十四 愛妻の小夜

文字数 1,455文字

「石田さん。ありがとうございました」
 幸右衛門は畏まって石田に礼を言った。
「義父上。堅苦しい事は抜きですよ。
 川口さん。本木さん。ありがとうございました。二人が居たので助かりました。
 さあ、皆さん。夕餉の刻限です。見世に戻りましょう」
 石田は、日野道場に使いに行った川口に礼を言い、川口と本木を二人が警護している見世に帰して、幸右衛門と奉公人たちを石田屋に入らせた。


 石田が石田屋に入ると、広い取り次ぎの間に義母の美代と奉公人たちが居た。
「旦那様っ、みつなりぃぃっ」
 義父と共に草履を脱いで式台から上り框を上がると、廊下で待っていた小夜が走って石田に飛びつき抱きついた。
「怪我はないんだねっ」
 石田の顔を見上げている。
「何もないですよ」
「よかったあ。みつなりに何かあったら、産まれてくる子どもに合わせる顔がありませぬ」
「子ができたのかっ」
「これからですよ。ねえ、早く夕餉を食べて、ねっ・・・」
「はい、その前に、厠へ行って、それから、顔を洗って手を洗ってきます。この手では小夜を抱きしめられぬ故・・・」
 石田は小夜に手を見せた。じっとり汗ばんだ手だった。吉田一郎太を相手に酷く緊張していた・・・。
「早く行って来てね。夕餉を運んで、部屋に居るね」
 小夜は笑顔で石田を見上げた。
「わかりました」
 石田は、廊下を小夜の部屋とは反対方向にある、厠と流しへ急いだ。


 小夜は、先ほど店の前の通りで行なわれた石田と浪人の立ち合いを、見世の格子戸から見ていた。小夜には、石田が緊張しているようには見えなかった。いつもと変わらぬ穏やかな石田が通りに立ち、その石田を、まだ刀を抜かぬものの、浪人が凄まじい形相で斬ろうとしているのが小夜はわかった。
 そして浪人が刀を抜こうと刀の柄を握った瞬間、石田の両腕が動いて、浪人の手が柄から離れていた。石田の動きは一瞬だった。その時の石田の動きを小夜ははっきり目に焼きつけていた。郷士の娘の小夜は、多少なりとも剣術の心得がある。
 みつなりは浪人の動きの先を読んでいた・・・。これが父の話していた先の先(せんのせん)だ・・・。あたしの旦那様は凄い人なんだ・・・。

「石田さんは居合いの達人。奢りのない、りっぱな人です・・・」
 厠と流しへ急ぐ石田の後ろ姿を見ている小夜に、幸右衛門がそう言った。
「はあい。良き旦那様です。夕餉を運びます」
「あ、そうしておくれ」
「はあい」 
 みつなりも良き義父上と義母上を得ました、と話そうと思ったが小夜は話さず、いそいそと夕餉の膳を小夜の部屋へ運び、取り次ぎの間に戻った。


 石田が厠と流しから取り次ぎの間に戻った。
「では、義父上、義母上、部屋に戻ります」
 石田は義父と義母に挨拶し、小夜の手を引いて部屋へ向かった。

 部屋に入り、二人並んで炬燵に入ると小夜が石田に寄り添った。
「あたし、心配だったんだぞ」
「心配をかけて済みませぬ」
「相手の殺気、凄かった・・・。みつなりの殺気、まったく無かった・・・」
「気ばかり先走っては、何事も旨くはゆきませぬ。
 気は丹田に溜めるものです」
 石田は臍下の腹部をぽんと叩いた。
「あたしへの思いも、そこに溜っていますか」
「はい、溜っていますよ」
「あたしにも、先の先を使いますか」
「先の先をよく知っていましたね。父上からの伝授ですか」
「剣は父からです。こちらは、みつなりからですよ」
 小夜は笑顔でそっと腹部に手を当てた。
「そうですね・・・」
 石田は小夜を抱きしめた。
「・・・さあ、夕餉にしましよう」
「はあい、旦那様」
 小夜は笑顔で茶碗に飯をよそった。

(了)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み