめて動かない。
「なあ君・・・」
それでも何か声をかけねばと思い、声をかけると、突然にいらえがあった。

「ネージュよ」
「え?」
「わたしの名前、ネージュって言うの」

それを言うと、少女は寝返りをうった。仰向けから、横向きに。だがこちらに正面を向けるのではなく、背中を向けた。拒絶されたのかと思ったが、そうではなかったらしい。彼女ーーネージュは背中を向けたまま話し始めた。
「わたしはここで生まれて、それからずっと14年間、ママとふたりで暮らしてきた。パパは・・・わたしが小さいころに会ったことがあるらしいけれど、物心ついてからは会ったことがないから、正直いうと、それほど思い入れが、っていうか、そもそも実感ないっていうか、なんというか・・・」

銀色の後ろ頭が、淡々と言葉をつむいでいく。

「でもママが2年前に死んで、お葬式を済ませてから、ずっとわたしは独りで生きてきたの。けれど、我慢できた。ママが、パパがいつか帰ってくるって言っていたから。本気で信じていたわけじゃなかったけど、でもいつかパパが帰ってきて、一緒に暮らすんだ、それまで頑張ればいいんだ、って・・・」
「・・・・・・」

「ばかみたいだね・・・。そんなこと、信じる価値なんて無いってわかるのに・・・でも・・・わたし、ママの言葉を、心の支えにしてたんだ・・・」
ぐす、と鼻をすする音。
「わたし・・・ほんとうに・・・ほんとうに、ひとりぼっちになっちゃったんだ・・・」

細い肩が小刻みに震えた。その肩に手をおこうとしてーーやめた。簡単にわかったふりをすることが、そうやって同情することが、この少女の誇りを傷つけてしまうような気がしたからだ。

ではどうすればいいかーー。
しばらくためらったのち、俺は先程からずっと頭の中にあったひとつの考えを口にすることにした。

「ネージュ・・・だったね。今日は、一日ずいぶんいろいろなことが立て続けにあって、驚くことばかりだと思う。契約上は、この家は俺のものになってる。しかし、でもずっとここで暮らしてきたのはネージュだし、その・・・」

一緒に、暮らさないか?

ネージュはこれまでとは逆方向に、つまりこちら側に大きく寝返りをうった。翡翠の目が大きく見開かれている。何か言ってくれればいいのに、ネージュは俺を凝視したままだ。

うわ、なんかはずい。ものすごく恥ずいことを言ってしまった気がする。

「い、いや、変な意味じゃないぞ? さっき見て回ったが、この建物はずいぶんと大きいし、ふたりで暮らすのも広すぎるぐらいだし、そう、寮みたいに、同居しても問題ないんじゃないかって・・・」
「出会ったばっかりの女の子に、一緒に住もうだなんて・・・ディルク、あなたって、とりあえず変態なの?」
「ち、違う!」

一番されたくない解釈に、思わず大きな声が出る。
違う。断じて違うぞ。もっとこう、保護者的な気持ちでだな・・・。
いやその前にとりあえず変態って何だ。

どうやったら俺の純粋な気持ちが伝えられるか、一世一代の大挑戦をしようと、何を言おうか考えていたところで、ネージュがくすりと咲う。
「わかった。いーよ」
「え?」
「居候としてなら、置いてあげてもいい。あ! 料理番兼任でね」

俺は、ぽかんと口をあけた。
こんなにあっさり。それに、俺は家主のはず。しかし居候とはこれいかに。解せぬ。解せぬが・・・。

「まあ」俺は妥協することにした。それはきっと大事な一歩だ。「最初はそれで手を打とう。だが最初に言っておくが、俺が目指しているのは、保護者ポジションだからな」
言いながら、右手を差し出す。
「なにそれ?」
銀髪の少女は、寝台の上で器用に小首をかしげる。
「これからよろしく、の握手だ。ーー始まりには、必要だろ?」
「ん、なるほど」

言いながら差し出してきた白い小さな手を、俺は握った。暖かく、柔らかかった。

「あっ、もう外、暗いじゃん! 何刻倒れてたわけ?」
握手のあと、ネージュが寝台から跳ね起きてきた。
「たしか・・・2刻くらいかな・・・」
「お腹減った! 料理番、頼んだわよ!」

さっきまで泣いていた娘が、もう笑っている。
けっこう現金な娘だな。見た目は楚々としたお嬢様然としているのに。

「なんか言った?」
まったく口に出していないのだが、心を読んだようなことを言う。どうやら鋭い娘さんらしい。
「いーや。何も? じゃあ今日の夕食は、手持ちの材料を全部使うとしますかね!」
俺は勢いをつけて、丸椅子から立ち上がった。
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