第7話 内緒の話

文字数 1,768文字

「本は弁償すればいいんですか? それから、何というか」図書館は宇宙みたいに静かだし核心の話になるので、いきおい僕は小声になった。
「──罰則みたいなものはありますか?」
 
「罰則──ですか?」不思議そうな顔をした彼女は、眼鏡の奥の目を(しばたた)かせた。
「ええ、貸出カードを没収されるとか、別室に呼ばれてこんこんとお説教されるとか」
 お説教しそうな男の職員さんを、逃亡犯さながらの落ち着きのない目で探してしまう。
「弁償以外の手数料を取られるとか」もうひそひそ声だ。

「まさかぁ」彼女もつられて声をひそめ、さっきよりもコンパクトに振った手のひらは、これまたいい具合にスナップが利いていた。

 ものすごくナイスボールです。ものすごく。
 はい?
 いえ……



「弁償はまあ弁償なんですが、同じ本を購入して納めていただく形になります」
「買って持ってくればいいんですか?」
「はい」彼女はにこやかに頷いた。
「ここに?」僕は図書館の床を指さした。
「よその図書館に持っていかれても──困りマウス」彼女は窓に向け指をさした。
「あ、そうですよね」ふたたび半笑いになった僕を見て、彼女は脱力したような笑みを浮かべた。

 またもや分かりにくいギャグに乗り遅れてしまった僕はほぞを噛んだ。

「新品でなくてもいいんですよ。古本でいいんです。ブックオフにあったら、それを買った方が安いですし」不甲斐ない僕の反応にめげることなく、彼女は立ち直った。
「それでいいんですか」
「いいんです」彼女はその細いあごをぐいぐいと引いて頷いた。

 貸出カードをじっと見ていた彼女が顔を上げた。
「どの本がいなくなっちゃったんですか」
 なくなる、ではなく、いなくなる。本をまるでペットの動物みたいに表現した。
姑獲鳥(うぶめ)の夏です」
「ああ、京極夏彦ですね」

「読んだことありますか?」
 僕の問いに腕組みをした彼女は、考え事をするときの癖なのだろうか、エプロンから取り出したボールペンであごをポンポンポンと叩きながら視線を宙に浮かせた。

『どこまでもだらだらといい加減な傾斜で続いている坂道を登り詰めたところが、目指す京極堂である』彼女は目を閉じて揺れるように頷いた。

「あるんですね」
「分厚過ぎたし、好みでもなかったので挫折しました」
「僕も同じです」
「挫折しました?」
「いえ、読んでる途中で失くしてしまって」
「あらま、それは残念でしたね」
「え?──あ、あぁ、はい……」

 腰を折り、俯いた彼女はボールペンを走らせていた。
 すっとカウンターに滑らせたものには、かなり達筆な文字で携帯の番号と名前が書いてあった。いらなくなったコピーを切った裏面だった。

 一之瀬美玖
 何の真似だろう……。
 僕の心臓は、ものすごくはっきりと反応を示した。何食わぬ顔の彼女は、立てた人差し指を一瞬、唇の前に滑らせた。

「はい」息のような声で彼女がボールペンとメモ用紙を滑らせた。
 僕はそれをそっと指さした。彼女がこくりと頷いた。
 
「ちょくちょくブックオフに行くから気をつけておきますよ。見つかったら──」ひそひそ声は続く。彼女は人差し指を小さく、ふたりの間で動かした。

 これはもう絶対、電話で話ができるということだ。ぎゅっと握ったこぶしが喜びでぷるぷると震えた。

「ありましたよ、100円コーナーに」と嬉しそうな声で電話があったのは数日後だった。

 本なんて世の中に掃いて捨てるほどあるのに、これと決めたら見つからないもので、僕も苦労していた。

「買っておきますか?」
「お願いします」
「じゃあこれは──わたしが門脇さんにお渡しして清算を済ませて、門脇さんが図書館に持ってこられるのが一番正しいやり方ですね」

 これは個人的に外で会うということだ。僕は思いがけないことで、眼鏡を掛けてちょっと知的で、時々ナイスボールを投げながら風変わりな冗談をとばす彼女と、個人的に接触する道が開けたのだ。

 なくなった本に感謝を捧げて、なくした自分を褒め称えなければならない。

 捨てる神あれば拾う神あり。
 この例えは、絶対違うな。
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