1. 挿絵のない本

文字数 1,099文字

 鎌野藍に出会うまで挿絵もせりふもない本なんて何が面白いのか分からなかった。寝ること以外何をしていいのか見当もつかないような日には、全国の書店員が選んだ本を読んでみるのだけれど、ニ、三頁読んだところで「これはわたしとは関係ないかな」ってぽんっと本を閉じて、ベッドにごろんごろんしながら、若い男の子が4人ぐらい集まってゲームしてきゃっきゃっしてる動画をながめる日常に戻る。その男の子たちがわたしの実人生にどう関係しているのかは同じように分からないはずなのに。不思議。不思議。

 鎌野藍という生涯ただ一人の親友と出会ったのは古書店の文庫本コーナーだった。手に取ったのは「不肖、とっきんし忘れる」だ。後に分かったことだが、同書は彼女が最初に出したエッセイ集であり、作家としてデビューする前に書き綴ったブログを加筆修正した本だ。その奇抜というかどうかしてるタイトルは、わたしをレジへと向かわせた。隣を見やると、どうせ買っても最後まで読まないんだろうなという気持ちがうつむいてぶつぶつ云っていた。

 家に帰って、しばらくたって、「不肖、とっきんし忘れる」を読んだ。引越し業者が机のネジを紛失して会社まで乗り込んだこと、そして小さな子供に憧れる話になったところでわたしはえんえんと泣き出した。理由を聞かれずに抱きしめてもらえることはもうない、はずだったのに。この顔も知らない会ったこともない鎌野藍という存在にわたしはすべてを許され、すべてが包摂され、それはわたしが抱えていた生き辛さそのものであった。そして、わたしはどこまでも自由な鎌野藍という一人の女性をただひたすらに追いかけた。彼女は自由だった。文章が句点で終わって、会話にはカギかっこひとつ付いてなかったし、ひとつの文章がおそろしく長くて、読んでいて息ができなかった。比喩ではなく本当に息ができなくなった。人は息ができなくなると気が遠くなる。気が遠くなる。

 夢のなかでわたしは100mプールを息継ぎしないで泳いでいた。手足をバタバタするたびに意識がぽやんとする。でも、それはふかふかと心地が良かった。だって隣のレーンには鎌野藍がいて、一緒に彼女の頭のなかを二人で泳いでいると確信していたから。右手が壁に当たる。泳ぎ切った!と水面から顔を出してみても、目が霞んで、水をがぶがぶと飲み込んだ。すでにゴールしていた鎌野藍は隣のレーンからこちらを見ていた。にっこり、わたしの顔を見ていた。小さい頃、布団のなかで「寝れない」ってわたしが云ったときのお母さんみたいだなって思った。

 それ以来、わたしは鎌野藍の遅れてきた愛読者、そして、今年出会った10年来の親友になった。
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