第1話 逢魔が時
文字数 1,870文字
到着駅のアナウンスが車内に流れた。減速を始めた車窓の向こうには暮れかけた町並。横では網棚 に置いたバッグに手を伸ばす人。
つり革を掴 んだ手に額を押し当て目を閉じると、燻 る思いが、僕をふたたび深い海の底へと引きずり込んでゆく。
人の波に押され混み合う改札を抜けると、日中とは打って変わった涼やかな風が吹く駅前の広場には、気怠 い開放感が漂っていた。
【逢魔 が時 】その言葉を教えてくれたのは美玖 だった。
『古来、魔物に出逢うといわれた時間帯のこと。夕暮れ時のお豆腐屋さんのラッパが、トーフーって哀愁の音色を響かせるころ』
その豆腐屋のラッパというのを僕は聞いたことがない。けれど、幼いころの彼女はよく耳にしたのだという。
『縁側の向こうには橙色 がかった午後の日差し。どこからか聞こえる物売りの声。とめどない人々のざわめきと午後の甘い微睡 み。その覚醒と睡眠の波間にチリンと聞こえる風鈴の音。ふわふわと蚊取り線香の匂い。お台所から夕餉 の香りがしてくるころ、やがて聞こえるお豆腐屋さんのラッパ』
『トーフー』
『そそ。涼 ちゃんナイスタイミング。でも、ちょっと音階がずれてるかな。ソーラーなのかな? 違うかな。音にはあんまり自信がないな』
彼女は暮れゆく空を見た。
『好奇心ばかりで何も怖いものがなかった時代』と、楽し気に体を揺らしながら口にした。
『どこの国のおとぎ話なの? 異次元の世界にでも住んでた?』
『まあ、東京じゃない田舎。でも、東京でも行くとこ行けば聞けるんじゃないのかなぁ』
『それって?』
『例えば、葛飾区とか、墨田区とか、江戸川区とかね。まるで根拠を持たないあてずっぽうだけど』と、彼女は柔らかく微笑んだ。
空はまだほんのりと明るく、淡く瑠璃色 に染まる町の景色は、古来ひとたちが恐れた、その光と闇の境界線をゆっくりと通過していることを教えていた。
立ち止まり、振り仰ぎ、家々の屋根が切り取る暮れなずむ空を見る。街路樹の葉擦れの音とともにひとしきり風が吹き、彼女と出かけたどこかの高原の、濃い緑の匂いを嗅 いだ気がした。
風は、疲れた足取りで家路につく僕の首筋を撫でて過ぎて、やがて何事もなかったかのように静かになった。
今宵も僕は、陰鬱 な顔をしているのだろう。消えることのない苦悩 の渦にもまれながら僕は何度も振り返る。高瀬という男と交わした会話と、美玖とふたりで巡った季節と、彼女の抱えていたであろう苦悶 を、苦 く苦 しく振り返る。
ハウリングのように耳障りな残響 。辿り着く場所をなくした、あてどない推察 。
胸に湧きおこるのは悔悟 ばかりで、僕はちいさく強く頭を振る。そうしたからといって、何かが消え去るわけでもないのに。
叶うなら、僕はすべてを君にあげたってかまわなかった。もしも忘却が君を消し去るとしたなら、そうなる前に、僕なんて消えてしまえばいいんだ。
賃貸マンションのエントランスのドアを押し開け、ネクタイの結び目に人差し指を掛けて揺すったとたん、深く重いため息が口を突いた。
集合ポストを開けると、面倒で捨てずにいるチラシの上に、山吹色 の小さな封筒が乗っていた。手に取り思わず声が漏れた。裏返して差出人を確かめるまでもないことを、宛名の筆跡が教えていたからだ。赤いシールに書かれた配達指定日が今日の日付になっている。日付指定郵便だ。
気が動転してオートロックの暗証番号を二度も押し間違えた。ドアを抜けて小走りになる。
キーホルダーのカギが上手くつまめない。ようやくつまんだと思えば今度は手が震えてカギ穴に上手くキーが入らない。苛立ちの混じった息がさらに手元を狂わせる。
ドアを引き、靴を脱ぎ捨て、かばんをベッドに放り投げて椅子に座った。
美玖が触れて、自ら封をしたものだ。はやる気持ちを抑え込むように丁寧にはさみで切り、その切れ端もなくさぬようにレターケースに入れた。耳の奥で鼓動が強く打ち続けている。息苦しさに、ひとつ大きく、ふるえる息を吸い込んだ。
つり革を
人の波に押され混み合う改札を抜けると、日中とは打って変わった涼やかな風が吹く駅前の広場には、
【
『古来、魔物に出逢うといわれた時間帯のこと。夕暮れ時のお豆腐屋さんのラッパが、トーフーって哀愁の音色を響かせるころ』
その豆腐屋のラッパというのを僕は聞いたことがない。けれど、幼いころの彼女はよく耳にしたのだという。
『縁側の向こうには
『トーフー』
『そそ。
彼女は暮れゆく空を見た。
『好奇心ばかりで何も怖いものがなかった時代』と、楽し気に体を揺らしながら口にした。
『どこの国のおとぎ話なの? 異次元の世界にでも住んでた?』
『まあ、東京じゃない田舎。でも、東京でも行くとこ行けば聞けるんじゃないのかなぁ』
『それって?』
『例えば、葛飾区とか、墨田区とか、江戸川区とかね。まるで根拠を持たないあてずっぽうだけど』と、彼女は柔らかく微笑んだ。
空はまだほんのりと明るく、淡く
立ち止まり、振り仰ぎ、家々の屋根が切り取る暮れなずむ空を見る。街路樹の葉擦れの音とともにひとしきり風が吹き、彼女と出かけたどこかの高原の、濃い緑の匂いを
風は、疲れた足取りで家路につく僕の首筋を撫でて過ぎて、やがて何事もなかったかのように静かになった。
今宵も僕は、
ハウリングのように耳障りな
胸に湧きおこるのは
叶うなら、僕はすべてを君にあげたってかまわなかった。もしも忘却が君を消し去るとしたなら、そうなる前に、僕なんて消えてしまえばいいんだ。
賃貸マンションのエントランスのドアを押し開け、ネクタイの結び目に人差し指を掛けて揺すったとたん、深く重いため息が口を突いた。
集合ポストを開けると、面倒で捨てずにいるチラシの上に、
気が動転してオートロックの暗証番号を二度も押し間違えた。ドアを抜けて小走りになる。
キーホルダーのカギが上手くつまめない。ようやくつまんだと思えば今度は手が震えてカギ穴に上手くキーが入らない。苛立ちの混じった息がさらに手元を狂わせる。
ドアを引き、靴を脱ぎ捨て、かばんをベッドに放り投げて椅子に座った。
美玖が触れて、自ら封をしたものだ。はやる気持ちを抑え込むように丁寧にはさみで切り、その切れ端もなくさぬようにレターケースに入れた。耳の奥で鼓動が強く打ち続けている。息苦しさに、ひとつ大きく、ふるえる息を吸い込んだ。