第17話

文字数 1,378文字

 「げっ」
 僕はその姿を見て、思わず声を漏らした。
 土曜日の山手線、東京上野方面。買い物に行くために珍しく乗った電車で、今最も会いたくない女を見つけてしまった。僕の視線の先、横長の椅子の端に座っていたのは、先日散々僕をコケにした女だった。相変わらずの日本人形みたいな髪型は健在だ。
 いっちょ前に文庫本を広げて集中しているようで、僕に気づいている様子はない。あの様子ならバレる心配もないだろう。僕はホッと一安心する。
 ん?いや、待て待て。どうしてバレてはいけないのだ。僕は自分の誤った考えを振り払うように、首を横に振る。
気を遣う必要はない。堂々としていればいいのだ。どうしてあの女のために、移動してやらねばならんのだ。うむ、僕は絶対にここを動かんぞ。そうだ、その通りだと僕は一人頷いた。
駅で電車は停車し、車両が吐き出すように沢山の人がホームへ流れ出す。そして入れ替わるようにして、これまた沢山の人が電車に乗り込んだ。東京という場所は、本当にせせこましい。
 再び電車が走り出してすぐ、日本人形の女が席を立った。電車は走行中だ。何故に?
 その理由はすぐにわかった。彼女が席を立つのと入れ替わりで、杖をついたご婦人がその席についたのだ。きっと席を譲ったのだろう。
礼を言う夫人に笑顔で会釈して、日本人形の女はその席から離れていった。
 婦人は嬉しそうにお礼を言って、ニコニコと笑みを浮かべていた。
ふーん……。
ま、当然のことだけどね。
 僕は婦人から視線をそらし、窓の外を見る。車窓の向こう側で、背の高い景色と狭い青空が後ろに流れていく。
 お年寄りに席を譲る。そんなの当たり前のことだ。いくら東京が冷たい街だからって、やる人はやるのさ。
  僕は日本人形の女のことを考えるのが嫌で、また首を横に振った。ええい、他のことを考えよう。
  その後、数分ほど電車に揺られて、僕は電車を降りた。日本人形の女がどこで降りたかは知らない。
 「こんにちは」
 改札を出たところで、後ろから声をかけられた。聞いたことのある声だ。
 「なんだよ、クピドか。こんなところで奇遇だなあ」
 振り返ると、大柄な黒人がいた。『ブラックネスト』のキャッチであるクピドだ。
 「どうもどうも、偶然ですね。天芸寺さん」
 ニコニコとクピドは何がそんな嬉しいのか、気色悪いほどの笑みを浮かべる。お生憎様、僕はキミと会えてもそれほど嬉しくはないんだなこれが。
 「うん、偶然だね。じゃあ」
 僕がさっさと立ち去ろうとすると、「ちょっと!」とクピドが僕の肩を掴んだ。
 「なんだよっ?!」
 ええい、うっとおしい!せめてこいつが可愛い女の子だったらなあ。とほほ。
 「実はボルダリングのチケットが余ってるんです」
 ボルダリングぅ?
 「それで?」
「一枚あげますよ」
 クピドは、ポケットから四つ折りにされた紙を取り出した。それは確かに、ボルダリングジムのチラシで、大きな文字で『初回無料チケット付き』と印刷されていた。
 「あれか?あのでっぱった石みたいなのを掴んで登るやつか?」
 「そうです。若い女の子の間で流行ってるんですよ」
 若い女の子の間で流行ってる……?
 天芸寺センサーがビンビンに反応した。それに呼応するように、
 「もらっていただけますよね?」とクピドが聞いた。
 僕はニコリと笑って、ゆっくりと頷いた。
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