1. バカ - ⑤

文字数 1,610文字

いわけがないが、あの歩き方から何か障害があるというくらいは分かる。だから、プラスチックも食べ物だと勘違いして運んでいるのかもしれない。そう考えると、このバカが蟻にこんなに夢中になっているのが理解できなくもない。そして、何を考えているのかも分かる。
 このバカは、

 この蟻は、今日も食べ物を得たと、自分の役割を果たしたと、嬉しく思いながら、みんなから褒められ、みんなとこれを分け合い、くだらない会話をしながら、食事を楽しむ幸せな想像をしているはず。実は、命懸けで持ち上げているのが食べ物ではなく、プラスチックだということにも気付かずに。このまま戻ったら、絶対皆から馬鹿にされ、食事も分けてもらえないかもしれない。もしかしたら、処刑になるかもしれない。少なくとも、もう食べ物の探索能力がないということで、捨てられるだろう。このようなことが自分だけにならまだしも、もし、蟻社会に家族という概念があるとしたら、その家族にまで恥をかかせることになる。時間が経てばある程度収まるかもしれない。だけど、茶化されるのは一生続くはずだ。
 そんな悲劇を一生味わうより、一瞬。ほんの一瞬だけ我慢する方が良いだろう。その一瞬だけ我慢すれば、仲間たちは人間に殺されたとか言いながら名誉ある死だと扱ってくれるかも知れない。自分の人生が楽になるだけでなく、自分の家族にも誇らしい一員として残れる。蟻社会では英雄として名を残す可能性すらある。やはり、この蟻は、巣に戻らず、ここで死んだ方がいい。

という風に考えているのだろう。だから、今こうやって右手の人差し指で、ゆっくり蟻を追っている。これは絶対殺す気だ。でも、このバカに二つ聞きたい。一つは、このバカにあの蟻を殺す資格はあるのか。死にたい言っているヤツが、自分は死なないくせに、他の命を奪える権利なんて持っているわけがない。殺したいなら、オマエから死んでこいという話だ。
 もう一つは、このバカにあの蟻が殺せるのか。こんな鈍いバカが指一本で正確に蟻を押しつぶせるわけがない。だって、今、自分の体のバランスもどれだけ不安なのか気付いていないからだ。蟻ばかりに気を取られて、上半身が前に出過ぎている。蟻を潰すどころか、自分が転倒しそうだ。じゃあ、予言してみよう。あと3秒だ。あと3秒でバカは転ける。3、2、1。
 はい、予言通り。しかし、思っていたより派手に転んだな。まるで、事件現場の人間型の白い線のようだ。ざまあみろ、このバカヤロウ。もちろん、蟻は殺せていない。ただ何もない地面に人差し指を着けて、そのまま、見事に顔面から地面に激突しただけだ。服は既に汚れていたし何も変わらないが、ズボンの膝のところに穴が空いた。運が良かったのか悪かったのか。倒れる時、膝がちょうど石とぶつかったようだ。膝辺りから血がズボン染まりつつある。自ら命を絶とうとしているくせに、痛みは嫌なのか。少し眉を顰めている。このバカ、一体どうやって死ぬつもりだ。
 とにかく、蟻はプラスチックを持ったまま、全力疾走している。相変わらず方向感覚はおかしいが、必死なのは伝わる。バカは、地面に直撃した顔面を持ち上げ、逃した蟻をじっと見ている。あの蟻を殺すのが自分の使命だと勘違いしているのか?顔に付いている土のせいで、右目は開けないまま、左目だけで蟻を追っている。殺せていないことに未練でも残っているようだ。
 このバカは、もう一度、蟻を殺そうと思っているのか。腕を蟻の方に向けてはいるが、潰すにはもう遅い。蟻は、もう見ることすら難しいところまで行ってしまったからだ。なのに、このバカの腕はまだ蟻の残像を追っている。もう指が届くはずもないのに、まだ諦めが付いていないようだ。
 もう力が尽きたのか、無意味な嘆きなのか、それとも諦めの印なのか。バカは差し伸べた腕を地面の上に落とした。蟻の姿ももう見えない。もう自分の巣へ戻ったかもしれない。なのに、こ
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