最終話 ヒロキ

文字数 2,251文字

 新キャラが好評の私は色々なテレビ番組に出演させてもらえるようにあり、最近は週に三時間しか眠れないような日々が続いていた。今日は三ヵ月ぶりの休日だったのでしつこく布団の中でうとうとしていると、枕元の携帯電話が鳴った。

 結局、あれから殿居くんとは連絡が完全に途絶えた。病院で私に告白してくれた香椎の気持ちにも応えられなかった。だからそんな私にはお笑いしかないと思った。いや、昔からこの仕事こそが私の生きる道だったはずだ。

「亜紀、電話! 電話! 電話だよ!」

 いつまでも出ないでいると、ヒロキが騒いで私を起こそうとした。

「言われなくても分かってるよ……」

「だったら早く出なよ!」

 ヒロキがあまりにうるさいので、私は仕方なく電話に出た。

「もしもし……」

「どうも……あれからお元気でしたか?」

 受話器から聞こえてきたのは、ずっと聞きたかった殿居くんの優しい声だった。

「ありがとう亜紀、電話に出てくれて」

 ヒロキはほっとした様子でそう呟くと、そのまま天井に姿を消した。


 私はその電話がきっかけで、久しぶりに殿居くんと会うことになった。

 待ち合わせは前にすれ違った喫茶店。仲間芸人に「こっそり会うのにいいよ」と勧められた場所で、お店にはマスター以外に店員はいなかった。

「香椎さんが姉さんに振られたって言ってました。本当ですか?」

 私が頷くと殿居くんはほっとした表情を見せたけど、すぐに神妙な顔つきになった。

「でもこれではっきりした。姉さんと距離を置いたのは間違いだった」

 彼はそう告げてテーブルに置いていた私の手を握った。殿居くんは年下だけど、その手はとても大きくて温かくて、私の小さな手をしっかりと包み込んでいた。

 そこに一皿のサンドイッチを運ばれてきて、マスターが「これはお店からのサービスです」と言って差し出した。それは二枚のトーストの間にローストチキンとパストラミ、そしてトマトやみずみずしいレタスがふんだんにサンドされた贅沢な品だった。そこですっかりお腹が空いていたことを忘れていた私たちは、マスターの心遣いに感謝しながら、二人でそのサンドイッチを頂くことにした。



 この日を境に、私たちは正式な形で付き合い始めた。事務所にも交際を報告して、二人の関係は公式のものとなった。すぐに週刊誌が嗅ぎつけたけど世間の声は比較的応援ムードで、仕事の風向きが変わることなく、トノ&カシンも私も順風満帆に仕事を増やしていった。お互い寝る暇もないほど忙しかったけど、公私ともにすべてが順調といえた。

 やがて私たちは、大々的に記者会見を開いて、結婚の報告を行うことになった。そこには殿居くんの相方である香椎の姿もあった。彼は公私ともに私たちを応援してくれた。私はこの先、彼に足を向けて眠ることは一生ないだろうと思った。

 一方、所属事務所は早くも私と殿居くんのコラボを検討中で、今日も会議室では夫婦漫才と銘打った新コンビ結成企画が検討されていた。利用できるものはなんでも笑いにかえる。それが私たちの業界だった。

「はぁ……今日は大変だったよ」

 仕事が片付いて家に着いた私は、さっそくヒロキに愚痴をこぼした。

 彼はいつもどおりに話を聞いてくれたけど、こちらの気が済むと一呼吸置いてから、「ちょっと話があるんだけど」と口を開いた。

「じつは今日でお別れなんだ」

「お別れって、どういうこと?」

 言っている意味が理解できずに聞き返す。

「もうここにはいられないんだ。今までここに置いてくれてありがとう。楽しかったよ」

 いつもの冗談かと思ったけど、ヒロキはその後も「なんちゃってね」とネタばらしをすることはなかった。

「ちょっと待ってよ。だったらこれから私の愚痴は誰が聞いてくれるの? 誰が落ち込んだ私を慰めてくれるのよ! っていうか……こんなのってさみし過ぎるじゃん!」

 私が耳を真っ赤にして訴えると、ヒロキは寂しそうに微笑んだ。

「大丈夫だよ。だってこの先は殿居さんが一緒だろ?」

 話しているそばからヒロキの身体が光に包まれ、ゆっくりとその体が透け始めていた。映画とかで見たことがあるお別れのシーン。認めたくなんかないけど、本当にその時がやってきたのだと、私は唇を噛みしめたまま理解した。

「もう会えないなんて……そんなの嫌だよ……」

 ヒロキは妄想の産物かもしれないのに、私はボロボロと涙を流していた。

「大丈夫、また会えるさ」

「……え?」

「だってあの時、彼の電話に出てくれただろ。それでオレの目的は達成されたんだ」

 その言葉を最後に淡い光の粒が線香花火のように細かくはじけ、ヒロキの身体は私の目の前で完全に消滅した。

 それからどんなに名前を呼んでも、ヒロキが再び現れることはなかった。だから私は叱られた子どものように布団に潜り込み、一晩中泣き明かした。



 あれから三年の月日が流れ……

 産休に入った私の元に殿居くんが来て、和紙の便箋を見せた。

「子どもの名前を考えた。見てよ、ちゃんと墨で書いたんだ」

 そこには「八喜」と書かれていた。

「えっと……なんて読むの?」

「すゑひろがりに喜ぶで、ヒロキだ」

 その時に私は気づいたんだ。

「じゃああなたの中では、もう男の子だって決まっているのね」

「たしかに言われてみればそうだな。あれ、でもなんでだろう?」

 彼はそう言って首を捻ったけど、私はその理由を知っていた。

「それはね……」

 私と殿居くんを結び付けてくれたヒロキはこれから生まれてくる。

 彼と再会できる日を楽しみに、私は自分のお腹に優しく手を当てた。

おわり
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