第15話 奇妙な物語の始まり

文字数 1,488文字

 ドアの脇に立つわたしの二の腕に、彼はずっと緩く手を添えている。それが彼の不安を表しているのだとわかるから、わたしはその手を包み込む。

 減速を始めた電車の向こうに、やがてホームが走り込んでくる。柱やベンチが後ろへと流れていく。ここよ、と指さしたわたしに彼が慌てた。
「え? ここで降りるの? 病院、ここじゃなかったよね」
「先生は今日はここにいるらしくて」



 高瀬先生に、今日はふたりとも呼ばれているからと連れてきた。もちろんそれは嘘ではない。
 昨日、それを聞いてからの彼は落ち着きを失っていた。大丈夫だよ。体はぜんぜん平気だよ。慰めても気の抜けたような返事しか返ってこなかった。

 彼と高瀬が会うのはニ年ぶりになる。このニ年のなんと早かったことか。彼の横顔を見る。万感の思いを込めて見る。あなたはわたしの力だった。あなたはわたしの勇気だった。あなたといれば、この弱いわたしでさえ何でもできるような気がした。わたしはあなたに、感謝しかない。

 商店街を抜けて、住宅地にあるゆるい坂道を登る。初めて見る町の景色に、彼がきょろきょろとしている。しかし、初めてではないのだ。

「ここよ」三階建ての白い建物を指差した。
「え? ここって、どう見ても病院じゃないよね」
 (いぶか)し気に建物を見上げる。
「病院じゃないんだけど、検査機器は揃ってるらしいわ」
 何か質問が来るかと思ったけれど、そか、と歩き出した。

「高瀬先生に」守衛さんに告げると、はい、と頷き左手で促した。通路を抜け突き当りの階段を上がる。
「ここ、なんだろうね。研究所って看板が出てたけど」
「高瀬先生が顧問でもしてるのかもしれないわね」
 ふぅん。彼は何事もあまり深く追求してこないタイプだ。それが助かるときもあれば、物足りないと感じる時もある。彼が差し出した左手を握った。

 指定された時間より早く着いたので、ソファに座った。彼の手をぎゅ、ぎゅ、と握る。彼もまた、そのリズムで握り返してきた。手を握り合い言葉もないまま時間が過ぎた。
 ふたりの心を占めているのは、まるで違った思いだ。不安と悲しみ。

 しばらく待つと顔を見知った一人の女性が呼びに来た。事情を知っているであろうそのひとが、すこし悲しそうな表情を浮かべ、背を向けて去っていった。彼女も気を使ってくれている。
「先に検査してもらうから、その後、涼ちゃんの番かな」
 彼の手を強く握り、検査室の前のソファから立った。

 ついにこの日がやってきたのだ。手のひらは離れても、離れがたい指先が切なくてしょうがない。これで、最後だ。けれど、それを伝える(すべ)も説得できる自信もない。
 否応なく時は過ぎる。すべてのものには終わりが来る。彼の肩を撫で、行ってくるねと呟いた。手紙は書いたからね。


「まず最初に」小さく咳払いをして、高瀬は少し苦しげな顔になった。
「美玖は?……」
 ふたりで話を聞くはずだとばかり思っていたが、彼女がいない。まだ検査の途中なのだろうか。

 ゆるゆると首を振った高瀬は、目を閉じた。
「彼女は──美玖さんは、もうすでに、この世にはいません」

「はい?」椅子から上半身を乗り出した僕は首を傾げた。
「な……何を言ってるんですか?」

 余命宣告を受けてから紹介という形で会ったのが、高瀬と名乗るこの男だった。美玖の命の恩人だ。

 閉じていた目を開けて、高瀬は話を始めた。とても長くて、とても不思議な話を。
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