2. ひそひそ

文字数 848文字

 鎌野藍と親友になったとき、わたしは26歳だった。4年前に就職で大阪にやってきて不動産管理会社に入った。総合職の女性はわたしともう一人だけ。周りは50代以上の事務職の女性と男性しかいなかった。会社に入って3年が経った頃、わたしは青葉くんと交際していた。同じ部署でよく仕事を教えてくれた人だった。交際は順調だったけれど、あるとき周りの事務職の女性たちがひそひそしていることに気づいた。ひそひそ…ひそひそ…。それはたぶん、会社内でそういうのはどうなんだとか、こんな忙しい時期にどこそこに旅行に行くだとか、結婚も近いだとか、あることないこと吹聴してるということだと別に直接聞いたわけでもないけれど、それとなく分かった。

 付き合ってから一年経った頃、青葉くんはやる気がなくなってしまった。寝ること、食べること、話すこと、本を読むこと。生きることへのやる気がなくなってしまった。仕事のことが原因だった。彼は何でも一人で背負い込む人で、わたしには断片的な情報と抽象的な悩みしか話さなかったから、決定的に何が原因でそうなったのかは詳しく説明できない。彼が休職期間に入ったころ、事務職員のひそひそは極めて明瞭な声という形態に変化していた。声。もう別れたほうがいい、声。いやこういうときこそ女性が支えるべき、声。彼女が原因らしい、声。たいした仕事もしてなかったのに、あんなやつ辞めてどこに行っても使い物にならない、それは声。何事もなく普段の仕事に戻る彼の仕事仲間、代わりを見つけるのに必死な上司、ハラスメントがあったかどうかにしか興味がない役員、なんも知らんくせに声ばっかでかいお菓子配りしか仕事がない死にかけの老女。その人たちを前にしてわたしは死にたいと思った。死ねばいいのにじゃなくて死にたいと思った。
「えっそれ間違いじゃないの」ってわたしは内線でわたしに確認してきたけど間違いじゃないと丁寧に説明した。わたしは彼と同じになった。「不肖、とっきんし忘れる」を読んだのはわたしのやる気がなくなった日のことだった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み